大蜃皇国-1-
アリシアは、それだけ言うと自分の席に戻る為、柳偉に背を向けた。
ゆったりと歩を進め席に戻ると、くるりと振り返りドレスの裾を捌いて椅子に座る。
時間を掛けたのは、柳偉に少し考える時を与える為だ。
考える隙を与えないのは拙いーー柳偉自身が、アリシアの側に居るという決断を下さなければ、今後アリシアの為に働くとは考えられない。
かと言って、長すぎても別の策を練る時間を与えてしまうので、こちらも拙い。
今、『この機会を逃せば次は無い』と焦らせる事で、判断力を鈍らせるのが目的だ。
――そんなに悠長に待つつもりは無いわよ?――
さて、どう出る?と視線を真っ直ぐ柳偉に戻せば、動いた。
曲げていた腰を伸ばすと、一歩前に出た。
左手で右腕を袖の上から勢い良く撫で下ろし、次は反対の右手で左袖を同じように撫で下ろした。間発入れずに、大きな両袖をバサリと下向きに振り下ろすと、膝を突く。
大きな両袖を一度胸の前で合わせてからアリシアの前に額突いた。
ゆっくりと大きな動作で床に額を着けた。一回、二回、三回、そして立ち上がり、大きな袖を胸の前で合わせて跪く。
同じように三回額突くと、また立ち上がり同じ事を合計三度アリシアの目の前で行った。
宦官とは思えない美しい所作の拝礼を受けながら、アリシアは安堵と共に不思議に思いながら、その優美な作法を見つめた。
今目の前で行われているのは、儀式や儀礼用の拝礼作法である。
そしてその拝礼作法にも、種類があり出自や位によって厳しい決まりがあるのだ。
皇后のみに許された六肅三跪三拝礼―― 一度跪き、クッションの上に一回額着く事を三回繰り返す。
四妃と州侯にのみ許された三跪九拝礼―― 一度跪き、左手の上に右手を揃えて地面に置いた手の甲の上に三回額着き、立ち上がる事を三回繰り返す。
その他の妃嬪と二十四州に連なる者達に許された三跪三叩頭礼―― 一度跪き一回地面に額を打ち付けるを三回繰り返す。
この三跪三叩頭礼だけは、制定された初めの頃とは少し形式が変わっている。最初の頃こそきちんとこの動作をしていたが、時代が下るにつれ妃嬪達の実家や、貴族から反発が強まり今では形骸化され、拝礼よりも深く額突く事で実際は床に打ち付けることは無くなっていた。
それ以下の者達、属国や女官や宦官など皇国内で下級と見做される者達に許された三跪九叩頭礼―― 一度跪き三回地面に額を打ち付け、立ち上がる事を三回繰り返す。
――……どうして宦官の彼が三跪九拝礼を?――
柳偉がアリシアに見せた三跪九拝礼は、州侯始め位の高い貴族にのみ許された作法である。
目の前で行われた美しい所作は、一朝一夕で身に付くものではないし、咄嗟に出来るかと聞かれれば無理であろう。
ならば、柳偉は宦官に身をやつしてはいるが、元は何処かの州の正統な後継者であった可能性が高い。
言葉ではなく、所作のみで自身の出自を暗に示したのは、相手つまりアリシアに判断を委ねるということだ。
名乗れはしないが、世が世なら彼は州侯、もしくはその直系であると言うことか……アリシアは行儀が悪いが、肘掛に左肘を突いてその手に頬を乗せ柳偉を見つめた。
そんなアリシアの不遜な態度にも眉一つ動かす事なく、柳偉は静かにアリシアに謁見の言葉を述べる。
『……貴妃様に柳偉が拝謁致します』
「楽にして。先ほどのわたくしの質問に答えてちょうだい」
楽に、とメイヤー夫人はアリシアの言葉を訳したが、柳偉は姿勢を崩さずに話し始めた。
『大蜃皇国におきましては、天帝陛下が唯一絶対の御方でございます』
それは周知の事実なので知っている、と軽く頷いて先を促す。
『これは、六百年余り前に大蜃皇国を建国されました皇祖陛下により、天帝陛下が唯一であり、天下に号令を発することが出来るのも天帝陛下のみ、と定められました』
アリシアは、大人しく目の前の男の口から発せられる言葉に耳を傾けながら、観察することも怠らない。
『大蜃皇国が纏め上げる以前、大陸の東には小国が生まれては消えていくを繰り返しておりましたが、その原因の一つが宗教による対立でした。それ故、皇祖陛下は東側に存在した数多の宗教を廃し、宗教は国教のみと定められその初代教祖におなり遊ばしました。これは、宗教が政治へ介入して要らぬ争い事を未然に防ぐ為であり、また特定の宗教に力をつけさせない為でもありました』
すらすらと言葉を途切れさせること無く話す目の前の男は、やはりただの貧しい家出身の宦官と考えるには、大蜃皇国の歴史に詳しすぎる。
『これにより、天帝陛下は政治だけでなく宗教をも掌握されることとなります。臣下や僧達に反乱を起こさせないため、国教は社会や習慣、臣下や家族の規範を説いてあります。神を信仰するというよりも、規範を守る事に重きを置いたものになります』
皇国の国教は、五徳と呼ばれる仁・義・礼・智・信を大事にし、そこから派生して君臣・父子・夫婦・長幼・朋友関係のあり方を説いたものだ。
決して目上の者、上位の者に逆らってはならないと、生まれた時から死ぬまで教えられるというよりは、叩き込まれるといった方が正しいだろう。
『建国から百二十年くらいまでは、天帝陛下が天下に唯一号令を発しておられました。これは、皇祖陛下の遺言が守られていた証拠でございます』
『ですが、建国より百年を過ぎた頃から、雲行きが怪しくなって参ります』
「国教ね?」
『左様でございます。百年も過ぎますと、国教が国全土に根ずくには十分な時間でございます』
柳偉の背後に立ったままの双子達は、お互いを見つめて首を傾げている。
先程の柳偉の説明の中の矛盾点に気付いていないらしい。




