ジェフリーの策-2-
アリシアが確りとジェフリーの瞳を見つめ返して微笑むと、フッと表情を崩した彼はあっさりと引いた。
「そうだな。俺達がいくら画策した所で、怜蜂殿下かその上の――皇太后殿下の御裁可がなければ、なりたいからと言ってなれるものでも無いしな……」
意外だった。もっと食い下がってくると思っていたのに。
やはり、私の意思が重要なようだ……アリシアは、グラスに注がれていたワインをここでようやく一口だけ口にした。
固唾を飲んで二人の遣り取りを見守っていたアボットが、張り詰めた空気を変えようと言葉を発する。
「先ほどの……、艦の速度の件ですが、落とすよりは上げようと思います」
「イーディス指令は、早くて二日半掛かると言っていたが?」
出来るのか?と言わんばかりに、片眉だけ上げたジェフリーがアボットを見ると、アボットはニヤリと不敵に笑って返してきた。
「お忘れですかな?この隊は、高速艇のみで編成されていることを。司令官殿は、貴人を乗せると言う事で安全に運航出来るよう多く見積もられたのでしょう」
実際、現在の速度は、本来の高速艇の性能の半分も出していない状態である。
アボットが考える最速のスピード、進軍する勢いで運航すれば本来なら一日もしくは一日半も掛からないのだ。
「瑞蛉殿下が休んでおられますし、アリシア様の私物を残してきたとは言え、皇国軍も積んでいますから、最速力という分けにはいきませんが。それでも最初に見積もった時間よりもずっと早く到着しますよ」
穏やかな流れではあるが、それでも揺れを覚悟しなければならなくなる。だが、それと引き換えても到着が早くなればその分、皇都で動ける時間が増えるという利点があった。
「今現在、禄蝉殿下よりも先行しているとは言え、いつ何が起こるか分かりません。それに、皇都に入っても直ぐには皇宮へは向かう事が出来ないのであれば、速度を上げて早目に皇都へ入った方が後々の対策も立てやすいかと……」
アボットの説明に、メイヤー夫人も同意する。
どうですか?と確認する意味もあるのだろう、アボットがアリシアへと顔を向けてきた。
「怜蜂殿下には、出来るだけ急いで屋敷の手配をしていただけるようお願いするけれど、私一人だけの為に皇国の決まりを変えることは出来ないでしょう。ならば、到着は早ければ早いほどいいわ」
それでどうですか?とアリシアは、ジェフリーを見た。
「じゃあ、明後日の明け方、出来るだけ夜中に近い方で頼む」
「ご希望通りに、夜の内に到着してみせましょう。――明日の夜と言っても、早目の。夕食時といっても大差無い時間帯に」
力強く頷いたアボットの言葉に、ジェフリーは目を見張った。
まさか日付が変わる前、しかも夜と言ってもまだまだ活動時間内を指してくるとは思ってもみなかったからだ。
それでは、ほとんど二日掛からない、実質一日半強の旅程という結果になる。
やってくれる、と苦笑を零したジェフリーは、「それはちょっと早過ぎかなぁ」とぼやいた。その呟きにアリシア始め、女性陣はきょとんとジェフリーを見つめる。
視線を受けたジェフリーが、何でもない風に答える。
「早過ぎると、クリスの硬直が解けてないだろう?」
付け足されたジェフリーの言葉に、女性陣だけでなくアボットも驚いた表情を彼に向けたのは仕方が無いことだろう。
硬直が解けないまま皇宮へ入ると、逆に死亡してから随分経っている事に気付かれてしまう。
だが、ジェフリーは余り困った感じは無さそうに続けた。
「ま、解けてなければどうにかするしか無いんだが……思っていた時間よりもずっと早い到着になるなら、策を練り直す必要がある」
「そうですか……」
思わずアリシアもどう返したものかと、無難にそれだけを言うのが精一杯だった。
元々バッティステッラの秘薬と呼ばれる例の薬は、生き物を仮死状態にするものだ。大量に服用すれば死に至るが、毒薬として使用された例はどんな書物にも記されてはいなかった。
だから目的としては、仮死状態にすること――つまり、死体を検視する人間の目さえ誤魔化せればいいので、脈拍、呼吸、心音が一時止まってくれればいいのだ。
だがしかし、生き物が低体温症や仮死状態に陥った場合、死んだ場合と同じく死後硬直が始まってしまう。
医者であっても、仮死状態と実際に死んでいる場合との判別が難しいため、葬儀の最中に生き返ったなどという事例が幾つも存在するのがこの為だ。
そしてそれは、この薬においても同じく、易々と医者の目を誤魔化す事は出来るので、薬の量や息を吹き返す時間ばかり研究され、死後硬直を解く事には重きをおかれることはなかったのだ。
アリシアにしても、この薬を動物には何度も使って実験を繰り返してきたが、それは"どれくらいの量で何時間くらい眠っているのか"、という事だけだ。
そしてこれを実際に人に試すのは二回目だった――自分とクリストファーのたったの二回だけ。
もし万が一、量を誤れば死に至るとわかっている薬の実験に付き合ってくれる奇特な人間はいない。
そして何より、これが秘薬中の秘薬で、世の中に実在することを公にすることが出来ない薬の一つ、というのが一番の理由だった。
バッティステッラには、死人を蘇らせる薬があるだとか、死人のように見せかける薬があると噂されるだけならいい。実在すると世間に知られれば、今までこの薬を使った人間が居ると認めたも同然である。
それ故、アリシアも自分自身で試すより手立てが無く、動物での実験で割り出した量で、読み通りの時間で人が目覚められるかの最終実験であった。
己が被験者なので、死後硬直までは観察出来てはいない。というより、自分自身が仮死状態だったので、観察どころの話ではなかっただけなのだが。
アリシアにしても、目が覚めて直ぐには起き上がれなかった事は覚えているが、どのように硬直が解けたかまでは記憶は不鮮明だった。
死後硬直……気温にもよるが、成人男性で夏ならば二日、冬なら四日ほどで硬直は解ける――が、夏ほどの高温という訳でも無い今の時期なら三日から四日と考えるのが普通よねぇ、とアリシアは記されていた書物の文書を思い出していた。
それならば、脈くらいは皇都の太医達に取らせてもいいかもしれない、と他の計画を練り始めた彼女を他所に、ジェフリーがアボットに話し掛けている。
「悪いが夕食も一緒に摂ってくれ。その時まで策を練り直し、詳細を詰めておく」
「勿論その積りでおります」
アボットが快く返事をしていると、「姫も」と急に声を掛けられアリシアの肩が小さく跳ねたが、ジェフリーは構うことなく細切れに指示を出してくる。
「怜蜂殿下にも速度を上げることは伝えてくれ。皇国軍の連中も、少人数ずつ交代で甲板の掃除でもさせろ。あ!それから、司令官代理殿にもちょくちょく顔を出すように伝えてくれ」
本来ならば、彼が一番クリストファーに現状報告や指示を仰ぐために、この部屋に出入りしていなければならない人物なのだ。
いくらただの航行とはいえ、昨夜の騒動の後、一度も顔を見せに来ないというのは、他の乗組員に不審がられてしまう。
「伝えておきますが……」
「怖がって来ないかもしれないってか?」
「はぁ……まぁ、そのような感じです」
歯切れの悪いアボットの返事に、ジェフリーは思いっきり渋面を作った。
「軍属だろ?死体が怖いって、ナニ眠たい事いってんだ?」
半日ほど前、クリストファーの死を目にして取り乱した男と同一人物とは思えない冷たい言葉だが、これくらい切り替えが早くなければ大勢の命を預かる船長など任せることは出来ないとも言えた。
そして、渋面のままアボットにそう言ったジェフリーは、次の瞬間、そのアボットの鼻先まで顔を近づけ、それはそれは低い声で囁いた。
「首根っこひっ捕まえてでも連れて来い」
これではどちらが上官なのかわからない。
「……わかりました」
凄まれているアボットの方も、大人しくジェフリーの言うことを聞くものだから、勘違いしそうになる要因の一つなのだろう。
「Yes」と返したアボットだが、珍しく困ったように太い眉毛を下げていた。
実際、マティアスをこの部屋へ連れてくるのは、容易では無いのだろう。
大きな溜め息を溢すアボットを不憫に思ったのか、ジェフリーは助け舟を出す事にしたらしい。
「アンタも一緒に来ればいいだろう?適当に現状報告と口裏合わせが出来りゃいーんだから。話が終わったら直ぐに司令官代理殿は解放してやるから」
それでも困っているアボットを見かねてアリシアが言葉を掛ける。
「どうしても難しいようでしたら、わたくしの命だと伝えてください」
マティアスの嫌そうに歪められた顔が脳裏に過ぎったが、この艦隊の中で一番の権力者たるアリシアの言葉であれば、簡単に無視出来るはずもない。
どんなに嫌でもこの部屋にやって来るだろうとアボットは考えながら、それでもここに辿り着くまでにどれほどの嫌味を浴びせられるかと憂鬱な気分になった。
「では、お食事も済みましたし、大体の目途は付きましたので、一旦お開きにしましょう」
メイヤー夫人からの提案で、一先ず昼食は終了となった。
アリシアは、アボットと共に甲板へと向かうために部屋を出ようとして、ふと思い出し立ち止まる。
「貴女達は、交代で休んでね」
昨夜アリシアはぐっすりと眠っていたが、その傍らで彼女達は一睡も出来ていない。
とりあえず、命の危険性も無い艦の中にいる今日、明日は、ゆっくりして貰いたかった。
皇都に着けば、申州に到着した時以上に神経を張り詰める生活が待っているのだ。
「俺も少し休んだら、デッキに上がる」
今は思いっきり羽を伸ばしておきたいと考えるのは、皆同じなようだ。
ジェフリーは大きく伸びをすると、アリシアが使っていたソファに早速横になったいた。
そんなジェフリーの姿に、侍女達が大きく溜め息を吐いているのを見て、アリシアはアボットと共に元自室を後にしたのだった。




