不帰の偽装-2-
嵐が通り過ぎた後の様に静まり返った部屋の中で、メイヤー夫人はくるりと反転すると、クリストファーに近付いていく。
それを見ていたアリシアが、クリストファーへと声を掛けた。
「イーディス卿は、服を脱いでくださいな」
クリストファーの口から、思わず気の抜けた「は?」と、声が出たのは咎められることはないだろう。
事態を察したのか、カップを受け取りながらメイヤー夫人が話し掛けてきた。
「姫様、話を端折りすぎです。きちんと説明して差し上げなければ」
「そうね、ごめんなさい。上着に穴を開けておきたいの。そこから血が溢れたように血糊を付けたいし」
撃たれたように見せかけるのだ。上着に致命傷になるべき銃弾の跡がなければ、疑われた時に説明が出来ない。
「上着だけでよろしいですか?」
「いいえ、下のシャツも。何処にでも目敏い者は居ますから、……万が一に備えて」
アリシアの護衛に就いた公国軍の中で、クリストファーが一番用心深い人間だろう。そして、それ故に艦隊司令官に任命されていたのである。
その彼が銃弾に倒れたとなれば、指揮系統が混乱するのは必須だ。そんな中、わざわざ怪我人が本当に怪我をしているかなど確認する人間は居ないだろうが、もし万が一にも気付かれることは有ってはならない。
念には念を入れて行動するべきだが、クリストファーは拒否すると思っていた。
この時代、平民や水夫などとは違い、貴族の男性が恋人や妻でも無い貴族の女性に、肌を見せることなどありえなかった。
反対に、女性は結婚して婚家のサロンを任されるようになると、美しければ一定のファンが付く。自分のファンとなった男性達を招いて、朝の身支度を見せるという儀式のようなものがあった。しかもこれは主人も了承済みなのだ。
沢山の男性達に傅かれ、多くのファンが居る若い妻を持つというのは、貴族のステータスの一つでもあったからだ。
ジェフリーならまだしも、貴族社会から出る事も無く、四角四面な真面目を絵に描いたようなクリストファーだ。慌てふためき、服を脱がすのに時間が掛かると踏んでいたのだが、意外にもすんなりと上着のボタンへと手を掛けて、反対にアリシアとメイヤー夫人を驚かせた。
「時間が惜しいのでしょう?」
そう言ってクリストファーは、驚いているアリシアに微笑んだ。
「ええ、でも貴方は逃げ惑うと思っていたから……」
「……自分では、そこまで往生際は悪く無いと思っていますが」
国を出てからずっと頭を悩まし続けていた事案が解決に向かっているからか、クリストファーは落ち着いていて、そしてアリシアに対しても穏やかに接してくる。
上着のボタンを外し終えると、迷い無くシャツのボタンにも手を掛ける。
「クーパー船長が、この場に居なくて良かったわ」
メイヤー夫人が、ポツリと呟いた言葉を拾ったクリストファーが首を傾げた。
「そうね、貴方が女性に肌を晒すと聞いたら、絶対に大反対したわね」
散々喚いて、邪魔をしてくれそうだ。それを簡単に頭の中で想像してしまい、ジェフリーの叫び声が耳の奥に響いてきた。
アリシアとメイヤー夫人が想像してげんなりとしている中で、やはりクリストファーはピンと来ないのか、首を傾げつつもボタンを順に外していくのだった。
そして全部のボタンを外すと、あっさりと上着とシャツを脱ぎ去る。
その下から現れたのは、筋肉の付いた均衡の取れた身体と、大小の切り傷の痕だった。
あまりジロジロと見るのも失礼だとは思ったが、目についた大きな痕だけでも片手ほどはある。
「貴方は、あまり外洋には出ていないと聞いていたけど」
クリストファーの任務は、公用船や外交官の護衛が多かったはずだ。
外洋に出て海賊退治などの怪我が多い物ではない。
遠目からでも分かる目立つものから、近付かなければ気付かない小さなものまで、結構な数の傷だ。
ただの護衛でこれほどの怪我を負うのは、おかしい。
思わず口を突いて出たアリシアの声に、なんでも無いと言う風にクリストファーが答える。
「ああ……これは、所謂"訓練"で出来たものですから」
なるほど、だから顔には怪我が無いのか、とアリシアは妙に納得した。
クリストファー程の美形であれば、顔に傷を付ければ宮廷内で騒動になる。彼のファン達がこぞって軍を非難するだろうし、ご婦人達の請願に応えて調査が入れば、"怪我"の真相が突き止められてしまう。下手をすれば関わった者全てが処罰されるだろう。
親兄弟と仲が上手くいっていないクリストファーは、上官や同期達から嫉妬され、訓練中に怪我をさせられても誰も庇ってはくれない。
だが、これが顔や手など服から出ている部分に大きな傷を付けられれば、家族仲が悪いと言われていても話は変わってくる。
もし格下の家柄の者が犯人であれば、家名が傷付けられた事になるのだ。イーディス家として黙ってはいられない。
だから、服から出る首より上、手袋を外す可能性のある手などには決して傷を付けることが無い、陰湿なやり方だ。
「そう……だから、浮いたお話がなかったのかしら?」
貴族であるクリストファーが付き合う女性は、貴族の娘と決まっている。もし、恋人に体を見せることでもあれば、瞬く間に身体にある傷が宮廷内で噂になっていただろう。
こんなに傷があるのに、イーディス家は騒ぎ立てないのはどうして?
誰もが想像するだろう……不仲の兄弟に付けられた傷なのではないか、と。
それは、家族を非難される事に繋がる恐れがあるので、彼は恋人も作らず、浮名も流さなかったのだろう。
「想うほどには、想われないものね」
アリシアの言葉に何かを感じたのか、クリストファーはただ優しく微笑んで視線を落としただけだった。
「姫様」
メイヤー夫人が軍服とシャツを重ね合わせて待っている。
意識を戻したアリシアは、胸に掛けられた十字架のペンダントを引き抜くと、短剣が現れた。
宝石が散りばめられたペンダントにはナイフが仕込まれていて、メイヤー夫人が持つ服の上に突き立てる。
「肝臓の部分です。激痛と大量出血で意識は直ぐに薄れていきます」
アリシアの持つナイフが、背中まで貫通し小さな穴を開けた。
「銃創とは違うけれど、大量の血糊で分からなくなると思うわ」
ナイフを仕舞ったアリシアは、先ほど机の上に置いた瓶を手に取りながら話し続ける。
メイヤー夫人に服を返して貰ったクリストファーは、それに袖を通していたが、急な立ち眩みに思わず壁に手を突いた。
「身体が重く感じるのでしょう?」
「ええ……」
返事をしようにも口を開くのも億劫に感じる。呼吸も深く空気を吸うのだが、肺が膨らんでいる気がしない。
クリストファーが、壁に凭れ掛かるように身体を預けた時、遠くから乾いた破裂音が六回続け様に起こった。
アリシアは、メイヤー夫人を振り返る。
大きく頷いて見せた夫人に、アリシアは自分に言い聞かせるように呟いた。
「良かった、間に合いそうね」
「ええ、急ぎましょう」
立っていられないのか壁に背を預けたクリストファーは、しきりに頭を振っている。
意識は最後まではっきりしているものの、身体を動かすことが出来なくなるのがこの薬の特徴だ。
体質にもよるのだろうが、薬に耐性のある自分と違い、クリストファーは思ったよりも効き目が速い。
早く準備を終わらせなければ、意識を亡くした成人男性を小柄な自分とメイヤー夫人の二人で担ぐ事は、不可能だ。
アリシアは手早く瓶の中身をボウルに移すと、水差しの水で薄め始める。
ボウルの底を真っ黒に染めていたそれは、水で薄めると黒っぽい赤に変わり、更に水を注ぐと鮮血の赤へと変わった。
アリシアは背後を振り返ると、ぼんやりと自分を見ているクリストファーへと視線を向け告げる。
「不帰の客人となることは許しません。必ず戻って来て下さい」
ランプの明かりを反射するたび色を変えるアリシアの瞳が、鋭く睨みつけるようにクリストファーを見つめてくる。
鈴を転がすような少女特有の高い声だが、王妃に命じられた時よりもずっと威厳を備えていた。
身じろぐのも億劫なのに、思わず身体が動いて跪いてしまう。
「……誓って」
クリストファーは、深く深く頭を垂れるが、その一言を発するだけで精一杯だった。




