10章-黒幕
部屋の中は、静かだった。古い木のテーブルに、詩乃が入れてくれた湯気の立つお茶が三つ置かれている。
香りは穏やかで、どこか懐かしい番茶の匂い。
私は健太の向かいに座った。
隣には詩乃。健太の心臓の音が聞こえそうなほど静かだった。
髭の伸びた顔を私から逸らせない。目が赤い。どれだけ眠れていないのか、どれだけ苦しんでいたのかが、伝わってくる。健太が、まず口を開いた。
「愛花……本当になんで、こんなところに? 俺に一言もなしに。警察にも、家族にも、みんな心配して——」私は目を伏せた。言葉を探す。
「……あの頃、毎日が限界だった。夜勤続きで、患者さんの死を見て、クレームに耐えて。上司に相談しても『我慢しなさい』って。家に帰っても、誰もいなくて。健太、あなたとも最近は喧嘩ばかりで……」健太の肩が落ちた。
「俺のせいだ。もっとちゃんと聞いてやればよかった。お前がそんなに追い詰められてるなんて、気づけなくて。ごめん……本当にごめん」私は首を振った。
「私の弱さだよ。でも、詩乃さんが声をかけてくれて。『いつでも迎えに行くよ』って。事故の後、彼女が来てくれて、ここに連れてきてくれた。ここは静かで、誰も干渉しない。少しずつ、息ができるようになった」
健太の視線が、詩乃に向けられた。
「……詩乃さん、やっぱりあなたが愛花をここに? SNSで接触して、失踪を手伝ったってこと? それって、誘拐じゃないのか? 洗脳じゃないのか?」
声に怒りが混じり始めた。健太は立ち上がりかけ、詩乃を睨んだ。
「愛花は疲れてた。そこにあなたみたいな人が、甘い言葉で連れ去って、こんな山奥に閉じ込めて……! 他にもいるんだろ? 似た失踪事件、おそらく全部あなたが——」私は息を飲んだ。
健太の言葉は、私の中でもくすぶっていた疑念を、はっきり形にした。
でも、詩乃の反応は、予想外だった。彼女は静かに微笑んだまま、お茶を一口飲んだ。穏やかな、変わらない声で。
「洗脳? そんな大層なものじゃないですよ。私はただ、疲れた人たちを助けただけ。愛花ちゃんが自分で決めたんです。ここに来ることも、過去を捨てることも」健太が声を荒げた。
「自分で決めたって? お前がそそのかしたんだろ!」
詩乃は首を振った。目が、少し悲しげだった。
「違います。愛花ちゃんが納得して、帰りたいと言うなら……私は無理に引き留めたりはしません。どうぞ、一緒に帰ってください。みんな、自由なんです。ここは牢獄じゃない。ただの、逃げ場」
部屋が静まり返った。健太が、私を見た。信じられないという顔で。
「本当か? 愛花……帰ろう?」
私は、迷った。お茶の湯気が、ゆっくりと昇る。
ここ数週間、確かに楽になった。悪夢は減った。詩乃は優しい。
他の人たちの声も、遠くから聞こえて、孤独じゃなかった。
でも、健太の顔を見ると、胸が痛む。あの頃の自分を、全部捨てて本当にいいのか。家族は? 友達は? 看護師としての自分は?
「……話したい。健太と、二人で」
私がつぶやくとゆっくりと頷いてから詩乃が立ち上がった。
「わかりました。では、私は外に出ますね。少し用事もあるので、ゆっくりお話してください」
彼女は部屋を出て、玄関のドアを閉めた。静かに。
何も起こっていない、ただの日常のことのように。
突然の訪問者を完全に信用して詩乃は外へ出て行った。
そして健太と二人きりになった。
彼が私の手を握った。冷たかった。
「愛花……帰ろう。俺と一緒に」
声が低く、掠れている。それでも、必死さが伝わってくる。
「病院は辞めてもいい。転職してもいい。どこでもいいから、二人で新しい生活始めよう。俺、ちゃんと変わる。お前の話、全部聞く。もう、逃げないで……頼む」私は涙が溢れた。
止まらなかった。頬を伝って、テーブルの上にぽたりと落ちる。
「……怖いんだ。また壊れるのが。あの頃みたいに、毎日泣きながら仕事して、家に帰っても誰もいなくて。あなたに負担かけるのが。喧嘩して、傷つけて、また同じこと繰り返すのが……」
言葉を絞り出すたび、胸が締め付けられる。
健太は私の手を強く握り返した。温かさが、少しずつ伝わってくる。
「俺が悪かった。愛花がそんなに辛いって、ちゃんと気づけなかった。『仕事なんだから頑張れ』って言って、押しつけてただけだよな。将来の話ばっかりして、お前の今を無視してた。本当に、ごめん」
彼の声も震えていた。目が潤んでいる。こんな健太、見たことなかった。
「でも、俺は変わる。もうお前を一人にしない。カウンセリングでも行く? 二人で。仕事も、俺がもっと支える。お前が楽になるなら、なんでもする」私は顔を上げた。
健太の目が、真っ直ぐに私を見ている。そこに、怒りじゃなくて、ただの愛情と後悔だけがあった。
「……ここは、なんだか居心地もよくて安心できるの。詩乃さんがいつも優しくて、他の人たちの声も聞こえて、孤独じゃない。過去を全部捨てて、新しい名前で生きるって言われて……少し、楽になれた気がして」
言葉にすると、自分でも驚くほど迷いが残っているのがわかった。健太は黙って聞いていた。私の手を離さない。
「それが愛花の幸せなら、俺は……諦める。でも、本当にそれでいいのか? お前、家族のこととか、友達のこととか、全部捨てて後悔しない? 俺のこと、嫌いじゃないなら……もう一度、信じてくれないか?」
私は目を伏せた。詩乃の優しさは本物だった。
健太の言葉は過去のトラウマを乗り越えられそうな気もする。
気持ちがどちらにも揺らぐ。
健太がそっと私を抱きしめてくれた。懐かしい匂い。柔軟剤と、少しタバコの匂いが混じった、あの頃と同じ温かい体温。
「大丈夫だ。俺がいる。一緒に乗り越えよう。ゆっくりでいい。一歩ずつ」
私は彼の胸に顔を埋めた。涙が彼のシャツを濡らす。どれだけ泣いたかわからない。健太はただ、背中を撫でてくれていた。
外では誰かの話し声が続いていた。
詩乃の声も混ざっているような気がする。
静けさと、撫でられる背中の感触の中、少しずつ私の心が決まっていく。
健太の胸の中で私は今の気持ちをすべて吐き出した。
感謝も謝罪も今までのことも、これからのことも全て。
何十分、何時間
どのくらいこうしていたのだろう。
私が話している間、健太はずっと抱きしめてくれていた。
何も言わずに時折相槌を打ちながら、ずっと背中を撫でていてくれた。
やっと、言えた。自分の気持ちを全部言葉にして言えた。
後悔がないわけじゃないけど、心が、少し軽くなった気がした。
そのときだった。玄関で、ノックが響いた。
今度は強く、警告のような音。ドンドンドンドンドン。
健太が驚いてドアのほうを見る。私も。
そして、声。
「警察です! 綾戸愛花さんはいらっしゃいますか?ドアを開けてください!」
外から、複数の足音。車のエンジン音。さっきの車の音は——パトカー?
詩乃の声が、玄関の向こうから聞こえた。
「……ですから、少し待ってください」
外で聞こえていたのは警察を足止めする詩乃の声だった。
その声を聞いた健太は、私をぐっと強く抱きしめ直した。
体を少し離すと、私の口にそっと唇を寄せた。温かく、守るような、静かなキスだった。
まるで「もう大丈夫だよ」と無言で伝えているみたいで、胸が熱くなった。
そして、何も言わずに立ち上がり、玄関の扉を開けた。




