5章-あの日2
小説の中で、鈴木遥を、失踪した自分を、見せられていた。
現実のニュースで自分の顔写真が流れ、自分の名前が報じられるのを、現実ではないような感覚で見ていた。私ではない、誰かのことのように。
私は26歳。看護師して、都内の病院で働いていた。長時間勤務、患者の死、クレームの嵐。上司の無理解。同僚の陰口。毎日が擦り切れていくようだった。
莉太とは、いや健太とは、付き合って1年半。優しい人だったけど、最近は喧嘩ばかり。目の前の現実で精いっぱいだった。何度か健太に話を聞いてもらいたくて相談しても、彼は聞いてくれなかった。
「またその話?」
「仕事なんだから頑張るしかない」と。
なのに彼は、将来の話を私にしてきた。ただそれだけでイライラした。
今の私を、わかってもらえてない人との将来なんて。
あのメッセージ、「友達と旅行に行くかも」は、別れの宣言みたいなものだったのかもしれない。
とても遠回しな、でもこれ以降話せなくなっても不自然じゃないような。
失踪を決めたのは、2ヶ月前。仕事でミスを連発し、夜中に泣きながら家に帰った日。スマホを開くと、詩乃からのメッセージが来ていた。「愛花ちゃん、大丈夫? いつでも迎えに行くよ」
顔も知らない、SNSでたまたま連絡を取るようになった人。
事故現場で話しかけられたときはわからなかった。
「もうすぐ誰かが来ますから」
この言葉が引っかかって、引き返してきてくれたらしい。
3月11日の夜、私は本当にあの山道へ向かった。白い軽自動車じゃなくて、黒い軽自動車で。ニュースは正しく報じられている。
事故は軽いもの。ガードレールにぶつかって止まった。通りかかった運転手に、笑顔で言った。
「大丈夫です。もうすぐ誰かが来ますから」
一度去ってから、引き返してきてくれた彼女の車で、私は山を下りた。
ワインを開けて、雪を見ながらワインを飲んでいた。記憶を消したいと思っていた。
今、私はこの小さなアパートにいる。詩暢が、詩乃が、用意してくれた場所。
山の奥の町。雪がまだ残る道。
詩乃が貸してくれたパソコンで、現実逃避にAIを開いた。
気を紛らわせればなんでもよかった。
なぜか、AIは私の失踪を小説にして提案してきた。
『現実の未解決事件みたいに』
AIはそう言っていた。
健太の視点は私も知らない。
でも彼の、健太の葛藤はリアルだった。
11日以降の彼の行動や様子は知らない。なのに、これが彼の状況なのだと、そう感じた。
このAIは、なぜこの小説を書ける?
ワインの瓶を手に取る。冷たいガラス。残ったワインが、少し揺れる。
あの夜、車内に残ったワインを、詩乃が「持っていこう」と言って、瓶をバッグに入れてくれた。
パソコンでニュースをチェックする。私の失踪はまだ話題だ。
健太が警察に呼ばれている。まだネットで「彼氏怪しい」と叩かれている。
ごめんね、健太。本当にごめん。でも、戻れない。あの生活に戻ったら、また壊れる。
詩乃は私を助けてくれた。他にも「助けた」人がいるのかもしれない。山梨方面の類似失踪。ニュースのコメントでちらっと見た。あれも、詩乃が?
でも、聞かない。詩乃がいなければ、私は今、一人だったかもしれない。生きてさえいなかったかもしれない。
パソコン画面のカーソルが、静かに点滅している。AIが待っている。私の入力待ち。
事故のせいで思ったよりも早く事件になってしまった。私はニュースの当事者、行方不明者に。
私は今、この不気味なAIとのチャットを手放せない。自分の人生を、AIに語らせることで、整理できる気がする。
現実とフィクションの境目が、溶けていく感覚。倒れていたワインの瓶をテーブルに戻す。香りが部屋に広がる。
外で、風が吹いている。雪がまた降り始めたのかもしれない。
震える指で、キーボードに手を置く。
「第5章を書いて。今度は、私の視点で。失踪した後のことを」
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