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軍人の威圧と役人の理屈

 婚約が正式に認められてからというもの、私は夢のなかを歩いているようだった。

 式の日取りも、細やかな準備も、まだ何一つ決まってはいない。けれど朝目覚めても、夜眠るときも、胸の奥に灯がともり続けているようで、ふとした瞬間に笑みがこぼれてしまう。自分でも手に余るほど浮き足立ち、これが本当に現実なのかしら、と何度も思った。


 そんなある日のこと。私は暖炉のそばに座り、窓の外に広がる雪景色をぼんやりと眺めていた。庭の木々は白く覆われ、風に舞う雪片が音もなく降り積もっていく。目を凝らせば世界の輪郭がすべて純白に溶けてしまいそうで、心地よいまどろみに包まれていたときだった。


「エリザベート」


 母の声に振り向く。きちんと背筋を伸ばした母は、いつものように曖昧さを許さない口調で告げた。


「あなた方の婚約のこと、ヴォルフガングにも知らせておかなくてはなりません」


「お兄様に?」


「ええ。こちらからも伝えておくけれど、直接顔を合わせて話すのが筋でしょう。近いうちに二人で訪ねなさい」


 母の言葉は決定事項として突きつけられる。私は小さく頷きながらも、胸の奥は戦々恐々としていた。

 父ほど厳格ではないにしても、兄は生真面目で冗談ひとつ口にしない人。厳しい目で見つめられ、結婚を快く思っていないと言われたらどうしよう。想像するだけで手が冷たくなる。


 次にアルフレートに会ったとき、そのことを伝えるのはひどく勇気がいった。けれど彼に隠しておくことなどできない。意を決して口にすると、なぜか彼は迷いなく微笑んだ。


「君のお兄様に会えるのか。それは嬉しいな」


 拍子抜けするほど乗り気で、私は逆に戸惑ってしまった。どうしてそんなふうに軽やかでいられるのだろう。兄は誰にでも笑顔を向けてくれるような人ではないのに。


 そうして約束の日は、思いのほか早くやってきてしまった。

 私たちは馬車に揺られて兄のもとへ向かっていた。窓の外には冬の景色が広がり、霜をまとった大地が陽にきらめいている。

 白い息がガラスを曇らせ、指先でそっと拭いながら、私は深いため息をもらした。


「……はっきり言うとね、アルフレート。お兄様とあなたは、性格が正反対と言ってもいいくらいなの」


 そう切り出すと、彼は「ふむ」だとか学者じみた調子で相槌を打った。


「とても真面目な方よ。冗談なんて絶対に言わないし、笑い話で場を和ませよう、なんてことも一切しないの」


「なるほど、つまり僕とは真逆だ」


「そういうこと」


 私が念を押すと、アルフレートは楽しそうに笑う。


「だったら僕が冗談を言って、君のお兄様が真面目に突っ込む。完璧な役割分担じゃないか」


「……そんなお兄様じゃないのよ! 真面目っていうのはね、眉一つ動かさずに『不適切だ』って言ってくるような人のことを言うの」


「それは手厳しいな」


 あまりにも楽しげに言うから私は頭を抱える。どうしてこの人は、こんなにのんきなのかしら。


「……アルフレート、本当に大丈夫かしら」


「もちろん。僕らが会いに行くのは狼でも盗賊の頭領でもなく、一人の真面目な紳士だ」


 アルフレートは窓の外の雪を見やりながら、落ち着いた笑みで続けた。


「それに、僕は君を幸せにすると決めたからね。それをお兄様にちゃんと伝えるだけだよ」




 軍の営舎の廊下は冬の冷気をそのまま閉じ込めたように張り詰めていて、歩くたびに靴音がいやに大きく響いた。

 胸がぎゅっと縮み、私はそっとアルフレートの袖をつまんだ。けれど彼はまるで散歩にでも来たかのような軽やかさで、肩の力ひとつ抜けている。どうしてそんなに楽しそうにしていられるのか、本当に理解できなかった。


 重い扉を開けた瞬間、ぴんと背筋が伸びる。

 執務室の奥、机の向こうに兄が待っていた。軍服の襟元はきっちりと閉められ、視線はこちらを射抜くようで、思わず足が止まった。


「……君が、妹の将来の夫か」


 第一声がそれだった。……やっぱり、厳しい顔。日頃は優しく接してくれるけれど、軍人らしい厳格さは自分にも他人にも等しく向けられる。私の婚約者を前にしても、その険しさは微動だにしなかった。

 けれど隣のアルフレートは涼しい顔をして胸に手を当て、にこりと笑う。


「はい、アルフレート・ヴァイスと申します」


 ……余裕の笑み。声音は淀みなく誠実そのもので、私は少しだけ胸を撫で下ろした。けれど兄は石像のように動じない。私たちを座るよう促すと、一瞬だけ目を細めてすぐに低い声で問う。


「いくつか確認したいことがある。まず、妹を守る覚悟はあるのか」


 兄の問いかけに、アルフレートは一瞬も迷わず答えた。


「もちろんです。命に代えてでも」


 その答えに兄は静かに頷く。しかし間を置かず、次の言葉を放った。


「妹が敵に襲われたらどうする」


 ……敵。私は呆気に取られて瞬きをした。

 いったい誰がいつどこで、私を襲うというの。これまでの人生でそんな物騒な出来事など一度もなかったし、これからもせいぜいちょっとした噂の矢が飛んでくるくらいのものだろう。

 兄は本気なのだろうか。だとすれば、やっぱり軍人というのは発想が少し極端すぎる。

 隣でアルフレートも困ったように眉を寄せた。


「……敵?」


 控えめに問い返す声には、さすがに戸惑いがにじんでいる。私はほっとした。やっぱり普通はそう思うのよ。ところが次の瞬間、彼はほんの一拍置いてから表情を和らげ、淡々と答えを口にした。


「迅速な撤退を優先します」


 私は思わず彼の横顔を見つめてしまった。その瞳には楽しげな色が宿っていて、私にはわかってしまった。……この人、面白がっている。兄の真剣さと突拍子のなさを、心の中でひそかに遊んでいる。


 兄は机に肘を置き、深くうなずいた。


「撤退戦か。ふむ……判断が早いのは良いことだ」


 ……なんで納得しているの。その様子に、私は目を丸くするしかなかった。

 アルフレートはといえば、頷きを返すふりをしてほんの少し口角を上げていた。楽しんでいるのが私にだけわかる。


「無益な戦いで損害を出すのは愚かですからね」


「同感だ。被害を抑え、次に備える。それもまた戦いの一部だ」


 目の前で二人は急に打ち解けたように言葉を交わして、私はますます置いていかれる気分になった。


「妹が泣いたらどうする」


「慰めます」


「慰めは敗北後の処理だ。根源を叩け」


「……なるほど、涙の原因を制圧せよ、と」


 私が唖然としている間に、まるで作戦会議のような会話はどんどん進んでいってしまう。思わず胸の奥でため息をついた。

 兄の質問はきっとこの先も続くだろうし、アルフレートはその一つひとつを巧みにかわしながら、最後には兄の生真面目さすら和らげてしまうのかもしれない。


 ……そしてそこから、気がつけば会話は完全に二人だけのものになっていた。戦術論だの士気の維持だの、私には到底ついていけない言葉が飛び交い、時折二人が力強くうなずき合う。

 私は膝の上で両手を組み、ただその様子を眺めるしかなかった。いつの間にか、私の婚約者と兄はすっかり仲間になってしまっている。


 やがて兄が、ぽつりと声を落とした。


「……しかし、部下より厄介なのは妹だったな」


 あまりに唐突な言葉に、思わず私は背筋を伸ばした。けれどすぐにアルフレートの目が楽しげに細められるのが見えて、胸の奥に嫌な予感が広がる。


「そうなんですか?」


 その調子の良い返しに、完全に悪い予感を察知して私は慌てて口を開こうとした。けれど兄はそんな私の様子に気づくこともなく、そのまま続けてしまう。


「幼い頃など、すぐに森へ飛び出しては帰ってこない。探しに行けば木の上から飛び降りてくる始末だ」


 私は口を半ば開いたまま固まった。そんな話を、いまこの場でする必要があるだろうか。思わず視線を逸らしたけれど、兄の声音は淡々としていて悪気など微塵もなかった。

 ちらりと横を見れば、アルフレートは驚くどころかますます興味深そうにしている。


「それは随分と活発な子ですね」


「活発というより、制御不能だ。戻ってくるたび、叱る言葉を考える方が大変だった」


 ……完全に話題が飛び火してしまった。私は両手で顔を覆い、頭を抱えた。兄の声は真剣そのものだが、話の内容は私の少女時代の失敗談に及び、しかもそれをアルフレートは楽しそうに受け止めている。


「勉強となればすぐに居眠りするのも困ったものだった。机に向かわせれば、五分と経たぬうちに舟を漕ぐ」


「僕も似たような経験があります。学生時代、試験勉強に付き合っていて……」


 私はどうにか口を挟もうとするが、止めようとすればするほど、机を挟んで視線を交わす二人は妙な結束を見せた。そしてその中心で話題にされているのが私だという事実が、もういたたまれなくて仕方ない。


「叱るのも一苦労だった。叱ればすぐ泣く、泣くとどうしていいかわからず困る。何度も頭を抱えたものだ」


 その話にアルフレートは楽しそうに笑って頷く。二人に抗議の視線を送ったけれど悪びれる様子はなくて、私もう椅子の上で小さく丸まってしまいたくなった。

 そのとき、アルフレートがふと黙ってしばらく宙を見つめた。不思議に思って見つめると、一瞬の沈黙ののち彼は口を開いた。


「でも、叱ってくれる兄がいるというのは羨ましいですね。僕は両親を幼いころに亡くして、兄弟もいませんから」


 その言葉に、胸の奥に淡い痛みのようなものが広がる。

 叔父様に引き取られたとはいえ、幼くしてご両親を亡くした彼の人生には、私には想像のつかない孤独や寂しさがあったのではないか——そう思うと胸が締めつけられる。

 兄もまた私と同じ思いを抱いたのだろう。硬い表情のまま、けれどわずかに瞳を揺らしながら低く呟いた。


「……そうか」


 そして少し間をおいてから、まっすぐアルフレートを見据えたまま言葉を続ける。


「妹のことで困ることがあれば、遠慮なく相談するといい」


 短いけれど力強い言葉だった。なぜ私が困らせる要因にされているのか、気になるところはあったけれど、その様子を目の前に胸が温かくなる。

 二人が自然に理解し合い、打ち解けていることがこんなにも嬉しいとは思わなかった。指先でほんのり浮かんだ涙をそっと拭いながら、微笑みをアルフレートに向ける。


「ありがとうございます、心強いお言葉です」


 アルフレートは涼やかな笑みを浮かべながら、落ち着いた声音で礼を述べていた。

 その瞬間、私はほっと息をつく。——よかった。本当によかった。兄と彼がこうして言葉を交わし、互いを認め合うように頷く姿を見ることができるなんて。緊張と不安で胸を押し潰されそうになっていたのが、いまではまるで遠い出来事のように感じられる。


 けれど、私は安堵の微笑みを向けた視線の先で、ふと奇妙な光を見た。

 アルフレートの瞳の奥に、一瞬きらりと揺れるもの。柔らかな笑みの裏に潜む余裕、そして確信めいた輝き——。


 ……まるで、計画通りと告げているかのような。


 私は小さく息を呑んだ。やっぱり、この人には敵わない。


 兄の堅い表情を見事に和らげ、会話の流れを自然に自分の手のひらの上へと導いてしまう。私が内心でどれほど不安に身を縮めていたとしても、彼は終始落ち着いていて、最後にはすべてを自分の望む形へ収めてしまった。

 ……かくして、私たちの挨拶——もとい、アルフレートによる「お兄様陥落作戦」は、見事な大成功に終わったのだった。

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