閉ざされた扉の向こう
「エリザベート、君のご両親に会わせてほしい。そのうちじゃなくて、きちんと話をしたい」
私の涙が落ち着いたころ、アルフレートは意を決した様子でそう口にした。
両親に認めてもらえるのか、父も母も絶対に難色を示す。舞台のことは受け入れてもらえても、やはり身分のことは……。
「……でも……」
声が震えかけたとき、アルフレートは私の手を軽く握り、優しい笑みを浮かべた。
「ご両親が何と言おうと、僕の答えは変わらない。心配しなくていい。説得できるかは分からないけど、黙って引き下がる気はもっとないから」
その言葉に私は小さく息をつき、震える指をぎゅっと握りしめた。怖くてもこの一歩を踏み出さなければ、後悔だけが残る。世界は厳しくても、もう後戻りはできないと知っている。
屋敷に戻ると、居間には父と母の姿が揃っていた。私が一歩踏み出すと、父は書類から顔を上げ、母も目を細めてこちらを見た。
「お父様、お母様。お願いがございます」
声がわずかに揺れた。私はそれを押さえるように、深く一礼する。
「どうしてもお目にかかっていただきたい方がいます。私がとても信頼して、大切に思う方です」
父は眉間に皺を寄せ、母はやや目を伏せた。その短い沈黙に緊張した気配が漂い、わずかに背筋が伸びる。
「……分かった。然るべき時を改めて設けよう」
父の堅い声が低くその場に落ちた。母は何も言わず微笑むように頷いたけれど、空気は未だ油断のならない気配に包まれている。
深呼吸をひとつして、心の中で必死に自分に言い聞かせた。これまでも、簡単な道ばかりではなかった。そのたびに、私たちは立ち止まり、言い合い、それでも並んで前を向いてきた。恐れを胸に抱いたまま踏み出す一歩でも、きっと私たちは越えていける。そうやって重ねてきた時間が、嘘になるはずがない。
父と母に「会ってほしい人がいる」と告げたときから、心臓に冷たい針が刺さったような緊張がずっと抜けない。朝目覚めても、身支度を整えても、何をしても心は落ち着かず、指先さえ強張っている。
約束の刻限よりも早く、アルフレートは屋敷の門をくぐった。落ち着いた顔をしているけれど、いつもより襟を正す仕草が多くて、心中の緊張は隠しきれていない。
「大丈夫?」と小声で尋ねると、アルフレートは小さく笑って、「君こそ顔が真っ青だよ」と囁いた。その軽口に、ほんの少し肩の力が抜ける。
執事に案内され通された応接間では、父と母が揃って待っていた。父は深い色の礼服に身を包み、瞳には鋭さが宿っている。母は扇を手に持ちながら、柔らかな笑みとも冷ややかな静観ともつかない表情を浮かべていた。
「本日はお時間を頂戴し誠にありがとうございます。アルフレート・ヴァイスと申します」
アルフレートが深く頭を下げる。彼の声は震えひとつなかった。
けれどその名を耳にした途端、父の眉がぴくりと動き、母の唇がわずかに固く結ばれる。二人の視線が交錯し、互いに一瞬だけ確認するように目を合わせた。
「……名は聞き及んでいる。こうして会うのは初めてだな」
「ええ、お名前だけはずいぶん前から存じ上げております」
それでもアルフレートは動じなかった。二人を見据え、口元に柔らかな笑みを浮かべる。肩の力は抜けているのに、その背筋の真っ直ぐさが存在感を放っていた。
「ようやく直接ご挨拶できますことを光栄に思います、閣下、奥方様」
父がわずかに手を動かし、正面のソファに座るよう示した。小さく礼をし、並んで腰を下ろす。足先をそっと揃え、手は膝の上で重ねる──緊張でほんの少し震えているのを、意識して隠した。
「……学生の時分より、娘と親しくしていたと聞いている」
「はい。エーレ学院で面識を得て、それ以来のご縁をいただいております」
「学院を終えてからはどのように過ごしていらっしゃるの? あなたが何に励んでいらっしゃるのか、ぜひ伺いたいものです」
母が優雅に扇を動かしながら口を開く。優雅な声色ではあるけれど、そこに和やかさはなかった。
「現在は文化省の文化芸術局に勤めています。建国祭の記念公演も、職務の一環として携わらせていただきました」
はっきりとした答えに母の扇の動きが一瞬止まり、父の視線がかすかに細められた。
笑顔も、驚きも、何も見せない。けれど視線が交錯し、私にはわかった。両親は平然と表情を保ちながら、その実ひとつひとつの所作を目に焼きつけ、彼の真価を測ろうとしている。
そしてアルフレートもまた、怯むことなくそれを受け止め、言葉を選びながら切り返していた。
三人の間に、他愛もない会話の形をした探り合いが繰り広げられている。笑ってほしい。冗談をひとつでもいいから言ってほしい。けれどこの場でそれを望むのは無謀だと分かっている。
張り詰めた空気が重くのしかかり、私はとうとう耐えきれなくなった。
「お母様、お父様。建国祭の公演が成立したのは、彼の力添えがあったからです。私ひとりでは到底担えなかった部分を、彼が引き受けてくださったからで……」
「エリザベート」
必死に言葉を紡ごうとしたそのとき、父の声が私を制した。単なる呼びかけに聞こえるのに、それ以上踏み込むことは許されない響きを帯びている。
応接間には再び静寂が落ちた。重々しい空気が、言葉よりも雄弁に三人の距離を形作っている。それからしばらく、再び形式ばったやり取りだけが続いた。口は動くけれど、言葉はほんの上澄みだけをすくうようで、核心には触れない。
──このままでは、いつまで経っても本題には入れないのではないかしら。
不安を抱え、しかしむしろそうなってほしいような、言葉にできない感情が渦巻いた矢先だった。
「失礼ですが」
アルフレートがじっと両親を見据え、微動だにしないままはっきりと声を上げた。その姿には、これまでのやり取りで少しも揺らいでいない確固たる自信が宿っている。
「本日は、形式的なご挨拶や職務の説明だけをするために参ったわけではありません」
私は椅子に座ったまま、背筋に汗が流れるのに気がついて少し体が跳ねた。
「この場をお借りして、最初から正直に申し上げるべきだと考えております」
再び応接間は静けさに沈む。重たい沈黙のあと、母が扇を揺らしながら言葉を添える。
「……ええ、私も伺いたいわ。あなたが本当にここへ来られた理由を」
鼓動が高鳴り、手のひらが汗ばむ。わかっている。覚悟もしている。それでも、いざ口にされる瞬間を前にして、息が詰まりそうになる。
「お嬢様との婚姻をお許しいただきたく存じます」
その一言が落とされたとき、場の空気は完全に凍りついた。燭台の炎の揺らめきだけが、時間の流れを示しているように思えた。
父は深く息を吸い込み、やがてゆっくりと吐き出す。
「……来訪そのものを無下にする気はない。だが、婚姻という言葉を口にするのは早計にすぎる。君の出自を考えれば、論ずるに値せぬ話だ」
「重々承知しております。僕はただの平民にすぎません。家柄もなく、身に余る望みであることも理解しています」
わかっていたはずなのに、いざ突きつけられると全身が凍りつく。けれどアルフレートの微笑を失わず答えた横顔を見て、息を飲んだ。彼は、恐れも焦りも見せていなかった。生まれ持ったものを盾にした理不尽な拒絶を前にしても、声は少しも震えていない。
「では、なぜわざわざここへ」
「お嬢様を心から大切に思っているからです」
淡々と落ちた母の問いに間をおかず応じて、それきり沈黙が落ちた。蝋燭の炎がわずかに揺らめき、光が壁にかすかな影を踊らせる。
「ご無礼を承知で申しますが、以前には身を引くための申し出もいただきました。……ですが、そのご提案を受け入れることはできませんでした。今もなお、その気持ちに変わりはございません」
その告白に、父の目が細められる。鋭さを増した瞳は威圧を帯び、室内の空気を一層冷たくした。
私は両親の前で、これほど率直に想いを口にする人を見たことがない。礼を逸すれば許されない場においても、彼は飾らない言葉を選んだ。
「……かつて金銭で縁を断とうとしたことは、非礼であったと認めよう。だがあの時も今も、釣り合わん縁だと判断するほかない」
私は唇をかむ。じっと座していることが、どうしてもできなかった。自分の選んだ道なのに、すべてを委ねて黙っているなんて耐えられない。
「お父様、お母様……」
小さく震える心を押さえ込むように、私は呼びかけた。気づけば手は膝の上で固く組まれ、爪が皮膚に食い込むほどに力が入っている。
「仰ることは理解しています。ですが、どうか私の選ぶ道のひとつと理解していただけませんか」
声が震えそうになるのを必死で抑える。視線は自然と床へ落ちてしまいそうになるけれど、それでも両親の目を見つめ返した。
「私は芸術でこの国を豊かにしたい。それが私の果たすべき使命だと信じています」
言葉に力を込めて言い切ると、母の扇の動きが止まったのが視界の端に映った。隣に座るアルフレートの存在が背中を支えてくれていた。彼がそばにいてくれるだけで、私は自分の中にわずかな勇気を見つけることができる。
「……芸術を国のためと申すか」
父はじっと私を見据え、その表情には揺らぎひとつない。言葉は皮肉にも、試すようにも聞こえる。私は唇をきゅっと結び、呼吸を整えてもう一度前を向いた。
「私の歌は、きっと誰かの明日を照らす灯火になれる。人々が希望を失わず歩み続けられるように、心に届く歌劇を作りたいんです」
声を発した瞬間に熱が込み上げる。客席の無数の瞳を見つめた日のこと。幕が上がる瞬間に息を呑んだこと。舞台の輝きがどれほど人の心を揺さぶるかを、私は知っている。
「そしてそのために、彼の存在が必要です。私ひとりでは叶えられないことを、彼となら成し遂げられるのです」
決意を結んで声を張ると、自分でも驚くほどはっきりとした響きが部屋に満ちた。時計の秒針がひとつ、またひとつと進む音がやけに大きく聞こえる。それでも、どれほど拒まれようと、もう恐れるつもりはなかった。
父が再び口を開こうとする。
──しかしその時、母の手がそっと上がり、父の言葉を制した。
「……ヴァイス様」
凛として張りつめたその呼びかけに、私は反射的に母の横顔を見た。扇を膝に伏せた姿は微動だにせず、その表情はまるで水面のように静かだった。
「あなたは……どのようなことがあろうとも、娘を守ると誓えますか?」
問いかけに、息が詰まった。一体、何を考えているの──探ろうとしてもその瞳はあまりにも深くて、私には測り知れない。
「何を……」
父が低くもらした声に、母は首を横に振り、ただ一言「待って」と囁いた。父は言葉を飲み込み、深い溜め息を吐いて黙り込む。
アルフレートは、その緊張の中で微塵も揺らがなかった。背筋を伸ばしたまま、濁りのない声で言葉を紡いだ。
「お約束します。たとえ世の中が何を言おうとも、彼女が自分の選択を貫けるよう僕が責任を引き受けます」
“守る”という言葉を使わなかったのは、きっと彼の誠実さだった。誰かの背に隠れて生きる存在ではなく、自分で選び、踏み出す人間として、私を見てくれている。
母はその答えを聞き終えてもなお、すぐには口を開かなかった。
扇を膝に置いたまま、瞳だけをまっすぐにアルフレートへ注ぎ続け、やがてその視線をゆるやかにこちらへと移す。
「……エリザベート」
名前を呼ばれただけで、心臓が大きく跳ねた。
「世間の目は厳しいでしょう。それでも後悔はしないと言えますか?」
胸を突かれるような問いだった。母は私を試している。答えを誤れば未来は容赦なく閉ざされる──そう直感する。怖かった。本当に怖かった。
けれど、アルフレートがそばにいる。その確かな存在が、震える心を支えてくれている。
「決して後悔はいたしません、お母様。私が選んだ道ですから」
目を逸らさずに言えた。母の瞳に映る自分の姿を、決して背けずに受け止めることができた。
母はしばらく私を見つめ続け、やがてそっと扇を閉じた。乾いた音が、異様なほど大きく、応接間の中に響いた気がした。
「……もう良いではありませんか」
言葉に、耳を疑う。母の口から発せられるはずのない響き。その声はこれまでの冷静さとは違い、微かに人間らしい震えが混じっていた。
「私たちは随分と長く、この子の行く道を閉ざそうとしてまいりました。娘のためだと信じて……世間に晒されず、苦労を背負わせぬためだと」
言葉を何度も頭の中で繰り返して、ようやく意味を理解し始めたとき、熱と冷たさで同時に揺さぶられ、視界がにじみ始めた。驚きと戸惑いと、言葉にできないほどの感情が渦を巻く。
「ですが──もうただの一人の母親として、娘の幸福を願わせてください。エリザベートが自ら選んだ道を、私も信じたいのです」
母の言葉が応接間に落ちた瞬間、世界はぴたりと時を止めたように思えた。
誰も言葉を発しない。誰も身じろぎすらしない。母の姿を前に、私も、アルフレートも、そして父でさえも声を失い──その表情の奥に隠された感情を測りかねて見つめるしかない。
……ずっと、遠い人だと思っていた。私を愛してくれているのは確かでも、それ以上に貴族としての矜持や、家の名を守るための厳格さに生きる人だと。
あの扇の奥に隠された微笑みや視線の揺れに、私はずっと怯えてきたのだ。けれど今、母が発したその一言は、どんな慈愛の言葉よりも温かく、私の心を抱き締めていた。
長い長い沈黙。心臓の鼓動だけがやけに大きく響き、胸の内をかき乱す。永遠にも思えるその時を耐え抜いた果てに、ついに父が低く重たい声を放った。
「……愚かな選択だと私は思う。貴族のしきたりにも、世間の目にも背を向けることになる」
分かっている。身分を超えることが、どれほどの軋轢を生むか。どれほどの視線が私たちに注がれるか。囁かれる陰口も、向けられる侮蔑も、すべて避けられない。
父は母の方に視線を向けた。私は息を呑み、アルフレートも微かに肩を緊張させたのが伝わる。
「だが……君が母としてそう言うのなら、私も父として、言葉に耳を塞ぐほど冷たくはなれない」
父はゆっくりと目を閉じ、そして再び私を見つめた。その瞳には冷徹さと同時に、深い深い愛情が入り混じっているのがはっきりと見えた。
「……苦労の連続だろう。涙も屈辱も背負う覚悟が要る」
父の言葉は冷酷ではなく、現実を映す鏡そのものだった。私たちはきっと一生、冷たい視線に晒され続けるだろう。それでも──。
「それでもなお選ぶというなら──もはや私が止められることではない」
すべてを否定され続けるのだと覚悟していたのに。父の口からこぼれたのは、諦めにも似た承認の響き。
「好きにせよ。ただし一度選んだ以上、後戻りは許さん。甘えや情けに縋らず、その責は自ら負え」
突きつけられた最後の言葉に、涙があふれ、視界が滲む。
父は認めてくれた。決して優しい承諾ではない。数え切れない葛藤と、厳しい覚悟と引き換えに、私に未来を委ねてくれたのだ。
母の想いが、父の想いが、二人がどれほど私を案じ、愛し、守ってきてくれたか。今この瞬間ほど、それを強く思い知ったことはない。
「……はい、お父様。軽い気持ちで選んだ道ではありません。失うものも、困難も分かったうえで、それほど大切だと思える人だからです」
涙を拭い、顔を上げる。私はもう幼い娘ではない。愛に守られるだけの存在ではなく、愛されて育った証を胸に、これからは自らの選んだ道で応えていける。
失うもの、困難、避けられない痛みもすべて知っている。それでも、それを抱えたうえで生きていきたいと思える人がいる。嵐が来ても、風が吹き荒れても、二人でなら歩いてゆける──私が望み、この足で踏み出す人生だから。
◆
──屋敷の裏庭、古いバラの垣根の奥。私のお気に入りの場所がある。子どもの頃、叱られたあとや逃げ出したいときは、決まってここへ来た。
「……そんな特別なところに僕を連れてきてもいいの?」
「いいの。あなただから」
かつては広々とした秘密基地のつもりだった場所は、大人になってみると驚くほど狭い。両手を伸ばせば、もう端に触れてしまいそうで、それがかえって懐かしさを連れてくる。
ここに身を潜めて、どれほどの時間を過ごしただろう。オペラに行きたくないと駄々をこね、裾を土で汚してこの奥に逃げ込んだ日のことも、ふいに思い出す。思えばあの日に、民衆歌劇とも出会ったのだっけ──。
「……それで、改めて聞くけど」
アルフレートが少しだけ背筋を正して言った。その仕草が妙に改まっていて、なぜだか笑いそうになる。
「君が人生を歩くとき、隣に僕が立っていてもいいと思う?」
「思うわ。だって、あなただもの」
私はためらいなく答えた。アルフレートは頷いて、抑えきれないというふうに笑った。嬉しさがそのまま零れ落ちたような笑顔だった。
「ようやくこれを君に渡せるよ」
差し出されたのは、深い色の小さな箱。蓋が開かれた瞬間──収められていたのは、石をひとつ嵌め込んだ婚約指輪だった。華美ではないのに、強さを宿した輝き。
「きらきらしてる。まるで小さな星を閉じ込めたみたい」
待ちきれず、ほとんど急かすように左手を差し出す。指に通された指輪は、驚くほどしっくりと馴染んで、まるで最初からそこにあるべきものだったかのようだった。私は何度も角度を変えて眺め、感嘆の息をこぼす。
「……こんな瞬間のために、きっと人は恋をするのね」
アルフレートは微笑ましそうに私を見つめ、何も言わずにその手を伸ばした。両手で私の左手を包み込み、薬指に口づけを落とす。
「結婚しよう、エリザベート」
屋敷を抜け出し、ここに隠れていた幼い日。そこから始まった、長く、遠回りだらけの旅路。それでもこの場所に立っている今、私ははっきりと、選んだ道を後悔しないと思えた。
「もちろんよ。昔ここで想像していた未来より、ずっと素敵だから」




