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王都を揺るがすアリア

 終曲の最後の音が空気に溶け、緞帳が降りる。

 張りつめていた空気がほどけるよりも早く、会場を揺らすような大きな拍手と歓声が押し寄せた。轟く音の波に包まれた瞬間、胸の奥まで強く震わされ、足元がふらつくほどの熱を覚える。


 やがてカーテンコールの幕が上がる。目に飛び込んできた光景に、思わず息を呑んだ。

 観客の大半が立ち上がり、手を叩き、声をあげて私たちを迎えてくれている。

 視線を少しずつ動かし、劇場を見渡す。金色の装飾に縁取られたバルコニーや、豪奢な座席が連なる奥の方まで、目に映るのは私を見つめる無数の瞳。どの顔も真剣で、熱く、そして期待に満ちていた。


 視線を巡らせるうち、クララの姿が目に飛び込んだ。涙をそっと拭いながら私を見つめている。その眼差しは遠く離れた学院での日々を呼び覚まし、控え室で交わした言葉や手紙のやり取りを鮮やかに思い出させる。


 さらに視線を移したそのとき、ひときわ鮮やかに心を揺さぶる光景が飛び込んできた。

 客席の片隅に、家族の姿があった。兄はやや照れくさそうに、しかし誇らしげな顔で、母は背筋の伸びた立ち姿で、まっすぐ私を見つめながら拍手を送ってくれる。

 そして——父。あの厳格な眼差しを持つ人が、立ち上がって手を叩いている。その姿に思わず息が詰まり、涙が自然と溢れそうになった。


 拍手の波と歓声に押されながら、私は深く頭を下げた。涙を隠すように、しかし心の中では大きな喜びと感謝が溢れている。舞台、観客、友人、家族、仲間たち——私を支え、励まし、信じてくれたすべての存在に、言葉にできない感謝を捧げるように。


 私が信じ、夢見たものすべてが、今この瞬間、揺るぎない形となってここにある——。その実感が胸を満たし、言葉にできない熱が心を押し上げる。

 緞帳が降り、舞台は幕を閉じる。光が消え、拍手の余韻がまだ暗闇に残る中で、そばに立った仲間たちの姿を見つめた。

 舞台裏に駆けると、互いに抱き合い、手を取り、短い言葉でお互いを讃え合う。誰一人として疲れを見せず、むしろ達成感と充足感が顔に溢れていた。

 公演はまだ、残り二回。私は心を引き締め、しっかりと仲間たちを見渡す。


「最後まで、頑張りましょう」


 確かな決意を込めてそう告げると、皆が笑顔で応えてくれる。

 私たちはもう一度、舞台に立つ瞬間を胸に抱き、歩みを進める覚悟を新たにした。

 舞台で響かせる歌と物語を、観客に届けるために——私の夢は、まだこの先へと続いているのだ。




 夜が更け、ようやく屋敷へと戻った私は、まだ胸の奥に残る拍手の響きと、シャンデリアの光の残像を抱えたまま玄関をくぐった。体は疲れているはずなのに、宙に浮いているような心地だった。


 けれど、出迎えた侍女が告げた言葉に、思わず足が止まった。


「お嬢様、旦那様と奥様が応接間でお待ちです」


 息が詰まるような驚きに胸を押さえる。心臓が早鐘のように鳴り、足がすくみそうになった。

 それでも、なんとかあの光景を思い出す。

 ——父が、母が、私に向かって立ち上がって拍手を送っていた。長く夢を許されずにいたけれど、あの時だけは確かに私を祝福してくれていた。

 私は息を深く吸い、震える手をぎゅっと握りしめる。扉の向こうには、ずっと私を拒んできた二人がいる。けれど、今は違うかもしれない。

 

 勇気を振り絞り、私は応接間の扉に手をかけた。

 軋む音とともに開かれたその先には、確かに父と母が並んで座っていた。

 二人の視線が一斉にこちらを向く。私は思わず背筋を伸ばし、かすかな震えを押し殺しながら一歩を踏み入れた。


「……座れ、エリザベート。今夜のお前の舞台について、話さねばならん」


 胸の奥でどくんと音がする。喉が乾いて、うまく声が出せそうになかった。


 けれど、逃げるわけにはいかない。


 私は裾を整え、できるだけ落ち着いたふりをして父母の正面へと進み、そっと腰を下ろした。

 父はしばし私を見据えたまま黙っていた。その沈黙の重さに、心臓がひとつひとつ強く打ちつける。全身が緊張に固まって、手のひらに冷たい汗がにじんでいた。


「……お前の歌がこの家の名を背負うに足るものかどうか、私はまだ判断を決めかねている」


 やがて、父の低く張りつめた声が静寂を切り裂いた。容赦のない響きに思わず息が止まる。

 その声色の重みは、これまでの年月、私の夢や努力を一顧だにせず、ただ厳しい目で見つめ続けてきた父の眼差しそのものだった。


「しかし今夜、あの場にいたすべての者がお前の歌に耳を傾けていた。……ならば、私の狭量も認めねばなるまい」


 けれど、続く言葉が耳に届いた瞬間、私は一瞬、呼吸を忘れた。

 胸の奥に押し込めていた長年の緊張がわずかに緩むのを感じる。私の努力、信念、そしてこの瞬間に至るまでのすべてが、報われたのだという確信が、じわじわと体の奥から広がっていく。


「……夢見がちな娘だと、夢に敗れてあなたが涙を流す日を恐れてきました。夢などいつかは潰え、苦しみを残すだけだと……」


 母が次に口を開いた。声は穏やかでありながら、言葉にできない複雑な感情を含んでいるように思える。


「夢に生きることを、私はいまも無条件に良しとは思えません。傷つき、打ちのめされる日も来るでしょう」


 母の瞳は淡く揺れていた。私を案じながら、それでもずっと理解できずにいた年月の重みがそこに滲んでいるのが分かった。


「……けれど、それでも立って歌うあなたを、否定することはできなくなりました」


 胸が詰まり、涙があふれ出しそうになった。あれほど遠いと思っていた存在が、今こうして私を肯定してくれている。


「母としては心配が尽きませんけれど、今日のあなたの姿を見た以上、もう“夢見がちな子供”と呼ぶことはできません」


 私は言葉を失い、ただ両親の瞳を見返すしかなかった。

 胸に積もっていた孤独と不安が、ようやく音もなく溶けていく。

 体全体に力が戻り、頭の先から足先まで、これまでの努力と決意が肯定されるような確かさで満ちていく。


「……ヒルデガルト・フォン・ヴェルシュタインを演じたお前の姿は、見事だった。軍人の誇りを辱めることなく舞台に昇華させた」


 父がふたたび口を開いた。涙がゆっくりと頬を伝うのを感じながら、私は深く頭を下げる。言葉は出なかった。ただ、この瞬間が永遠に続いてほしいと、胸の奥で祈った。


「……お忘れですか、お父様」


 私のすべての努力、すべての迷い、すべての夢が、ここに確かに実を結んだ——そんな確信に満ちた瞬間だった。


「私は、王国陸軍第一師団の、大佐の娘なのですよ……」


 ふたたび顔を上げ、私は両親の瞳を見つめた。その視線の奥に揺れる光を感じる。

 父の瞳が、一瞬だけ厳しさとは別の色を湛え、しかしやがて決意を固めたように揺れるのを、私ははっきりと見取った。


「……娘よ、己の道を行くというのなら、全ての責を背負う覚悟を持て。甘えや情けに縋ることは許されぬ」


 震える唇をわずかに噛みしめ、私は息を整える。心の中で、これまで抱えてきた迷いと不安、努力のすべてを思い返す。許されない道に涙を流した日々と、今日まで支えてくれた歌と舞台。

 私は深く頷き、かすかながらも確かな声で答えた。


「……はい、お父様。私は自分の選んだ道に責任を持ちます。どんな困難があろうと、逃げずに進みます」


 その言葉を聞いた父は一瞬だけ眉を緩め、しかしすぐにその表情を引き締めた。母もまた、穏やかな微笑みを浮かべながら私の手にそっと触れる。その温もりが私の心に力を与えた。

 私は言葉では言い尽くせない感謝と決意を抱きしめながら、両親の前に在り続けた——己の夢を背負い、未来を切り拓く娘として。




 ——翌日の昼公演も、夜公演も、劇場は一席の空きもなく埋め尽くされていた。

 年齢も身なりもさまざまな人々が、思い思いの表情で舞台を待ち受け、期待と好奇心を湛えた視線を一斉にこちらへ注いでくる。その光景はまさしく夢に描いてきたものだった。隣国の劇場で目にしたあの熱狂と、今目の前に広がる光景とが重なり、胸の奥に眠っていた高揚の記憶が鮮やかに蘇る。


 幕が上がるたびに、舞台を満たす熱と観客の眼差しがひとつに溶け合い、奔流のように私の身体を通り抜けていく。音が私の心の奥底に沈んだ希望や不安に触れ、それらを震わせながら広がっていく。


 やがて終曲を迎え、幕が降りたその瞬間——。

 客席から割れんばかりの歓声と拍手が湧き上がり、壁も天井も震わせながら押し寄せた。重なり合う拍手の波が肌を刺すように伝わり、胸を突き抜け、心臓をさらに速く打たせる。


 最後のカーテンコールを終え舞台裏へと戻っても、拍手と歓声はまだ耳の奥に残り、胸の奥にしみ込むように熱く、同時に言葉では表せないほどの感情が渦巻いていた。

 ——あの瞬間、私はただ歌を響かせていただけではなかった。

 自分が信じ、夢見て、積み重ねてきたすべてを、あの舞台の上に確かに刻みつけたのだという確信が胸を満たしていた。

 舞台で響いた声、共に励まし合った仲間たちの表情、拍手に震える客席のざわめき——すべてが私の胸に深く刻まれて、もう二度と消えることのない記憶として焼きついた。



 

 建国祭の幕が降りてなお数日、私はいまだ胸の奥に残る熱と余韻に浸っていた。

 そんな折、屋敷に届けられた一通の封書が、私の日常を一瞬で揺るがせた。

 国王陛下と王妃陛下から、私とアルフレートに謁見を許す、との正式な文書。信じられない——その文字を目にした瞬間、息を呑み、心臓が高鳴った。


 手紙を抱えて文化省を訪れると、廊下の向こうにアルフレートの姿が見えた。

 アルフレートも私を見つけるや否や目を大きく見開き、信じられないものを見たかのように立ち止まった。ふたりで目を合わせると、言葉はなくとも理解し合えた。

 

 その日から数日間、私は落ち着かない日々を過ごした。衣装や髪型、礼儀作法や言葉遣いに至るまで、念入りに準備を整える。

 舞台に立つときの緊張とは異なる、未知の緊張が心を満たす。

 磨き上げられた大理石の床、威厳に満ちた玉座——思い描くだけで、体の奥から息が詰まるような感覚が押し寄せた。


 いよいよ、国王陛下と王妃陛下に謁見を許される日が訪れる。朝から胸は押し潰されそうなほど高鳴り、指先まで震えていた。

 アルフレートも私も普段の冷静さを失い、視線を合わせるたびに互いの緊張が火花のように伝わり合う。

 馬車に揺られる間、言葉を交わさずとも鼓動の速さがわかるほどだった。やがて王宮の門が視界に迫ったとき、二人同時に息を呑んだ。


 広間に足を踏み入れた瞬間、全身の神経が張り詰め、心臓の鼓動が耳にまで届くようだった。玉座の間の奥に並ぶ国王陛下と王妃陛下のお姿に私の目は吸い寄せられ、言葉を紡ごうとしても喉が乾ききって何も出てこなかった。

 お言葉は一言一句聞き逃してはいけないはずなのに、あまりの緊張にほとんど覚えていない。頭の中は白く、目の前の光景も遠く霞む。 

 けれど、その中でただひとつ、王妃陛下のお言葉が鮮烈に心を貫いた。


「あなたのような才ある芸術家と、それを陰にて支える官僚がわが国に存在していることを、わたくしは深く誇りに存じます」


 私は目を伏せ、深く頭を下げた。胸の内で言葉にならない感情が渦を巻き、唇は震えた。

 夢に生きる私の道は決して間違いではない。王妃陛下が示してくださったその確信が、私の胸にまばゆい光となって灯る——これが私の道。揺るぎなく信じ、歩むべき道なのだと。


 たとえ未来に幾多の困難が待ち受けようとも、私は怯まない。迷いも恐れも抱えながら、それでも前へ進む。私の歌は、私の思いは、誰かの心に届く力を持つ——その力を持っているのだと、胸の奥底から確信したのだ。

 揺るぎない決意と燃えるような覚悟が血の一滴にまで染みわたり、目を閉じれば、舞台の光、観客の拍手、そしてあの瞬間に与えられた王妃陛下のお言葉が、私を力強く押し上げてくれる。


 ——私は、歌に生きる。夢に生きる。これが私の生きる道であり、誰にも奪われることのない誇りなのだ。

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