すべてを捧げて
——ついに、建国祭の日が訪れた。
朝から街はざわめきに満ち、人々の足取りは軽く、どこもかしこも光に包まれているようだった。
朝の鐘の音すら、高鳴る胸に呼応するように響いて聞こえる。石畳を行き交う人々はみな浮き立った顔をしていて、旗や花飾りを手にした子どもたちの笑い声が広場の方から届いていた。
この国にとって一年でいちばん華やかで誇らしい日。そして私にとっても、これまで歩んできた夢がひとつの形になる、かけがえのない日だった。
けれどこの日を迎えるまでに、私の心を支えてくれたのは舞台そのものだけではなかった。
稽古の合間に、一通、また一通と返ってきた招待状の返事。封を切るたび、文字のひとつひとつが指先から体の奥へ染み込んでいくようで、読みながら何度も涙ぐみそうになった。
私を祝福する声や、遠くからでも駆けつけたいという言葉。信じられないくらいの数の返事が重なって、机の上に積み重なっていくのを見ていると、私の歩いてきた日々が報われたようで、何度も手で顔を覆ってしまった。
そして、クララから届いた便り。
「あなたの晴れ舞台を見逃すわけにはいきません」と、見慣れた優しい筆跡で綴られていた。その文字を目にした瞬間、胸の奥から堰を切ったようにこみあげてきた熱を今も忘れられない。
それだけではなかった。手紙の終わりに、もう一つの言葉が記されていたのだ。——公演の当日、幕が上がる前に控え室を訪ねても良いか、という申し入れ。
便りを読みながら、胸の鼓動が早まっていくのを抑えることができなかった。舞台に立つ緊張や期待とはまた別の、不思議な高揚感。大切な人に再び会える喜びは、言葉に尽くせないほど大きなものだった。
それ以来、私は稽古の合間にもふとクララのことを思い出しては、再会のときを夢見るように待ち続けていた。
——当日。準備を終えた私は、控え室で約束の時間を待っていた。
朝目覚めた瞬間、窓から差し込む光さえもいつもより澄んで見えたのは、きっとこの日をどれほど心待ちにしていたかの証だったに違いない。
彼女が来てくれると知った時、せっかくならとアルフレートにも声をかけた。手紙の返事にそのことを書き添えると、クララも彼に会えることを心から喜んでくれた。
控え室の中、私はアルフレートと並んで椅子に腰かけていた。
外のざわめきは聞こえてくるものの、この部屋の空気はゆっくりと流れていて、待つ時間さえも愛おしく感じられる。アルフレートの肩越しに差し込む光が、彼の輪郭をやわらかく照らしていた。
「ねえ、アルフレート」
少し間をおいて、私はふと思い出したことを口にした。
「三人で初めて顔を合わせた日のことを覚えている?」
彼は瞬きをして、それからゆっくりと頷いた。
「図書館で本を読んでいたら、君たちが大騒ぎしてやってきたから驚いたよ」
「大騒ぎはしていないでしょう」
小さく笑いながら、胸の奥に懐かしさが広がる。学院の図書館、ぎこちない初めての会話、そして少しずつ芽生えた友情。
「……あれからもうずいぶん経つのね」
これから訪れるクララもきっと、同じ記憶を大事に抱いているに違いない。
——そしてついに、控え室の扉にノックが響いた。
私は思わず息をのんで立ち上がる。胸の奥が小さく高鳴り、足取りも自然と軽くなる。
日頃ならば平然と開けるだけの扉も、今日はなぜか特別に重く、指先に力を込めて「はい」と返事をかける。
扉がゆっくりと開かれる。先に姿を現したのは、彼女の夫と思しき男性だった。深い色合いの外套に身を包み、静かに一礼する。その落ち着いた仕草に、私の胸のざわめきも少し和らぐ。
そして、その後ろから——ずっと会いたかった彼女が姿を現した。
その姿を目にした瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなる。長い間会えなかったクララが、こうして変わらずに目の前に立っていることが、信じられないほどに嬉しく、目の奥が熱くなる。言葉を紡ぐ前に自然と息を呑んでしまうほど、心が揺れ動いた。
クララの瞳がこちらを捉え、微笑みを返してくれる。その笑顔に、久しく会わなかった時間や距離が一瞬で埋まるような気がして、私は思わず歩み寄った。
クララのドレスは柔らかな色合いで、ゆったりと体に沿う布が穏やかに揺れている。けれど次の瞬間、私の目は自然と彼女のドレスの下へと向かっていた。ゆるやかに仕立てられた布地の下に、ふくらみのある線が見え、私は思わず視線を止めてしまった。
「クララ……」
思わず声を漏らして、私は彼女の瞳を見つめた。クララは私の言わんとしていることに気がついたらしく、柔らかく微笑んで答えた。
「ええ、ですから外出を控えておりましたの。お知らせできなかったこと、お許しくださいませ」
その言葉を聞いた瞬間、安堵と喜びが一緒になったような熱が胸に込み上げ、自然と涙が溢れてくる。
「わ、私……あなたに何かあったんじゃないかと、ずっと心配していたのよ……」
ゆっくりと手でその涙を拭いながら、私は言葉を紡いだ。
「……だけど、よかった。本当におめでとう、クララ」
クララは静かに頷き、柔らかい笑みのまま私の頰をそっと手で拭ってくれる。その手のぬくもりに、私は心の底から救われるような感覚を覚えた。さらに彼女は私の手を取って握り、優しく伝えてくれる。
「女の子が生まれたら、エリザベートと名付けたいの」
驚きとともに、言葉にならない感情があふれた。
「あなたのように気高く、夢をあきらめない子に育ってほしくて」
クララの瞳が、柔らかく光を湛えて私を見つめる。思わず目を伏せ、掌に握られた彼女の手の温かさに触れながら、私は小さな声でつぶやいた。
「……もったいない言葉だわ」
クララは微笑みを深め、さらに私の手を握り返してくれる。ぬくもりが指先から伝わり、長い間抱えていた不安はゆっくりと溶けていった。しばらく二人の手は離れず、ただ静かに握り合ったまま時が流れる。
私の呼吸が少しずつ落ち着きを取り戻したころ、控え室の静かな空気を破るように、アルフレートがふと口を開いた。
「じゃあ男の子だったら、アルフレートと名付けてくれる?」
思わず涙に濡れたまま、私は彼を見返した。こんな瞬間に、どうしてこの人は冗談ばかり言うのだろう。目尻にまだ残る涙を押さえつつ、心の片隅で呆れる。
けれどクララはその問いに全く動じることなく、あっさりと優雅に首を振る。
「いいえ、フランツにしますわ。昔読んだ英雄譚に出てきた騎士の名前でして」
その言葉に、私は思わず笑みがこぼれた。柔らかな声、穏やかに揺れる口元の微笑、そして落ち着いた所作が、学院で一緒に過ごした日々を思い出させる。
「……エリザベート。今夜の舞台、心から楽しみにしております」
クララはふたたび私の手を握って、柔らかく声を落として続けた。
「わたくしだけでなく、この子にもあなたの歌を聴かせていただきたいのです」
控え室の窓から差し込む光が、私たちを淡く照らしている。過ぎ去った日々と今この瞬間の幸福が交わり、確かに心に刻まれる。
「ええ……必ず。心に残るものを届けてみせるわ」
言葉は、自分自身への誓いのようにも響いていた。ただの約束ではなく、これから舞台へ立つ者としての決意。
歌を響かせることで、友人に、そして彼女のお腹の中の小さな命に、未来へと続くものを手渡したい——そんな想いが胸いっぱいに広がっていく。
やがて、クララとの語らいの時は静かに終わりを告げた。名残惜しさを覚えつつも、彼女と夫を見送ったあと、控え室に残った私はしばし深く息をついた。胸の内に灯された温もりは、確かな勇気となって私を支えている。
——もう恐れはない。舞台の上で、私のすべてを差し出そう。
時を告げる鐘が遠くで鳴り、いよいよ幕が上がる時が近づいているのを思い知らされる。控え室を出ると、仲間たちの顔が揃っていた。
皆それぞれに緊張の色を浮かべながらも、互いの背を叩き合い、冗談を飛ばし合い、励まし合っている。その輪の中に身を置くと、不思議と心が軽くなる。私は一人ではない。私たちは共に歌い、共に夢を見て、この舞台を作り上げてきたのだ。
舞台袖へと足を運ぶと、ざわめきが押し寄せてきた。幕の向こうに広がる無数の気配と息づかい。その熱気に、足先から震えるような感覚が伝わってくる。期待と歓喜が入り混じった、生きている証のような震えだ。
幕の隙間からそっと覗き込むと、光に照らされた大劇場の座席は、すでに埋め尽くされていた。人々は豪奢な衣装に身を包み、煌びやかな宝石が燭台の光を反射している。
初演の観客は王侯貴族。彼らにとって歌劇とは、重厚で、荘厳で、血や涙に彩られた悲劇の物語である。
そうした世界観に浸り、深い余韻に心を震わせることが、長くこの国の伝統とされてきた。私自身も幼いころから繰り返し目にし、胸に刻んできたもの。だからこそ、その価値を疑うつもりは決してない。
けれど、悲劇だけが人の心を打つのではない。人々を笑わせ、明日へと歩ませる歌もまた、誰かの生を支える力になる。
そして、ふと視線を奥へと向けた。
最上段のバルコニー。深紅のカーテンに囲まれたその場所に、堂々と座している二つの姿があった。
——国王陛下と、王妃陛下。
金の冠のきらめきが遠くからでもはっきりと見える。彼らの存在は、この劇場に集まったすべての人々の視線を背後からも引き寄せるように、圧倒的な気配を放っていた。
私は指先を握り込み、心を奮い立たせる。この舞台は、私自身が信じ抜いてきた夢の形。
舞台袖に立つ仲間たちが、互いに目を合わせて小さく頷き合う。その気配に勇気を分けてもらうように、私は深く息を吸い込み、幕の向こうに広がる大劇場を再び見据えた。
私は舞台を通して証明したいのだ。夢を信じ、諦めずに進むことは決して無駄ではないのだと。たとえ遠回りでも、苦しい日々を重ねても、その先に必ず光があるのだと。
幕が降りる頃、この国の人々の心に何かが芽生えていてほしいと願う。ほんの小さなひとしずくでも、希望を宿すことができるなら。私の歌がそのきっかけになるのなら。
シャンデリアから跳ねる光に照らされながら、私はそっと目を閉じた。これまで歩んできた道と、今日ここから始まる未来とを結ぶように。
観客のざわめきが大河のように押し寄せてくる中で、心は澄み渡る湖のように静かだった。




