すべてを捧げて
「ローゼンハイネ嬢、おはようございます」
翌朝、お稽古場に響いたのはアドラーさんの声だった。低くてよく通る陽だまりみたいな響きに、やけに嬉しそうな笑みを浮かべ、手に分厚い書類束を抱えている。
「おはようございます、アドラーさん。……あの、どうしてそんなに嬉しそうなんですか?」
「いえいえ、追加公演が無事に認められたそうで。こんなにおめでたいことはありませんよ」
私の問いかけに、アドラーさんは目尻をほころばせた。そこで一拍置いて、私の耳元で稽古場のざわめきを背景にひそりと声を落とす。
「それと、どうか安心なさってください。彼は、今日はちゃんと休んでいます。……というか休ませました。寝不足でふらふらでしたから」
その言葉にほっとして、つい息をこぼしてしまった。ちゃんと休んでくれた。私が背を向けて出て行ったあと、彼がどうしていたのか考えるのが怖かった。
「毎晩寝ずに資料作って、根拠並べて、会議で潰されて、また作って……それでも食い下がるんですよ。あんなに反対してたくせに。ほんと、扱いづらい人です」
アドラーさんは呆れたように言いながらも、どう見ても楽しそうだった。困っているのではなく、彼の必死さをどこか誇らしげに語るような声音。
反対して、現実を突きつけて、それでも最後に道をこじ開けてくれる。それが彼なのだと、私はもう分かっていた。あの頑なな反対の中で、味方であろうとしてくれたことも、本当は痛いほど分かっていた。
「……知っていますわ。だって、ずっと見てきましたもの」
私が傷つかないように。余計な火種を作らないように。ひとつ間違えれば私の居場所が揺らぐ世界で、彼だけが盾のように私の前に立ってくれた。器用なくせに、不器用な役回りばかり引き受ける人。
「……彼は、そういう人ですよ。誰より現実的で、誰より情が深い。面倒でしょう?」
◆
翌日には、稽古場にアルフレートの姿も戻ってきた。まだ少し疲れの影は残っているけれど、ずいぶん調子が戻ったように思える。
彼が扉をくぐると、その場にいた人々が一斉に声を上げて集まっていった。あれこれと心配そうに言葉をかけられても、アルフレートは「大げさですよ、寝不足だっただけだ」と苦笑いを返していた。
建国祭の幕がいよいよ近づき、私は稽古の合間を縫って、これまでお世話になった人たちへ招待状を書き始めた。
最初はクララへ。夏に届いた手紙には、「事情があって外出を控えている」と記されていて、それ以来ずっと胸に引っかかっている。もしかすれば、建国祭の日は来られないもしれない。それでも、招待しないなんてことは考えられなかった。彼女は、いつまでも私の一番の親友なのだから。
そしてニーナへ。
ニーナには、あの日以来ひとことも手紙を出せずにいた。突然返事を絶ってしまって、彼女をどれほど戸惑わせたかと思うと、申し訳なさで何度も手が止まってしまった。
けれど、アルフレートが事情を伝えてくれていたらしい。知った瞬間、息を詰めるような安堵と、どうしようもない悔しさが同時に押し寄せた。もっと早く、自分の言葉で伝えるべきだったのに。
だから今度こそ自分の手で、エリザベートの名前で手紙を書いた。ずっと返事をできなかったことのお詫びと、身分を偽っていたことへの謝罪。そして、ようやく再び顔を上げて歩き出せたことを。
それからウェーバーさんや、かつて明るいオペラを一緒に作った劇団の人々へ。カルロッタを演じてくれたロミーに、ファツィオを演じてくれたオスカー。あの頃の私を支えてくれた人たちへ、感謝を込めて一通ずつ丁寧にしたためる。
留学先で出会った友人たちにも招待状を書いた。あの国で初めてオペレッタを知って、胸を躍らせた日のことが鮮やかに蘇る。
異国の地で戸惑いながらも、舞台という夢を追いかけ、共に語り合った時間が今の私を作ってくれた。
国を越えて来られるかは分からない。それでも、あの日の夢の続きにいま自分がいることを、目の前で伝えたかった。
そして、エミリーへ。
屋敷の古い記録を頼りに彼女の故郷の住所を調べて、そこに宛てた。民衆歌劇を好きになったきっかけは、間違いなく彼女だった。あの日の約束も、果たさなければならない。
あれからずいぶん時間がたってしまったけれど、どうしても伝えたかった。「あなたのおかげで、私は夢を見つけました」と。
最後に、家族へ。
便箋を前にしたとき、一番ためらいが大きかった。両親は来てくれるだろうか。あの厳しいまなざしを思い出すと、不安で心が揺らぐ。
拒まれるかもしれない。けれど、もう逃げることはできない。私が歩んできた道のりを、夢の結晶を、その目で見てもらいたい。
インクが乾くのを待ちながら、一通ごとに過去と現在が繋がっていくようだと思った。いま私の目の前にあるのは未来への扉だけれど、その扉を開けるためには、後ろに積み重なった絆がどうしても必要なのだ。
誰一人欠けても、いまの私はここにいない。そんな確信とともに、私は最後の封筒を閉じた。
◆
建国祭の日、朝から街はざわめきに満ち、人々の足取りは軽く、どこもかしこも光に包まれているようだった。
朝の鐘の音すら、高鳴る胸に呼応するように響いて聞こえる。石畳を行き交う人々はみな浮き立った顔をしていて、旗や花飾りを手にした子どもたちの笑い声が広場の方から届いていた。
この国にとって一年でいちばん華やかで誇らしい日。そして私にとっても、これまで歩んできた夢がひとつの形として結ばれる、かけがえのない日。
そして今日までに、招待状の返事も稽古の合間に一通、また一通と返ってきた。封を切るたび、私を祝福する声や、遠くからでも駆けつけたいという言葉に何度も涙ぐんでしまう。信じられないくらいの数の返事が重なって、机の上に積み重なっていくのを見ていると、歩いてきた日々が報われたように思えた。
そしてクララからも、「あなたの晴れ舞台を見逃すわけにはいきません」と、返事が届いた。その文字を目にした瞬間、堰を切ったようにこみあげてきた熱を今も忘れられない。
それだけではなく、手紙の終わりには、もう一つ言葉が記されていた。公演の当日、幕が上がる前に控え室を訪ねても良いか、という申し入れ。
それ以来、私は稽古の合間にもふとクララのことを思い出しては、再会のときを夢見るように待ち続けていた。
そして今日、準備を終えた私は、控え室で約束の時間を待っていた。朝目覚めた瞬間、窓から差し込む光さえもいつもより澄んで見えたのは、きっとこの日をどれほど心待ちにしていたかの証だったに違いない。
彼女が来てくれると知った時、せっかくならとアルフレートにも声をかけた。手紙の返事にそのことを書き添えると、クララも彼に会えることを心から喜んでくれた。
「ねえ、アルフレート。三人で初めて会った日のことを覚えている?」
「図書館で本を読んでたら、君たちが大騒ぎしてやってきたから驚いたよ」
「大騒ぎはしていないでしょう」
アルフレートと並んで控え室の椅子に腰かけて、小さく笑いながら懐かしさが広がる。学院の図書館、ぎこちない初めての会話、そして芽生えた友情。
「……あれからもうずいぶん経つのね」
これから訪れるクララもきっと、同じ記憶を大事に抱いているに違いない。
そのとき、控え室の扉にノックが響いた。
息をのんで立ち上がる。指先に力を込めて「どうぞ」と返事をかけると、扉はゆっくりと開いた。
先に姿を現したのは、クララの夫と思しき男性だった。深い色合いの外套に身を包み、静かに一礼する。
そして、その後ろから──ずっと会いたかった人が姿を現した。
目の奥が熱くなる。言葉を紡ぐ前に自然と息を呑んでしまうほど、心が揺れ動いた。クララの瞳がこちらを捉え、微笑みを返してくれる。その笑顔に、久しく会わなかった時間や距離が一瞬で埋まるような気がして、私は自然と歩み寄った。
クララのドレスは柔らかな色合いで、ゆったりと体に沿う布が穏やかに揺れている。けれど私の目は、自然と彼女のドレスの下へと吸い寄せられた。ゆるやかに仕立てられた布地の下に、ふくらみのある線が見え、視線を止めてしまう。
「クララ……」
思わず声を漏らして、彼女の瞳を見つめた。クララは私の言わんとしていることに気がついたらしく、柔らかく微笑んで答えた。
「ええ、ですから外出を控えておりましたの。お知らせできなかったこと、お許しくださいませ」
「わ、私……あなたに何かあったんじゃないかと、ずっと心配していたのよ……」
これ以上喋ると声が崩れそうで、言葉の端が勝手に震える。震える。こらえようとしたのに、涙が頬をつたう感触だけが、どうしようもなく真実だった。
「……だけど、よかった。本当におめでとう、クララ」
クララは頷いて、私の頬を指先でなぞって涙の跡をぬぐった。さらに彼女は私の手を取って握り、落ち着いた息遣いで告げる。
「女の子が生まれたら、エリザベートと名付けたいの。あなたのように気高く、夢をあきらめない子に育ってほしくて」
クララのまなざしは、揺るがずにまっすぐ私へ向けられていた。見返すのがくすぐったくて、私はそっと視線を落とし、握られた手の温度を確かめるように指先を軽く動かした。
「……もったいない言葉だわ」
クララは微笑みを深め、さらに私の手を握り返してくれる。ぬくもりが指先から伝わり、長い間抱えていた不安はゆっくりと溶けていった。
私の呼吸がようやく落ち着きかけたころ、控え室の空気を揺らすように、アルフレートの声が割り込んできた。
「じゃあ男の子だったら、アルフレートって名付けてくれる?」
私は涙を拭う暇もなく顔を上げた。あまりに普段どおりの顔で椅子にもたれていて、思わず言葉も出なかった。こんな時くらい空気を読んでほしいと思うのに、こういうことを平然と言うのがこの人だった。
けれどクララはその問いに全く動じることなく、あっさりと優雅に首を振る。
「いいえ、フランツにしますわ。昔読んだ英雄譚に出てきた騎士の名でして」
その答えに、堪えきれずに笑みがこぼれた。三人で机を囲んでいた日の匂いがふっと蘇って、くすぐったくなる。
「……エリザベート。今夜の舞台、心から楽しみにしております。わたくしだけでなく、この子にもあなたの歌を聴かせていただきたいのです」
窓辺から差し込む光が、私たちを淡く照らしている。過ぎ去った日々と今この瞬間の幸福が交わり、確かに心に刻まれる。
「ええ……必ず届けてみせるわ。心に残るものを」
言葉は、自分自身への誓いのようにも響いていた。ただの約束ではなく、これから舞台へ立つ者としての決意。
歌を響かせることで、友人に、そして彼女のお腹の中の小さな命に、未来へと続くものを手渡したい。
やがて、名残惜しさを覚えつつも彼女を見送ったあと、控え室に残った私はしばし深く息をついた。灯された火は、確かな勇気となって私を支えている。
──もう恐れはない。舞台の上で、私のすべてを差し出そう。
時を告げる鐘が遠くで鳴り、いよいよ幕が上がる時が近づいているのを思い知らされる。控え室を出ると、仲間たちの顔が揃っていた。
皆それぞれに緊張の色を浮かべながらも、互いの背を叩き合い、冗談を飛ばし合い、励まし合っている。私は一人ではない。私たちは共に歌い、共に夢を見て、この舞台を作り上げてきたのだ。
舞台袖へと足を運ぶと、観客席のざわめきが押し寄せてきた。幕の向こうに広がる無数の気配と息づかい。その熱気に、足先から震えるような感覚が伝わってくる。期待と歓喜が入り混じった、生きている証のような震えだ。
幕の隙間からそっと覗き込むと、光に照らされた大劇場の座席は、すでに埋め尽くされていた。人々は豪奢な衣装に身を包み、煌びやかな宝石が燭台の光を反射している。
初演の観客は王侯貴族。彼らにとって歌劇とは、重厚で、荘厳で、血や涙に彩られた悲劇の物語。そうした世界観に浸り、深い余韻に心を震わせることが、長くこの国の伝統とされてきた。
私自身も幼いころから繰り返し目にして、胸に刻んできたもの。だからこそ、その価値を疑うつもりは決してない。
けれど、悲劇だけが人の心を打つのではない。人々を笑わせ、明日へと歩ませる歌もまた、誰かの生を支える力になる。
そして、ふと視線を奥へと向けた。
最上段のバルコニー。深紅のカーテンに囲まれたその場所に、堂々と座している二つの姿があった。
──国王陛下と、王妃陛下。
金の冠のきらめきが遠くからでもはっきりと見える。彼らの存在は、この劇場に集まったすべての人々の視線を背後からも引き寄せるように、圧倒的な気配を放っていた。
指先を握り込み、心を奮い立たせる。この舞台は、私自身が信じ抜いてきた夢の形。
舞台袖に立つ仲間たちが、互いに目を合わせて小さく頷き合う。その気配に勇気を分けてもらうように、幕の向こうに広がる大劇場を再び見据えた。
私は舞台を通して証明したいのだ。夢を信じ、諦めずに進むことは決して無駄ではないのだと。たとえ遠回りでも、苦しい日々を重ねても、その先に必ず光があるのだと。
幕が降りる頃、この国の人々の心に何かが芽生えていてほしいと願う。ほんの小さなひとしずくでも、希望を宿すことができるなら。私の歌がそのきっかけになるのなら。
シャンデリアから跳ねる光に照らされながら、私はそっと目を閉じた。これまで歩んできた道と、今日ここから始まる未来とを結ぶように。
観客席のざわめきが大河のように押し寄せてくる中で、心は澄み渡る湖のように静かだった。




