朝の光、未来への扉
何かが動く気配で、ふとまぶたの裏が揺れた。
重たい意識を押し上げて目を開けると、窓の外はもう朝を迎えていた。薄いカーテン越しに淡い光が広がり、部屋全体をやわらかい白に染めている。
アルフレートの気配がすぐそばにあった。ゆっくりと寝台の上で体を起こす音。
視線を移すと、彼もまたちょうど目覚めたところらしく、ぼんやりとした視線をこちらに向けていた。
眠りの名残をたたえた瞳。寝ぐせのように前髪が少し乱れていて、普段の冷静な彼からは想像できないほど無防備な姿だった。
「……おはよう」
囁くように声をかけると、彼は少し瞬きをしてから、間の抜けたように返した。
「……おはよう?」
言葉の語尾が上がる。問いかけのような挨拶に、私は思わず目を細める。
けれどその仕草を受け止めるやいなや、アルフレートの顔からすうっと血の気が引いていくのがはっきり見えた。
「……どうやら僕は、今度こそ君のご両親に殺されるらしい」
かすれた声でつぶやいたその顔は、冗談ではなく本気で青ざめていた。
アルフレートは額に手をやり、目を伏せて何かを必死に思い出そうとしている。小さな声で、途切れ途切れに言葉を漏らす。
「……昨日は椅子に座って……寝て……そのあと君が……」
言葉がうまくつながらず視線は天井や床を漂っている。記憶の糸を手繰り寄せようとしているのがひしひしと伝わってきて、私はそっと彼に近づき声をかけた。
「稽古場で寝ちゃったから、私が送ったの。それで……つい私も一緒に寝ちゃったみたい」
言い終えると、アルフレートの目が一瞬こちらに向いた。けれどその瞳はまだ半信半疑で、眉を寄せて深く考え込んでいる。信じてくれている気配はまるでない。
「駄目だ、思い出せない。まさか無礼を……」
「落ち着いて、あなたは眠っていただけなの。だから何も心配はいらないわ」
アルフレートは記憶を探ろうと必死で、でも確信には至らない。目を泳がせ、手を顔に当て、何度も頭を抱える。
「……眠っている間に、君に何かを——」
「そんな器用なことできないでしょう」
会話は堂々巡りになり、彼の口元がわずかに震えている。
……帰らず寝てしまった私も悪いけれど、ここまで信じてもらえないとじわじわと苛立ちが芽生える。思わず、ほんの少しだけ意地悪を思いついてしまった。
「それじゃあ、何かあったと言えば満足なの?」
言ってしまった瞬間、アルフレートの目が大きく見開かれる。まるで首元に冷たい刃を突きつけられたみたいに、凍りついた表情になった。
「……あ、違うの、違うのよ、嘘、嘘だから……ご、ごめんなさい」
慌てて口を手で覆い、顔を少し背ける。自分の悪戯心の代償をこんなにもすぐ支払うとは思わなかった。
アルフレートはまだ固まったまま、ゆっくりと私を見つめている。
「あのね、本当に何もないの。外泊のことは私がうまく誤魔化すから」
私はすぐさま取り繕ったけれど、彼はまだ納得していないようで、両手でこめかみを押さえながら深刻そうにつぶやいた。
「……未婚のお嬢さんを一晩帰さなかったというだけで、世間ではもう既遂なんだ」
思わず笑いそうになったけど、真剣な顔をしているからこそ笑えない。彼は目を伏せたまま、さらに理屈を並べ立てる。
「“僕は覚えていないのですが何もなかったと思います”で済むと思うのか?」
「“何もなかったです”って胸を張って言えばいいのよ」
私が声をあげると、彼はますます蒼白になって肩を落とした。
「法廷で言い訳は通用しないんだよ」
「裁判なんて開かれないってば!」
思わず強めに言い返すと、アルフレートは目を瞬き、唇をきゅっと結んだ。まだ不安は消えないらしく、落ち着かない手つきで額を押さえている。
「……いい? 本当にただ一緒に眠ってしまっただけなのよ。ね、だからもう変なこと考えないでね」
できるだけゆっくり、落ち着いた声で言うと、ようやく彼の呼吸が少しずつ整っていくのがわかった。けれど納得まではしていないらしい。視線はまだ彷徨っていて、何か別の抜け道を探しているかのようだった。
彼はしばらく沈黙したのち、ようやく大きく息を吐き出した。緊張が少し抜けたのだろう。肩の力が目に見えて緩んでいく。
「そろそろ帰らないと。稽古もあるし」
彼が完全に落ち着いたのを確かめてから、私はようやく寝台を離れ窓辺に歩いた。カーテンの向こうから朝の光が流れ込み、街のざわめきが遠くに響いている。
「……送るよ」
「無理しないで。今日は休んだほうがいいわ」
振り返ると、アルフレートは少し口を結んで、それから小さく頷いた。素直に受け入れたその姿に私は安堵する。
「……上演の許可のこと、本当にありがとう」
彼の瞳がこちらに向けられる。私はためらわずに続けた。胸の奥から自然にあふれてくる気持ちを、いま伝えなければならないと思った。
「でも、もう無理はしないでね。あなたが無事でいてくれることが、私は一番嬉しいの」
部屋の空気が一瞬だけ止まったように感じられた。光に照らされた彼の横顔が揺らぎ、かすかに唇が震える。やがて、ふっと柔らかな笑みが浮かび、彼は小さく頷いた。
「……君にそう言ってもらえるだけで、僕は十分報われるよ」
穏やかな声。その響きが胸に沁みて、私はそっと微笑んだ。
◆
家に戻ると、母がちょうど廊下で待っていた。夜明け前に帰らなかった私をどれほど案じていたか、その目の色でわかる。言い訳の言葉を探しながら、「稽古場で台本を読んでいたら、いつの間にか眠ってしまって……」と口にした。
少しの沈黙ののち、母は息を吐きあきれたように言った。
「……あなたならあり得ることね」
その一言に、胸のつかえがふっと軽くなった。叱られると思っていたのに、返ってきたのは呆れと少しの笑みだけ。
「ですが、もう二度と繰り返してはなりませんよ」
そう言われただけで、許されたのだとわかった。心配をかけたことに小さく頭を下げて、自分の部屋に戻った。
翌日には、稽古場にアルフレートの姿も戻ってきた。まだ少し疲れの影は残っているけれど、ずいぶん調子が戻ったように思える。
彼が扉をくぐると、その場にいた人々が一斉に声を上げて集まっていった。あれこれと心配そうに言葉をかけられても、アルフレートは「大げさだよ、寝不足だっただけだ」と苦笑いを返している。
その姿を見て、私もほっと息をついた。私だけじゃなく、みんなも彼のことを大切に思っている。
稽古が一段落ついたところで、彼は私のそばへやってきた。周りの視線が少し遠のいた瞬間、まっすぐ視線を合わせて言う。
「この間は本当に申し訳なかった。もう二度とあんなことはないようにするよ」
私は思わず笑みをこぼして、首を横に振った。
「謝ることないわ。……それに、もう一度くらいなら送ってあげてもいいのよ」
少し意地悪な調子で言うと、彼はわずかに眉をひそめて、深いため息をついた。
「……それは危険すぎるな。今度こそ、弁解の余地のないことをしてしまいそうだから」
頬が熱を帯びる。冗談だとわかっているのに、それ以上何も返せなくなってしまった。
視線を逸らしながら、心の中で決意する。
——もう意地悪はやめておこう。どうせ言い返されて、結局は私の方が困るんだから。
建国祭の幕がいよいよ近づいている。
私は稽古の合間を縫って、これまでお世話になった人たちへ招待の手紙を書いた。
まず手を伸ばしたのは、クララへの招待状だった。……夏に届いた手紙には、「事情があって外出を控えている」と記されていた。
詳しく尋ねるわけにもいかず、あの時からずっと気になっている。もしかすれば、建国祭の日は来られないもしれない。
けれど、招待しないなんてことは考えられなかった。私にとってクララは、いつまでも一番の親友だから。
来られるかどうかは分からなくても、手紙とチケットを受け取ってほしい。彼女の手に届くだけで、それだけで十分だと思った。だから便箋には、舞台への思いと、彼女への変わらない友情を綴った。
そして、ニーナへ。
ニーナには、あの日以来ひとことも手紙を出せずにいた。突然連絡を絶ってしまって、彼女をどれほど戸惑わせたかと思うと、申し訳なさで筆が進まなかった。
けれど、アルフレートが事情を伝えてくれていたらしい。知った瞬間、息を詰めるような安堵と、どうしようもない悔しさが同時に押し寄せた。もっと早く、自分の言葉で伝えるべきだったのに。
だから今度こそ自分の手で、エリザベートという名前で手紙を書いた。ずっと返せなかった手紙へのお詫びと、身分を偽っていたことへの謝罪。そして、ようやく再び顔を上げて歩き出せたことを伝えた。
次に筆をとったのは、ウェーバーさんと、かつて明るいオペラを一緒に作ってくれた劇団の人々だった。カルロッタを演じてくれたロミーに、ファツィオを演じてくれたオスカー。
思い出が次々に浮かんで、文字にするたび胸の奥がじんわりと熱くなる。あの頃の私が一歩を踏み出せたのは、彼らがいてくれたからだ。その気持ちを込めて、一通一通丁寧に書いた。
留学先で出会った友人たちにも招待状を書いた。あの国で初めてオペレッタを知って、胸を躍らせた日のことが鮮やかに蘇る。
異国で戸惑いながらも、舞台という夢を追いかけ、共に語り合った時間が今の私を作ってくれた。
もちろん、国を超えてまで来てくれるかは分からない。けれど、もし誰か一人でも足を運んでくれたなら、あの日の延長線上にいま自分がいることを、目の前で伝えられる気がした。
そして、エミリー。
屋敷の古い記録を頼りに彼女の故郷の住所を調べ、そこに宛てた。
民衆歌劇を好きになったきっかけは、ほかならぬエミリーだった。あの日の約束も、果たさなければならないと思った。
あれからずいぶん時間がたってしまったけれど、どうしても伝えたかった。「あなたのおかげで、私は夢を見つけました」と。
最後に、家族へ。
便箋を前にしたとき、一番ためらいが大きかった。両親は来てくれるだろうか。あの厳しいまなざしを思い出すと、不安で胸が縮む。
拒まれるかもしれない。けれど、もう逃げることはできない。私が歩んできた道のりを、夢の結晶を、その目で見てもらいたい。
筆先を止め、インクが乾くのを待ちながら私は思う。一通ごとに、過去と現在が繋がっていくようだった。
いま私の目の前にあるのは未来への扉だけれど、その扉を開けるためには、後ろに積み重なった人との絆がどうしても必要なのだと。
静かな部屋に、便箋を折る音と封筒を閉じる小さな音が響く。気がつけば、手の中の紙はもう数えきれないほどの人々に宛てられていた。
——誰一人欠けても、いまの私はここにいない。そんな確信とともに、私は最後の封筒を閉じた。




