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風の橋、睡蓮の庭で

「よろしければ、二人で少し庭園を歩いてこられては。裏手に小さな遊歩道がございます。これから長くご一緒いただくことになりますし、最初の一歩として、落ち着いてお話をなさるには良い場所かと」


 局長の提案は、あくまで穏やかで自然なものだった。私たちが言葉を探しあぐねているのに気づいてのことだろう。アルフレートが軽くうなずき、私もそれに倣って歩き出す。


 案内された文化省の裏庭は、庁舎の重厚な佇まいとは対照的に、自然の美しさをたたえていた。背の低い垣根の先に敷かれた石畳の遊歩道が、緩やかに弧を描いて茂みの中へと続いている。夏の陽射しは木々の葉にさえぎられ、ところどころに小さな光の模様を落としていた。


 風がわずかに吹いて、草の香りが運ばれてくる。風の通り道にはつぼみを膨らませた百合や、陽を受けて咲き誇るマリーゴールドがところどころで色を添えていた。


 ……けれど、何を話したらいいのか、言葉が見つからなかった。


 あんなふうに再会してしまったあとで、今さらどんな挨拶がふさわしいのか分からない。たった一言でも間違えたくなかった。胸の奥では無数の言葉がせめぎ合っていたのに、それらは一向に形を成そうとはしなかった。


 歩幅だけが自然に揃っていて、ふたり並んだ肩のあいだを、時おり風が抜けていく。


「……あなたが官僚になっていたなんて、驚いたわ」


 ようやく私がつぶやいた言葉に、アルフレートはほんの少し頬を緩めた。


「もっと突飛な道を想像してた?」


 懐かしい調子の声に、心の糸がふっとゆるんだ。離れていた時間は長かったけれど、きっと何もかもが変わってしまったわけではない。


「……どうかしら。でもこうしてみると、やっぱり似合っていると思う。昔から優秀だったものね」


「君こそ」


 彼はまっすぐ前を見ながら答えた。


「新聞で見たよ。隣国での舞台の評判も、戻ってきてからの働きも。もう立派な演劇人だ。夢を叶えたんだね」


 夢を叶えた。そう言われたことに、胸の奥がすこしだけ震えた。


「……ええ、叶ったのかもしれない。まだまだ先はずっと長いけれど。でも、そう言ってもらえるのは嬉しいわ」


 私の胸の奥で、記憶がまたひとつそっと揺れる。たくさんの思いを秘めたまま、何も伝えられずに別れてしまったあの朝の風。あの瞳の奥に、私がもう踏み入れることのできない場所を見たことを、今も忘れていなかった。


 やがて道の先に、光を反射する水面が見えてきた。低く手入れされた木々の隙間に、涼やかな影を落とす池がある。

 水の表には睡蓮がいくつも花を咲かせていた。白に近い淡紅の花弁が陽を透かし、静かに波紋を抱いて揺れている。


 池のほとりに架けられた小さな拱橋は、控えめな弧を描きながら水面に柔らかな影を落としていた。手すりには陽射しを受けた木のあたたかさが宿っていて、歩を進めるごとに足元に映る影がゆっくりとかたちを変えていく。


「……あの日のことを、ずっと謝りたかった」


 しばらく視線を落としたまま、何かを探すように黙っていたアルフレートが、思い切るように口を開いた。

 その言葉に私は息を飲む。聞き違いではないとわかっても、心が少しだけ追いつかなくて、言葉を返せなかった。


「君を傷つけた。名前だとか、身分だとか、君が何より嫌うものを持ち出して」


 声音の奥にあるものが、胸の奥に沁みてゆく。彼の声は風よりも静かだったのに、私の心の深い場所で、大きな波紋を広げていった。


「……そんなこと……」


 私は震える声をどうにか押しとどめながら、首を振る。


「謝るのは私のほうよ。あのとき、父と母があなたにどんなにひどいことをしたか……」


 目の奥が熱くなって、言葉に詰まる。アルフレートは静かに首を横に振る。その表情は少しだけ苦しげで、それでもどうしようもないほどの優しさに満ちていた。


「……いいんだ。ご両親の反応は当然のことだった。それよりずっと心残りだったのは、君を傷つけてしまったことだ」


 そんなことない。あのとき、あなたを傷つけたのは私だった。そう言いたいのに、息が詰まって声にならなかった。

 あの日私は何も知らずに、ただあなたを責めた。そばにいられないと言ったあなたに、理解のひとつも示さず、悲しみをぶつけることしかしなかった。

 両親のしたことは許されるようなことじゃない。理不尽な怒りと、身分や名を盾にした拒絶が、あなたをどれほど傷つけたか。

 きっと、深く、深く傷つけた。それなのに私は、その痛みを何ひとつ想像しようとしなかった。


 それなのに、どうしてあなたはそんなふうに、いつも自分だけが傷つく道を選ぼうとするの。

 怒ってくれたらよかった。冷たく突き放してくれた方が、ずっと楽だったのに。なのにあなたは今もこうして、私の痛みばかり気にして、過去のすべてを自分の責任のように抱えてしまう。


「君には、嫌われても仕方のないことをしたと思ってた。……だから忘れてほしかったんだ。僕のことなんかすっかり忘れて、どこか遠くで、君の夢を生きてほしかった」


 そう言って、彼はまっすぐ前を見たまま、ほんのわずかに目元を伏せた。

 私は言葉もなく、その横顔を見つめた。細く揺れるまつ毛の影、少しだけ力の抜けた口元。どこまでも静かに語るその姿に、込み上げるものをどうしてもうまく押さえられなかった。


「……でも」


 アルフレートが少し息を整えるようにしてから、そっと言葉を継いだ。


「でも、あの手紙を読んで……僕は、まだ君の中に生きていたんだって思った」


 私ははっとして、彼の方に顔を向けた。


「……手紙?」


 思わず聞き返す。その響きがあまりにも意外だったから。記憶を探っても、彼に手紙を送った覚えはどこにもない。けれど、アルフレートは頷いた。懐かしむような、それでいてどこか神妙な面持ちで、ゆっくりと視線を上げる。


「封筒はひどく擦れていて、端も破れていたけれど、差出人だけはなんとか読み取れた。……中の紙には、こう書いてあった」


 彼の声が、少しだけ低くなる。


「“何があっても、あなたを忘れません”って」


 胸の奥に、何かが落ちていく音がした。心の深いところで、静かに波紋が広がっていくような感覚だった。


 そして、思い出した。


 あの日、言葉にならない想いを綴った手紙。風にあおられて、手からすり抜け、窓辺から夜空に舞っていった一枚の便箋。

 手を伸ばしても届かなかった、あの一瞬。諦めて、消えてしまったと信じ込んでいた手紙——。


「……届いていたの?」


 声がかすれて、自分の耳にもよく聞こえなかった。それでもアルフレートは、しっかりとうなずいた。


 私は思わず、唇を指先で押さえる。こぼれそうになった嗚咽を堪えるためだった。

 風にさらわれた一枚の紙片が、どれほどの時間をかけて、どんなふうに彼の元へ辿り着いたのか。それは分からない。けれどその手紙が、いまここで私たちをもう一度結びつけている。


 拱橋の上で私たちは立ち尽くしていた。木立の隙間からこぼれる光が、緑の葉の影を水面に落としている。

 睡蓮の咲く池は、風も波も吸い込むように静まり返っていた。まるでこの場所だけが、時の流れから取り残されたように思えた。


「……そうよ」

 

 やっとの思いで、私は声を絞り出す。胸の奥に沈めていた想いが、言葉になって浮かび上がる。


「私はあなたを、忘れられなかったの」


 風が緩やかに吹き抜けた。枝葉が音を立てて揺れ、橋の欄干を越えて、小さな花弁がひとひら舞い落ちる。


「でも、あなたは忘れてしまったと思っていた。……いえ、むしろ、そうしてほしかったのかもしれない。私のことなんて忘れたほうが……きっとあなたは幸せになれるから」


 睡蓮の葉が風に押されて水面を漂い、花々はまるで言葉のように、揺れながらも確かにそこに咲いていた。さざ波が日差しを砕きながら広がって、ひとつの水鏡をつくっている。


「……忘れるわけないよ」

 

 アルフレートは、わずかに首を振って答えた。風がふと止んで、水面の揺らぎが静まり返る。彼の声だけが、はっきりと耳に届いた。


「離れてからもずっと、君がくれたすべてを思い出さない日はなかった」


 言葉に、心臓の鼓動が強くなる。呼吸が浅くなるのを、どうしても止められなかった。胸の奥がじわりと熱を帯びていく。

 頬を伝ったひとしずくが指先に落ち、その温もりに、ようやく自分が泣いているのだと知った。


 滲んだ視界の向こうで、アルフレートがこちらを見ていた。真正面から、ひとつも目を逸らさずに。

 胸の奥に押し込めてきたものが堰を切る。いよいよ抑えきれなくなった涙が、はらはらといくつも溢れた。


「君が許してくれるのなら、もう一度ふたりで歌劇を作ろう」


 喉の奥が詰まって、すぐには声が出ない。まつげがたくさんの水を含んでいて、まぶたを開くのにも少し力がいる。

 いくらでも言いたいことはあったのに、返事はなぜか、言葉よりさきに身体が応えた。


 私は駆け寄るようにして、アルフレートの胸に飛び込んだ。抗いがたく引き寄せられて、そのまま腕を回す。

 力の入らない指先で、彼の背を、たしかめるようにそっとつかんだ。額を胸元に預けると、濡れた頬が衣に触れる。


 アルフレートの体がほんのわずかに強ばったのを、肩越しに感じた。けれどその一瞬のためらいはすぐに消え、穏やかな気配へと変わっていく。呼吸を重ね、間を重ね、彼の手が静かに動いた。


 アルフレートの両腕が、私の背をそっと抱きとめる。まるで、ようやく戻るべき場所に戻ってきたものを、確かめるように。

 彼の手に宿る力は微かで、壊れやすいものに触れるかのように優しかった。しかしその息をひそめるようなぬくもりが、私をたまらなく安心させるのだ。


「……アルフレート……」


 ようやくの思いで名前を呼ぶ。背を抱く腕に力を込めると、今度は同じように強く抱きしめられた。


 風がふたたび吹き抜ける。水面に花影が揺れ、睡蓮の白がきらめいた。さざ波の奥、光の粒が踊る。その一つひとつが、失くしたはずのものをそっと照らしていた。


「エリザベート」


 アルフレートが、そっと私の名を呼んだ。

 私は、頷いて目を閉じた。世界は音を潜め、すべてが一枚の絵のように静まり返っていた。

 彼の胸に耳を澄ませば、鼓動がひとつ、そこに確かに鳴っている。もうどこにも行かないというように。今度は離さないと、深く告げるように。




ご覧くださりありがとうございます。

再会記念に活動報告にエリザベートとアルフレートの外見イメージのイラストを載せました♩♩

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