一通の手紙
夏の訪れを知らせる風は乾いていて、空はますます高く、日差しはきらきらと眩しい。庭の薔薇は盛りを過ぎ、かわりに白い百合がゆっくりと花開いていた。
クララとは、留学中もずっと手紙を交わしていた。授業や公演の稽古で忙しい日々のなか、彼女の綴る穏やかな文字に何度励まされたか分からない。
だからこそ、帰国して三ヶ月が経った今、ようやく再会できると心待ちにしていたのに——先日送った手紙への返事には、こうあった。
——あなたがご無事で戻られたと聞いて、心から安堵しました。今すぐにでもお目にかかりたいのですが、少し事情があり、今は外出を控えなければなりません。とても残念です。
——病気ではありませんから、どうかご心配なさらないで。
病気ではないという言葉は、むしろ逆に心配を誘った。クララは虚弱な体質ではなかったはず。何か言えない事情があるのだろうか。
けれど、それを深く問いただすような手紙を綴る勇気は私にはなかった。
一方でラウルには、私はまだ返事を出せずにいた。
あの夜、星のきらめく展望台で差し出された手と、静かな声で伝えられた言葉。忘れたことは一度だってない。
あれから幾度も考えた。ラウルと共に生きていく未来を。
彼は私の夢を尊重してくれた人。私の選択を否定せず、貴族の常識よりも私自身を見てくれた人。いま思い出しても、彼の隣では私は自由だった。自分の言葉で話し、自分の感情で笑い、自分の意思で歩いていた。
けれど今、私の目の前には別の道がある。この国で、オペレッタという芸術がほんとうに根を張ってゆく可能性。その第一歩を、私は踏み出してしまった。
小さな広間の舞台でも、拍手は確かにあった。言葉は届き、物語は人の心に触れた。もしもこれがただの夢ではないのなら、私はここで、もっとたくさんの物語を描いていけるかもしれない。もっと多くの人に、あの輝きを見せられるかもしれない。
夜会での上演を経て、幾人かの貴族たちは好意的な関心を寄せてくれている。あの初夏の舞台をきっかけに、また別の夫人から「次の演目も楽しみにしております」と手紙をもらった。信じられないような話だった。ほんの一年でこんなにも景色は変わるのだと、何度も胸に手を当てて確かめた。
でも、それでも、心のどこかで思うのだ。
——向こうでなら、もうすでに受け入れられている。舞台に立つことを笑う者も、家柄を持ち出して否定する声も、あちらにはない。
あの劇場では、ただ私という一人の人間として存在できた。貴族でも誰かの娘でもなく、夢を見て、声を響かせるひとりの表現者として。
——ここで生きるか、あちらで生きるか。
筆は止まったまま、私は窓辺に立ち尽くす。夏の光が揺れ、青空の奥で雲が音もなく流れていた。
その日は予定もなく、私は時間を持て余していた。
読みかけの本もどうにも今の気分にはそぐわず、机に向かって新しい物語の構想を練ろうかと考えてみたものの、筆先は思うように進まず、机の上に置かれたままの紙にただ風が吹き込むだけだった。
仕方なく立ち上がって、私は静かに階段を降りていく。何か用事があるわけでもなかったが、部屋にいては退屈を持て余すばかりなのだ。
階下に足を踏み入れたとき、ふと、玄関のあたりから母と侍女の話し声が聞こえてきた。
「夏の軍服がようやく仕立て上がったのね。思っていたより早かったわ」
「はい、奥さま。先ほど仕立屋の者が箱詰めして届けてまいりました。上等な亜麻を使ってございます」
私は廊下の影に立ち止まり、声に耳を傾ける。
「御者に申し伝えております。今日中に、ヴォルフガング様のお手元に届くように」
兄の名が出て、私は少しだけ顔を上げた。軍服——そうだ。貴族の士官たちは、それぞれに軍服を誂えるのが常だった。
毎回母は仕立てにこだわり、夏の暑さに備えて、通気の良い上質な布地を選び、細部の刺繍まで注文をつけていたのを思い出す。
そのとき、不意に心の中に小さな灯りがともった。外の空気に触れたいと思っていた矢先、これ以上ふさわしい口実があるだろうか。私はすっと裾を持ち上げ、ふたりの前に歩み出る。
「お母様、その軍服——私が届けに参りましょうか」
母と侍女がそろってこちらを見た。母はすぐに言葉を返さず、少しだけ眉をひそめたようだった。
「……あなたが?」
「今日の予定は空いておりますし、お兄様にも近頃はお会いしていませんもの。たまには顔を見に行くのも悪くないでしょう?」
母は一歩近づき、私の顔を覗き込むようにして言った。
「でも一人で出かけるのは——」
「馬車を出しますわ。御者もおりますし、何も危険なことはありません」
母は一瞬ためらったようだったが、やがて小さくため息をついて頷いた。
「……気をつけて行ってらっしゃい。暑い日になりそうですから、あまり無理をしないように」
それから私は急いで支度を整え、陽が高くなる前に屋敷を出た。軽やかな夏用のドレスに麦わらの帽子を添え、膝に包んだ布の上には兄の軍服が丁寧に畳まれて乗っている。御者が手綱を鳴らすたび、馬車は緩やかに揺れ、街路樹の葉擦れの音が窓の向こうに流れていった。
やがて馬車は徐々に速度を落とし、石畳の道をしんと進んでいく。
馬車が停止すると、御者が扉を開けてくれた。私は慎重に軍服の包みを抱えながら降り立ち、足元の感触を確かめる。屋敷の芝よりもずっと硬く、整った土の匂いがした。
門番の兵士がすぐに気づき、私の姿を一瞥してから歩み寄ってきた。
「どのようなご用件で?」
その問いに、私は落ち着いた声で応じた。
「エリザベート・フォン・ローゼンハイネと申します。近衛歩兵連隊のヴォルフガング・フォン・ローゼンハイネ少尉に、夏用の軍服を届けに参りました」
兵士は一瞬驚いたように目を見張ったが、すぐに姿勢を正し、鉄の門を開いて道を示した。
「承知いたしました。こちらへどうぞ、お嬢様。すぐに少尉殿をお呼びいたします」
私は礼を言って、一歩先へ足を踏み入れる。正門の向こうには、整えられた植え込みと訓練用の広場、営舎へ続く石段が見えた。
案内されたのは営舎の奥まった一室だった。面会用に整えられた小さな応接室で、無駄のない造りと磨き上げられた木の机が、この場所の性質を物語っていた。
私は軍服の包みを膝に乗せて腰を下ろし、窓から差し込む陽の光に目を細めながら、静かに扉の向こうを待った。
ほどなく、足音が近づいてくるのが聞こえた。金具のついた軍靴の音。扉が開く。
「……お前が来るとは思わなかった」
兄がわずかに眉を上げて立っていた。けれどその声には驚きとともに、どこかくすぐったそうな喜びがにじんでいた。
几帳面に留められた徽章、揃えられた肩章、背筋を伸ばしたその姿は軍人としての風格を帯びていて、幼いころから知っていた兄とはまた違う。
「ちょうど手が空いていたの。届け物くらい、私にだってできるわ」
そう答えて包みを手渡すと、兄は「ありがとう」と言いながら、それを丁寧に受け取って傍らの椅子に置いた。
「母上は反対しなかったか?」
「少しだけ。でも、ちゃんと馬車を出してもらったもの」
ふっ、と兄が小さく笑う。その笑みにほっとするような、くすぐったいような安心感が胸の奥に広がった。
「それにしても、お前が向こうで歌劇を作ったと聞いた時は、さすがに耳を疑ったな。新聞を読んでもまだ半信半疑だった」
「……私も、まだ少し信じられないくらいよ。向こうに行く前は、こんなふうになるなんて夢にも思わなかった」
私は軽く笑いながら答えたが、自分の口から出たその言葉に、ふいに胸が熱くなるのを感じた。夢にも思わなかった。けれど確かに私はあの国で夢を見て、その夢をかたちにしてしまったのだ。
「幼いころのお前を思えば、なんとなく分かる気もする。よくピアノを弾きながら歌を歌っていた」
「えっ、見ていたの?」
「見ていたというより、聞こえていたんだ。しょっちゅうだったからな」
兄の言葉に、私は思わず頬を赤らめて俯く。思い返せば、誰に聴かせるわけでもなく、ただ楽しくて、歌っていた。ピアノの鍵盤に夢中になって、小さな声で旋律を追いかけるように。
「お前はいま本当に、自分の望むことをしているんだな」
兄の声は穏やかで、どこか安心したようでもあった。私はゆっくりと顔を上げて、そのまなざしを見つめ返す。そして、うなずく代わりに微笑んで言った。
「ええ、そうよ。……いま、すごく楽しいの」
舞台の上で物語を生きること。言葉に、旋律に、心を込めて人の胸に届けること。誰かと一緒に舞台をつくりあげていく日々もすべて、きっと私がずっと望んでいたものだった。夢中になれるものに出会えた幸せが、言葉と共にじんわりと滲む。
兄は黙って頷くと、ほんの少し目を細めた。兄の目元に浮かんだ穏やかでやさしい光は昔と少しも変わっていなくて、それに気づいた私は自然と笑みを返していた。
——ここに残るべきか、それとも、あの国で生きるべきか。
答えはまだ出ていない。でも、はっきりしていることが一つある。
私の歩む道は、舞台の上にある。歌と音楽の、あの光のなかにある。それだけは誰に問われずとも、もう疑いようのないほど、胸の奥に灯っていた。
◆
時計の針は午後を指し、兄とのひとときを名残惜しく思いながらも、私は御者を待たせているからと面会室を後にした。
きらきらと陽光に照らされた並木道を馬車の窓から眺めながら、胸の中にぽつりと残る温かさを抱く。
兄とこうしてゆっくり話すのは、どれほどぶりだったろう。穏やかな眼差しと、言葉少なながらも確かに寄せてくれた思いが、私の心を満たしていた。話せてよかった、と素直に思えた。
やがて馬車は屋敷の門を抜け、車輪の音が小さくなってゆく。揺れが止まり、扉が開かれた瞬間、私はなんとなく違和感を覚えた。
玄関先に侍女が立っていた。というより、明らかに私を待ち構えていたように見えたのだ。
「お嬢様!」
馬車の扉が開いたかと思うと、ひとりの侍女が声を上げて駆け寄ってきた。
その足取りも、表情も、いつもとはまるで違っている。慌てているのは明らかだった。目は見開かれ、口元はかすかに震えている。
「どうしたの? なにかあったの?」
私は足を止め、胸の中で不安が静かに膨らんでいくのを感じながら問いかけた。
「お手紙が——!」
彼女は言いかけて、言葉がもつれる。どうやら気が急いているらしく、内容がうまくつながらない。
「手紙がどうしたの?」
私がもう一度促すと、彼女はようやくひとつ息を吸い込み、言葉を押し出すように続けた。
「……王国政府から、お嬢様宛に——お手紙が届いております!」
「……政府ですって?」
私は思わず聞き返した。あまりに現実味のない響きに、思考がついてこない。
「はい! あの、正式な封蝋が……最初は見間違いかと思ったんですけれど……!」
言葉を畳みかける侍女の声の調子が、いよいよ上ずっていく。私はようやく馬車から足を下ろしながら、胸の奥にわき上がる得体の知れない緊張を感じていた。
急足で玄関を過ぎて階段を上がり、いつものように自室の扉を開ける。
そして、私はそれを見つけた。机の上、真っ白なレースの敷物の中央に、きちんと置かれた一通の封書。
目を凝らさなくてもわかる。封の部分には、赤い蝋が美しく押されていた。その印は紛れもなく王国政府のもので、国の中枢からの正式な文書であることを示している。
喉の奥がひくりと鳴った。指先がかすかに震える。けれど、それでも私はその手紙に手を伸ばした。思考がまとまらず、脳裏にはいくつもの想像が駆け巡った。
けれどそれはまるで蜃気楼のように、輪郭を持たないまま目の前に浮かんでは消えていく。
私は息を詰めて、震える指先でペーパーナイフを入れた。ひと息に開けてしまわなければ、二度と開けられなくなる気がした。
厚手の紙に書かれた文字を眺めると、その整った筆致がさらに一層、胸の鼓動を速める。
——建国祭に際し、王国文化省より貴嬢に正式な依頼を申し上げます。
一行を目にした瞬間、脈打つような音が耳の奥で響いた。視線は文面を追いながらも、内容が頭に届くまでにひどく時間がかかった。
——貴嬢の御作が各方面より高い評判を得たことは、文化振興を担う本省としても大いに注目すべき事実であり、また貴嬢の研鑽と才気に深く感銘を受けております。
意味はわかるはずなのに、何ひとつとして頭に入らない。私は震える手を押さえつけるようにして、続きを読んだ。
——つきましては、王国芸術の新たなる試みとして、このたびの建国祭記念公演に貴嬢の脚本および主演によるオペレッタをご披露いただきたく存じます。
——なお、本公演は、国王陛下並びに王妃陛下の御臨席のもと執り行われますこと、併せてご承知おきくださいませ。




