変わりゆくもの
最後の音が静かに響き、三重唱の和声が空気の中に溶けていく。その余韻を残したまま、緞帳がゆっくりと降りてゆくのを見届けて、私は静かに目を閉じた。呼吸が浅い。胸の奥がまだ波打っている。全身が熱を帯びて、息をするだけで音楽の残響が心臓に触れるようだった。
緞帳がすべてを遮った、その直後。客席から、拍手が湧き起こった。割れんばかりの拍手と歓声が大きな波となって広がり、邸宅の広間を満たしていく。
私は息を飲んだ。鼓膜が脈打つように震えた。歌ったのは、悲劇でも、気高い死でもない。
人が人を信じ、赦し合い、生きていく——そんな光の物語だった。こんなにも明るいオペラを、貴族の人々がどう受け止めるか、不安がなかったとは言えない。けれど今、私の耳に届いてくるこの拍手が、その答えを教えてくれている。
——受け入れられたのだ。
私の作った、私たちの作った明るいオペラが、たしかに人々に届いたのだ。張りつめていた何かがふいにほどけて、膝が震える。
ああ、と喉の奥で声が漏れそうになった。けれど涙はこぼれなかった。
仲間たちの姿が目に入る。緞帳の裏で、静かに肩を上下させるオスカーの背中。隣で静かに目を閉じて、拍手に耳を傾けているカルロッタ役のロミー。楽士たちの間から、ホッとしたような息が漏れている。
私は小さく息を整えて、舞台袖から控え室へ向かう通路へと歩き出した。
長くて短かったこの数週間。劇団の稽古場で、泥だらけの床に楽譜を落として笑い合った日もあった。ひとつの音に悩んで夜更けまで残ったことも、歌いすぎて声がかすれた日も。すべてが、今この拍手に繋がっていた。
何度も、何度も、自分に問いかけてきた。私に、本当にできるだろうかと。
名も顔も隠し、ただ歌だけをもって舞台に立ち、その声を聴いた人の心に、ほんの一滴でも何かを残すことができるのだろうかと。
誰かの胸に届くような歌を、私の声で紡ぐことが本当にできるのだろうかと。
けれど今、緞帳の向こうから湧き起こる拍手の音に、私は思い知らされていた。この長い道のりを共に歩いてきた仲間と、言葉を重ね、旋律を編み、幾度も試行錯誤を繰り返しながら築いてきた物語が、確かにこの夜、誰かの心に届いたのだと。
客席の奥に広がっていたのは、冷たい沈黙ではなく、割れんばかりの喝采だった。それは思い込みや慰めではなく、耳に、肌に、胸の奥に、はっきりと伝わってくる現実の熱だった。
その熱の中で、私はふいに思い出していた。ライプフェルトの星空の下で、ニーナが私にくれた言葉を。
——あなたが舞台に立って、観客の胸に届く歌を歌ったら、止めようとする人の方が間違ってるって、きっと証明できるよ。
そうなればいい、と願った。その時はまだ、願いに過ぎなかった。
けれど今こうして、仮面の内側で拍手の余韻に耳を澄ませていると、その言葉が明確な形を持って、私の胸の奥に静かに沁みてくる。
私の描いた明るいオペラが、貴族の人々の前で、堂々と受け入れられたこの瞬間が、まさにその証になるのだと、私はようやく実感していた。
◆
講義が終わると、私はいつもより少し早足で寮の自室へと戻った。
夕暮れに染まりかけた回廊の硝子窓には、朱と群青が静かに溶け合っている。まるで昨夜の緞帳の向こうに揺れていた照明の残像のようで、私は思わず立ち止まり、小さく息を吐いた。
——本当に、夢みたいだったわ。
拍手の音も、控え室で交わした数えきれないほどの言葉も、仮面の裏で震えながら立ったあの舞台の熱も、すべてがまだ胸の奥に生々しく残っている。あんなに多くの人の前で、自分の書いた物語が受け入れられた。しかもあの場にいたのは、貴族たちばかり——それを思い返すだけで、どこか現実感が追いつかない。
寮の扉を開けると、先に戻っていたクララがいつものように整えられた椅子に腰かけて、ちょうどティーカップを手にしていた。
亜麻色の髪にやわらかな日差しが当たっていて、その輪郭が少しだけ夢のように見える。私の姿に気づいたクララは、ほっとしたように微笑んだ。
「エリザベート。今日もシュトラウス夫人のお屋敷へ?」
尋ねられて、私は軽く首を振る。そっと歩み寄り、クララの向かいの椅子の背に手を添えた。
「ううん。行儀見習いは昨日までだったのよ」
「まあ、そうでしたのね」
クララは軽く目を見開いてから、すぐににっこりと微笑んだ。手元の銀盆に置かれたティーカップをもうひとつ取り上げると、細い指先で丁寧に注ぎ口を持ち上げて、私のために紅茶を注いでくれた。湯気の立つ琥珀色の液体が、磁器の器に静かに満ちてゆく。
「最近はずっとご一緒できなかったから、わたくし寂しく思っていましたのよ」
その言葉に、私は思わず笑みを返した。うれしさが胸の奥にじんわりと広がっていく。
こんなふうに向かい合って、同じ時間を過ごせることが、どれほど愛おしかったか。舞台の成功も拍手も、誇り高いひとときだったけれど、それでもこの時間を恋しく思う気持ちはいつも心にあった。
「私もよ、クララ。ようやく日常が戻ってくる気がするわ」
そう言ってティーカップに口をつけようとしたその時、部屋の扉が軽く叩かれた。
「失礼いたします。クララさまにお手紙が届いております」
扉の隙間から寮母が姿を見せ、丁寧に封筒を差し出す。「ご両親からですわ」と添えられた言葉に、クララはふわりと顔をほころばせた。
「まあ……久しぶりですわ。どんな用かしら」
嬉しそうに封を切るクララを、私はそっと見守っていた。けれどその表情は、手紙に目を落とした瞬間、見る見るうちに変わっていった。
唇がわずかに開き、目の焦点が定まらないまま行を追っている。湯気の立っていたカップの中身が冷えていくように、その頬からは、さっきまでの温かな色がすっかり失われていた。
「クララ……?」
思わず声をかけた私に、クララはかすかに頷いたものの、返事はなかった。手紙を握る手が、かすかに震えていた。まるで日差しが翳ったかのように、亜麻色の髪に映っていた光さえ、ふっと色を失ったように見えた。
「どうしたの?」
私が問うと、クララは一瞬だけまばたきし、こちらを向いた。視線が私に届いていないことはすぐにわかった。顔を向けていても、彼女の目はまだ何か、手の届かない場所を見つめていた。
「まさか、ご家族に何があったの?」
胸の奥に不安が広がる。私は立ち上がり、クララのそばへ一歩にじり寄った。クララの家には何度もお世話になってきた。ライプフェルトへ行くための嘘に協力して下さったことも、温かいもてなしを受けたことも覚えているし、ご両親がどれほどクララを慈しんでいるかも知っている。
思わず血相を変えて尋ねると、クララはゆっくり、けれどどこか力の抜けたように首を横に振った。
「急ぎ、家に帰るように……縁談が、決まったと」
その言葉が落ちるまでに、妙に長い間があった。
ぽつりとこぼれたその声は、まるで湖面に沈む小石のように、私の胸の奥で静かに波紋を広げた。
「……え?」
思わず間の抜けた声を漏らした。
信じられなかった。言葉の意味はわかっているのに、頭がそれを受け止めようとしなかった。
クララの手の中に握りしめられたままの便箋が、わずかに震えていた。それは、彼女の指先の震えだった。
クララの手元から、便箋が差し出される。私はその白い紙片を受け取って、慎重に開いた。指先がかすかに汗ばむ。丁寧な筆跡だった。整った文字が揃って並んでいるのに、不思議と行間ばかりが重く迫ってくるように感じられた。
——然る伯爵家のご子息とのご縁談が整いました。若く誠実な方で、あなたを大切にしてくださることでしょう。まずは花嫁修業のため、できるだけ早く帰郷してください。
そんな内容が、まるで子守唄のようにやわらかな文体で、優しく、穏やかに綴られていた。強い命令や叱責はどこにもなかった。ただ娘の幸せを願う親の言葉として、それはあまりに正しい文面だった。
なのに、どうしてだろう。読み進めるほどに、喉がひりついた。
どこにも非難する言葉はなく、どこまでも優しいのに——まるで誰かが丁寧に織り上げた絹のリボンで、目の前の彼女をゆっくりと縛っていくような、そんな錯覚すら覚える。
クララはしばらく沈黙していた。まるで自分の中で、ほんの数秒前の現実を必死に結び合わせているかのようだった。けれど、やがて彼女はそっと息を吸い込むと、背筋を伸ばして言った。
「いつかこの日が来ることは、わたくし、わかっておりましたの」
その声にかすかな揺れが混じっていたのは、気のせいではなかったと思う。それでもクララは微笑んだ。決意を覆い隠すように、ごく自然な仕草でスカートの端を整えると、静かに私の方へ顔を向ける。
「エリザベート。あなたとのお別れは、とても寂しいけれど……会えなくなるわけではありませんもの」
まっすぐにそう言ってくるクララの目を、私はまともに見ることができなかった。
どうして、そんなふうに微笑んでいられるの。どうして、そんなふうに穏やかに受け入れられるの——。
花嫁修行のために家へ戻り、結婚するということは、つまり学院を退学するということなのだろう。それは、私たちがここで共に学び、語らい、時に笑い合った日々が、唐突に終わってしまうということ。
私はまだ、あなたと学びたかった。隣で教本をめくり、試験勉強に手を焼いて、お菓子を広げて語り合って、同じ空を見上げたかった。なのに——。
言葉にならない思いを飲み込む私の前で、クララは首を小さく傾け、落ち着いた口調で語る。
「お姉様たちも、みなそうでしたの。年頃になったら、順に家に戻って……父母が決めた方と結婚して、新しい暮らしを始めました。それが当たり前で、わたくしもいつか、そうなるものと知っておりました」
胸の奥が、どうしようもなく軋んでいた。わかっている。クララのご両親が決めたことで、クララ自身もきっと納得している。だから、私がどうこう言っていいことではない。
「……わたし、あなたと離れたくないわ」
それでも、言葉は溢れ出した。吐き出すようにしてそう言った自分が、幼くて、我儘で、ひどく勝手な人間のように思えた。けれど、それでも胸の内は正直だった。季節が移ろっても、学年が進んでも、あの並木道を肩を並べて歩く日々が、ずっと続くと信じていた。まさかこんな風に終わりが来るなんて、思っていなかった。
私の言葉を聞いて、クララは静かに目を伏せた。そして、そっと手を伸ばして、私の手を包むように握ってくれた。
「……花冠の言い伝えを、覚えていらっしゃるかしら」
優しい声に、呆然としながらうなずく。忘れるはずもない。花を集めて編んだ、あの花冠のこと。揺れる草のにおいと、クララの笑顔。
「手作りの花冠を贈った相手とは、永遠に縁が続くのだと……」
クララは目を上げ、私をまっすぐに見つめた。その瞳は少し潤んでいたけれど、やはり微笑んでいた。
「どうか、悲しまないでくださいませ。わたくしたちは、変わらずにいられます。永遠に結ばれたご縁があるのですもの」
優しい声だった。迷いなく、未来を信じる人の声だった。私は何も言えなかった。ただ、握られた手の温もりを、そっと握り返すことしかできなかった。




