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伯爵家に生まれて

 クララが去ってから、初めての迎える講義の日。教室に入ると、いつも二人で座っていた席が空いていた。

 クララが座っていた場所は何も変わらないのに、もう誰もいない。声をひそめて笑い合ったこと、ノートの落書きを見せ合ったこと、昨日のことのように思い出せるのに、そこにもう彼女はいない。


「……わかってる、わかっているのよ、受け入れないと」


 自分にそう言い聞かせても、胸の奥ではまだ抗っている。始業の鐘が鳴っても内容は頭にはあまり入らなかった。難しくないはずなのに文字はかすんで、結局筆を置いて小さくため息を吐く。


 昼休みになっても心は軽くならず、筆箱や教科書をまとめる手もゆっくりになってしまった。入学してからずっとクララと一緒だった昼食も、今日はひとりで食べなければならない。

 気が沈んだまま廊下を歩いていると、視界の端に見慣れた背中を見つけた。アルフレートだ──胸が一気に跳ね、嬉しくなって駆け寄る。


「アルフレート。ねえ、良かったらお昼を一緒に……」


 けれどそこまで言ったとたん、彼は少し困ったように視線を逸らしてしまった。眉がわずかに寄り、口元がほんの少しぎこちなく動く。


「ごめん、今は行かないと。課題が残ってて……それに、午後の準備もあるから」


「そ、そう……わかったわ」


 短くうなずくと、彼は軽く手を振ってまた歩き始める。でも、優しく「後で話そう」と言ってくれた。その言葉に、がっかりした気持ちは少し和らいだ。


 午後の講義は、今学期にクララと相談して選んだ語学の発展科目だった。最初は詩の構造や音韻の美しさにわくわくしながらページをめくっていたけれど、最近は内容がぐっと難しくなってきている。

 クララがいれば一緒に頭を悩ませることもできたのに、今はどうにか一人で追いかけるしかない。教本をめくる指先がときどき心許なくなる。


 やっとの思いで講義が終わり、私は大きく息を吐いた。思っていたよりも、ひとりの講義は疲れるものだった。

 筆記具を収め、机の端で小さな音を立てて教本を重ねる、膝の上で鞄にしまおうとした、そのときだった。


「どうかなさったの?」


 机の向こう端から、澄んだ声が届く。顔を上げると、若葉のようなリボンを髪に結んだ女性が優雅な姿でこちらを伺っていた。背筋の通ったその佇まいには品のよさがあって、視線だけがこちらをやさしく捉えている。

 そしてもっとも目を引いたのは、その燃えるような赤毛——光の角度によっては朱にも金褐色にも見えるその髪に、記憶の奥にある顔がぱっと重なる。


「……マリアンネ嬢?」


 無意識のうちに口をついて出た言葉に、はっとしてすぐに唇を閉ざした。けれど、マリアンネ嬢はそんな私を責めるでも笑うでもなく、かすかに目元をやわらげる。


「驚いた。私を知っているのね」


「……園遊会のときに、お見かけして」


「まあ、そうなの。知っていただけてとても嬉しいわ」


 意外そうな色はあっても、嫌悪や恐れはかけらもない。その柔らかさに私は少しだけ肩の力を抜くことができた。


「今日の講義は、少し難しかった?」


 こちらの気持ちにそっと寄り添うような声。あれこれ言葉を選ぶよりも、ただ正直にうなずいた方が早かった。


「……はい、特にあの最後の詩句が。どうしてあんな形になるのか、考えてはみたんですけれど」


「ええ、わかるわ。あの詩の言い回しは、最上級生でも悩むところがあるの。……よければ、一緒に復習しない?」


 声にはことさら気負いも押しつけもなく、まるで友人同士の自然な誘いのようだった。驚きは煙のように漂って、やがて静かに消えていく。


「……ご迷惑でないのなら、ぜひ」


「もちろんよ」


 マリアンネ嬢は教本を少し私の方へ寄せてくれる。クララがいなくなった今、こんな風に差し出される言葉があるとは思っていなかった。それも、憧れに似たまなざしで見ていたはずのマリアンネ嬢に。



 ◆



「エリザベート、昼間はごめん」


 夕暮れどきの廊下をゆっくり歩いていると、後ろから控えめな足音が近づく気配がした。振り向くより早く影が肩にかかり、顔を向けると、少し気まずそうに眉を下げた彼がそこにいた。


「いいのよ、そんなの気にしていないわ」


「でも、ほんの一瞬だけ顔が怖かった」


「そんなことあったかしら」


「あったんだよ、それが」


 申し訳なさそうに私の目を探るような視線を向けてきて、つい肩を揺らして笑ってしまう。あんなことで機嫌を悪くしたりしないのに、彼は本気で心配していたらしい。


「……夕食は一緒にどう? もう課題も片付いたから」


 なんてことのない誘いなのに、私は思わず何度も頷いてしまう。頷いたあとで、少し気恥ずかしくなって視線を逸らした。けれど胸のあたりが弾むようで、その高揚はどうしても隠せなかった。

 二人で並んで歩き出す。夕暮れの光が廊下の床に長い影を落としていて、その影が重なったり離れたりするのを見ると、不思議と足取りが軽くなる。


 食堂へ向かう階段を下りていくと、前方から三人の男子生徒が言い合いながら上がってくるのが見えた。


「卒業論文、まだ一章も書けてないんだぞ」


「教授が今月中に草稿を出せって」


「無理だ、絶対に無理だ……」


 そんな話題が飛び交って、分厚い本を抱えた学生たちが真剣な表情で歩いている。彼らの姿を目で追いながら、ふと隣のアルフレートの横顔を見る。

 そういえば、彼も最終学年だった。夏の休暇が終わってからというもの、彼は前よりも少し忙しそうにしていた。昼の様子もそのせいだったのだと、ようやく思い当たる。

 

「みんな大変そうね。……あなたも?」


「まあ、最終学年だからね。やることは多いよ」


 そう言うときの横顔は昼間より少し大人びて見えて、私は足取りを合わせながらぽつりと尋ねた。


「卒業したら、あなたはどうするの?」


 思いついた疑問は好奇心のまま口にのぼる。アルフレートは成績も優秀だし、去年からは法学の特別専門課程を取っていると聞いていた。だから、つい期待するような声で続けてしまう。


「やっぱり大学に行くの?」


 けれど、その問いに彼はすぐ答えなかった。歩みが少しだけ緩み、言葉を探すように目を伏せる。


「行けたらよかったんだけどね」


 アルフレートはほんの一瞬だけ言葉を選ぶように黙り、それから小さく笑った。乾いたものでも諦めでもなく、肩の力を抜いたような、淡い笑み。


「エーレ学院までは、奨学生の入試に受かったから何とかなったんだ。学費も寮費も、教科書代までほとんど免除される。本当に恵まれてたよ」


 続けた声は無理に明るくもしないし、弱くもしない。ただ、ありのままをそのまま差し出すような調子だった。


「でも大学は違う。授業料は免除を狙えるかもしれないけど、下宿代や生活費はどうにもならない。働きながらだと講義に出られない日が必ず出る。中途半端になるのが目に見えてる」


 私は言葉を挟めなかった。重さを感じさせない語りなのに、聞いている側にはどうしようもなく染み入る。


 ……もしかすると、聞いてはいけないことだったのかもしれない。


 言ってしまってから気づくなんて、考えなしにも程がある。謝罪の言葉を探すよりも早く、視線が下に落ちて黙り込んでしまう。


「顔に全部書いてあるよ、エリザベート」


 小さく笑う声が落ちてきて、視線を上げた。アルフレートは怒っているでも悲しんでいるでもなく、むしろ目尻をわずかに下げた柔らかい表情でこちらを見ている。


「いいよ、別に聞かれたくないことじゃない。だから卒業後は就職するつもりだ。まずは自分で生活できるようにならないと」


 私は何か返したくて、でも軽い言葉を選ぶのが怖くて、小さく指先だけを動かした。なにかを言いたいのに言えないとき、いつもこうして手が落ち着かなくなる。

 

「叔父さんにもこれ以上頼りたくない。もう十分すぎるほど助けてもらったから」


 アルフレートはそう言って、いつも通りの表情で笑った。彼の言うことなのだから、きっとよく考えた末の揺らがない答えなのだろう。


 ……でも、やりたいことがあるのに諦めてしまうなんて、そんなこと、彼ほどの人が選ばなくていいはずだと思ってしまう。


 アルフレートは気づいているのかいないのか、そっと片眉を上げただけでそれ以上はなにも言わなかった。それがかえって胸に残り、うまく息の置き所を見つけられず、しばらくはそのまま考えがまとまらなかった。



 ◆



 翌週の語学の授業で、マリアンネ嬢と席が近くなった。授業後に「よければまた復習しましょう?」と声をかけてくださって、私は頷いて筆記具を寄せる。マリアンネ嬢は難しい文法もゆっくりとかみ砕いて説明してくれて、自分の拙い理解を隠そうとしないでいいのだと思わせてくれる人だった。

 ふと、教室の後ろから「推薦が決まった」「論文が通ったって」と弾む声が上がる。誰かの未来を祝う明るい響きが広がって、私は不意に気になってマリアンネ嬢に尋ねた。


「……あの、マリアンネ嬢は、卒業したらどうなさるのですか?」


 声に出してしまった途端、胸の奥が波立ったようにそわそわしてしまう。けれど彼女はその揺れを受け止めるように、ぱっと顔を明るくしてこちらを見た。


「父の商会を手伝うつもりよ。いずれは継ぎたいと思っているの」


 そう言うと、マリアンネ嬢は机に重ねていた手の上にもう一方の手をそっと添え、まるで大切な思い出を撫でるように指先を動かした。控えめな仕草なのに、不思議と誇りのようなものが滲む。


 身の上のことも、彼女は急がずに語ってくれた。一人娘として生まれ、ご両親は彼女にお婿さまを迎えてその人に商会を継がせるつもりだったこと。

 けれど帳簿を読み、商いを知る楽しさに気づいた日から、自分の手で受け継ぎたいと思うようになったこと。最初は親族中が反対したけれど、最後にはご両親が信じてくれたこと。


 聞いているあいだ、私は体の奥が熱くなっていくのをどうしようもなく感じていた。両親に自分の選んだ未来を認めてもらえるなんて、なんて幸せで、なんて強いことだろう。


「それでね、商会で働きながら、大学で商学を聴講できたらと思っているのよ」


「聴講?」


「はっきり言われたわ、女性は入学させられないって。でも、出席はできるし講義も聞ける。充分よ」


 あまりにも軽やかに言われたものだから、一瞬、何も感じないふりをしてしまいそうだった。けれど衝撃に言葉の選び方を迷って、うつむくでもなく目をそらすでもなく、ほんの一瞬だけ視線を揺らしてしまう。


 ──どうして。

 やりたいことがあって、実力もあるのに、それをまっすぐに選べないのだろう。


「……どうして、欲しいと思った未来を、最初から届かないものとして決められなくてはいけないのでしょう」


 アルフレートのことを思い出す。実力も意志もあるのに、境遇が未来を制限してしまう。笑って見せながら、それでもどこかで何かを諦めている気がした。

 つぎに、クララのことも。貴族の娘として生まれたというだけで、将来の形はあらかじめ決められている。


 ──私だって、同じよ。


 どんな夢を握りしめていても、親の定めた縁談に沿って歩く道以外、最初から白紙にされている。心が先に決めてしまった道があっても、歩いてはいけないと否定されてしまう。


「学位は取れなくても、知識は身につくわ。本は逃げないし、学びは閉ざされない。それに、学べる場所があるというだけで私は恵まれているのよ」


 彼女の視線は落ち着いていて、そこには悔しさも怒りも見当たらない。私は机の端に触れて、そこにあるわずかな冷たさで手を落ち着かせようとした。


「世の中には、読み書きも数字も学べず、選ぶ権利すら持てないまま一生を終える人だっている。夢を思い描く前に人生が決められてしまう人のほうがずっと多いの」


 言葉は責めるようでも慰めるようでもなく、彼女は優雅に手を添えたまま微笑を浮かべる。

 私は深く息をつくこともできなくて、机の端に置いた指先をかすかに寄せ合った。考え事をするときに癖のように動く手先が、今日は自分でも驚くほどぎこちない。


 ……思えば、私はここへ来るために学費の心配をしたことはなかった。支払う人の苦労も、額の重みも、どんなふうに生活を圧迫するかも。入学試験だって形ばかりの面接だけで、父や家名を知っている担当官は穏やかな顔をしていた。

 同じ制服を着て、同じ講義室に座り、同じ教本を開いているというのに、積み重ねられてきた現実は、他の人とはまるで違うものだったのだとようやく理解する。


 それがどれほど恵まれたことか、私は与えられてきたものの価値を少しも考えていなかった。

 けれど、その恵まれた道の先に待っているのは親の決めた結婚で、夢は奪われて追いやられてしまう。諦めるなんてできない。従うだけの人生を、望んでいるはずがないのに。


 何かを言葉にしたかったのに、言おうとすればするほどうまく言えなくて、机の下で手をぎゅっと握った。

 マリアンネ嬢は何も言わず、私に向き直って微笑む。その笑みは同じ場所にはいないけれど、似た景色を見たことのある人だけが浮かべるようなものに思えた。


 するとそのとき、遠く廊下の奥──教室の扉をいくつか隔てた先から、かすかなざわめきが耳に届いた。


 ──風の音? それとも、古びた校舎の窓枠が軋む音かもしれない。


 けれどそれは耳を澄ますまでもなく、明らかに人の声だった。しかも一人ではない。複数の声がぶつかり合い、誰かを制するような調子で、押し殺すように、だけど緊張を孕んだ勢いでやり取りされている。

 すぐに教室の前方に座っていた生徒たちがそっと顔を上げ始めた。中には扉の方に体ごと向けて耳を澄ます人もいて、私もまた、自然と視線を教室の入り口へと向ける。


「……どうか奥様、落ち着いてください──」


 その声が明瞭に耳に届いた瞬間、背筋に冷たいものが差し込むのを覚えた。奥様という呼びかけ、抑えた口調。廊下で誰かが足早に歩く気配とともに、重く張り詰めた沈黙が満ちてゆく。


 次の瞬間、バン、と鋭い音を立てて、教室の扉が開いた。


 誰もが振り返ったその視線の先に立っていたのは、濃いボルドーの外套をまとい、きっちりと結い上げた髪に翡翠の飾りをつけた、ひとりの貴婦人──。


「エリザベート!」


 その名が、鋭く、強く、張りつめた空気を裂くように教室中に響き渡る──そこにいたのは、私の母だった。

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