閑話 凌霄葉蓮は殊の外に 前編
「……それで、兄上。私は、この事態をどう捉えればよろしいのでしょうか」
エオルは感情が声に、言葉に乗ることがないよう膝の上の拳を爪が食い込む程に握りしめた。
不自然なほどに平坦になったエオルの声を、どう捉えたのか、感情を完璧に抑え込んだカーティスが真っすぐに見つめ返してくる。
気を抜けば悔しさが溢れて止まらなくなる。
ただただ腹立たしくて、感情に呑まれそうになる。
そういう衝動的な感情はもう抑えきれるようになったと思っていた自分自身の甘さを、エオルは痛いほどに感じていた。
「なぜ、私にこのような重要なことを隠し立てされて」
「分かりませんか?」
言葉の途中で遮るように発された言葉に、エオルは自分自身の想定通りの状況に舌打ちしたい気分と、敢えて丁寧な口調で話し始めたカーティスの考えを冷静に汲み取ろうとする冷静な部分と、相反する感情に心を掻き乱される。
冷静になるために大きく息を吐き、両手で顔を覆ったエオルは感情を伺えない視線を自分に向けたまま、沈黙を貫く兄に鋭い視線を向けた。
じっと見つめ合った後、深々と息を吐いたのはエオルの方だった。
「原因は、私の未熟さですか」
「私が良いと言うまでお待ちいただくことは不可能でしょう?」
「この状況を!……いや。そういうことですか」
思わず声を荒げかけたエオルは、自分を見定めるかのようにじっと見つめ続けるカーティスの視線に続けかけた言葉を反射的に飲み込む。
自分自身の言葉を封じるように唇をかみしめ、口元に拳を当てて項垂れたエオルに、僅かばかり目を細めたカーティスが口を開く。
「為政者に必要なことは、必ずしも仁愛だけではない。不都合な事実を直視できる胆力と、時に少数を贄とできる非情さもまた美徳であると私は思うのです」
カーティスの言葉に、エオルは押し当てていた拳を下ろし、ゆっくりと顔を上げる。
「兄上は、ずっと把握されていたということですね?」
エオルの質問に、カーティスは無言で片眉を上げ、ゆったりと唇の端を引き上げた。
繊細でどことなく神経質そうなその容貌が、途端に冴え冴えと危険な気配を濃くする。
着実に相手を屠るための大鎌を研ぐ断罪者の酷薄な笑みを、彼は浮かべていた。
「私が法を犯す愚か者を野放しにすると?」
エオルはその言葉に強く目を閉じ、渦巻く感情を抑え込む。
目を開けたエオルに、カーティスは満足げな笑みを浮かべた。
そこには感情を抑えきり、覚悟を決めた表情をした若い王がいた。
「その者らの捕縛には、私も同行しよう」
背筋を伸ばし、揺らがぬ態度で宣言した王に、カーティスは深々と心からの敬意をもって頭を垂れる。
「我が君の仰せのままに」
それを見つめながら、エオルは右手で指先が白くなるほど椅子のひじ掛けを握りしめていた。
全ての発端は、カーティスとイレーネの何ということのない口喧嘩だった。
いつものことだと、エオルも聞くともなしに聞き流し、手にした書類に集中していたはずだった。
「だからって、指をくわえて見ていろっていうの?! あなたたち男は、いつだってそうよ! 女なんて替えのきく道具だとでも思っているんでしょ!!」
珍しく本気で激高した様子のイレーネと、その言葉の内容にエオルは書類をめくっていた手を止め、彼女の表情を見た。
いつもは飄々とした態度を崩さないイレーネが、顔を歪めて怒りと失望をあらわにしてカーティスに詰め寄っている状況に、エオルは手にしていた書類を置いて2人の元へと歩み寄った。
どうしても聴かなければならないと、そう思った。
捨て置いてはいけない何かが起きていると、直感的にそう思った。
「……義姉上? カーティス兄上も、どうなさったのですか?」
努めて冷静に問い掛けながら、エオルの中で嫌な想像が駆け巡り、心臓の鼓動を早めさせる。
イレーネの怒り方に、見覚えがあった。
あれは、そう。
彼女が単身リュフェスタに乗り込んで来た時のこと。
「……人身売買」
カーティスが感情を抑え込んだ低い声で呟いた単語に、エオルはゾワリと肌が粟立つのを感じた。
カーティスの毛の筋ほども動揺した様子のない冷ややかな態度に、イレーネの眉が跳ね上がる。
「行方が分からなくなっているのは、もう気のせいと言えない人数になるわ。若い娘と子ども、それも身寄りのない者ばかり。そうなったらもう疑いの余地なんてないでしょう? 拐かされた人間がどんな扱いを受けるかなんて、分からないなんて言わせないわよ!」
手のひらで勢い良くカーティスの執務机を叩いたイレーネの権幕にも動じた様子なく、カーティスは署名が必要な書類に淡々と署名を書き入れる。
署名を書き終え、紙を署名済みの山に重ね、ペンを静かに置いたカーティスは怒鳴り返すこともなく、眉間に寄ってしまったしわを揉み解す。
「言いたいことはそれだけか?」
自分自身の肩を揉みながら感情を伺わせない声色でイレーネを突き放した態度のカーティスが、イレーネの足元に目を留めると素早い動きで何かを投げた。
「え?」
「……感情的になりすぎて、ごみをくっつけて帰ってくるんじゃないといつも言っているだろう」
鼻先をかすめて飛んで行ったものをとっさに避けて、エオルはカーティスが投げた極小さな礫が何かの術式を壊したことを確認して思わずつばを飲み込んだ。
「この私相手に、ふざけた真似をしてくれる」
常に感情を抑え込んでいるカーティスが、心底楽し気に笑みを浮かべている様子に、エオルはゾワリと背筋を悪寒が走るのを感じた。
満面の笑みに反して、目が獲物を前にした獣のように爛々と輝いているのが不吉でしかない。
滅多に怒ることのないカーティスが、珍しくも本気で怒っている。
それは状況が深刻としか言いようのないことを示していて、エオルは思わず視線が下がっていくのを感じた。
そんなことに気づきもしなかったし、巧妙に隠され知らされてもいなかった。
何重にも未熟な自分自身に、悔しくて腹が立つ。
分かってはいても、自分が未熟であることを突き付けられるのはたまらなく不快だ。
席を立ったカーティスが立ち上がり、目の前に立ったことに気づいてエオルは顔を上げる。
――まったく適わない。
目が合った瞬間、そう思った。
優越感に浸るでもなく、励ますでもなく、憐れむでもなく。
カーティスの顔に浮かぶのは、冷然と己が仕えるべき主の器を図る能吏の表情。
そんな表情をされるぐらいには、届きつつあると己惚れてもいいのだろうか。
いつからか、兄として導かれるだけでなく、臣下として時折試されるようになった。
この会話も、状況も、今の自分自身だから見せられているのだとしたら。
エオルは、スッと息を吸い、腹に力を込めて姿勢を正した。
未熟を恥じることはいつだってできる。
大切なのは、証明することだ。
手を引かれる幼子ではなく、補佐すべき主だと。
「義姉上、申し訳ありませんが」
「……分かっているわ。ちょっと頭を冷やしてくる」
エオルの言葉に、心なしかしょんぼりした様子でイレーネが応じる。
こういう反応を見る限り、思いの外イレーネという人物は聡いのだと思う。
だからこそ、神経質なところのあるカーティスが嫌っていないのだろうけれど。
常にふざけた調子のイレーネと、神経質なほどに緻密で隙のないカーティスと。一見相容れないように見えながら、このふたりはきちんと弁えた大人なのだ。
「信じて良いのよね?……カーティス」
「無論、しっかりと策は講じてある。全くの犠牲なしとは言い切れないがな」
カーティスの返答にイレーネは天を仰ぎ、ふっと息を吐く。
「分かったわ。今回は大人しくしていてあげる」
するりと扉に体を滑り込ませるようにイレーネが出ていき、扉の閉まる軽い音がする。
それを見届けたエオルは、自らの席に戻り、座る。
カーティスもそれに伴ってエオルの前に立った。
上背のあるカーティスに見下ろされる状況になったエオルは、改めて状況を噛み締める。
言葉選びを間違えれば、あるいは感情のままにふるまえば容赦なく“足りない”と判断されるだろう。
感情を抑えきり、冷静な判断を下せなければこの先も、何も知らないまま蚊帳の外に置かれ続けるだろう。
それだけは絶対に避けなければならないと、エオルは思った。
見たくないことを見、聞きたくないことを聞き、やりたくないことをやらなければならないとしても。
逃げることなど、許されないし許したくないから。
エオルは、カーティスをしっかりと見つめ、言葉を発した。




