閑話 油点草を胸に抱く
「ここは……」
焼け爛れて何も芽吹かなくなった荒れ果てた場所。
感じそうな熱気は、呼気にさえ伝わらない。
それなのに息が詰まりそうな感覚に、エオルはその場の主を探して視線をさまよわせた。
これは、誰かの悪夢だ。
あまりにも身になじむ感覚に、こみ上げる吐き気を無理矢理飲み下す。
不自然に繋げられた感覚が、引っ張られていく意識が、根源的な何かをかき乱す不快感に耐える。
もしかしてという思いは、ひと呼吸ごとに確信に変わる。
焼け爛れた鎖に自らを封じながら、ぼろぼろの刃を握りしめるそれと目が合った瞬間、エオルは自分の血が逆流するほどの怒りを感じた。
蝕む呪いに抗いきれず、死に掛けたそれは、うつろな瞳にそれでも折れない意思をぎらつかせていて。
どんな状態なのかなど、言葉にしなくても分かった。
それが、たまらなく不快だった。
「お前は……」
聞き覚えのある声、見覚えのある仕草、その全てに嫌な感覚が募る。
振り向いて思わず顔をしかめるだけに留めた自分自身に、エオルは感心に値するのではないかと思った。
「何という、……あなた、半身をどうしました?」
思わず口調が丁寧になる自分自身に舌打ちしたくなったのは、責められるべきではないと思う。
恐らく一回り以上は年上の自分自身に丁寧に話し掛けるのも、実際問題おかしな話だ。
自分自身ではない自分自身。
どう見ても、守るべきものも守れず、ろくでもない呪いに振り回され、蝕まれ、望みもなく死に掛けている。
その事実に、叫び出したいほど腹立たしいと思った。
「どんな宝物よりも尊ぶべきものを」
「……巻き込んで、死よりも残酷な闇に共に蝕まれろと?」
ハッと、エオルの言葉を笑い飛ばす荒み切った自分ではない自分に、エオルは思わず言葉を詰まらせる。
人生経験の足りないエオルにも、相手の言わんとしていることが正しいことが分かる。
「自分のことだけを考えるならば、確かにずっと状況を好転させる方策だろうな」
内傷もあるのだろう、咳き込んで血の混じった痰を吐いた彼に、エオルは眉を寄せる。
「御免被る。……それが針の穴を通すような途方もない偶然に近いような幸運の果てだとしても、身命を賭して必ず勝ち抜いてみせる。この呪いを打ち祓いきると、そう誓いを立てた」
「それで何もかもを失って、還る魂さえも失うとしても?」
うなるように激しい言葉を連ねる彼に、エオルは重ねて問う。
「己の半身を泣かせても?」
「この苦痛を分け合ってほしいと、私は決して願わない」
強い口調が緩み、胸元を抑えた彼の表情から猛々しさが抜け落ちる。
その表情から、何を考えているのかエオルには手に取るように分かった。
エオルとは違って、彼の状況は悪条件が悪条件を呼び、何もかもが最悪な方向へ転がっていったのだろう。
それを人は不運とか、不幸と呼ぶのだろう。
それはなんと無責任で、無意味な言葉だろう。
誰とも分け合えぬ苦痛。それを孤独に抱え続けることを選んだことを、エオルには責める言葉が思いつかなかった。
それは誰も救われないと、責めることはとても簡単だ。
それで?だから?
では一体どうすればいいのか。
考えることは所詮基本的に同じだと、だからこそ分かり合えるし同じ結論に至るだけだと言い切ってしまえば楽だろう。
それでも、エオルにもどうすれば良いのか分からなかった。
否。他のどの道も選べないだろうことが、容易に想像がついてしまった。
本当に、嫌になる。
選べるのが最悪と、最悪の一歩手前との二択など、何の冗談だろうと思う。
神という存在が実在するのなら、なぜこんな目に遭わせるのかと訊いてみたいと思うほどには、酷い冗談だ。
「生かされた命を投げ出すことができないのと同じほどに、私はあの方がこれ以上の苦痛に苛まれることを許容できない」
その横顔は、決して手にすることができないものを渇望する感情が隠しようもなく溢れていて。
どうしようもないのだろうと、エオルは自分自身の感情を飲み下すしかなかった。
「どこで何をしていようと、たとえこのままここで塵ひとつ残さずに朽ち果てようと。この身は、心は、魂は、我が半身に捧げられたものなのだから」
神聖なものを崇めるように呟かれた言葉に隠しようもない熱情が滲んでいるのを、恐らくこの男は気づいていないだろう。
この、秘められた心が、過ぎ去った最良の日々をただ懐かしんでいるかのような男が、拭い去りようもない執着を秘めていることに、エオルだけが気付いているのだろう。
「基本的な性質までは、歪めようもないということでしょうか」
思わずため息が漏れてしまったのを、責める相手もいないことは幸いだろう。
目の前の男もまた、自分自身だと認めざるを得ないとエオルは思った。
異なる道筋をたどり、多くの不運に見舞われてここで死に掛けていても、この執着だけは消えないらしい。
あるいは、この男は成し遂げるかもしれない。
ほんの僅かな助力さえあれば、何者にも消せない強固な感情が、彼を生かすかもしれないとエオルは思った。
「……これは、いよいよ感情の制御を間違えると危うい問題が発生しそうな」
こんな生々しいものを見たくなかったと、エオルは気づいてしまった自分自身の性質に頭を抱えたくなった。
「さて、どうしたものかな」
どうやってここに迷い込んだのかもいまひとつ分からないエオルは、ごそごそと服の隠しを探り始める。
懐に仕舞い込んだままだった、何時ぞやもらったひんやりと冷たい水の力が凝縮された晶石が、指先に触る。
ミランダからもらったものを誰かに与えるなど、それが自分自身でも気に入らないことこの上ないけれど。
思わず寄ってしまった眉根をほぐして、エオルはその晶石を彼に向って投げた。
突然飛んできた硬いものを反射的に切り捨てることまで計算に入れたエオルによって、晶石に封じ込められた力がはじけ飛ぶ。
「……これは」
焼け爛れた傷が僅かばかり癒されるのを目の当たりにして呆然とする男の表情に、エオルは悠然と笑みを浮かべた。
「餞別。私のリラは、その程度のものならいくらでもくれるだろうから」
冷静に全体を観察していたエオルの目には、晶石の力が呼び水になったかのようにいつの間にか目の前の男を戒める鎖を伝う、澄んだ水の気配がよく見えていたけれど。
こんなところに己の意思を無視して呼び出したであろう相手に、それまで教えてやるのは何となく面白くないような気がして、エオルは口をつぐんだ。
絶望しかない状況で、ありとあらゆる可能性を超えて救いを求めたのが異なる世に生きる自分自身だとは、本当に笑えない。
それでも、行き詰った状況を変える一石は投じられた。
目の前の男の半身である彼女は、無事に隠されていた絆を見出したのだろう。
エオルが放ったミランダの力の欠片はただの切っ掛けに過ぎず、男を癒すのはあくまでもその半身の力なのだろう。
特別で、代わりの利かない存在。
それがなぜそうなるのかも、知りたいとさえ思わないような理屈を超えた存在。
「この貸しは、いつか返してもらおう」
呟いたエオルに応えるように、唐突に放り出されるような浮遊感に襲われてエオルは目を閉じた。
「あ……」
前髪を揺らす吐息にふと目を開けると、そこには何よりも愛しい存在がいて、エオルは笑みを浮かべた。
これ以上ないほど、幸せな光景だ。
「リラ。……体調は?」
「もう大丈夫、です」
思わず笑顔になったエオルに照れた様子で顔を赤らめて視線を逸らすミランダに、エオルは満足そうに頷く。
良い感じに意識してもらえて、むしろ満足だ。
それよりも。
ずっと出し辛かった声が、安定している。
思わずのどに手をやって、片眉を上げる。
「声、低くなってます」
「うん。安定したみたいだね。リラのお陰かな」
急激に伸びた背丈のお陰で、視線の位置にもだいぶ差が出ている。
衝動に突き動かされるままに、解き下ろされた髪の毛に触れる。
この存在を守るには、まだ力が足りない。
ふと、そう思った。
忘れてしまった夢の余韻なのか、もっと成長しなければ、もっと力を磨かなければと、焦燥に似た感情が胸を占める。
「大切な、大切なリラ。私は、あなた自身でさえあなたを傷つけるのは許容できないみたいだ」
立ち上がり、身を乗り出してベッドの端に膝をつき、驚いて逃げようとする小さな体を抱きしめる。
腕の中に温もりを感じて、知らず知らず体に入っていた力が抜ける。
存外、不安だったのかもしれない。
世界が終わるとしても、手放すなど考えられない。
それでも、命はあまりに軽く、小さく、たやすく消えてしまうから。
「どうか。辛くて苦しい時ほど、私を求めて。――決してひとりで抱え込まないと約束して」
誓って、と口にしなかったのは、エオルの中にあったせめてもの理性なのかもしれない。
制約を課して縛ってしまいたいという衝動と、気づかぬうちに課された制約に気づいたミランダに嫌われたら立ち直れる気がしない、という躊躇の間で揺れ続けている感情を悟られないように、エオルはただただミランダの背を撫でていた。
執着している自覚は、既にある。
気づきたくなかったけれど、どうすることもできない本能そのものの衝動で、持て余すしかないような感情に振り回されている。
どういう表情をしているのか、自分自身でも良く分からない。
だけど、今はミランダに見せたくないような切実で感情がむき出しになった表情をしている気がする。
エオルは、その顔を見られないように、ミランダの肩口に顔をうずめた。
「アハサ」
「あ……」
呼ばれた真名に、意志に反して体がピクリと反応する。
行動を縛られたことを理解して、一気に汗が噴き出る。
「ちょっと触りすぎだと思うの」
「うん。ごめんね」
無理矢理引き剝がされなかったことに安堵しつつ、大人しく椅子に座り直したエオルを、ミランダが軽く睨む。
「なんか、ざわざわして嫌」
不満そうな表情でポツリと呟いたミランダに、状況を理解してエオルは顔を赤くしたまま下を向いた。
「ごめん」
ミランダの枕元の花瓶に生けられたホトトギスに、何かを思い出したような引っ掛かりを感じて、エオルは唇を引き結んだ。
なぜかその一見地味な花から視線を逸らすことができず、胸にざわめきを抱えたまま扉を開ける。
そこでエオルは、扉の向こうで待機していた侍女たちにじっと見つめられ、ミランダの目覚めを待っていたマノリアにも意味ありげな視線を向けられ、身の縮む思いをさせられた。
「自重できるようにならないと」
執務室で書類を読みながら思わずこぼれた呟きを聞きとがめたカーティスにまでじっと見つめられて、エオルは身じろぎをする。
「心に秘めてこそ、という熱もあるものだ」
やがてポツリと呟かれた言葉に、エオルは深いため息をついてぐったりと項垂れるしかなかった。




