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弁当の温もり  作者: 27
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「木南さんって、変だよ」

「変?」


 あれから、春は過ぎて、梅雨も過ぎて、夏も、秋も、過ぎた。あの冬の昼休み、彼女にはっきりそう言われたことを、覚えている。

 この頃には、佐伯さんは私の情報をほとんど知り尽くしていた。

 佐伯さんには、詮索癖があった。人を知ろうとするときに、まず情報を使う。そこから人を作ろうとする。自分を基準にして、その人と自分がどれだけ離れているかで、その人をはかる。

 だから、私に関する情報も、引き出されるだけ引き出された。引き抜かれる感覚はあった。

 佐伯さんの頭の中では、私はどう見えているのか、その頭を開けてみないことにはわからないけれど、どうやら呑み込めないことばかりだったらしい。


「この世に変じゃない人なんて、いるの?」

 鼻先で、佐伯さんを嗤う。

「いるよ」

「どこに」

 一瞬、空気が止まる。佐伯さんは、わざとらしく、でもきっとわざとではなく、下を向いた。

「私とか。普通で、地味で、何のとりえもない……でしょう?」

 私は、さっきまで笑っていた顔を、大きく引きつらせる。


 そんな言葉を、奇妙なあなたが、言っていいものか。


 私から見て、佐伯さんは変わっている。こう決めつけるのも、よくないことだ。けれど、こうやって形容する以外には、他に彼女を形作ることはできない。

 優秀で、よく働くけれど、大人びているわけでもなく。

 ただひたすら機械のようなひと。

 

「嘘だね」

「嘘じゃないよ」

「いいや、嘘だ。佐伯さんは嘘つきだ。もしくは、無知だ。気づいてない。知ろうともしていない。何も」

 そう。何も。

 この人は、何にでも真剣に取り組んでいるように見せかけて、実は何一つ、その本質に気付いていない。人の言うことに従って、逆らうこと、逆らわなければならないことを知らないで、温室の中で穏やかに過ごしている。

 自我が、何一つ無い。


 愚かだ。


 叫ぼうとして、やめる。吸い込まれたままの息は、当てもなく体を彷徨う。

 佐伯さんの眼が揺らぐ。もっとも、この人の目が定まっているところを、私は見たことがない。定まったどこかを見てはいない。

 私はなんだかやるせなくなって、その日は会話をやめた。



 中学生になって、二度目の春が訪れた。

 クラス替えの前の日、私は佐伯さんとメールアドレスを交換した。ただ、なんともなく、連絡手段があれば困らない。そのくらいの感覚で。

 今では後悔している。


 ここから、彼女の化けの皮は、はがされた。

 佐伯さんは、文字の上では異様に饒舌だった。文字は、情報だ。彼女には、詮索癖があるのだから、そうなることは簡単に予想できたのに。

 毎日、返信に追われた。

 電源を付ける。メールボックスを開く。

 いつも彼女が投げかけるのは、質問の数々だった。私に訊けば、一問一答、全て答えが返ってくるものと、何やら勘違いをしているらしい。

 うんざりした。

 自分の眼で知ろうとしない、その態度に、うんざりした。



 佐伯さんは、お母さんとうまくいっていないらしい。メールの話題は、いつも母に関する相談だった。理不尽を、要求されるらしい。それが不満だそうだ。誰にだって理不尽はあるもので、それを上手く下して、大勢の人は生きている。

 けれど、彼女は機械だった。パラドックスは、受け入れられない。

 勉強しなさいと言いながら、他のことを要求する母に、困惑しているそうだ。

 思春期の女子にありがちな、ごく普通の話題。そう思っているのだろう。誰もみんな、母は嫌いだし、母には戸惑わされるし、誰でも、一度は離れたくなる。そんなものだと。

 私には、縁のない話だというのに。

 佐伯さんは、私の情報を持っているのだから、それを知っているはずだ。それなのに、彼女は私に問い続ける。

 唇を、噛み締めた。


「掃除とか洗濯は、お母さんの仕事じゃないの?」


「どうして、お母さんは朝の支度を手伝わせようとするの?」


 どうして、お母さんは、と問いただされるたびに、私の腹の中で、暴れてはいけない虫が、暴れまわる。


 どうして。

 どうして。


 なぜ?


 普通であるとは、いったい何のこと?

 そこで、ようやく気が付いた。

 いや、前から薄々気づいていた。けれど、見て見ぬふりをしていた。避けて通ったことだ。


 あの人は、普通であることに、とらわれている。


 私は普通ではなかったから、彼女の興味を誘ったのだろう。何一つとして理解できていない相手。同じ生き物として見ることができない、話し相手。温室育ちのお嬢様が、路地裏の溝鼠を、珍獣のように扱っているのと同じだ。普通ではない、溝鼠と話していると、自分は普通なのだと思えて、安心する。だから、話す。


 彼女にとって、私は精神安定剤なのだろう。


 だから、彼女を吸い取って、私は不安になる。

 それに耐えることができなかった。知らない世界の話に、胸を痛めることは、無意味だと知っているのに。

 胸の奥がざわついて、ひやり、冷や汗を垂らす。

 彼女の言う普通は、社会が言う普通と、殆ど同じ形をしていた。けれどそれは、変化する社会とは違う、不変の違和感を持つ。

 個人のお堅い常識、というもの。


 佐伯さんの言う普通は、私には理解ができない。きっと、一生かかっても。


 右のこぶしを握り締め、確かにそう感じた。心臓の鼓動は早くなって、呼吸することさえ忘れてしまいそうになっていた。

 偏差値教育で育った彼女の頭には、社会的に悪者にされた経験が、全くと言っていいほど詰まっていない。悪者になったことのない人は、気味が悪いほどの偽善者だ。それにさえ、気づいていないだなんて。

 普通にこだわって、普通になろうとして、普通じゃなくなった。

 素直であるかゆえに、社会の味方はできない。

 けれど、悪者にはなれない。だから、歪む。

 普通という言葉に、歪む。



 社会的価値観にこだわりすぎなんだよ、この石頭が。


 想像した。

 足の先で、彼女の背中を蹴る。

 柔らかな、少女の背中。貧しさを知らない、豊かな背中。

 蹴り飛ばしたくなった。




改善点、誤字脱字等何かありましたらご連絡いただけると嬉しいです。

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