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戦歴

1941年の8月15日に滋賀県の塩津にて飛行試験が行われることとなった。

テストパイロットは畠山が自ら行うこととなった。

彼は実は第一次大戦で若宮に乗船していたパイロットだった.

航空機の扱いはある程度できたのだった。


さて、それはともかくとして、試験結果は良好そのものであった。

最高速力は520キロをマークした。(量産型は490キロそこそこ)

これは零戦よりも10キロほど遅いがそれでも満足のいく速度であった。

格闘性能は明らかに低いが、それでも一撃離脱や強行偵察などで利用すれば問題はないと考えられた。


エンジンは液令であることが原因で稼働率が低くなる可能性があったが、十分な整備を行えば何とかなると考えられたため、そのままとされた。

北陸飛行機はユモエンジンのライセンス生産権を獲得し、またそれの量産にある程度成功しつつあり、一応1200馬力を発揮できる仕様ができつつあったのだった。


航続距離は目標より下回り、巡航速度(320キロ)で4時間半ほどとなった。



その後も試験が続けられ、結局1942年3月 寒風は二式水上戦闘爆撃機として正式採用されることが決まった。

川西の機体はいまだ完成しておらず、中島のものは零戦のものをそのまま水上戦闘機としたが、その華奢な構造ゆえに非力と考えられたためだった。


生産は北陸飛行機が手がけ、月産20機を目指すことが目標とされた。

だが、北陸飛行機にはそれほどの能力はなかったため、日立飛行機が一部生産を肩代わりすることとした。



寒風は早速量産が開始され、1942年10月には一号機がロールアウトした。

さっそくこの機体はアリューシャン列島のキスカ島に20機が配備され、ダッチハーバーから飛んでくるアメリカ軍のB24と熾烈な空中戦を展開することとなった。

1943年の5月にはアッツ島の友軍を支援するためにキスカを飛び立ってアメリカ海軍の空母ナッソーを損傷させることに成功した。

しかし、体勢を覆すことはできず、アッツは玉砕。1943年9月のキスカ撤退の際に残った寒風は全て破壊されてしまうこととなった。


また、そのほかでは印度洋作戦にも投入されることとなり、特設水上機母艦「神川丸」に12機が搭載されてインド洋において通商破壊をおこない、偵察や空爆、空中戦をおこなうなど大活躍したといわれている。

実際、神川丸が挙げた戦果は記録上(異説アリ)では撃沈12万2千トン、航空機16機撃墜(20機という話もある)

といわれており、その全てが搭載されていた寒風の戦果であるといわれている。



しかし、戦争が続くにつれ、寒風の活躍の場は徐々に低下していくこととなる。

戦線の縮小とアメリカ軍の航空機の高性能化に寒風は対処しきれなくなりつつあったのだ。

水上戦闘機の時代は終わりつつあった。

しかし、それでもまだ寒風は老骨に鞭をうって戦い続けた。

また、北陸飛行機は寒風を陸上機に改造した戦闘機、寒電を開発しようとしたが間に合わず、結局今度は強風を改造した紫電および紫電改に局地戦闘機の座を奪われてしまうこととなった。


そして1944年11月

レイテ海戦に敗北した日本海軍はフィリピンを実質的に損失下も同然となっており、それによって石油の輸送路を失う危険性があった。

ならば今のうちに油を・・・ということで当時現地にいた戦艦扶桑、山城、伊勢、日向。重巡最上 軽巡大淀、黒部(ラモットピケ)。駆逐艦10隻からなる機動部隊を利用した輸送作戦が発動した。

この作戦の司令官には第2戦隊の司令官であった西村祥治中将が取ることとなった。

そして、伊勢と日向、最上、大淀にはサイゴンで防空任務についていた30機あまりの寒風を装備する第666航空戦隊が配備された。


早速伊勢、日向、大淀などの各艦艇の船倉や燃料タンクには大量の石油や錫、クロムなどの戦略物資が山積みにされることとなった。

戦闘艦艇を輸送船として運用するのは不経済極まりない方法だったが他に手はなかった。


1944年11月22日。

西村艦隊はひっそりとサイゴンを後にした。

目標は日本の石油陸揚げ港門司。


航空機は寒風がわずかに33機。

的機動部隊に発見されたら一巻の終わりであった。

艦隊はスコールにまぎれるなどの方法をとって本土への逃避行を続けた。

しかし、10月26日午後2時、

艦隊は突然アメリカ艦隊に発見されることとなった。


それから一時間後、100機近い米軍航空機が上空に現れた。

直ちに寒風は全機発進して迎撃を行った。


元が水上機であるために如何に零戦並の速度を持っても迎撃は困難を極めた。

しかしそれでも寒風は敵攻撃機の多くを撃退することに成功した。

何機かは網をすり抜けて爆撃を行った。

その結果、駆逐艦満潮が大破する被害を受けてしまった。

(この後満潮は海南島の愈淋に逃げ込むことができた。)


だが、艦隊の損害はそれだけであった。


その後直ぐに日が暮れたため第二次攻撃は行われることはなかった。

また、翌日には艦隊はスコールにまぎれてフィリピン沖から台湾海峡に逃げ込んだ。


ここにはまだ航空隊が若干残っていたのだ。


そして気になる潜水艦も海上護衛総隊が総力を挙げての対潜警戒を行ったため艦隊は襲われることはなかった。

そして11月28日には西村艦隊はなんとか門司にたどり着くことができ、貴重な重油や航空機用ガソリン、そして多数の戦略物資を日本に持って帰ることができたのだった。


「もしも、寒風がなかったら我々は一隻残らず海の底に沈んでいたかもしれない・・・」


戦後、西村はインタビューにこう答えた。(「大油送作戦」より抜粋)


もっとも、西村艦隊がこうやって苦労して持って帰ってきた油の大半は1945年4月に大和と長門からなる第2艦隊の特攻作戦に使われてしまったのだが・・・。


その後の歴史は諸君の知るとおりである。


寒風は終戦時62機が国内外に残存していたが多くが破却された。

その内少数が国立アメリカ空軍博物館や靖国神社の周遊館に保管展示されており、日本の航空産業遺産として保存されている。



・・・え?北陸飛行機はどうなったかって?


北陸飛行機はその後自動車エンジンを生産する北陸機関と呼ばれる会社に変わり、主に鈴木や本田などと提携しているらしい。


ということで私はここで筆をおかせてもらうこととする。


「(最強の水上戦闘機「寒風」」より抜粋)




ということで、「寒風の軌跡」は3話目で終了とさせていただきます。

最終話は小説というか説明文になってしまったような気がします。

う~む、ヤッパリ突貫工事はだめですね。


DB601でなくてユモエンジンにしたのは完全に趣味であります!

本当はMIG1に搭載されていたミクーリンエンジンを使いたかったのですが結局こうなってしまいました。(となると中国戦線にMIG1辺りを持ってこなきゃだめだしシュチュエーションも今回以上にいまいちでしたから)


結局日本は負けてしまいました。

やっぱり一つの戦闘機で歴史を変えるのは無理ですよねww

国力や工業力の差がもろに出てしまいますしね。


ということで、これを読んでくださった皆様、これをもって「寒風の軌跡」

終演とさせて頂きます。


誠に有難うございました!

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