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花の兵士達の軌跡

 時は1937年頃のこと、大陸では日華事変で相変わらず日本軍と中国軍が第二次上海事変以降、だらだらと戦闘を続けており、その一方でアメリカなどとの関係も悪化しつつあった頃のことだった。この頃、海軍はワシントン海軍軍縮条約を脱退しており、後に大和と呼称されることとなるA-140の建造をボチボチ始めるなど、軍拡を推し進めていた。それは別に、大和や瑞鶴のような大型艦だけではなく、朝潮型やその後継である陽炎型といった駆逐艦のような小型艦にも高い比重が置かれていた。条約の脱退によって艦艇建造の制限から解き放たれた海軍は、朝潮型などに代表されるような2000トン級の大型駆逐艦の整備に血道をあげていたりする。そうした艦艇の建造はあくまで明治期から海軍のドクトリンとなっていた艦隊決戦主義に基づくものであった。 

 そうした形の軍拡に内心危惧を抱いている者も一部にはいた。「いや、個艦優越主義というのはわかるけど、設計凝り過ぎて金かかりすぎで調達数がこのままでは少なくなる」という第4艦隊事件以降の過度な凝り性な設計に眉をひそめる者もまたいたりする。要するに一隻あたりに費用がかかりすぎて必要数に達することができるのか滅茶苦茶不安だったのである。条約を脱退したと言っても、だからといって好き勝手に艦艇を建造できるわけではない。ちゃんと議会や大蔵省からの許可が必要である。しかし、だからと言っても現在の軍拡は主流派が指導していることもあって、なかなか声を出すことができなかった。そうしたものは別に大蔵省の役人と折衝をする海軍省の軍官僚だけではなく、設計を行う造船士官達にもいた。

「設計が懲りすぎな上に期間もかかる。後、平賀死ね」

 現在の非主流派である旧藤本派であった。彼らは、旧来の設計方法しかしなくなった平賀中将の考え方に反発していたりしたのだが、こっちは海軍を追放されて民間企業にいたりしたこともあって声は無視されていたりする。

また、他にも「艦隊決戦主義はいいけれど、夜戦で全員揃って突撃だと誰が戦艦を護衛するんだよ。こっちが突撃かましても、相手も突撃してきたら誰もとめられないぞ?それに、必ず決戦が生起するなんて誰が決めたんだ?決戦だけじゃなく何でも使える船を用意すべきだ」という、いきすぎた艦隊決戦主義に異議を唱える者もいたりする

 そんな彼らは艦艇のマスプロ化。それも、できるだけ安く、そして早く建造できるものが望ましいという考えで一致していた。そして彼らは偶然に飲み屋で出会い、そして考えを一致させた。で、それ以降はスルスルと概要が決定された。

「目標は大体陽炎型の半額以下かな?(陽炎型のお値段約1000万円)」

「基準排水量は1200tくらいで良いよ」

「大体睦月型よりちょっと小さいくらいか。」

「ブロック工法と溶接をやってみようぜ。早く建造ができる」

「大丈夫か?」

「調査の結果、実は高張力鋼ならそんなに影響はなかったんだ。ただし重量がかさむが。それに、既にある造船会社がそれをやっている。噂じゃ海軍工廠よりも腕は良いらしい」

「なら、大丈夫だな。」

「汽罐はどうする?重巡の汽罐を使えば一軸で30ノットは余裕だけど・・・」

「それじゃ変なローリングが起こるぞ。それに、取得コストがかかりすぎる!」

「うーん、新規開発する?」

「最低でも30ノットは欲しいから12000馬力は欲しいし・・・」

「鴻型をベースにしたら良いんじゃね?アレならちょっと大きくすりゃいいだけだぜ」

「でも汽罐は?あのままだとそんなに速度でないぜ?」

「でも安いぞ。それに、そのままでもスピードも計算したら28ノットくらいだから悪くはない。それに、最悪戦艦に追随できれば良いんだし」

「まぁ、それもそうか。」

「そういえば、外国じゃ変わった配置方式にしているらしいな」

「シフト配置だな。確かにアレなら生存性は上がるからやってみようぜ」

「となると居住区が小さくなるな」

「上部構造に居住区画を作ろう。居住区の風通しも良くなる」

「武装は?」

「備砲は12センチ砲にしよう。そいつを4門。高角砲タイプの11年式にしたら使える幅も広がる。12.7サンチだと89式のがあるが・・・あれだと3問くらいだな。魚雷は・・・61サンチを3連装か53,3サンチ4連装を1基ならいいな。足りなきゃ数で補えばいいし」



そんな感じでまるで大学生のようなノリで設計が決まっていった結果、こんな感じになった。

基準排水量1212トン
全長104メートル
幅10.2メートル
ボイラー2基
タービン2基
出力22000馬力
速力29.2ノット
航続距離14ノットで4000マイル
11年式12サンチ連装砲2基4門
8年式61サンチ魚雷発射管3門

特型の船体設計がベースになった鴻型みたいな感じになった。ただし、汎用性と広い居住区から来る発展性の高さが売りであった。しかし、ここで問題が発生する。予算である。
海軍にとってはこんなあんまり強そうじゃない駆逐艦に払う金など無かったのだ。
しかし、ここで意外な光明が差してくる。タイ王国が艦艇を発注したと言うことであった。
タイは1930年代の初めにトラッド型水雷艇2隻をイタリアから発注したものの、やはりこれでは制約が大きく、もう少し使える船を欲していた。ということで、だったら荒波でも戦える船が欲しいということで特型みたいな駆逐艦を欲したのだった。(ただし、超安価で)

 ということで、この駆逐艦を売却することが決まったのだった。ただし、魚雷は既にあるトラッド級と同じものを使いたいとして、イタリア製の53.3センチ魚雷の3連装にすることにした。そして、取り敢えず6隻の発注が決まった
 かくして、建造は日立造船と、第一次大戦頃から急成長してきたとある九州の造船所が行うこととなった。こうして建造が開始され、日立はおおよそ9ヶ月で二隻を動じ竣工させたのだが、第一次大戦の頃から溶接を行い、なれていた九州の造船所はそれよりももっと少ない7ヶ月で完成させてしまったのである。無名の造船会社に咲き起こされた日立造船は大変悔しい思いをし、以降溶接の研究を積極的に行うことにした。

 ちなみに、この駆逐艦の設計には海軍艦政本部も加わり、艤装中の駆逐艦を前に「今すぐ鋲打ちに手直ししろ」など相当茶々を入れてきたが、例の九州の造船所の社長がその高圧的な態度にキレて真っ向から喧嘩を買って、指導にきた技術者や将校を拉致し、自社が勝手に建造した駆逐艦にのせて試験航海と称して東シナ海にて何度となく台風の中に突っ込ませたり、一部に傾斜させた状態の中で冬の日本海に突入するなど無茶苦茶なことをした挙げ句に、このままでの建造を承認させたのだった。

 かくして建造されたこの駆逐艦はタイの花であるチョンプー級と名付けられ、早速タイが買い取ってその後1941年に生起したコーチャン島沖海戦で奮戦し、プリモゲを大破座礁(後拿捕)させていたりする。なお、海戦の結果はまた後日どこかでお話しするとしよう。その後このチョンプー級駆逐艦群は何隻かが沈没したりするも、生き残ったものは1970年代まで練習艦艇として現役だったりする。

 さて、日本海軍はこの駆逐艦に着目することはなかった。嵐などで大丈夫だったり、あんまり艦首の設計をこらなくてもそれなりに速度を出せることなどはわかった物の、だからといってこんな弱っちい駆逐艦を欲する気はなかったのだ。それでも、試験用として一個駆逐隊4隻の建造が決定した。こちらは12.7センチ砲3門に90年式61サンチ魚雷三連装発射管1基を搭載したバージョンとなった。それは再び日立造船と九州の造船会社が建造行うこととなった。日立造船は前回の競争の遅れを反省し、溶接の勉強をちゃんとしていたこともあって、なんと6ヶ月半で完成させてしまう。 こうして完成した駆逐艦は「駒草型」と名付けられた。所謂二等駆逐艦である。駒草とは、高山植物の一種であり、他の植物が住めないようなザレ場で生きていることから『高山植物の女王』とも呼ばれている。まぁ、早い話が妙に生命力が強い。と、とられたのであろう。それ以降、このタイプは高山植物の名を冠することとなる。そのため、口さがないものからは『雑草』と称されてさげすみの対象になったりする。

 一番艦駒草が戦列に加わったのが1941年9月のことだった。その後、順次同型艦が完成し、第50駆逐隊が編成されたのが太平洋戦争が勃発した1942年3月のことだった。最初期の南方制圧作戦などには訓練のため参加していない。

 そして戦域の拡大とそれに伴う戦力不足を補うべく、1943年12月までに20隻の同型艦を建造することが決まり、日立造船と九州の造船会社は熾烈なタイムアタックを行うこととなり、一隻あたりの建造汽罐は最短だと4ヶ月から5ヶ月という超短期間で建造されていった。

 彼女たちの初陣は意外と早く訪れた。1942年のソロモンを巡る戦いで、第50駆逐隊は、吉川大佐の指揮の下、何度となく東京急行と呼ばれた物資油送作戦に投入された。また、1943年にアメリカ海軍がアッツ島に侵攻した際、幌延にいた第56、58駆逐隊の『岩桔梗』『岩菫』『車百合』ら8隻が重巡洋艦那智らと共に出撃し、うち、岩菫を失ったり、全艦艇が何らかの損傷を受けるも、かろうじて山崎大祭か1200名を救出に成功するなど、各地の戦線で活躍した。
 こうした活躍の背景には、海軍上層部がこのタイプの駆逐艦を消耗品としてみていたことが伺える。実際、1943年の終わりには追加発注などを含めると30隻近くが竣工あるいは建造中であった。

 そして、1944年になると、今度は魚雷の不良や潜水艦の不足などから回復し、驚異となり始めたアメリカ潜水艦隊から輸送船を守るため、およそ20隻近くの駒草型駆逐艦が海上護衛総隊に編入された。彼らは限定的な水上戦闘でも活躍できたため、連合艦隊が常に引き抜こうとしていたのだが、それでもそれを補う数の駒草型が建造されたため、海上護衛総隊にもそれなりに数が回されていたのだった。
 この頃の駒草型にはとある九州の電気会社が開発した漁探を元にしたソナーが装備されており、潜水艦狩りや元々の高い防空性能などを生かした船団防空に活躍した。こうして、船団護衛作戦に投入された。

 その中で最大の活躍をしたのが1945年初めに行われた大規模船団護衛作戦である西号作戦であった。この作戦は、シンガポールに集結していたタンカーや貨物船など延べ16隻の商船を内地に還送させる作戦だった。そこには石油やボーキサイト、ゴム等多数の戦略物資が満載されていた。それを護衛すべく、海上護衛総隊も総力を挙げての作戦を実行すべく、直接護衛に軽巡香取と海防艦7隻に駒草型3隻、間接護衛部隊として背レターで修理されていた重巡洋艦鈴谷、妙高。そして、朝雲、時雨、および駒草型7隻からなる阿部俊夫少将率いる第3水雷戦隊。これらが投入された。
 1945年2月10日、船団はシンガポールをこっそり夕暮れに紛れて出航後、潜水艦を警戒して一端陸地に進路をとり、2月12日にサイゴンに到着した。ここで、レイテ海戦後、航空機輸送のためにルソン島に北は良いが、その後アメリカ機動部隊から逃げ回った挙げ句に立ち往生していた雲龍ほか駒草型2隻と駆逐艦夕暮、黒潮などと合流し、サイゴンにいた航空部隊を引っこ抜いて艦隊戦力を増強し、さらに貨物船数隻と合流したことで最終的な船団は30隻以上の大船団となったのだが、そんな北大西洋のPQ船団じみた船団がばれないわけが無く、ルソン島付近からアメリカ軍の爆撃部隊がやってきて空襲を仕掛けてきたのだが、加賀からの艦載機と、駒草型の対空砲によってかろうじて大半の投弾を防ぐことに成功した。また、何度か潜水艦からの襲撃を受けたものの、その大半は、駒草型や海防艦によって防がれてしまう。しかし、台湾付近で結局6隻もの商船と、駆逐艦白根葵を失ってしまう。
 それでも、おおよそ10隻以上の商船が雲龍と共に内地に帰り着くことができたのだった。これによって船団司令官は感状をもらうこととなったりする。

 しかしその後、アメリカ軍の沖縄侵攻によって南方航路は途絶してしまう。また、持って帰ってきた燃料の内、特に重油は大和、長門、榛名、陸奥、金剛そして雲龍と天城からなる第一機動艦隊にもってかれてしまい、同時に、1945年9月の沖縄沖海戦で損失することとなる。ちなみに、その沖縄沖海戦では、駒草型も10隻以上が参加しており、一部は、台風を突いて戦艦部隊と共に金武湾に突入していたが、この戦いでは第二艦隊は金剛以外の戦艦が帰ってくることはなかった。

 そして、1945年10月2日、日本はこの戦いの後に英米の共同声明であるチューリッヒ宣言(条件付き降伏)を受諾。太平洋戦争と共に駒草型の戦いは終わった・・・訳でもなかった。その数日後、米英軍の進駐を舞えにソ連軍が樺太、千島、そして満州に侵攻したのである。そこで、当時の第五艦隊の司令長官であった阪中将および第4水雷戦隊司令官だった吉川少将の指揮の下、空襲を逃れて山形港にいた扶桑や古鷹、駒草型駆逐艦の『片栗』『苔桃』などおおよそ20隻ほどの艦隊と第12航空艦隊の航空機おおよそ70キがオホーツク海に出撃し、ソ連軍の船団を壊滅させて侵攻を頓挫させている。
 また、舞鶴から出動した瑞鶴、葛城および駆逐艦『珍車』『白山一花』『唐糸』などが元山などでごったがえする避難民を救出し、輸送している。

 そして、全ての戦いが終わった1945年12月には駒草型はまだ30隻近くがあったりする。もちろん中には損傷していたりするものも多かったが、その大半はまだ航海が可能だった。そのため、武装を降ろして引き揚げ船などとして運用されたものも多かった。
 そして、戦後が一段落すると『薄雪草』など8隻が『岳樺』なと名を変えて海上保安庁の巡視船としても運用された。

 また、一部は賠償艦として台湾の国民党政権などにもっていかれていった。そのうち『武者竜胆』などは『桂花』と名付けられ、長く運用された。他にも、『日光黄菅』にいたっては、アルゼンチンにて瑞鶴と共に『ジャカランダ』と名を変え、フォークランド紛争に参加していたりするなど、駒草型は、級増刊でありながら、それなりにある発展性を生かして1980年代まで生き続けた。

 現在でもその姿を見ることができる。千葉県で『白馬蒲公英』が公民館兼博物館として置かれているし、横須賀では、台湾から帰ってきた雪風や生き残った戦艦である金剛と共に、『七竃』が三笠と共に保存されており、かつてのその栄光を今に残している。

 そう、彼ら小さな花の兵士達は勝利こそできなかったものの、最後まで諦めることなく、高山植物のごとき過酷なる艦橋の中でも最後まで奮闘し、人々を守り続けたのだ。というところで、今回は筆を置かせていただくとしよう。

 月刊『Z』「花の兵士達の知られざる記録」より抜粋

皆様お久しぶりです。
山口先生の企画には久しぶりに参加です。
別府造船よりこっちが先に来てしまいました。
現在他のもいくつか書いていまして、さて、どうなることやら・・・

今回はもしも日本海軍が松型みたいな駆逐艦を史実より早く建造していたら?という考察をしてみました。史実はかなりやっつけ仕事ではありましたが、駒草の場合はかなり期間があったので、汽罐を新開発できました。また、海外に売却する予定だったので、予算もいりません。まぁ、海軍もある程度の興味は持ったみたいで一個駆逐隊作りましたけど。
実はこれ、私が今考えている架空戦記に登場させる予定だったりしましたので、スペック自体はすでにあったのですが、その物語は条件的に別府造船がある程度の地点までこないと書くことができません。でも折角なので、駆逐艦だけ登場させてみました。
私はよく山にも行きますので高山植物は大好きです特に、コマクサとナナカマドが。あのピンク色はなかなか見ていて癒されます。

次は空母の物語でも書いてみようかなと考えています。

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