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第二話 ラヴリーな遠回り

 朝、家のドアを出る時に抱いていた不安はどこかに消えて、私は次の目的地に向けて意気揚々とバスに乗った。


 イギリス人の運転手さんは陽気で親切——だから乗車するなり、私は運転手さんに声をかけた。


「このバスはカリスブルック城に行きますか」


 若い運転手さんは、真面目な顔で頷いた。


「着いたら教えてもらえますか」


 茶色い瞳で凝視した後、運転手さんは小さな声で「おー、オーケー」と呪文のように呟いた。


 約束を取り付けたけれど、私はやっぱりスマホの位置情報も確認した。慎重だからね。

 バスが進むにつれてマップの青い印が移動していく。地図上の道路を辿ると、間違いなく城へ向かっていることがわかった。これなら車窓の景色を楽しめそうだ。


 茶色いレンガ造りの住宅街を進むと、バスは坂道を登り始めた。小高い丘の上にある城らしいから、きっともうすぐだ。私は位置情報をチェックした。

 城の近くを青い印が移動している。


 窓の外を見ると、観光客らしき人たちも歩いており、Carisbrooke Castle と書かれた矢印型の道標も立っていた。


 たぶんここだ。

 けれど、見える範囲には停留所のポールは立っていない。


 それでもバスは停車して数人の乗客が降りていく。私も腰を上げたが、念のため運転手さんの顔を確認した。


 目が合うと、何か言いたげな暗い顔をしていた。


 あれ、ここじゃないって言いたいのかな。


 私は「ここ?」と窓の外を指差して首を傾げてみた。それでも反応は返ってこない。


 もしかしたら次の停留所が最寄りなのかもしれない。私は道標の先の坂道に目を向けた。坂がきついから、もう少しバスで行ったほうがいいのかな。仮に乗り過ごしたとしても、次の停留所から歩いて戻ればいいや。


 私はもう一度座り直した。

 運転手さんはちらりと私を見たあと、何事もなかったようにバスを発車させた。


 途端に、それまで続いていた住宅街が、一瞬で消えた。


 代わりに現れたのは、砂と緑の広々とした丘陵地帯。


 あれ?


 私はスマホの画面を確認した。確実に城から遠ざかっている。

 次で必ず降りよう。幸い、降車ボタンは誰かが押している。


 だけどこれまで等間隔に現れていた停留所は、一向に“次”が来なかった。


 ……市街地を抜けてしまったんだ。

 ヘソのあたりに隙間風が吹くような感覚があった。


 ようやく次の停留所に着き、明らかに地元の人らしきおじさんが一人、下車して行った。


 私は運転席まで歩み寄り、彼に話しかけた。


「カリスブルック城、過ぎたよね?」


 彼は黙って頷いた。彫りが深い顔立ちというよりは、目が落ち窪んでいる。申し訳ないとは一言も言わないけれど、申し訳なさそうな雰囲気が萎んだ肩から伝わってきた。


「ここで降りたら、反対向きのバスに乗れるかな?」


 困惑を極めた表情で彼は震えるように首を振った。


「いつ、そのバスが来るか、僕にはわからない」


 ……えっ。


 どうやら私の拙い英語は通じているらしい。

 そして、彼は本当に困っているらしい。


 若い。

 イギリス人の年齢は見た目からはわからないけれど、この困惑顔は見覚えがある。新入社員が不測の事態に初めて出会い、なすすべを失ったときの表情だ。


「ここでは、降りないほうがいいと思う」

 彼に言われて、私は窓の外を見た。遠くに民家は見えるものの、商店は一つもない。本当に農道の真ん中にぽつんと停留所のポールが立っているだけだ。


「ありがとう」

 お礼を言って席に戻り、私は島の観光案内の地図を広げた。少し行くと街らしきものがありそうだ。次の市街地に入ったら降りよう。


 ちょうど午後二時を過ぎたところ。最悪、夕方のホバークラフトに間に合えさえすればいい。

 そう方針を決めた。けれど事前に調べたのはカリスブルック城までの道のり、路線情報もよくわからなくて乗り継ぎがうまく行くだろうか。



 そのとき通路を挟んだ反対側のイギリスマダムが声をかけてきた。

 頭が真っ白で、何を言っているのかわからなかった。「どこからきたの? 大変ねえ」と、気遣いの言葉でもかけてくれているんだろうか。理解できなくても、優しさは沁みてくる。


 曖昧に首を傾げる私に、マダムは鞄からしっかりした冊子を取り出した。ガイドブックではない、列車の時刻表に似た情報量の、何か。

 素早い手つきで当該ページを開き当て、路線図を私に見せてきた。


 これは……。


 私は慌てて観光地図とペンを取り出した。


 マダムの指が現在地を指し示す。その指がすーっと路線図をなぞって、一箇所で止まった。次に降りようと思っていた街だ。でもマダムは路線図から顔を上げて、注意深そうな顔で言った。


「ここはダメよ。何もないの」

「ここで降りようと思っている」

 時制も忘れて、文法も無視して、伝えたい単語だけを並べた。


「やっぱりね。でもダメよ」

 マダムは次の市街地よりずっと先の、島の西の端を指差した。

「あなたはヤーマスへ行くの」

「ヤーマス?」


 マダムの言っていることの八割くらいはわからない。それでも、ここへ行けと言っていることだけはわかった。出発地点の東の港から見れば、完全に島の反対側だ。本当にここまで行くべきなのか。


「ここは大きなバスターミナル。待つ場所もあるよ」

 そのような雰囲気のことを言っていた。グレーがかった青い目は真剣だった。それにどこか余裕がある。魔法使いみたいに知的な目だった。


 この人を信じよう。


 私は自分の地図のヤーマスに印をつけた。


 マダムは「よしよし」と言いたげに、二度頷いた。


 そのあとはヤーマスに着くまでマダムと楽しくお喋りを続けて……なんてことはなかった。軽くお礼を伝えた私は外の景色を見ながら疲れ切った脳を休ませたし、一仕事終えたマダムも車内で本を読み始めていた。


 どれくらい経ったのか、バスは海辺の街へと辿り着いていた。ロータリーに数台のバスが停車している。ここが、ヤーマスだ。


 私はすぐに立ち上がった。

 立ち上がった私を見て、マダムがまた頷いた。


「ありがとうございました」

「健闘を祈るわ」

 そんな感じのことを言われた。

 若い運転手さんも少しだけ口元をにやけさせながら、安堵したように私を見送った。


 七番のバスに乗るんだな。

 マダムに言われたことを思い出しながら乗り場を移動する。バスが一台止まっていたけれど、発車する気配はない。

 丸顔の制服姿のおじさんがポケットに手を突っ込んで立っていた。


「カリスブルック城に行く?」

「もちろん! 乗って! まだ発車まで時間はあるけどね!」


 私はほっとして、さっきまで乗っていたバスを振り返った。


 車窓からマダムが見える。

 私は日本人らしく深々とお辞儀をしたあと、大きく手を振った。

 マダムも頷きながら手を振り返すと、マダムを乗せたバスは次の街へ向けて出発して行った。


 私は丸顔のおじさんに照れ笑いをした。


「降りる場所を間違えて、ここまで来た」

 おじさんは大袈裟に驚いたあと、両手の親指を立てて笑った。

「でももう大丈夫。ここから三十四分だよ!」

「おー、三十四分!」

 私も大袈裟に驚いた。意外に近いんだ。スマホも時計もすっかり見ていなかった。


「でも着く頃には、見学時間過ぎてるかもね!」


 城の最終入場時刻は、午後三時半。

 発車時刻は二時五十九分。もう間に合わない。


「そしたら、外から城壁だけ見るよ」


 行くって決めた場所には辿り着いてから帰りたい。当初の目的がなんだったのかも忘れてしまって、私はカリスブルック城へ到着することだけを考えていた。


「Lovely!」

 おじさんはそう言って、丸顔いっぱいに笑った。イギリス人はやたらラヴリーという。「いいね!」っていうニュアンスで使うらしい。


 ほんのひとときの滞在になった海辺の街。せっかくなので海風を腹いっぱいに吸い込んでから、私はバスのステップに足をかけた。


 そこからは万事、計画通りだった。

 運転手さんが言った通り、城へ到着したときには見学時間は終了していて、私は落ち葉を踏みしめながら城の外周をぐるっと回った。

 犬の散歩をするおじさんが親切に「もう閉まってるよ!」と遠くから声をかけてくれて、「知ってる!」と大声で返した。


 帰りは住宅街を走り抜けるバスに安心して乗り、ほんのり夕日色の港へ戻ってきた。

 そして相変わらず爆上げな音を響かせるホバークラフトに迎えにきてもらって、私は家路についた。



 家に帰ると、すでに夫が帰宅していた。


「今日は仕事になっちゃってごめんね。一人で大丈夫だった?」


 私は親指を立てて答えた。


「大人だからね。島を横断してきたよ」


 いろんな人に助けてもらったけどね。


「横断? 意外と冒険するタイプだったんだ」

「まあね」


 あ、一人で行けた証拠にお土産を買うの忘れてた。


 私は鞄から地図を取り出した。

 ヤーマスに丸印がついている。


「ここまで行ったよ」

「ここで何したの?」

「折り返し地点だよ」

「ふーん?」


 夫は不思議そうに返事をして、だだっ広いトイレに入って行った。


 何でも一人でできるのが大人ってわけじゃない。

 初対面の人を信じてみるのも、大人の余裕なのだよ。夫よ。

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