第一話 ペルフェクトな一人旅
今まさに、ヘソのあたりで何かがメラメラと燃え始めた。
夫はだだっ広いトイレで用を足しながら、へらへら笑った。
「大人なんだから、一人で見て回れるでしょ?」
ついたてを挟んで反対側、スマホを握りしめる私の手に力が入った。
ここはイギリス南部の港町、ポーツマス。
ポーツマス条約が締結された都市だと思っていたら、夫は「それ、アメリカ」と鼻で笑いおった。
そんな夫の単身赴任先へ、私は一週間の有給休暇をとって遊びに来ている。
夫が仕事なのは知ってる。私だって平日は一人で観光するつもりだった。土日に急な仕事が入ることだってあるだろう。追い詰められると笑う癖もある。それは別にいい。
ただ、「大人なんだから」は余計じゃないか。
私はスマホの画面を見た。イギリスのリゾート地だという、ワイト島。ポーツマスの港からたった十分間、ホバークラフトに乗るだけで着く。向こうだって観光地。何も、不安なんて、ない。
だって大人なんだから。
「行けるよ。ひとりで行ってみせようじゃないか!」
私はだだっ広いトイレの中で威勢よく宣言した。
私はあまり冒険しない主義だ。確実なところを狙う。
計画だってバッチリ。ホバークラフトで上陸したら、手前の観光地を二、三個見て暗くなる前に帰ってくる。帰りの便に間に合わないと詰んでしまうからね。おすすめの観光地を網羅するために、島を横断するような無謀な計画、慎重な私が立てるはずもない。
仕事に向かう夫と一緒に家を出た。三月の終わり、この日は風もなくて暖かかった。朝のお散歩にはちょうどいいくらいだ。
港までは徒歩で行った。バスに乗るのがちょっと不安だったからだ。その点、地図アプリに従って歩いていけば確実だ。
ほら、もう着いた。予定通り家から十五分。小さな遊園地の横に、ひっそりと乗り場があった。
陽気なおばさんと挨拶を交わしてチケットを買うのだって余裕。目的地は一箇所しかないのだから、チケットが一人分ってことが伝わればいい。なにやら英語で説明されたけど、帰りの時間さえ間違えなければ大丈夫だろう。楽しみだよって満面の笑みで返した。完璧。
イギリス人はよく「Perfect!」と言う。発音はイギリス式に、ペルフェクトだ。料理を運び終えた店員さんがテーブルを見渡して「完璧!」って感じで。
「Perfect!」
私が一通り説明を理解したとみると、チケット売り場のおばさんもやっぱり朗らかにそう言った。
ベンチで待っていると、ドゥルドゥルと爆上げな音を立ててホバークラフトが向こうの島からやってきた。
船内は家族連れなどで賑わっていて、私は窓際の席に座って外を見た。ゴム製のスカートみたいなものが膨らんだ船体はコンクリートのスロープに乗り上げている。海面に浮いて待機する船とは一味違う。これは帰ったら、夫に説明してやらねば。
ホバークラフトが本気を出した。待機音とは明らかに違う唸り声を上げて、海へ向かって滑り出した。本当に滑っている。エアーホッケーの上に乗って海の上を進んでいるみたいだ。イギリスに来るまでの飛行機は岩にでもぶつかってるんじゃないかってくらいガタガタして不安だったのに、この機体は安心感しかない。
感動が尽きる前に、向こう岸の砂浜に乗り上げた。ちょっとしたアトラクションだ。私は「帰りもよろしくね」と心の中で声をかけて下船した。
ここがワイト島か。上陸作戦成功だ。昨日の夜は、まさか一人で来ることになるとは思っていなかった島だ。
私は印をつけた地図を取り出した。目的地は二つ。港からバスで三十分のオズボーンハウス、そしてそこからさらに四十分くらいのカリスブルック城だ。
バスの表示を慎重に確認した。番号と、行き先。
今回乗る便は、終点の少し手前で降りるだけ。たとえ乗り過ごしても、取り返しがつく。
それでも私はバスに乗ると真っ先に、運転手さんのところへ行き、地図を見せて「こんちは! 私はオズボーン・ハウスへ行けますか?」と確認した。
サングラスをかけて白い歯を見せて笑う運転手は「もちろんだよ!」と答えてくれた。
よし、あとは降りる場所を間違えなければいいだけだ。
景色を楽しみながらも、私は停留所の名前と、スマホの位置情報を二重に確認した。もうすぐ、たぶん次のバス停だ。
そう思ったとき——
「次がオズボーン・ハウスだよ!」
乗客が少なくなった車内で、運転手さんが私に笑いかけた。
なんて親切な人!
さすが観光地だ。運転手さんも案内し慣れているのかもしれない。
私は感激して、目当ての停留所で降り、高揚した気持ちのまま観光を楽しんだ。
長時間のフライトも、今日の移動も不安だったけど、海を渡ってきてよかった。私はすっかり夢中になって、豪華な美術品や装飾品に彩られた王室の暮らしの裏と表を見学していた。
一人でも順調だ。やっぱり、大人だからね。
親切な運転手さんのおかげで、私は成功体験を、積んでしまった。




