第9話 「負けてもいい戦い」
時は菊花賞。優一は二冠を制したサツマキリコで三冠を狙っていた。
このレースには強い先行馬がいた。夏の上り馬だ。夏を越して強くなった強敵に、サツマキリコは挑まなければいけない。
優一は相手を考えて、早めに自分から動き出した。これなら先行馬を確実にかわせるはずだ。もくろみ通りに残り1ハロンで相手を抜き、先頭に立つ。
しかしその瞬間、サツマキリコの脚はパッタリと止まった。先ほど差したばかりの先行馬に抜き返され、それどころか後続にどんどん抜かれていく。あっという間に、全馬に抜かれサツマキリコはしんがりに追いやられる。
大差を付けられたサツマキリコ。いつの間にかタイムオーバーを知らせるものなのか鐘が鳴りはじめる。
と、そこで気付いた。いつもの競馬ではそんなもの鳴らないぞ。
優一はそこで目が覚めた。枕元では目覚まし時計の鐘のような音が高らかに響いている。優一は目覚ましを止める。
今までのは夢だったのだ。嫌な夢だ、だけど、それは優一の深層心理を見事に表していた。
今は3月、とうとうクラシックを初めとした春のGⅠに向けた前哨戦が始まる季節がやってきた。
優一はまずサツマキリコで皐月賞の優先出走権がかかったトライアルレース、弥生賞に挑む。そこでの乗り方が優一を悩ませていた。
サツマキリコは、これまで後方一気の競馬しかしていない。相手関係を見ると、その競馬をすれば確実に勝てるだろう、力はサツマキリコが抜けている。
だけど、その後方一気の競馬だけでいいのだろうか、優一は悩んでいるのだ。
サツマキリコはとにかく強い。能力ならロマンオンザターフよりも強いかもしれない、そう思わせるだけの圧倒的な実力が有った。だから、いつもの競馬をすれば当面は敵無しだろう。
だけど、それは当面だ。クラシックを勝ち抜いたとして、その後は古馬との戦い、そしてもしかしたら世界との戦いが待っているのだ。その時果たして後方一気の競馬だけで通用するのか? その時、自分から動く競馬を試さなければいけないかもしれない。
そして問題なのが、サツマキリコがそういう競馬をできるかどうかである。馬によっては限界まで溜めないと切れない馬だっている。サツマキリコがそういう馬だったら、本番になって動く競馬をして、合わなくて惨敗しては面目が立たない。
そのためには、あらかじめ試しておいて、本番は動くか溜めるか腹をくくれるようにするべきである。
であるが、そのような冒険をするべきなのかどうか、それが更なる問題である。これだけ抜けた馬であれば、いつもの競馬をすれば勝てるのだ。それは未来永劫他の競馬を試さなくても勝ち続けられるかもしれない。ならば別の競馬を試して負けるのはわざわざ戦績に泥を塗る行為なのではないか。それが優一を悩ませている。
優一はサツマキリコの最終追い切りにも乗った。見事な八分の仕上げだった。目標は先に有るのだ、トライアルは八割の出来で、皐月賞は九割五分、そしてダービーが万全になるように仕上げるのがベストである。であるから幸野調教師は最良の仕上げをしてくれたのだ。
この出来なら、トライアルの相手だったら確実に勝てるだろう。が、だからこそ別の競馬を模索するべきでは、と考える頭も有って、優一はまだ迷いに迷っていた。結局幸野厩舎の人間には何も言えずに次の調教に行くのだった。
その日の調教を終え、自分の所属する相原厩舎に戻ると、なぜか多賀子が待ち構えていた。
「ん、どうかしたか?」
優一は少し戸惑いながら、そう聞いてみた。
「んー、何か優一君が元気無いなって。調教もなんか身が入ってなかったから、大丈夫かなって」
多賀子は笑いながらそう答えてくる。あんまり鋭そうにない人に気付かれていたので、優一は自分にげんなりしてしまった。
「まあ、そうだな。ちょっと悩みが有る。幸野さんとこのサツマキリコ、トライアルの乗り方をどうしようか、考えが決まらなくて」
優一はそう言ってみる。多賀子はニコニコ笑って返してくる。
「それだったら自分が思う通りにやればいいよ。結果は必ずついてくるんだ」
多賀子はニコニコそう答える。
「それが決まらないから、困ってるんだ」
優一は少しいら立ちながら、苦笑いしてそう返す。そのいら立ちが半ば八つ当たりなのを自覚して、心が沈む。
それに対して、多賀子は自信有り気にいつもとちょっと違う笑い方をして、指を一本立てた。
「それだったらいい選び方が有るよ。どちらが自分が後悔しないか、それを選ぶといいんだ」
多賀子はその独特な笑いのまま、そう言い始める。
「あのね、私っていつも明るいねって、良く言われるんだ。いつもニコニコしてて、笑顔を絶やさないねって。それは自分でも気を付けていることだし、言われると嬉しいんだ」
多賀子が語り出す。そこで珍しい、苦笑いを混ぜる。
「だけどね、私だっていつも心が明るいわけじゃないんだ。悩むことだって迷うことだっていくらでも有る。笑顔を忘れかけることだって、一度や二度どころじゃなく、何度だって有ったんだ」
多賀子はそう言って、今度はまた自信有り気な笑いに戻った。
「だから、そういう時こそ後悔しないことを最善に考えるんだよ。どうすれば後で悔いることが無いかって。試したいことを試さなかったら、絶対後で悔いが残る。そういう時はやる。やれば、後で悔いが無い。悔いが無いってわかってるから、今の笑顔が曇ることは無い。私はそうやって生きてきた。だから、みんなから明るいねって言われるんだ」
多賀子はそう言うと、満面の笑顔になった。
「だから、優一君もそう選ぶといいよ。どれが悔いが無いやり方かどうか。後から後悔しなければ、優一君だってきっと笑えるよ」
多賀子は、笑顔のままそう言って締めた。優一も、つられて、そして気持ちが吹っ切れて笑顔になる。
「ありがとう。俺も決めたよ。おかげで俺も、後悔無く笑って乗れそうだ」
優一は多賀子にそう言って笑いかける。そして、すぐさま振り返る。
「俺、幸野さんとこ行ってくる。次の乗り方を、俺の考えをぶつけてくる」
優一はそう言って、速足で歩き出した。多賀子は笑ったまま、見えないのも気にせず手を振って見送っていた。
*
そして、優一は幸野に乗り方を進言し、幸野はそれを了承した。
果たして弥生賞のゲートが切られる。スタートしてすぐ、観客がどよめいた。優一が手綱を押して、サツマキリコを中団に付けたのだ。いつもと違う乗り方、ファンの皆もそれを知っている、驚いている。
レースは逃げ馬のサンタクロースが軽快に逃げている。1000m通過も平均ペース、このままだと逃げきってもおかしくない。
誰かが鈴を付けに行かないと。するとそこで、第3コーナーに入ったところでサツマキリコが自ら仕掛けて追いかけはじめた。やはりいつもと違う競馬、スタンドは大きくどよめいた。
サンタクロースが逃げていく。しかし、サツマキリコも差を詰めていく。
直線に入る。半ばで、既にサツマキリコがサンタクロースに追い付いた。差して、そして後続を引き離していく。
サツマキリコは1頭抜けだしていく。外からはライトニングボルトが迫ってくるが、今のサツマキリコの脚では追い付けそうにない。
だが、そこでサツマキリコの脚は鈍った。最後止まったサツマキリコを、ライトニングボルトは差しきった。大本命を差しきった大番狂わせに酔い、鞍上が小さくガッツポーズをした。
だが、その後ろで優一は笑っていた。この競馬だと脚は止まる。それがわかれば、この後は脚を溜めることに徹すれば良い。優一の両目がしっかり開いた。
本番のGⅠでは、決して負けることができない戦いが待っている。ならばこのレースは、名前の通りトライアル、本番に向けての試走である。言わば「負けてもいい戦い」。それをサツマキリコと優一は、最善の負けで進んだだけのことだ。
レース後の幸野調教師へのインタビューで、レースを振り返って、鞍上のミスではと質問が飛ぶ。
「レース運びは私と話し合って決めたものだ。むしろ責任は私に有る。乗り替わり? 打ち合わせた通りの展開をやって騎手を変えるわけが無いですよ」
幸野調教師はそう言うと、ニヤリと不敵に笑った。
「本番はあの競馬をしなければいいこと。見ててください、勝つのはうちの馬ですよ」
この敗戦は、後にサツマキリコを語る上で外せない、「伝説の敗戦」になった。だが、その話はまた別の機会にしよう。今度はこの物語の主役、ロマンオンザターフに視点を戻す。