131・おっさん、ビネガーと深夜に散歩する
「……聞いてねーよ!」
そうなのだ。
ネグリジェ姿のビネガー。どこからどう見ても、ただの……いや、可愛い女の子だったのだ。
「そうだっけ……まあいっか」
とビネガーは俺にまたがり、顔を近付ける。
「なあおっさん……」
「お前……さては飲んでるなっ?」
「……ちょぴっとだけ」
ビネガーの頬はほんのりと紅潮しており、声も上ずっていた。
いつも少年らしい言動のビネガーとは違い、少女の一面と艶やかな大人の一面を兼ね備えている。
そのギャップとアンバランスさで、頭がクラクラしてきた。
「おっさん……どっかに行っちゃうの?」
「ん? ゼニリオンを出て行く話か?」
「そうだよ。一週間後にここから出て行く、って言ってたじゃん」
「……ああ、その通りだ」
ビネガーの目は潤んでいた。
窓から差し込む月光の角度が変わり、ビネガーの太ももを照らす。
すべすべして、しかも柔らかそうだった。
——ゴクリ。
思わず唾を飲み込んでしまう。
「と、とにかくこっからどけ! ゆっくり話、聞いてやるから」
「嫌だよ」
とビネガーは駄々をこねる子どもみたいに、俺の胸板をポンポンと叩く。
「だって、ボクに魅力がないからおっさんはどっかに行っちゃうんでしょ? ボクがもっと女の子らしかったら、おっさんはどこにも行かないんだ……だから、おっさん。ボクの体を——満足するまでむさぼって?」
そう言って、ビネガーはちょこんと首をかしげた。
「——っ!」
息を呑み込んでしまう。
まいった——メッチャ可愛いじゃないか!
今すぐにでも、ビネガーを抱きしめたくなった。
しかし。
「だぁぁあああああああ! だからダメだって!」
「わっ!」
接近してくるビネガーの顔を右手で押しのけ、その場から逃げ出す。
「なんで俺の前には、こういうヤツばっか現れるんだ……」
リネアといい、ベラミといい……どうして、慣れない夜這いばっか仕掛けてくるんだ……。
このおっさん、勇者パーティーを追放される前は、モテたことなんて一回もなかったのに。
これもスローライフをしているおかげだろうか?
多分違う。
俺は改めてビネガーと向き合って、
「ビネガー……別に俺はお前に魅力がないから、ここを出て行こうとは思ってない」
「え……? じゃ、じゃあなんで! なんでここから出て行くのっ?」
「俺にも帰るべき場所があるんだ。だから帰らなくちゃならない。元々俺はここの住民じゃないんだしな」
イノイックには、ドラコもいるしディックもマリーちゃんもいる。
あいつ等の顔を思い出したら、自然と郷愁に駆られてしまっていた。
「俺がいなくなることによって、寂しくなってくれることは嬉しい。だけど……」
「ダメだよ! 諦めないよ! おっさんはここで一生暮らすんだ!」
そう言って、ビネガーは立ち上がり俺の手を引っ張った。
「来て」
「どこに?」
「おっさんがゼニリオンにずぅぅぅぅぅっと暮らしたくなるようにしてあげる!」
そのままビネガーは俺の手を引っ張って、外へ連れ出した。
い、一体この子はなにを考えてるんだっ?
「ああ、そうそう」
走っている最中。
ビネガーはクルッと顔を振り向かせて、
「男の子とちょっと間違えられてたなんて……ボク、ちょっと怒っちゃうな」
と子どもらしい笑みを浮かべた。
それから俺が連れ出された場所は、スラム街の広場であった。
「夜の広場ってのも、なかなか新鮮味があるな」
俺の言葉に、ビネガーがコクリと頷いた。
ちなみに今のビネガーは俺の服を羽織らせている。
さすがにネグリジェ姿で歩き回るのは、よろしくないと考えたからだ。
もっとも——上着の下はネグリジェ姿なわけなので、なんだか落ち着かないが。
「明るいうちは、ここでよくみんなと語り合ってるんだ」
俺の隣でビネガーが言う。
もちろん、『みんな』というのはスラム街の人達だろう。
「良い人達ばかりだよな。最初は怖かったけど」
「うん。だから誤解されてる」
「誰に?」
「ゼニリオンの人達に」
差別もされてるだろう。
だからこそ、バンは悪徳商人に騙されてしまった——という側面もある。
「でも、もう大丈夫だ。レストランが軌道に乗れば、ここも生まれ変わる」
「…………」
「俺がいなくても、ビネガー達は上手くやっていけるさ」
「……ボクは……おっさんと一緒にスラム街を立て直していきたい」
「…………」
「うんうん」
ビネガーは自分の言ったことに首を振り、
「立て直した後もずっとずっと。おっさんとここで暮らしていきたい。どうしても、帰っちゃうの?」
「……悪いがな」
「……!」
断ると、ビネガーは泣きそうな顔をこらえながら、もう一度俺の手を取った。
そしてまた歩き出す。
やれやれ。
しばらく深夜の散歩は終わりそうにないみたいだ。
そっからビネガーに色々なところに連れて行かれた。
バンの家だったり、道具置き場だったり、井戸が設置されているところだったり……。
その場所ごとで、ビネガーは「やっぱり帰っちゃうの?」と問いかけてきた。
それに対し、俺は即答で「悪いな」と断ってきた。
ビネガーの言いたいことは分かる。
だが、俺にだって大切なものがあって、捨てることは出来ないのだ。
やがて——俺はビネガーにとあるところに連れて行かれた。
「ここは……?」
スラム街の端っこ。
お墓らしきものがたくさん置かれている。
どうやら墓地のようだ。
俺はビネガーに導かれるままに、墓地の奥に進んでいくと。
「ここ」
あるお墓の前でビネガーは立ち止まった。
「ここにボクのお父さんとお母さんが眠っている」
簡易的なお墓であった。
どこかで拾ってきたのであろう、ちょっと大きめの岩にビネガーの父と母の名前が雑に刻まれている。
だけど——いつからあるのか知らないが——あまり痛んでないようだった。
きっとビネガーが手入れしているためだろう。
俺は自然としゃがんで、そのお墓の前で手を合わせた。
それに合わせて、ビネガーも隣にしゃがみ込んできた。
「「…………」」
俺もビネガーも一言も発しようとしなかった。
それは一瞬だったかもしれないし、一時間は経過してたかもしれない。
長いようで短い時間だった。
そして、俺はゆっくりと立ち上がり、
「……ビネガー。俺だって、この街が気に入ってるんだ」
とビネガーの小さな背中に向かって、そう口を開いた。
「…………」
「だからこそ、こういうスラム街みたいな場所があることが、どうしても悲しかったんだ。だからこそ、公爵に頼んでこういうことをやっている」
「…………」
「きっとビネガーはこの街が……スラム街が大好きなんだよな? だからレストランでも一生懸命働いて、なんとかしたいと考えている」
「…………」
ビネガーは手を合わせたまま、俺に視線も合わせてくれない。
「でも——俺だって、俺の街が大好きだ。帰らなくちゃならない。だってそこが——俺の帰るべき場所だからだ。大切な場所なんだ。だから……」
「分かったよ」
とビネガーがゆっくり立ち上がって、俺と正面に向かい合った。
「おっさんの気持ちは分かった」
「ありがとう」
「でも……もう少しだけ……もう少しだけ、力を貸して? まだデリシアルのヤツ等の動きも怪しいし……不安なんだ」
「当たり前だ。俺が『大丈夫』って思うまで、ここにいてやるから」
「そして……もしおっさんが自分の街に帰ったとしても、たまに、でいい……たまに、でいいからここに遊びに来て?」
「ああ。リネアも連れて、遊びに来るよ」
「……!」
それでビネガーは感情が爆発したのだろうか——俺の胸に飛び込んできて、ぐすっぐすっと泣いた。
俺はビネガーの頭を撫でながら、彼女を受け止めてあげる。
「おっさん」
「なんだ?」
「さっき言ったこと一つだけ訂正してもいい?」
「うん……?」
ビネガーは顔を上げて、真っ赤な目をしてこう続けるのであった。
「出来れば——『たまに』じゃなくて、『いっぱい』来てね?」




