貴族になれるかもしれない
1
女の首からナイフを抜くと血が噴き出した。噴水のように高く噴き上がり、避けきれなかった飛沫が私の顔にかかる。
共に女を押さえつけていた仲間を見ると、嫌そうな顔で汚れた手をふって血を落としていた。
「うぇー、きったな、、」
「やっと終わったわ。私たちだけでできるかちょっと心配だったけどよかったー」
汚くて薄暗い王都の路地裏の隅の一角で、集まった12人の少女たち。いまは思い思いの体勢で脱力している。地べたに座り込んで足を投げ出す者、寝転がって上を見上げる者、立ったまま疲れたように首を回して息をついている者。
「お手柄だねヘイリー。ジェイ呼んでこようか?」
女に馬乗りになったままの私に仲間の1人がだるそうに聞いてきた。その声に少しだけ我に返る。
「そうね。終わったって呼んできて」
息絶えた女の血と泥で汚れた金髪を見ながら、私はそう答えた。計画通りにやり遂げたはずなのに、ひどく頭が痛い。なにか、、何か忘れているような……。
周りの音が遠のいていき、急速に現実感が薄れていく。ガンガンと割れるように痛む頭に唐突に大量の知らない記憶が流れ込んできて、そのまま私は意識を失ったーーーーーー
***
目が覚めると薄汚れた灰色の天井が目に入った。天井といっても、ところどころ崩れかけた廃墟の剥き出しの壁だ。
重怠さを訴えてくる体に鞭を打って上半身を起こす。途端に襲ってきためまいに額を抑えてため息をついた。
どこだここは。どこかのアジトなのは間違いなさそうだが……。と、そこで嗅ぎ慣れた匂いがふと鼻をくすぐった。目線を上げると隅の方に何かの塊が無造作に投げ出されているのが見える。
「……………」
目を細めてよく見るとそれは人間の体だった。空を見上げる濁った虚ろな目。投げ出された手足。乾いた血の跡が身体中にべっとりとついているのが見える。首は半分もげかけていて、痛々しい傷跡に色艶を失った金髪がぱらぱらとかかっているのが哀れだった。人形のように整った顔は恐怖にひきつり、土気色のまま固まっていた。頬を薔薇色に染めいきいきと活力に溢れていた数時間前の姿からは想像できない姿である。
私は自分の手元に目を落とし、ゆっくりと右手を握ったり開いたりした。あそこに落ちている死体を作り出したのは私だ。紛れもなく私がこの結果を引き起こした。
「……ふふっ」
安堵から笑いがこぼれる。
「あはははっ、ははっ!!!」
天を仰いで高笑いした。別に人を殺すなんて今更であるが、自分が直接手を下したのは今回が初めてだ。達成感がある。
が。
「しかしどうしたもんか…」
一つだけ計算外の出来事が発生していた。
「乙女ゲームって……なによそれ」
満を持してあの女を殺した直後、割れるような頭痛と共に知らない記憶が流れ込んできた。結論から言うとそれは前世の記憶らしく、そしてどうやらこの世は前世の乙女ゲームの世界らしい。前世ではありふれた、平民の少女が学園に行って貴族や王子に目をつけられて幸せになる物語。ヒロインの相手役の婚約者たちの悪役令嬢は嫌がらせをしたことで処刑され、めでたしめでたしとなる物語だ。
ゲームの世界に転生した人物が前世の記憶を思い出すというと悪役令嬢ものが真っ先に頭に浮かぶだろう。それでなくとも、モブだったりメイドだったり傍観者だったり、前世の記憶によると手を替え品を替えあらゆるシチュエーションの物語が流行っていた。すわ私もなんらかのそういった役所かと思いきや、肝心の私は悪役令嬢でもヒロインでもモブ令嬢でもモブメイドでもない。
というかヒロインに至っては先ほど私に首をブッ刺されて今やゴミのように廃墟の一室の壁際に転がっている。確証はないがおそらくこの女がヒロインだ。
「うーーーん」
これをやり遂げたら達成感に満ち溢れるものかと思っていたけれど、前世の記憶なんかを思い出してしまったせいで悩みが増えてしまった。
原作開始前にヒロイン殺しちゃったんだけど、これは一体どうしたものか。
ガチャリ。
部屋の壊れかけのドアが開いた。
見慣れた銀色の髪が薄暗い部屋の中で光を鈍く反射して光る。
「お、目ぇ覚めた? どうよ気分は」
幼馴染であり相棒であり庇護者であり――一言では言い表せない関係性の少年。
抜き身の刃を思わせる危険な空気を身にまとった彼は、私を見てにんまりと笑った。
「最悪」
「元気そうじゃん」
「頭が割れそう」
「死なねぇなら平気だろ」
そう言いながら、ジェイはズカズカと部屋へ入ってきた。遠慮のかけらも見えない。まあ今更だけど。
年齢は私と同じか少し上。まあ正確な年齢なんか分からない。私も15歳を名乗ってはいるが実年齢は不明だし。
薄汚れた黒いシャツの上からでも分かる鍛えられたしなやかな体つき。まだ少年らしい線の細さも残しているくせに、その立ち居振る舞いには妙な隙のなさがある。少年と青年の狭間にいる、そんな男だった。
銀色の髪の隙間から覗く灰色の目が、部屋の隅に転がった死体へ向けられた。
「見事なもんだな」
「何が」
「ちゃんと死んでる」
「馬鹿にしてる?」
「してねぇよ。初めてヤッた割には綺麗にできてんじゃん」
綺麗。半分千切れた首を見て言う言葉ではない。まあ今更だけど。ジェイが死体の側まで歩いていき、しゃがみ込む。そのまま女の服を探り始めた。
「何してんの」
「金目のもん探してんだよ」
「死体漁り?」
「殺しはよくて死体漁りは駄目なのか?」
「私にいう?」
皮肉かよと呆れると、ジェイは喉の奥で笑いながら乱暴に女の死体をひっくり返した。
殺しはジェイの役目。死体から身ぐるみ剥がして換金するのは私の役目。バカな太ったハゲ親父とか、誰にも相手にされないひ弱な男とか、カモをひっかけて連れてくるのは私の役目。それを料理するのがジェイの役目。男をまとめ上げて秩序をつくるのがジェイの役目。女をまとめ上げるのが私の役目。
ジェイと私は相棒で、だけど同時に私はジェイに守られている。力が全てのこのスラム街で女は男の庇護がないと生きていけない。
「お前いきなりこの女の上で倒れるからさぁ、大変だったんだぜ?わざわざここまで死体引っ張ってくるのもこの俺様みずからがやってやったんだ、感謝しろよ」
「それはどうも。でもなんで死体と私を同じとこに寝かしとくわけ?ここまで引っ張らなくても誰かが処理してくれるでしょうに」
「そりゃお前、初めてヤッた獲物だろ??成果は自分の目で見たいかと思ってさ。起きたら真っ先に目に入るとこに置いといたんだぜ」
「趣味わるー」
あっけらかんというジェイに苦笑しながら、私は膝を立てた。まだ頭の奥がじくじく痛む。
断片的な記憶が、まるで昔から知っていたことのように脳裏へ浮かんでは消えていく。
学園。王太子。悪役令嬢。攻略対象。そしてヒロイン。
私はちらりと、壁際に転がる女を見た。
やはり間違いない。顔も、髪の色も、名前も。前世で見たゲームの主人公そのものだった。こんな薄汚れた路地裏で男を弄んだ責任をとらされて殺されるような女ではなかったはずなのだが。
いや。
正確には、原作が始まるまでの彼女が何をしていたのかなんて知らない。ゲームの最初では確か、男爵家に引き取られたばかりの平民出身の少女だった。
明るく、素直で、誰にでも分け隔てなく接する愛される少女。
私は思わず鼻で笑った。
「……愛される少女、ね」
「何?」
「なんでもない」
どうやら、愛されすぎるというのも考えものらしい。私たちの世界では。
「お」
ジェイが何かを見つけたらしく、声を上げた。
「何かあった?」
「これ」
彼が放って寄越したものを、反射的に受け取る。小さな革袋だった。紐を解いて中身を手のひらに出す。硬貨が数枚。安物の髪留め。小さく折り畳まれた紙。
それから。
「……これ」
銀色のペンダントだった。薄暗い部屋の中でも分かるほど精巧な細工。中央には見慣れない紋章が彫られている。いや。見慣れないはずなのに、私は知っていた。前世の記憶が勝手に答えを寄越す。
――エルヴァン男爵家。
「貴族の紋章か?」
ジェイが私の肩越しに覗き込む。
「……そうみたい」
「なんであいつが?」
私は答えず、折り畳まれた紙を開いた。上質な紙に、丁寧な文字が並んでいる。すべて読める。文字の読み書きはできておいた方がいい。君たちの力になる。昔、そんなことを言って読み書きや教養を教えてくれた教会の神父がいた。本部にも忘れ去られたオンボロ教会の神父でスラムの子供達を憐れんで食べ物や毛布を恵んでくれていた。何年か前に暴漢に襲われて死んだけど。犯人はわからない。誰も調べない。この地区じゃよくあることだ。
文章を目で追う。何度か読み返す。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
「ジェイ」
「ん?」
「これ、面白いかもしれない」
「その顔してる時のお前、大体ろくなこと考えてねぇんだよな」
失礼な。
私はもう一度手紙を見る。そこには、家族に不幸があったため改めて娘を男爵家に迎え入れたいという旨と、使いを寄越すことが記されていた。
娘。つまり、ヒロイン。あの女はまだ、男爵家に行っていない。男爵も、おそらくこの女の顔を知らない。私の髪は金色であり、背格好もほぼ同じである。
「……なるほど」
口角が勝手に上がる。ジェイが怪訝そうに眉を寄せた。
「何だよ」
私はペンダントを摘まみ上げた。銀の表面で家紋が鈍く光る。
「ねえジェイ」
「ん」
「私、貴族になれるかもしれない」
数秒の沈黙。ジェイは私の顔を見た。次にペンダントを見る。それから死体を見る。再び私を見る。
「……お前まさか」
「そのまさか」
「ついにイカれたか?無茶言うなよ」
「でも、面白そうじゃない?」
「面白いかどうかで決める話じゃねぇだろ」
そう言いながらも、ジェイは笑っていた。止める気がない時の顔だ。
昔からそうだ。私と初めて出会った時も、二人で酒場の用心棒を嵌めた時も、初めて他のやつらの縄張りを奪った時も。屈辱を味わされた時も。雌伏の時を過ごした時も。
ジェイは必ず私の隣にいた。
「で?」
ジェイが壁に背を預け、腕を組む。
「貴族になってどうすんの」
私は少し考える。
王太子。学園。悪役令嬢。ゲームの筋書き。そして、最後には王太子と結ばれ、何もかも手に入れるヒロイン。前世の私ならきっと憧れたのだろう。平民の少女が王子に愛される夢みたいな話。
けれど今の私には夢には見えなかった。ただの道だ。使える道。なら使えばいい。
私は死体の女を見下ろした。
「せっかく道を空けてくれたんだもの」
唇が自然と弧を描く。
「歩かないともったいないでしょ」
ジェイは何も言わなかった。ただ私の顔をじっと見ている。
「なによ」
「いや」
やがて、にい、と口角を上げた。
「悪くねぇな」
「止めないの?」
「なんで?」
なぜ?たしかに。普通なら止めるがジェイは普通じゃない。イカれている。愚問だった。
「無茶だとか、馬鹿なこと言うなとか」
「無茶なのはいつものことだろ」
それもそうだ。ジェイは私の手からひょいと手紙を取り上げた。一度。二度。素早く目を走らせる。
「このエルヴァン男爵ってのがこいつの親父か」
ジェイが顎で死体を示した。奇妙な方向に手足が投げ出されている。
「そうみたいね」
男爵家とは縁もなく、平民として育った少女。母親が病で倒れてからはパン屋で働き、明るい性格と愛嬌のある容姿で看板娘として可愛がられていた。母親はほんの数週間前に死んだ。ここまでは知ってる。一応殺す前に下調べしたから。
「それで、どうするつもりだ?」
ジェイの一言で、浮わついていた気分が一気に現実へ引き戻された。
「どうするって?」
「だから。お前が貴族になる方法」
「これ持って行けばいいんじゃない?」
私は指先でペンダントを揺らした。ジェイが呆れた顔をする。
「お前、貴族ってそんな馬鹿なの?」
「知らない」
「俺も知らねぇけど、さすがにそこまで馬鹿じゃねぇだろ。最初は良くても絶対ボロが出てバレるぜ」
「…………」
それはそうだ。改めて手紙へ目を落とす。そこには確かに、〇〇日に使いを寄越すと書かれている。つまり男爵家の人間があの女のいる場所まで迎えに来るまで、あと2週間弱。
私はもう一度死体を見た。当然ながら今後彼女がパン屋で笑顔を振りまくことは2度とない。
「まずいわね」
「今気づいたのかよ」
「うるさい」
あの女――確か名前はリリアだったか。リリアは大通り沿いの小さなパン屋の看板娘だ。少なくとも、周囲にはそう認識されている。店先に立っては男に笑いかけ、常連でもない客の名前を覚え、少し褒められれば恥ずかしそうに頬を染める。そうやって何人もの男をその気にさせていた。表の世界でやる分には好きにすればいい。ただ、物事には境界線というものがある。
そのせいでこちらは随分と迷惑した。
「つーかこのまま何もしなかったらこっちの首も飛ぶな」
「貴族の娘をぶっ殺したからね。いないのバレたら捜索が入るし、それに備えた殺し方なんかしてないしねぇ」
ジェイが眉をひそめた。指で顎の下をさする。考えるときの癖だった。
「まあお前が貴族になるかは置いとくとしてもだ。迎えとやらがどこに来るかは知らねぇが、とりあえずパン屋の口は塞ぐ必要があるな」
「私が身代わりに行った方が捜索とか入りづらくない?結局娘がいなくなったらどうなったんだってなんじゃん」
「まあそうだけど、こいつの顔みんな知ってるよな?」
「そりゃあね」
「じゃあ無理じゃね?」
あっさり言って、ジェイが死体の頬を靴先でつつく。
「パン屋の親父が男爵家の奴らに『この女はうちの看板娘じゃありません』って言ったら終わりだろ」
「言わせなきゃいい」
口にしてから、自分でも随分単純な答えだと思った。ジェイが片眉を上げる。
「殺す?」
「物騒ね」
「お前が言う?」
「何でも殺せばいいってものじゃないでしょう」
「今日女12人集めて1人刺し殺した奴の台詞とは思えねぇな」
私は無視した。パン屋があるあの辺りは確かバルドの縄張りだ。市場から南門までの通りを仕切っている男で、商売人からみかじめ料を取っている。ジェイとは何度か話をしていたはずだ。仲がいいわけではないが敵でもない。
「バルドに頼めない?」
「そうだな……まぁ、娘がいなくなっただけならよくある話で済むか」
ふーっと息を吐いて立ち上がると、ジェイは壁に背を預けた。
「男だな」
私は目を瞬く。
「消えた理由」
すぐに理解した。そういうことね。上手いこと考える。
「俺んとこの男と逃げた。大事にしたくねーなら騒ぐなって伝えろってバルドに話を通す。これでいい」
思わず笑った。くすくすと笑いが止まらない。
「最高の理由。誰も疑わなさそう」
「だろ?」
あの女に本気になっていた男は一人や二人ではない。見境なく誘惑していたし、そのうちの誰かと駆け落ちしたと聞けば、納得する人間の方が多いだろう。最近だけでも新たにリリアに入れ込んでいた男を私は7人知っている。そのうち二人は妻帯者、3人は恋人もち。一人は昨日、リリアを巡って仲間と殴り合いをしていた。これほど説得力のある失踪理由もない。少なくとも、12人の女に囲まれて首を刺されて殺されました、よりはよほど自然だ。
しかし前世の記憶が蘇った今となってはあの女の妙な魅力が腑に落ちる。ヒロイン補正か何かで魅了の力でも持っていたのではなかろうか。男が行くとダメだということであの女の殺しの実行は私たち女だけで行った。
あの女に狂ってた仲間うちの男どもが私たちを止めようとしたが、ジェイがおさえた。抑え方は聞いていないが、何人か引きずって奥に連れていったのをみた。
「適当に男も一人消しとけばもっとそれっぽいな」
「やめなさいよ。面倒が増えるでしょ」
「冗談だって」
けらけら笑って言っているがたぶん、半分は本気だ。目の奥が笑っていない。
「でもよ」
ジェイが再び私の手から手紙を奪った。
「こっちには迎えに行くって書いてあんだろ」
「そうなのよね」
「パン屋で待ってたら別人だってバレる。なら迎えが来る前に動いた方がいい」
少しの思案の後、ジェイがそう言った。
「動くって?」
「男爵家に先に行っちまえよ」
私はジェイを見る。
「何て言って?」
「知らねぇよ。そこ考えんのはお前の役目だろ」
そう言って手紙を返される。私は再び文字を追った。娘を迎えたいこと。2週間後に使いを寄越すこと。
「……母親が死んだばかりで、一人でいるのが心細かった」
「ん?」
「迎えを待てなかったことにする」
私は顔を上げる。
「母親を亡くした十五歳の娘が、不安になって待ちきれず父親を頼って一人で訪ねてきた。この手紙とペンダントがあれば信用になる」
少し考えて、付け加える。
「泣けばもっといいね」
ジェイが真顔でこちらをみた。
「お前泣けんの?」
「失礼な。泣くくらいできるよ」
「やってみろよ」
「今?」
「今」
私はジェイを睨んだ。ジェイは楽しそうにニヤニヤしながらこちらを見る。少し腹が立ったので、試しに目を伏せた。
肩から力を抜いて息を浅くする。唇を僅かに震わせながら頭の中に適当な光景を思い浮かべた。
寒い夜。腹が減っている。泥だらけの足。知らない男たちの笑い声。走って走って走って捕まって、何もできない無力感。ただ耐えるしかないあの地獄。
「……お父、さま」
声を震わせる。ゆっくり顔を上げた。
「ごめんなさい……迎えを待つように言われていたのに。でも、お母さまが亡くなってから、一人で……怖くて……」
笑うことも泣くことも怯えることも好意があるように見せることも相手が欲しがる女になることも、全部、生きるために覚えた。
目尻から涙が一筋落ちた。
ジェイの顔から笑みが消えた。
「どう?」
「…………」
「ねえ」
手の甲で涙を拭う。
「……まあ、それなら何とかなるかもな」
ジェイはしばらく妙な顔をしていたがやがて大きく息を吐いた。
「問題は男爵本人だな」
「顔?」
「それもある」
ジェイはしゃがみ込むと、女の死体の髪を掴んで顔を上げさせた。死者を扱う手つきに躊躇はない。私たちにとって死体など珍しいものではない。これも後でいつもの場所へ運べばいい。夜になれば処理屋が引き取る。服も装飾品も、使えるものは剥がす。骨の一本まで金になる。わざわざ悩むようなことでもなかった。
「母親が男爵に娘の絵姿を送ってたかもしれねぇ。手紙をやり取りしてたかもしれねぇ。男爵家の使用人にこの女知ってる奴が残ってる可能性もある。つーか手紙出してるってことはそれなりに調べてんだろ、この女について」
指を一本ずつ折りながら並べていく。私はため息をついた。
「いやー細部を詰め始めるとボロがでるわでるわで困るわねー」
人間1人に成り替わろうなんてそう簡単にできるもんじゃなかった。好きな食べ物も生まれたところも母親のこともパン屋のこともなーーーんにも。何にも知らない。私がこの女について知っていることといえば馬乗りになった時に下で暴れる筋肉のうごめき、首にナイフを差し込んだときの硬い骨の感触、自分の血に溺れてゴボゴボとこぼれる喘鳴、急速に光を失った瞳。そんなことくらいだ。
まあある意味誰よりもこの女の本質に触れたとも言えるが。
「じゃあ、調べて」
「は?」
「リリアについて。生まれた場所、母親の名前、男爵との関係。パン屋に来る前どこにいたか。知ってる奴がどれくらいいるか」
指を一本ずつ立てる。
「男爵家についても。家族構成。使用人。評判。金。敵。味方。できれば最近の動きも」
「注文多くね?」
「できる限りでいいよ」
ズルズルと壁に背中をつけたままジェイはしゃがみ込んだ。右手が顎の下を撫でる。考え込んでいる。
「……いいだろう。1週間くれ」
「ありがとう!いやーこの子と髪と目の色同じでよかった。体格も似てるしうまくやればバレないわよ」
「まあな。あとは態度だなー」
「態度?」
「お前ガラ悪いじゃん」
「ジェイに言われたくない」
「俺は貴族にならねぇもん」
「腹立つわね」
ジェイはけらけら笑った。私は粗末なベッドの上であぐらをかいて頬杖をついて座っている。背中も丸まっていて、確かにガラが悪い。お互いに目を合わせてニヤニヤした。貧民街なんてこんなもんだ。
悪どいことして金稼いだって真面目に働いたってスラム出身者は表の世界でまともな部屋も借りられない。私たちが表の世界を大手を振って歩くには裏の伝手やルートが必要である。しかしそこまで裏社会でのしあがるにはまだまだ私たちは子供だった。
所詮はスラム街の若者の中で頂点に立っているだけである。
数年前の出来事からただのガキじゃないことは知られている。だからなめられてはいない。もう簡単に手も出されない。ジェイが睨みを利かせている。でも、所詮はまだ15歳の子供だ。
「服もいるな。髪も何とかしろ。爪も汚ねぇ」
「そっちも汚いじゃない」
「俺はいいんだよ」
ふん。
ジェイは手持ち無沙汰になったのか、ポケットから煙草を出して火をつけた。大きく吸って、ふぅーと白い煙を吐き出す。確か数年前からだ。吸うようになったのは、あの時から。
ジジっと煙草の火がかすかに音を立てた。
「ジェイ」
「ん?」
「もし失敗したら?」
何となく聞いた。男爵家に入り込んで正体がばれて捕まって貴族を騙した罪で処刑される。十分あり得る未来だ。
ジェイは一瞬だけ黙った。それから何を馬鹿なことを聞いているんだという顔をした。
「死体は回収してやるよ。冒涜はさせない」
「そこは死んでも助けるって言いなよ」
「やれることには限界があるからなぁ〜」
間違いない。死体の回収だけでも大仕事だもんね。見せしめに城門に晒されるだろうし、回収もなかなか難しいだろう。ジェイは目を細めてまた煙を吐き出した。そして立ち上がると私からペンダントを取り上げる。しばらく眺めたあと、こちらへ放った。
「やるなら徹底的にやれ」
私はそれを受け取る。しゃらんと鎖が軽やかな音を立てた。
「中途半端に貴族の娘になって終わりじゃつまんねぇ」
「じゃあ、どこまで?」
私が笑うとジェイも笑った。灰色の目が愉快そうに細まる。
「どうせなら一番上まで行けよ」
その言葉に、脳裏に一人の男の姿が浮かんだ。王太子。原作でヒロインが愛される相手でありこの国で王の次に高い場所にいる男。
私は手の中の銀細工を見下ろした。ただの平民だった少女が男爵令嬢になり学園へ入り王太子に愛され最後には王族になる。前世では夢物語だった。
でも今の私には。
「……それ、いいね」
ジェイが鼻で笑う。
「決まりな。とっととこんなクソみてぇなゴミ溜めから抜け出せ」
「うん。でもいいの?……私だけ」
ポツリと尋ねる。1人だけ抜け出すとは、つまりそういうことである。利己的、薄情、裏切り者。いろんな言葉で形容できる。でも私は……。
ため息が聞こえた。顔を上げるとジェイが薄く笑ってこっちをみていた。
「お前がやりたいことやれよ。誰にも遠慮する必要はねぇんだぜ」
「…………そっか。ありがとう、ジェイ」
壁際では本来その道を歩くはずだった少女が冷たくなって転がっている。私はその死体を見てふと笑った。悪いわね。でももう要らないんだし貰ってもいいでしょう?あなたの名前も家もあなたが行くはずだった学園もあなたを愛するはずだった男も、全部。私がもらってあげる。




