第5話:一皿で変わる関係
市場の奥で、声がぶつかっていた。
「だから、この値段は高すぎるって言ってんだ!」
「質を見ろ、質を!安物と一緒にするな!」
怒鳴り声。
人が少し距離を取っている。
間に入る者はいない。
片方は商人。
もう片方は客らしい男。
互いに一歩も引かない。
空気が、固い。
ぴり、と張り詰めている。
「……よくあるの?」
小さく聞く。
隣で、少女が肩をすくめた。
「たまにね。ああなると、しばらく無理」
視線を向ける。
商人の前には、肉が並んでいた。
さっき食べた串と同じ種類だろう。
ただ、まだ焼かれていない。
赤い塊のまま、無造作に置かれている。
(……もったいないな)
ぽつりと、思う。
あれは、焼いたときが一番いいのに。
あの匂いと音があれば——
ふと、考えが浮かぶ。
「ちょっと、あの肉使っていい?」
「え?」
少女が驚く。
もう一度、あの二人を見る。
まだ怒鳴り合っている。
「……止めるの?」
「止めるっていうか」
少し考えて、言う。
「食わせる」
⸻
「なにして——」
商人が気づく前に、肉をひとつ取る。
「おい!」
「一個だけ。あとで払う」
短く言って、近くの火に向かう。
鉄板のようなものが置かれていた。
火は、もうついている。
ちょうどいい。
肉を乗せる。
——ジュウウウッ。
一気に、音が弾けた。
鋭くて、強い音。
脂が、跳ねる。
煙が立ち上る。
その瞬間。
空気が、変わった。
怒鳴り声が、ほんの一瞬だけ止まる。
匂いが、広がる。
焼けた肉の香ばしさ。
脂の甘い匂い。
さっきまでのピリついた空気に、無理やり割り込む。
ひっくり返す。
——ジュッ。
また音が鳴る。
表面が、こんがりと色づく。
端が、少しだけ焦げる。
そこがいい。
余計なことはしない。
香草を、少しだけちぎる。
ぱら、と乗せる。
熱で、香りが一気に立つ。
仕上げに、塩をひとつまみ。
それだけ。
それで、十分だ。
火から外す。
木の皿に乗せる。
「ほら」
そのまま、二人の間に差し出した。
「食べてみて」
「はあ?」
男が眉をひそめる。
「なんで今——」
言いかけたところで、匂いが届く。
ほんの少しだけ、言葉が詰まる。
商人も、黙る。
視線が、皿に落ちる。
肉からは、まだ湯気が立っている。
じわ、と脂が滲んでいる。
静かな時間が、数秒。
「……」
男が、ゆっくりと手を伸ばす。
半信半疑のまま。
一切れ、つまむ。
口に入れる。
——その瞬間。
止まった。
動きが、ぴたりと止まる。
噛む。
——ジュワッ。
音はしないはずなのに、聞こえた気がした。
肉汁が溢れる。
熱と一緒に、旨みが広がる。
噛むたびに、香ばしさが鼻に抜ける。
塩が、輪郭を作る。
香草が、後ろからふわっと抜ける。
もう一口。
勝手に、手が動く。
さっきまでの怒りは、どこかに消えていた。
「……うまい」
ぽつりと、こぼれた。
商人が、それを見ている。
「……貸せ」
皿を取り上げるようにして、自分も食べる。
一口。
同じように、止まる。
目が、わずかに開く。
ゆっくり、噛む。
飲み込む。
もう一口。
何も言わないまま、食べる。
気づけば、皿は空になっていた。
沈黙。
さっきまでの怒鳴り声が嘘みたいに、静かだ。
男が、口を開く。
「……さっきの話だが」
声が、さっきより低い。
落ち着いている。
「少しは、考えてやる」
商人が、鼻で笑う。
でも、その顔も柔らかい。
「こっちも、少しはまけてやるよ」
短いやり取り。
それだけ。
それなのに。
空気は、もう完全に変わっていた。
さっきまでの棘が、ない。
周りで見ていた人たちも、ほっとしたように息を吐く。
誰かが、小さく笑った。
「……なんだったんだ、今の」
少女が、隣で呟く。
「さあ」
肩をすくめる。
「ただの肉だよ」
実際、そうだ。
特別なことはしていない。
焼いて、塩を振っただけ。
でも——
あの瞬間、二人は同じものを食べた。
同じ温度を感じて、同じ味を知った。
それだけで、少しだけ“同じ側”に立った。
「……すごいね」
少女が言う。
「さっきまで、あんなだったのに」
「腹減ってたんじゃない?」
冗談っぽく言う。
でも、半分は本当だと思っている。
腹が満たされると、少し余裕ができる。
その“少し”で、人は変わる。
商人が、こちらを見る。
「おい」
「ん?」
「さっきの、もう一回焼けるか」
口元が、少しだけ緩んでいる。
「客に出す」
男の方も、苦笑する。
「それ、俺にもくれ」
さっきまで揉めていたのに。
今は、同じ皿を求めている。
「……いいよ」
少し笑って、火の方へ向かう。
また、肉を乗せる。
——ジュウウウッ。
あの音が、また響く。
今度は、誰も怒鳴らない。
ただ、待っている。
焼けるのを。
匂いが広がる。
さっきよりも、少しだけ穏やかな空気の中で。
腹が鳴る。
ぐぅ、と。
少女が吹き出した。
「結局、自分も食べるんだ」
「食べる」
即答する。
だって——
こんな匂い、我慢できるわけがない。




