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05. 似ているということ、すなわち最高の褒め言葉

 ビジネスホテルのチェックインは、夜の時間帯に集中する。ソレイユホテルは十五時からチェックインが始まるが、夕方に到着する人はまばらで、律子たち日勤スタッフはいつもその時間帯を利用してフロント業務以外の自分の担当業務を進めていた。

「律子さん、備品の発注しますけど何か必要な物ありますか?」

 事務所でコピー用紙の在庫を確認していた浜崎が、フロントに戻って来るとそう尋ねた。文具等の備品の棚卸と発注は、入社二年目の浜崎の担当だ。夜中にコピー用紙を補充して在庫が残り僅かになったとの引継ぎを受け、ついでに他にもまとめて注文しようと確認をとっているらしい。

「フロント用のボールペンの替え芯はまだあったっけ?」

「それは注文するつもりです。あと、部長からはファイルを頼まれたのでそちらも発注します」

「そっか。それならわたしは特にお願いするものはないな」

 了解ですと答えながら、浜崎は引き出しを開けてゲスト用の貸出し備品に不足が出ていないか念の為に確認している。その隣で律子は、厨房に報告する為に、先一週間の朝食付きプランの予約者の数を確認していた。


「そう言えば浜ちゃん、昨日のコンパはどうだったの?」

 予約システムで朝食付きプランのデータを抽出しながら、律子が尋ねる。昨日は公休だった浜崎は、高校時代の友人とコンパに行くと数日前から張り切っていたのだ。

「聞いてくださいよ律子さん。超タイプの人がいたんです!」

「ほほう」

「クールなイケメンです。今度飲みに行く約束も取りつけました」

「さすが浜ちゃん、仕事が早いね」

 かつて自分の歓迎会で恋愛していないのは生きていないのと同じだという名言を吐いた後輩は、常にアグレッシブに運命の人を探し求めている。ピンときたらすぐに連絡先を交換してデートに誘うのだが、あいにくいつも数回で連絡が途絶えてしまい、今度こそと意気込んでいるのだ。

「そりゃあそうですよ。いいなと思っているのに、躊躇する意味が分からないです」

「躊躇せずに進める若さが眩しいよ」

 冗談めかして口にした台詞は、けれどもたっぷりと羨望の気持ちが含まれている。そんな三十路の言葉を、浜崎はあっさりと一蹴した。

「年は関係ないんじゃないですかね。若くても、躊躇する人はするでしょう?」


 別に彼女は律子のことを言ったわけではないのだろうが、思い切り図星を指されて言葉を失った。そうなのだ。浜崎の言うとおり、ブレーキとアクセルのどちらを踏むかは、年齢ではなく性格の問題だ。若い頃だって結局アクセルを踏むことができなかったくせに、律子は自分が躊躇する理由を年齢のせいにすり替えようとしていたのだ。

「浜ちゃんの言葉が痛い……」

「へ、どうしてですか?」

 律子が自分の心臓のあたりを押さえながら呟くと、きょとんとした表情で見つめ返された。

「浜ちゃんはさ、振られた時のことは考えないの?」

「考えたくはないですけど、それはどうしても考えてしまいますよ。だけど、伝えないより伝えた方が成就する確率は上がるじゃないですか。もちろん相手が告白してくれるのが一番良いですけど、わたしのことを何とも思っていない場合、まずは気持ちを伝えて意識させないと何も始まらないですもん」

 それは律子だって分かっている。分かっているけど、上手くいく可能性よりも失敗して関係が崩れてしまうリスクばかりを考えてしまうのだ。

「気持ちを伝えたが為に気まずくなるくらいなら、気持ちを隠して気安い関係でいられる方が良いと、わたしはそう考えてしまうのよ」

 パソコンの画面を見つめたまま、律子は自嘲気味に笑った。


「実はわたし、滝さんに告白したことがあるんですよ」

 黙って律子の横顔を見つめていた浜崎だが、やがて唐突にぼそりと打ち明けた。

「はあ!?」

「律子さん、すごい顔です」

 さらりと伝えられた内容に相槌をうちかけたが、耳から入った言葉が脳まで伝達されたその瞬間、律子の口から奇妙な叫び声があがっていた。

「た、滝くんって、あの滝くん?」

「あの滝さんです。わたしのタイプにぴったりだったんで、入社してすぐに好きになりました」

 確かについ先程、好みはクールなイケメンだと言っていた。それを聞いて、ぼんやりと滝の顔を脳裏に浮かべたりもした。けれどもまさか、律子の知らないところでそんな恋物語が繰り広げられているとは思ってもみなかった。

「はあー……」

「何ですか、その盛大な溜息は」

「いやあ、浜ちゃんはすごいなあと思って」

 しみじみとそんな感想を漏らす律子に対し、浜崎は大真面目な表情で持論を展開し始めた。

「だって、いつ一緒にいられなくなるか分からないじゃないですか。同じ職場で働いている今は家族より長い時間を一緒に過ごしているけど、それが続く保証なんてゼロですよ。いつ異動になるか分からないし、いつ辞めてしまうかも知れないですから」

「そりゃあそうだけど」

「学生時代なら文化祭とか修学旅行とか、きっかけになる行事があります。一年すればクラス替え、三年経てば卒業と時間が限られているので、告白に踏み切る勇気も出しやすいです。でも、社会人はいつまで一緒にいられるか分からないから、自分が動かなきゃ関係を変えることなんてできないなと思ったんですよ」


 すべてが浜崎の言うとおりだった。当たり前のように顔を合わせていた毎日は、辞令ひとつで、会うことさえもが特別になってしまうのだ。

「ねえ、律子さん。律子さんはわたしが滝さんに告白したこと、今までご存知なかったんですよね?」

 浜崎がそう尋ねてくる。ふたりともそんな素振りも見せなかったので、まったくの寝耳に水だ。

「わたしの今の驚きっぷりを見たら分かるでしょうが」

 そう答えると、先程の律子の表情を思い出したのか、浜崎は笑いを噛み殺しながらそうですねと頷いた。

「振られても、別に関係は崩れないですよ。現に律子さんは、全然気づいていなかったでしょう?」

「それはそうだけど……」

「あっさり振られてしまいましたけど、滝さんは変わらず先輩として接してくれています。そういう人だと分かっていたら好きになったし、告白もしたんです。もちろん最初は気まずかったですけど、とっくに吹っ切れましたし、あの時勇気を出して良かったなと思っています」

 振られたあとも毎日会うのに、相手に気を使わせたくない。それは一見相手を気遣っているようでいて、告白する勇気の出せない自分への体のいい言い訳だ。あっさりと次のステップに進んでいる後輩の姿に、自分は何年も同じ場所に留まって動けないでいることを律子は痛感した。


「あれ、プリンターが何か点滅してますよ」

 やがてフロントカウンターの下に置かれているプリンターにふと視線を落とした浜崎が、そう声をあげた。先程、朝食付きプランの予約数を抽出したデータをプリントアウトしたのだが、紙詰まりでも起こしたのだろうか。屈んで液晶部分を見ると、トナー切れのサインが点滅していた。

「トナーが切れたみたい。浜ちゃん、ついでにトナーも発注しておいてよ」

「えっと、それは……」

 律子がトナーカートリッジを取り出しながら頼むと、何故だか浜崎の返事の歯切れが悪い。不思議に思ってどうかしたのかと尋ねると、意外な答えが返ってきた。

「実はさっき部長から、トナーやコピー用紙はあまり在庫を持ち過ぎるなと釘を刺されたんです」

「別に今までも、過剰な在庫を抱えているわけではないよね。プリンターの買い替えの予定でもあるのかな?」

「理由は分からないです。とりあえずもう一本予備があるので、トナーの発注はそれが無くなってからにします」

 最近は、意図のよく分からない指示が多い気がする。戸惑いの表情を浮かべながら律子と浜崎は互いに顔を見合わせると、やがてそれぞれの業務に戻った。



   ***



「失礼します。明日の朝食数、貼っておきます」

 厨房に足を踏み入れる時は、未だに少し緊張する。厳しい指示が飛び交う職人の世界は一種独特で、自然と背筋が伸びる気がするのだ。

 厨房脇にある調理スタッフの事務所に入ると、律子はホワイトボードに先程プリントアウトした朝食付きプランの予約数をマグネットで貼り付ける。すると、発注リストを確認していた料理長が声をかけてきた。

「確か明日の朝食は、そんなに多くはなかったよな?」

「はい。ただ、団体の出発予定が八時頃と聞いてますので、恐らく七時台に利用が集中すると思います」

「分かった」

 ここの料理人たちは口数が少ないのだが、料理長は特に無口だ。最近では仕事以外の雑談もできるようになったが、入社したばかりの頃は話しかけるのにも随分と緊張したものだ。パソコンを操作している料理長に向き直ると、律子は手にしている用紙を差し出しながらもうひとつの用件を切り出した。

「料理長、来月の三十名の仮予約団体の夕食に関してご相談なんですが」

「何だ?」

 パソコンのモニターを見つめたまま、抑揚のない声で聞き返される。昔は怒っているのかと思っていたが、これが普通なのだと気づいたのは入社して何年も経ってからだ。

「到着が二十一時過ぎになるらしいのですが、二十一時半からの夕食を希望されています。先方もラストオーダーを過ぎていることは承知でのお願いなんですが、いかがでしょうか?」

「二十一時半か……」

「夕食をホテルでというのが条件なので、それが可能ならうちで決定になると思います。時間外なのでメニューはお任せ、二十二時過ぎには食事を終えて出てもらうことを条件とします。ホールマネージャーは料理長がオッケーなら問題ないとのことです」

 時間外の受け入れをするということは、当然残業を強いることになる。プラスアルファの人件費がかかってくるので、そこまでして受け入れるべき案件なのかという判断は難しい。できるだけ負担が軽くなるよう事前に旅行会社の担当者に探った妥協案を律子が提示すると、料理長は一瞬間を置いて短く答えた。

「やるよ」

「ありがとうございます!」

 宿泊部としては欲しい案件だったので、ほっと胸をなでおろしながら頭を下げる。すると、料理長が珍しく小さく笑った。

「そこまで詰められたら、受けるしかないだろう」


「そんなつもりでは……」

 料飲部には彼らの方針があり、これまでイレギュラーなリクエストをできないと突っぱねられた経験が何度もある。怒鳴られて食い下がってのバトルを繰り広げたのも、一度や二度ではない。少ない人数で朝食とランチとディナーを回さねばならないレストランの苦労を知りつつも、若い頃の律子はプロなら何とかしてよと要求ばかりしていたのだ。けれども怒られているうちに、自分の所属する宿泊部だけでなくホテル全体を見ることを学び、お互いに調整する術を身に付けていったのだ。

「そんなつもりはないってか?」

「いえ、少しありました」

 負担を強いるだけでなく、どうすれば協力してもらえるかを調整する。それらを目の前に並べて見せれば、料理長が首を横に振る筈はないのだ。悪戯っぽく笑って見せれば、料理長は呆れたように溜息をついた。

「いつの間にか辻内にやり方が似てきやがったな」

「え?」

「辻内の奴も昔から、今の矢野のようなやり方で俺に嫌だと言わせなかった」

 まったく可愛げのない師弟だ。そうひとりごちると、料理長はふと思い出したように立ち上がった。そして事務所を出ると、厨房の業務用冷蔵庫からバットを取り出す。

「ほらよ、試食だ」

 差し出されたバットの中には、白い粉砂糖をふりかけたプチシュークリームが入っていた。

「もしかして、冬のデザートですか?」

「そうだ。フロントのメンバーで試食しろ」

 手頃な料金で提供しているソレイユホテルのランチブッフェは近隣のオフィスに勤める人たちでいつも賑わっているが、特に自家製のデザートがOLを中心に人気だ。雪をイメージさせるこのシュークリームも、冬のデザートとして来月からブッフェ台に並ぶのだろう。

「ありがとうございます、いただきます。あと、こちらの団体は正式に決定したらまた料飲伝票を出します」

 ほくほくと嬉しそうにバットを受け取ると、律子はぺこりと頭を下げた。

 こうやって他部署の人との信頼関係を感じられると嬉しい。自分のやり方が認められると嬉しい。そして、辻内に似ていると評されたことが、律子は何よりも嬉しかった。

「矢野、それは辻内に見せるなよ。あいつ全部食っちまうぞ」

「もちろんです。あの甘党の目には触れさせませんよ」

 背中に掛けられた軽口に応じると、律子は厨房の外に出た。さあ頑張ろう。目標とする人に少し近づけたような気がして、律子は足取りも軽く宿泊部の事務所へと戻って行った。

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