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03. 追いつきたい背中、それは近くて遠い存在

 律子の勤めるソレイユホテル本宮中央が構えるのは、公官庁や企業のビルが建ち並ぶオフィス街の一画だ。その為、予約者の大半はビジネス客が占めている。週の真ん中の火曜日から木曜日が最も出張客が多く、週末はレジャー客の予約が増えるというのが基本的な流れだ。

「おはよう。予約は伸びたか?」

 夕方に出勤して来た辻内はタイムカードを押して引継ぎ帳を確認すると、律子のパソコンを覗き込みながらそう尋ねた。

「木曜日が伸びてきましたね。本宮駅前ホテルが満室になったみたいですし、料金をワンランク上げておきました」

「おお、そうか。しかし金曜は厳しいな」

「そうですね。周りのホテルも最低料金のままです」

 顔の近さに動揺しながら、平静を装ってそう答える。辻内はシャワーを浴びてから出勤したのか、微かにシャンプーの匂いがした。


 ホテルは当然ながら客室数が決まっており、どれだけ需要のある日でもそれ以上を販売することはできない。一般の製品ならば人気が出れば増産すれば良いのだが、ホテルは客室数以上の予約を受けることは決してできないのだ。

 従ってホテル業界で重要になるのは料金のコントロールだ。ソレイユホテル本宮中央では稼働に合わせて複数の料金ランクを設定し、需要の低い日は安い料金で少しでも多くの予約獲得を目指し、需要の高い日はいかに値下げをせず効率的に満室に持っていくかを目標とする。その為には過去の動向を踏まえながら日々の予約の伸びを観察し、競合する周辺ホテルの値段をチェックすることは欠かせない。そしてそれらの一連の業務を、律子は一年前から担当することになっていた。

「このままだと、金曜日の稼働は矢野の予想に達しないんじゃないのか?」

 律子は毎週末に先三ヶ月の売上予想を立てており、それを辻内が修正して総支配人へ提出している。もともと金曜日は出張客も観光客も少ないのでいつも苦戦しているのだが、今週は同じ沿線にある大学で大規模な学会が開かれる為にもう少し予約が伸びると予想していた。けれども直近になっても一向に動きはなく、どうやら日帰りの人が多いようなのだ。

「どうせわたしのフォーキャストなんて……。今週も課長が予想した通りのブッキングカーブを描いていますもんね」

「そうむくれるな」

 いじける律子をからかいながら辻内が立ち上がる。見上げると、遥か上から予想外に優しい視線がこちらに向けられていた。

「近隣のイベントの情報をきちんと調べ、それを踏まえて予想を立てて。矢野はよくやってるよ。最近は料金を上げるタイミングも逃さないし」

「きっと指導教官が優れているんですよ」

「ああ、そうだな」

 思わぬ褒め言葉に照れくさくなり、ふざけてそう答えると、当たり前のように目の前の男は肯定する。呆れた視線を向けてみるも辻内は気にする風もなく、にやりと笑いながら律子の頭をぽんぽんと叩いた。部下をきちんと評価してくれるが、自己評価も高い。律子は堪え切れずに吹き出してしまった。


 一年前に宿泊課長として再びソレイユホテル本宮中央に戻って来た辻内が最初に行ったのは、フロントスタッフの業務分担の見直しだった。辻内と入れ替わりで異動して行った前任の課長は、自分で仕事を抱え込んで他人に触らせたくないタイプの人で、部下たちがもともと担当していた業務以上の仕事を新たに任せようとはしなかった。

 少人数で運営しているビジネスホテルでは、通常のフロント業務以外にも仕事を兼任しているスタッフが多い。律子は団体予約の手配を長く担当していた。そんな彼女に着任したばかりの辻内は、それまで前任の課長がひとりで行っていたルームコントロールを担当するように指示したのだ。どんな仕事も重要だが、ルームコントロールは売上に直結するので責任は重大だ。自分には荷が重いと思わず尻込みしそうになった律子をその気にさせたのもまた、辻内の言葉だったのである。


 ――何びびってるんだよ。俺がちゃんと教えるし、ちゃんとサポートする。俺はおまえの教官だからな。


 それは律子が入社した時、OJT指導担当として辻内が口癖にしていた言葉だ。律子はその言葉に引っ張られて、気づけばここまで来たのだ。

 入社当初はひたすらにがむしゃらだった。ホテル専門学校の出身である律子は実践的な授業や実習を受けてはきたものの、社員として働くのは全然違う。仕事が面白いと思える余裕なんて微塵もなく、ゲストに迷惑をかけないようにとただそれだけを心に留め、毎日が必死だった。最初は辻内が教えてくれる内容のすべてを理解できたわけではなく、ただ機械的に処理方法を丸暗記していた。

 やがて入社半年を過ぎれば点と点のように覚えていた業務内容のひとつひとつが繋がり始め、何故そのような処理をするのか、その意味が分かるようになってくる。面白い。ようやくそのように感じられる余裕が出てきた。すべては、根気よく丁寧に仕事を教えてくれた辻内のおかげだった。律子は生来負けず嫌いの性格で早く一人前になりたいと思っていたが、そんな目標がやがて形を変えてゆく。

 ――辻内先輩に認められたい。

 ――辻内先輩のようになりたい。


「そうだ、課長。来期の予算の作成はいつ頃から始める予定ですか?」

「まだ本社からスケジュールの詳細が届いていないけど、遅くとも今月末には始めないとな」

 仕切りのカーテンを開けてフロントに出ようとした辻内の背中に、律子はふと思い出したように問いかける。こちらを振り返りながら、上司はそう答えた。

 ソレイユホテルは三月決算となっており、例年下期の始まる十月頃から来期の予算を作成し始めるのだ。これまで予算作成にはまったくノータッチだった律子だが、昨年は辻内の指示でほんの少しだけ関わらせてもらった。管理職がそれぞれ自身の統括する部門の予算を立てて総支配人が最終的にそれらを調整するのだが、辻内は宿泊部門の予算作成を任されており、律子はそのサポートに入ったのだ。

「過去三年分の月別データを準備してますので、必要になれば声をかけてください」

「仕事が早いな」

 去年は何が必要かもまったく分からず、言われるがままにデータを準備したのだが、少しは要領が分かっているので今年はもう少し役に立ちたい。そう思って、律子は時間に余裕がある時に少しずつ資料を用意していた。

「そうだ矢野、おまえが個人的に作成しているデータも出せよ」

「え?」

「知ってるぞ。おまえが色んな観点から数値をとってデータ化していること」


 自分が目標とするその人は努力家で、ならば追いつく為には当然自分も努力をしなければならない。上司となった辻内に新しく仕事を任された当初は、とにかく教えられたとおりのことを実践するだけで精一杯だった。やがて少しずつ慣れていくうちに、別の観点からも分析してみたくなり、自分なりに必要になりそうな数値を拾ってまとめ始めた。

 役に立たないかも知れない。徒労に終わるかも知れない。けれども思試行錯誤で自分のやり方を模索しているうちに、律子はあれだけ荷が重いと感じられた業務内容が少しずつ面白いと思えるようになっていた。

「何で知ってるんですか?」

「いつも時間をかけて色々調べてるみたいだからな。弟子のことなら何でもお見通しさ」

「ばれているなら仕方ないですね。ひとつのファイルにつき、千円でどうですか?」

「金とるのかよ!?」

 気づいてくれていたのだ。嬉しい気持ちが溢れてくるが、それを知られるのは気恥ずかしくていつもの調子で混ぜ返す。呆れたように馬鹿と言われたので、照れ隠しに大袈裟に憤慨して見せた。

 結局、律子は新入社員の頃から何も変わっていない。辻内に追いつきたいと願ってがむしゃらに働いているうちに、いつしか仕事自体に面白さを感じるようになっている。教育係から上司へと立場が変わっても、いつもこの人が律子を引っ張り上げてくれているのだ。



   ***



「で、律子はどうしたいのさ?」

 冷蔵庫から缶ビールを取り出しながら、真理がそう尋ねてきた。

 真理の夫が出張で不在にしているということで、一緒に飲まないかと誘われたのが昼休みのこと。小さな子供がいるので家の方が気兼ねしないですむからと、先に上がった真理が夕飯の準備をしてくれているところへ、定時で切り上げた律子が訪ねて来たのだ。

「どうって、何が?」

「辻内課長とのことよ」

 三歳になったばかりの真理の息子と一緒に箸を並べていたところ、不意打ちで直球の質問を投げかけられ、動揺のあまり思わずテーブルの上のグラスを倒しそうになる。

「りっちゃん、あぶない!」

「おっと、ごめんねカズくん」

 慌ててグラスを支えながら謝ると、三歳児は仕方がないなと頬を膨らませた。子供用の椅子にちょこんと座る王様は、母親似のしっかり者だ。

「ちょっと、急に変なこと言わないでよ」

「友人として心配してるの」

 思わず抗議すると、グラスに冷えたビールを注ぎながら溜息まじりに返される。そう言われてしまうと、若い頃から心配をかけ続けている身としては反論する言葉が見つからない。

「おかしゃん、いただきますしていい?」

「お腹すいたね。みんなでいただきますしようか」

 真理がそう言うと息子の和樹は嬉しそうに小さな手を合わせ、元気よくいただきますと言ってスプーンを手に取った。和樹の目の前には小さなオムライスが用意され、ケチャップでスマイルマークが描かれている。大人たちの前にはチヂミや唐揚げ、アスパラベーコンなどのビールに合うメニューが並べられていた。

「とりあえず、乾杯」

「乾杯」

 大人の真似をして麦茶の入ったプラスチックのコップを差し出す和樹ともグラスを合わせ、律子は冷えたビールを口にした。


 主婦歴四年の真理の料理はどれも味付けが絶妙で、ついつい箸がすすんでしまう。ひとり暮らしをしている律子もそれなりに料理はするが、自分の為に作るのと誰かの為に作るのとでは上達の度合いが違うのだろうと勝手に結論づける。

「あんた今もまだ、辻内課長のこと好きなんでしょ?」

 ぽろぽろとご飯粒を落としてオムライスを頬張る息子の世話を焼きながら、真理が先程の話題を蒸し返してきた。律子は口の中の唐揚げを吹き出しそうになり、既のところで何とか堪えた。

「すみません真理さん、もう少しオブラートに包んでいただけないでしょうか?」

「そんなもんに包んでいたら、あんたいつまで経っても現実見ないでしょうが」

 容赦ない親友の言葉にやり込められそうになる。けれど、それは違うのだ。真理の言い分に律子は静かに反論した。

「現実を見てるからこそ、今のままで良いと思っているんだよ」


 先輩に対する尊敬の念に、淡い恋心が混ざり合うようになったのはいつ頃だったか。そんなことは覚えていない。社会人になって必死でもがいている中で、気づけばもう辻内壮吾という人に惹かれていた。

 同期の真理とは定期的に飲みに行っていたが、どれだけ辻内がすごい先輩なのか会うたびに律子は熱弁をふるった。当時別のホテルで働いていた真理は辻内と面識がないということもあり、律子は酔いに任せて彼女になりたいと願望を語り、彼に振り向いてもらえるにはどうすれば良いのか真理に相談していたのだ。だから当時の律子の気持ちは真理には筒抜けで、若かったとは言えそれはあまりにも恥ずかしすぎる黒歴史だ。

「辻内課長だって、律子のこと好きかも知れないじゃん。確かにあの人は誰にでも面倒見が良いけど、傍から見てたら律子に対しては特別信頼しているように見えるんだよ」

「そんなことはないよ。もしそうだったとしても、それは十年前にOJTに就いていたからでしょ」

 辻内は律子を女性として見てはいない。後輩として部下として、それなりに信頼はしてくれているだろうが、決して恋愛対象として見ていないことは分かるのだ。

「なら、告白して意識させなよ。飲み会開くって言ったらあの人、休みでも夜勤明けでも大概参加するじゃん。あれは絶対彼女いないよ」

 説得力のありすぎる真理の推理に、律子は苦笑いを浮かべる。確かに今の辻内に女性の影はない。九州に赴任していた頃のことは知らないが、もしも彼女がいたならば、こちらに戻るという辞令が出た時点で結婚して連れてくるという可能性が高いだろう。

「毎日会うのに、気を使わせたくないんだもん」

 気持ちを告げて振られた翌日も、その翌日も、ずっと一緒に働いてゆくことになる。それはとても辛いと思うし、何よりも相手が自分以上にやりにくいだろう。だから告げない。恋人になれないならば、誰よりも信頼される唯一無二の部下になりたかった。


「……不毛だわ」

 ぼそりと呟きながら、真理がグラスに残っていたビールを呷った。

「確かに職場の人に気持ちを伝えるのは勇気がいると思うよ。わたしは旦那とは友達の紹介だったから、駄目なら二度と会うこともないしと覚悟を決めて告白に踏み切ることができた。もしも律子と同じ状況だったら、わたしだって簡単には勇気が出ないと思う」

 でもねと、真理は言葉を繋ぐ。頬にケチャップをつけた和樹が、隣できょとんと母を見上げていた。

「いい加減、前へ進まなきゃいけないと思うよ。律子がどれだけ長くあの人を想っているか、それはわたしが一番よく知っている。九州への異動が決まった時にどれだけ落ち込んでいたかも、次の恋に行こうとして結局行けなかったことも知っている。だからそろそろ、律子には幸せになって欲しいんだよ」

「真理……」


 あの頃真理に恋愛相談ができたのは、若かったからということと、別のホテルに勤めていた彼女が辻内と面識がなかったのがその理由だ。さすがに真理も辻内の部下になってしまった今では、明け透けに気持ちを語るなんてできる筈がない。そもそも三十を過ぎて未だ後生大事に二十代前半の恋心を忍ばせているなんて、痛々しすぎて言えやしなかった。辻内が九州に赴任してからは短いながらも別の人と付き合ったりしていたので、律子が未だに昔の気持ちを引きずっていることは気づかれていないと思っていたのに、親友にはすべてお見通しだったようだ。

「今更言っても仕方ないけど、辻内課長が九州への異動が決まった時点で言えば良かったのよ」

 それならば、たとえ振られても毎日顔を合わせることはなかったのだ。真理の言葉に、律子はそうだねと曖昧に笑った。

「そもそも、振られることが前提になっているのが解せないわ。あんたたち、馬鹿なやりとりも含めてお似合いなのよ」

「好きだから分かるのよ。一生懸命見つめていたら、知りたくないことまで見えてくるでしょう?」

「……」

 律子がそう答えると、真理は黙り込んだ。そのタイミングで和樹が麦茶のおかわりをねだる。

「律子は部下として傍にいられたらそれで良いと言うけれど、その関係は絶対じゃないんだよ」

 電車のイラストが描かれたコップに麦茶を注ぎながら、真理が静かに諭す。

 分かってる。そんなことは分かっている。律子はただ、親友の言葉に頷くしかなかった。

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