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20. 息づく想い、いわば散らない向日葵

 夏空の下で咲き誇る向日葵は、エネルギーに満ちている。そして、夏の終わりの夕暮れに咲く向日葵は揺るぎのない存在感があると、眼前に広がる景色を眺めながら律子はそう思った。

「さすがにもう、人が少ないですね」

「夏休みも終わりだからな。子供たちは宿題に追われている頃だろうし、今日は俺たちの貸し切りだ」

 夏の間多くの観光客で賑わっていた向陽高原の向日葵畑は、ようやく八月も終わりを迎え、夕方ということもあって訪れている人もまばらだ。忙しかった八月に唯一公休が重なった今日、壮吾の運転する車でドライブに出かけていたふたりは、帰りに向日葵畑を訪れていた。


 ソレイユホテル本宮中央が営業を終了したのち、四月からふたりはそれぞれ新たな道を歩み始めた。

 律子はソレイユホテル向陽駅前に異動となり、アシスタントマネージャーとして働いている。グループホテルとはいえ細かな業務については各ホテルによって異なり、予約の動きや客層も若干違うので最初は戸惑いが大きかった。更に周辺の地理や常連客、それから役職に就いた為に新たな業務も増え、覚えるべきことがたくさんで気づけば春は過ぎ去っていた。壮吾の方も、ビジネスホテルからリゾートホテルへの転職である為に更に慣れるのが大変なようで、残業も多くすれ違いの日々が続いていた。けれどもやがて梅雨が明け、夏を迎える頃にはふたりとも新しい職場に少しずつ慣れて、そしてふたりで暮らすことにも慣れつつあった。

「律子はすっかり背丈で負けているな」

「この子たちが成長しすぎなんです」

 遠目に見ていると自分の背と同じくらいかと思われた向日葵の高さは、近くまで寄ってみれば随分と高くて圧倒される。拗ねたふりして足早に進もうとすると、壮吾の手に捕まってしまった。

「ひとりで行くなよ。小さなりっちゃんは向日葵に紛れて見えなくなってしまう」

 恋人になっても、こうしてからかってくるのは相変わらずで。だけど掴まれた手はすぐに長い指が絡められ、そういったところは恋人になってからの大きな変化だ。律子は未だに触れられるとどぎまぎしてしまい、照れ隠しに思い切り強く手を握り返すと、くくっと笑われてしまった。


「カズが来た時もこれくらい咲いていたら良かったのにな」

 ゆっくりと向日葵の花の間を歩きながら、壮吾がそう呟いた。夏の終わりとはいえ西日の威力はまだまだ強いが、吹く風は爽やかだ。

「確かに。でも、満開ではなかったけど本人は大満足だったみたいで、保育園で向日葵の絵ばかり描いているそうですよ」

「なら良かった。でも、次は満開の景色を見せてやりたいな」

 律子の同期である真理は、先月家族でホテル・トゥルヌソルに宿泊した。息子の和樹が保育園で育てている向日葵をいたく気に入り、せっかくだから向日葵畑を見に行こうという話になったそうだ。例年見頃である八月は早い時期から満室になってしまうらしいが、まだ咲き切っていない七月は曜日によっては空室があり、早めの夏休みをとった夫と共に家族旅行にやって来たのだ。久しぶりに会った和樹は自分よりも遥かに大きな向日葵の花に大興奮で、保育園で大輪の向日葵の絵を描いて、先生や友達に自慢しているのだと先日真理からメールがあった。

「今度来る時は、家族四人ですね」

「そうだな。更に賑やかになるな」

 何と真理は、現在妊娠六ヶ月だ。ソレイユホテル本宮中央の閉館から暫くして第二子の妊娠が発覚し、安定期に入ってから知らされた律子は、親友のおめでたい話を我がごとのように喜んだ。久しぶりに会った和樹も随分とお兄ちゃんらしくなって、弟か妹の誕生を待ちわびている様子が微笑ましかった。


「なあ、律子」

 ぴょんぴょんと飛び跳ねながら向日葵と背比べをしていた和樹の無邪気な姿を思い出していると、不意に壮吾が律子の名を呼んだ。はいと答え、隣に立つその人を見上げる。すると大輪の向日葵を見やりながら、壮吾が静かに問いかけた。

「ソレイユホテルの名前の由来を知っているか?」

 唐突な質問に、律子は不思議そうに目を瞬く。

「フランス語で太陽の意味ですよね? もともと社長がお客様にとっての太陽でありたいという願いを込めて太陽ホテルを開業されて、のちにソレイユホテルへリブランドされたと……」

「そうだ。だけどソレイユには、もうひとつ意味があるんだ」

 ソレイユがフランス語で太陽を意味することは、従業員なら全員が知っている。だけど何故フランス語なのかは知らないし、ましてやもうひとつ意味があることなんて、十年働いているものの律子はまったく知らなかった。

「ソレイユは太陽と、それから向日葵も意味しているらしい」

 不意に風が吹き抜ける。さわさわと音をたて、向日葵の花がまるで壮吾の言葉に頷くように揃って揺れた。


「向日葵?」

「ああ。昔、社長が奥さんと一緒にフランスへ旅行した際、とある老舗ホテルに向日葵の花が飾られていたのが心に残ったらしい。こじんまりとしたホテルだったが細やかなサービスと清潔な部屋はとても居心地が良く、何よりもスタッフ全員の向日葵のような明るい笑顔が印象的だったそうで、そのようなホテルを目指したいという想いが名前の由来になったらしいのだ」

 そうだったんだ。口の中で小さく呟きながら、律子は眼前に広がる無数の向日葵の花を眺めた。

「そして俺が今勤めているトゥルヌソルも、同じく向日葵を意味している」

 黄色の向日葵畑の向こうに佇む白亜のホテルに目をやると、律子は黙って頷いた。

「俺たちはソレイユホテルで出会い、今はトゥルヌソルとソレイユと別の道を歩んでいる。だけど俺たちが目指すものは同じで、大切にしているものも同じで……」

 そこまで話すと、壮吾は繋いでいる手に力を込めた。まるで言葉に表せない気持ちを、触れ合った手と手の温もりから伝えるように。

 律子と壮吾が共に働いてきたソレイユホテル本宮中央は、もはや存在しない。今はふたり別のホテルで働いていて、けれどもそこには共通点があるという。かつてあの場所で学んできたことは、新しい環境でそれぞれ息づき、そして同じ花を咲かせてゆくのだ。

「向日葵は、散らないんですね」

「そうだ。ずっと散ることはない」


 見上げると、真っ直ぐにこちらを見つめていた壮吾が力強く頷いた。ああ、この人は向日葵のようだ。黄色の花に囲まれながら、ふと律子は思った。明るい冗談で職場の雰囲気を和ませるのは鮮やかな花の色のようで、いざという時に頼れる上司としての存在感は大きな花と葉をつけた立ち姿のようで、より良いサービスを求めて働く姿は太陽に向かって真っ直ぐに伸びるさまそのものだ。

「壮吾さんは、向日葵みたい」

 思わずそう口にすると、その言葉の意味をはかりかねたのか、当人は尋ねるような表情を浮かべる。

「明るくて、頼りがいがあって、要するに大好きということです」

 恥ずかしくて滅多に口にできない気持ちを、何だか今日は無性に伝えなくなってそう告白する。努めてさりげなく口にした愛の言葉は、満面の笑みでもって受け止められた。

「知ってる」

「それなら良かったです」

「うん。だから結婚しよう」


 さらりと告げた言葉に対する、さらりとしたプロポーズ。一瞬冗談かと思って律子が見つめ返すと、今まで見たことがないくらい真剣なまなざしでもう一度ゆっくりと告げられた。

「俺と、結婚してください」

 風のざわめきも鳥のさえずりも、すべての音が排除される。そして、ただ愛しい人の声だけが律子の鼓膜を震わせた。

「はい」

 律子が震える声でそう答えた瞬間、壮吾の腕の中に引き寄せられる。とくりとくりと聞こえる鼓動の音は、果たして自分のものなのか彼のものか。律子は泣きたいような笑いたいような叫びたいような、溢れ出しそうになる感情を抑えるように壮吾の胸に縋りついた。すると長い腕が背中に回り、小柄な彼女をぎゅっと抱きしめてくれた。

 大人になればやりたい仕事に就き、誰かと恋に落ち、そして結婚する。子供の頃に当たり前のように描いていた未来は、どれも容易く手に入るものではなかった。だけど諦めなかったから、壮吾だけを見つめていたから、今ここで律子は向日葵の祝福を受けているのだ。


「俺は、律子の方が向日葵みたいだと思うな」

 やがて鼓動の速さが少し収まりかけた頃、ふと壮吾が呟いた。

「え?」

「明るくて、頑張り屋で、要するに大好きということさ」

 その呟きにつられて見上げた瞬間、先程の律子の告白のお返しと思しき言葉が降ってくる。そして優しく、唇が触れた。



 ホテルで働くことは自分で選んだ道だけれど、きっとこの先も仕事で挫けそうになることがあるだろう。仕事以外でも、長い人生の中で逃げたくなるようなことが起こるかも知れない。だけど隣で真っ直ぐに向日葵の花が咲いているから、だから自分も、小さくても美しい花を咲かせたいと願う。目標となる人が、そして支えとなってくれる人がいる幸せをしみじみと感じながら、律子は愛しい人の背に手を回した。

 夏の終わりの、涼しい風が吹き抜ける。随分と遠回りをしてきた不器用なふたりの誓いを、向日葵の花だけがそっと見守っていた。



< 完 >



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