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13/21

13. 春を拒む、なぜなら別れが約束されているから

 結局その日、辻内とのふたり飲み会は中止になった。


「皆さん、ご迷惑をおかけして本当にすみませんでした!」

 二月最後の日、事務所では久々に出社した小久保が深々と頭を下げていた。

「あれ、誰だっけ?」

「見慣れない顔だな。おまえ新入りか?」

 先輩たちの容赦ない言葉に泣きそうな表情を浮かべるその姿は、相変わらず耳と尻尾が垂れた子犬のようだ。

「すみません、お詫びにお菓子買って来ました」

 けれども、捨てられた子犬みたいな様子を見せながら、どうやら彼はこの一年で先輩を掌握する術を習得したらしい。小久保がスーパーで売っているお徳用チョコの詰め合わせをおもむろに取り出すと、単純な先輩たちは掌を返すように後輩に気遣いを見せ始めた。

「なんだ小久保、気が利くな」

「小久保くん、体調はもう大丈夫なの?」

 チョコに手を伸ばしながら白々しくそう尋ねる。

「うわあ、この人たち恥ずかしくないのかな」

 律子が白い眼を向けると、我慢し切れずにひとりが思わず吹き出した。つられるように、その場にいる仲間たちが笑い出す。事務所の中は、久しぶりに明るい雰囲気が広がった。


 律子が辻内から飲みに行こうと誘われたあの日の午後、夕方に出勤予定だった小久保から、インフルエンザにかかったという連絡が入った。朝から熱が出ていたが、人が足りないので何とか点滴を打って出勤しようと病院に行ったところ、あっさりとインフルエンザの陽性反応が出たらしい。当然のことながら出勤停止となり、代わりに辻内がそのまま泊まり勤務になってしまったのだ。そして更に恐ろしいことに、時間差で別のスタッフも次々と発症し、ただでさえ人が少ないというのに三人が抜けるという非常事態に陥ってしまった。

「良かったら矢野さんも召し上がってください。僕のせいで夜勤が増えて、いっぱい迷惑かけたと聞きました。本当にありがとうございました」

「元気になったみたいで良かったね。他のふたりは実家だけど、小久保くんはひとり暮らしだから一番心配していたの」

 ひとり暮らしは病気になった時が怖い。きちんと食事が摂れているか案じていたのだが、思ったよりも元気そうでようやく律子は安堵した。

「初日に滝さんが色々届けてくれたんです」

「そうだったんだ」

「おかげで三日目には熱が下がっていたんですけど、病院からは一週間は出勤したら駄目だと言われていたので、元気なだけに余計申し訳なくて……」

「病気の時はお互いさまだから、気にする必要ないよ」

 年末に全社員が予防接種を受けていたので、それでも感染したならもう不可抗力だ。さすがにこの二週間は公休を変更して連勤になったり、早出や残業が増えたりとかなりハードな勤務が続いたが、明後日には別のスタッフも復帰する予定なのでひとまず落ち着くだろう。

「残り一ヶ月、迷惑かけた分を挽回できるよう頑張るので何でも言いつけてくださいね!」

 わんこが凛々しくもそう宣言したので、律子は頼りにしてるよと背中を叩いた。



 その日は律子にとって久しぶりの日勤だったが、小久保が復帰したことでここ数日よりも短い残業時間で退社することができた。

(疲れた……)

 今の状況で自分までダウンしてしまったら終わりだと、この二週間残されたスタッフたちはハードなシフトの中でずっと気持ちを張り詰めていた。それは律子も例外ではなく、だから全員が快復して元のシフトに戻れることが決まった途端、緊張が緩んで一気に疲れが出てきた気がする。家に帰り着いてドアを閉めた瞬間に、思わずそうひとりごちた。

 ご飯を作る気力はなかったので買って帰った弁当で簡単に夕食を済ませ、シャワーを浴びるとそのまま倒れるようにしてベッドへ潜り込んだ。ふとチェストの上の卓上カレンダーが目に入る。のそりと起き上がって一枚捲る。明日からは三月だ。つまりは律子がソレイユホテル本宮中央で働くのも、あと一ヶ月ということだった。


 辻内とは、あの日以来会っていない。

 小久保ら三人がインフルエンザに感染したことで、急遽シフトを組み直した為に日勤と夜勤が入り混じり、しかもそれがまったくかぶらなかったのだ。律子が明けで退社したあとに辻内が夜勤で出勤し、翌日辻内が退社したあとに律子がまた出勤する。引継ぎ帳に書かれた辻内の文字に彼の存在を感じるだけの、そんな二週間だった。

 あの夜、辻内は何の話をするつもりだったのだろう。カレンダーを見つめながら、ぼんやりとそう思った。他のスタッフには知り合いがいるホテルへの転職を斡旋しているようなので、もしかすると律子にもどこか紹介してくれるつもりだったのだろうか。いや、そうだとすれば応募の期限があるだろうし、会えなくても電話かメールで伝えてくれるだろう。何も連絡がないということは大した用件ではなく、恐らく律子の転職活動の状況を案じてくれていただけだろうと、彼女はそう結論づけた。

 転職活動の方は、結局あれから何も進捗していない。そもそも忙しすぎて、新着の求人情報すらチェックできていない状況だ。真理の言うとおり、会社都合の退職だとすぐに失業保険が受けられるので、そこまで焦る必要がないことは分かっている。実際に若いスタッフの中には転職活動を先延ばしにして、休憩室に山積みになっていた件のパンフレットの中から海外旅行を申し込んだ子もいると聞く。

 けれども律子は、自分が属する場所が定まらないことがどうしても不安だった。四月以降のわたしの居場所はここなのだと、確定した未来が欲しかった。いつから働けるのか、どこで働けるのか、そもそも三十路の律子を受け入れてくれる会社があるのか。夜になると言いようのない不安に占拠され、律子は落ち着かない気持ちになるのだ。


 辻内はもう、進むべき道を決めたのだろうか。

 あの日の夜に尋ねてみようと決意していた辻内の転職先については、会えていないので当然のことながら不明だ。ただひとつ確かなことは、律子が辻内と一緒に働けるのはあと一ヶ月だけだということである。

(わたしはあの人を、諦められるのだろうか……)

 不意に浮かんだ疑問に、律子は胸が苦しくなった。思えば長い片想いだ。辻内が九州に異動になった際に一度諦めようとして、別の男性と付き合ったこともある。けれども結局、長続きはしなかった。相手の優しさに甘えた、後悔ばかりが残る交際だった。

 実は辻内が九州からこちらに帰省した際に、何度か飲み会が開かれたことがある。けれどもいつも律子が夜勤だったり予定が入っていたりして、結局一度も参加できなかった。そのうち異動や退職でメンバーが変わってゆき、辻内を知らないスタッフが増えて、いつしか帰省しているという連絡すらなくなってしまったのだ。メールや電話をすることもできず、二度と会うことも叶わないような状況では、縁が切れたと諦めるしかない。けれども律子の心の中には、いつも辻内の存在があった。


 ――諦められないのなら、いっそ告白して想いを彼に散らせてもらおうか。


 あの時、若かった律子のひどく醜い部分が溢れ出し、そのせいで告げることさえ叶わなかった辻内への想い。最後に想いを伝えることは許されるだろうか。

 まだ先だと思って直視していなかったホテル閉館が、カレンダーを捲ったことにより、いよいよ現実的なものとして眼前に迫ってくる。この二週間ずっと辻内に会えずにいたが、四月以降はそれが当たり前になってしまうのだ。

 律子はカレンダーから目を逸らすと枕に顔を埋める。この十年自分なりに頑張ってきたつもりなのに、何故わたしがこんな目に遭わなければならないのだろう。言っても詮無いことなのでずっと抑え込んできたけれど、誰かを責めたくなる暗い感情が腹が腹の中でぐるぐると渦巻いている。何も高望みをしているわけではない。あのホテルで、あの人の下で働きたい。願いはただそれだけ。なのに積み上げてきたキャリアも、密かに慕ってきた人との繋がりも、同時に失うことになってしまうのだ。

 喉の奥から塊がせり上がり、瞼の裏が熱くなる。律子は声を殺し、一層強く枕に顔を押し付けた。



   ***



 暦が弥生に変わった日、けれども春には程遠い天気だった。肌を傷つけそうなくらい冷え切った気温は昼になっても一向に上昇せず、薄氷を張ったような色の空には太陽が弱々しい光を放っていた。

 そんな凍える空気の中、人事部の部長と共に、人事課長である冴子が本社からやって来た。


「矢野、久しぶりだね」

 六年ぶりに会った冴子は相変わらずスタイルが良く、グレーのパンツスーツが映えていた。よく見ると目尻に少しだけ小皺ができていたが、それすらも大人の女性の魅力になっている。

「ご無沙汰しています」

「矢野が頑張っていることは、あんたの歴代の上司たちから聞いてるよ」

 いくら人事課長とはいえ、全国に何百人もいる一般社員のうちのひとりにすぎない律子の評価が耳に入ってくるものだろうか。そのあたりのシステムはよく分からないが、もしも冴子がかつての後輩を気にかけてくれているせいだとしたら、それはとてもありがたいことだ。律子は戸惑いながらも、素直に感謝の言葉を口にした。

「全然変わってないね、この事務所」

 冴子が異動したあとに客室の改装などはあったが、事務所は殆ど変わっていない筈だ。もちろん新しくなった部分もあるが、机の配置などは同じなので雰囲気は当時のままだろう。自分が働いていた頃を思い出すように、冴子は懐かしげな表情で事務所の中を見回した。

「寺本くんは、うまく次が決まったらしいね」

「はい、年明けから新しいホテルで勤務されていますよ」

 冴子は年末で退職したマネージャーの寺本と同期だ。人事なので当然退職したことは知っているだろうが、今の口ぶりだと再就職先についても個人的に連絡をとっているようだ。

「そう言えば、今日は壮吾はいないの?」

 やがて律子に向き直ると、冴子はそう尋ねてきた。


「今日は公休です」

 冴子の口からその名が発せられた瞬間、律子は胸の奥に痛みを感じた。かつて一緒に働いたことのある辻内の姿が見当たらなければ尋ねるのは自然なことで、それなのに彼女が名前を呼ぶだけで焦るような気持ちになる。律子はそんな気持ちを押し隠すように、短くそう答えた。

 インフルエンザによる出勤停止があったせいで、発症しなかったスタッフたちは早出と残業を余儀なくされ、辻内や律子は公休も変更していた。快復した三人が順に復帰し、十日間公休がなかった辻内は本日ようやく休みをとっている。今日が八連勤目になる律子も、明日から連休をもらう予定になっていた。

「あら、そうなのね」

 あっさり頷くと、冴子ははらりと落ちた髪を左手で耳にかける。その薬指には、プラチナのリングが輝いていた。



 午後から行われた人事部との個人面談では、退職金の支払いなど細々とした説明がなされた。退職後の失業保険申請の為の手引きも準備されており、律子たち従業員を切る側としての最大限の誠意というものが感じられた。そして最後に、グループホテルの求人一覧を渡され、異動を希望する場合は申し出るようにと言われて面談は終わった。本日が公休のスタッフの面談が残っている為、人事部長と冴子は明日の午前中までこちらにいるらしく、質問があれば何でも受け付けるとのことだった。


「ねえ律子、今晩何か予定ある?」

 面談を終えて律子が事務所に戻ると、真理にそう声をかけられた。

「別に何もないけど」

 予定がないというよりも、予定を入れる元気が残っていないというのが正解だ。早出や残業をしながら八日間連続で勤務しており、さすがに疲労が溜まっている。

「今晩、“桐谷課長を囲む会”を開こうという話になっているんだけど、律子は来れそう?」

 たまたま今日は真理の両親の家に息子を泊まらせる予定だったらしく、せっかくだからと急遽飲み会を計画したらしい。

「誰が参加するの?」

「わたしと浜ちゃんと三宅さんと、野田さんと福島さん。夜勤明けの滝くんも少し寝てから来るって。あと、辻内課長も参加だよ」

「わたしも行く」

 昨晩早めにベッドに入ったものの、それでも三十路を過ぎた体はそんなに容易に回復しない。八日間の疲れが蓄積されているので本当は早く帰りたかったが、それでも辻内の顔を見たかった。たとえ辻内が冴子と仲良く言葉を交わすところを目のあたりにすることになっても、律子は彼に会いたかった。

「よし、じゃあ“桐谷課長から辻内課長の恥ずかしい過去の話を聞く会”に律子も参加ということで。いつもの居酒屋を予約しておくから」

「何だか会の名前が変わってる気がするんだけど」

「細かいことは気にしない、気にしない」

 冴子が辻内の先輩と知った時、色々と弱みを聞き出そうと冗談まじりに言っていた真理だが、どうやら本気のようだ。あっけらかんと笑い飛ばす真理の様子に、今晩いじられることになるであろう辻内に同情しつつ、律子はくすりと笑った。


 やがて定時に仕事を終えた律子は、従業員専用の出入口から外に出た。最近は随分と日が長くなり、この時間でも空にほんのりと残るオレンジ色が春の気配を伝えてはいるが、けれども気温は真冬のそれだ。例年は春の訪れが待ち遠しい律子だが、今は、季節の移ろいに抗うように冬が居座っているこの状況が何だか嬉しかった。春が来るということは、このホテルに別れを告げるということなのだ。

 空を見上げて白い息をひとつ吐くと、律子はダウンジャケットのポケットを探った。律子より一時間早いシフトの三宅と本日公休の浜崎が、時間までお茶をしているというので合流しようと思ったが、何故がスマホが見当たらない。立ち止まって鞄の中も探るがどこにもなく、どうやら更衣室に置き忘れたようだった。

 慌ててホテルに戻った律子は、ロッカーに置き忘れられたスマホを無事に発見した。今度こそポケットに入れて更衣室を出ると、ふと隣の休憩室から冴子の声が聞こえた気がした。まだ面談が残っているのであとから向かうと言っていたが、もう終わったのだろうか。予約している居酒屋は冴子がここで働いていた頃にも飲み会に利用していたので場所は知っている筈だが、終わったのなら一緒に行った方が良いだろう。冴子に声をかける為に休憩室の前に立った律子は、そこで扉が微かに開いていることに気づいた。軽くノックして声をかけようとしたその瞬間、冷静な冴子には珍しい驚愕に満ちた声がその場に響いた。

「ホテル・トゥルヌソル!?」


 ホテル・トゥルヌソルとは総客室数が三十室ほどの小さなホテルだが、この業界にいる人なら大概は知っている有名な宿泊施設だ。電車とバスを乗り継いだ隣県南部に位置する高原にあるホテルは、アクセスが不便であるにも関わらず、美しい景色が楽しめる立地と質の高いサービスで常に満点に近いクチコミ評価を得ている。律子も一度泊まってみたいと憧れているホテルだった。

「ホテル・トゥルヌソルって、ここから何時間もかかる山の中にあるホテルよね?」

 もう一度、少し落ち着きを取り戻した冴子が念押しするようにそう尋ねる。会話の相手が誰だか分からないが、このまま盗み聞きしてはいけないと、律子は足音をたてないようにそっとその場を離れようとした。

「ええ、そうです」

 次の瞬間、聞き慣れた声が短く答えた。冴子の問いに答える穏やかな声に、律子はびくりと固まる。扉を開けずとも、姿の見えない声の主が辻内であることはすぐに分かった。

 今日休みの人が、何故ここにいるのだろう。このあとの飲み会に参加するとは聞いているが、直接居酒屋に向かわずに一旦こちらに寄ったのは何故だろう。何故ふたりは、遠く離れた場所にあるホテルの話をしているのだろう。聞いてはいけない、絶対に聞いてはいけない。脳内でそう警告が発せられているのに、律子の足は床に縫い付けられたようにして一歩も動かなかった。

 やがて、そんな律子の耳に、絶望的な言葉が聞こえてくる。


「そうです、山の中のあのホテルですよ。俺は四月から、そこで働こうと思っています」

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