茫感
前髪に、風がかかる。
己の額をかち割らんと繰り出されたそれ。
目の前に迫るメリケンサックを、武下は避ける。
半歩下がり、顎を引く。
それだけで、男は転ぶ。
空振った拳、滑り落ちた金属が地べたで光る。
──弱い。
簡単に転げ、すぐに立ち上がる様子もない。
武下は右手の木片を投げ捨てた。
その動作にさえ大袈裟に反応する、黄巾社の残党たち。
海里が加減しきれないのも無理はない。
こちらが体勢を保つ手段を捨てても苦労しないのだから。
手の平に残った杖の欠片を叩き落とせば、
ブーー
その時、震えた無線機。
背後から迫ってくる殺意に肘を喰らわせ、
武下は応答ボタンに手を伸ばした。
「ーー、ーーー。」
スピーカーは振動している。が、なんと言っているのか。
「や...」
訳せ、と肩の存在に命令しようとして、
それが今はいないことを思い出す。
「...」
念話は頼れない。
念話がなければ、耳が聞こえない彼には何もわからない。
武下は無線機を仕舞おうと、ジャンパーのファスナーを引いた。
黒く年季の入ったそれは滑りが悪い。
動かすたびに硬く擦れるような音を出していたはずだが、
今は聞こえない。
話し声も、足音も、呼吸音も、心音も、何もない世界。
それは、どこまでも静かで、
そして...
「ーー。」
ふと、背を叩かれる。
半ば力任せの、自分と負けず劣らず骨ばった手。
振り返れば、海里がいた。
「時間稼ぎ、もういらねぇってよ。」
大きく動く彼の口が、そう告げる。
「そうか」
次の瞬間、火花が散る。
武下の左手には、白煙を吐き出す銃があった。
「...」
自分と違って、海里は無線機の声が聞こえる。
海里の耳は、音を拾う。
それだけのこと。
事象でしかないそれが、どうして引っ掛かるのか。
不快だ。
「あ、千樹です。作戦が次の段階に移ったから、
もう時間稼ぎしなくていいって、リョウさんが──
そこまで言って、千樹は前を歩く小さな影をちらと見る。
訂正してくる様子はないが、不安だ。
武下と海里が黄巾社の残党借りにわざとらしく時間をかけ、
何か裏があるかのように思わせる。
それと並行して、リョウが用意した囮に蛾骸下層・湿下暗を嗅ぎ回らせ、
武下と海里のわざとらしさが陽動として映るように誘導する。
そうすれば、陽動作戦だと気付いた相手はコソコソ動く本命を始末して満足するだろうから、
その油断の隙をついて叩く。
千樹の脳みそでは、一度聞いただけでピンと来るなんてことはなかった。
わかったような、わからないような。
第一、アルカドールを製造する組織の正体も不明なのに。
ふわっとした相手に、ふわっとした作戦理解。
自信がある方が可笑しいのだ。
リョウさんも伝わるように言ってくれれば良いものを。
質問しても答えない、なんてことはせずに。
「囮の痕跡?を辿って組織の居場所を掴むので、
お二人はそれまでに黄巾社を片付けて、合流できるように待機しておいて下さい。」
「...はぁ?」
返ってきた疑問の声。
どうしたものか。千樹は苦笑いする。
「合流っつったって、どこでどいつとだよ」
『組織の居場所で、俺たちと。わかんなぃ?』
無線の声に、前を歩いていたリョウが振り返った。
さっきは答えなかったくせに。
太い尾を揺らす姿に、千樹は言いたいことを幾つか飲み込む。
「居場所っつっても分かんねぇんだろ?」
『それを今から探すって言ってんの。』
「ぁあ?」
『だぁから、相手が餌に引っ掛かったから尻尾を掴むでしょ?掴んだらすぐに仕掛けるから、それまでに待機しておいてねってことぉ。あんだぁすたん?』
なんて憎たらしい声を出すんでしょう。
モヤついたものも一瞬忘れ、千樹は感心してしまう。
「...チッ」
怒鳴り声が無かったのは、向こうに武下がいるからか。
一拍の間の後、舌打ちとともに無線はぶつ切られた。
「...クソがぁ」
ミシリと音を立てるほどに握りしめ、海里は爆発を押さえ込む。
ポケットに無線機を押し込み視線を上げた。
視界に広がるのは、あっという間に制圧された残党たち。
その中心、不思議な足取りでこちらに歩いてくる武下。
杖が折れたんだったか、
今にも転びそうな、転ばなさそうな、体幹に物を言わせた歩き方。
規則的に不規則な足音をアーケード街に響かせる姿に、
海里はふと、己が何の役にも立ててないことに気付く。
相手の実力に合わせきれず、早々に片をつけてしまった。
また足を引っ張った、と。
何か、何かしなければ。
焦りのままに、海里は武下の脇に手を入れ、
られなかった。
無理せずとも歩けるようにと伸ばした腕は、
寸でのところで止まってしまった。
自分が支えたところで邪魔なのではないかと、
拒否されるのではないかと、
不安が海里を侵食する。
「待機か。」
中途半端な格好で停止した海里に、武下が問う。
ただの確認。
わかっている。
だが、何もない瞳は、相変わらず読めない。
受け入れてもらえる自信は生まれない。
「...あァ」
遂に、海里は腕を降ろした。
歩けているから実際必要ないんだ、という言い訳と共に。
「敵の尻尾掴んだらすぐぁ叩けるようにしておけってよ」
「湿下暗も蛾骸下層も妖気が濃いので、囮の方々の妖気を追跡するのは難しいですよね。」
『そぅだねぇ』
中梁層、その外れ。
錆びた鉄階段を下るにつれて増えていく落書きは、蛾骸下層が近いと言っている。
「どうやって相手の居場所を掴むんですか?」
『さぁ?』
下駄の音を響かせる千樹に、リョウは振り向きもしない。
四本の足で走るように、音も立てることなく降りて行く。
「あの」
陽動のことも、囮のことも、全て事後報告。
千樹がどれだけ聞いても教えて貰えなかった詳細は、
海里が聞けばあっさりと告げられた。
鈍感といえど、
やんわりと突き放されていることに気づかないほどではない。
止まってはくれない背に、千樹は問いかける。
「教えてくれないのはどうしてでしょうか。」
『んー?教えてるじゃない。何か問題でも?』
「僕が知りたいことには、何も答えてくれません。」
『そうだっけ?気のせいじゃなぁい?』
ほら、やっぱり答えてくれない。
誤魔化して、ぼやかして。
一見優しく作られた壁に、目頭が熱くなる。
殆ど暴言ではあるが、しっかり返してくれる海里の方が暖かい。
自分の何がこうさせたのか、千樹が知るのはもう少し先のこと。
相手の顔が見えていないと効力を発揮しない念話ですが、無線機を使えば遠くにいる相手とも会話ができるんですよ。電波には乗らないので、音声データに変換されてしまいますがね。




