1-6 彼女について 1
────これは原初の記憶、彼の最初の思い出。
満天の星が輝く夜空、月は煌めき、雲は姿を見せていない。
世界から隔絶された楽園は本来の時間の流れこそ曖昧だが、昼夜の概念くらいは残されている。二つの世界のようにこうして大地に足を着け、夜空を眺める権利は彼らにもあるのだ。
「みてみて!! とってもきれいだよ!」
数えきれないほど散りばめられた星々の中で彼が目を輝かせたのは、ギリシャ神話に名高き英雄を冠した星の光。
少年の心動かすには十分すぎるほどの光輝は眩く美しく、彼の深海のように深く鮮やかな青の瞳の中に全て映り込んでしまいそうだ。
立ち上がって喜びはしゃぐ幼子の頭を撫でる魔術師は無垢な笑顔を見て優しく微笑みを返す。「あぁ、ホントだね」と声をかければ、彼はまたにっこりと百点満点の笑みを湛えた。
「あの星の名前、おチビさんは知っているかな?」
投げ掛けられた問いに、少年は首をかしげる。
うーんうーんと楽しげな唸りをあげる数十秒の間をおいて、出された答えはひとつ。
「わかんない」
当然、彼は星の名を知るはずもない。
この楽園で生きてきて、言葉を話すことはできても、知識と呼ばれるものはほとんど身に付けたことなどない。本を開いても字は読めないし、目の前にいる男が教えてくれるのは魔法と剣の使い方くらいだ。
ふわふわの雲みたいな愛らしい白髪をもう一度くしゃりと撫で、魔術師は意地悪に笑いながら彼と同じ目線になるためしゃがみ込む。
天に浮かぶその星の一等星に向けて魔術師が指を指す。
「あれはオリオン座。チビが産まれたのと同じ"冬"の星でね、他の星々の目印にもなるんだ」
天の赤道上にあり、南東の空に浮かぶ冬の大三角形のひとつに位置する。
「めじるし?」
「そ、たとえばちょっと向こうにあるあれが見えるかな?」
「うん」
「あれはシリウスという星で、今こうして簡単に見つけられたのはオリオン座のおかげなんだ」
燦然と輝く光は他の星を探すために。
魔術師がオリオン座を中心に指はあちこちの小さな光を指していく。
初めは訝しげな表情だった彼が、魔術師の指差す空を見てまた瞳の奥を輝かせながら胡座をかいた男の足に乗り掛かった。
「すごいすごい! ねえ、ぼくもあんなふうになれるかな!」
「あんな風って?」
「オリオン座みたいにみんなのめじるしになって、キラキラしたい!」
彼が口にしたのは子供らしい純粋な願いだ。そして、彼ならば叶えるのはそう難しいことでもないと魔術師は今でも思っている。
だから精いっぱいの親心をもってして、彼を手助けすると決めた。
人間的なのにそうあることのできない少年の初めて持った願い。星のように輝きたいという思いを聞いて、この時、魔術師は名もない幼子にひとつの名を与えた。
「───オリオン」
「ん?」
「おチビ、君の名前だよ」
どうか、この覆せぬ運命を背負った君があの輝ける星座のように誰かのための光になれますように。
彼という少年は、今日この日──この星の下で始まった。
「──夢、か」
2015年7月の夏の朝。新月まで、あと5日。
隣の柔らかなベッドでぐっすりと眠る一颯の寝顔は、久々に熟睡できたためかとても安らかなものだ。
こう安心しきった表情を見ていると、文句だの暴言だの言わなきゃ可愛い面してんのになぁ…と彼女の性格を残念に思ったりするがあくまでそこまでのこと。
男女の恋愛どころか、彼らはまだ友達とも言い難い微妙な関係、互いの性格に口出しできる位置にすら立っていない。
───俺はもっと一颯を知るべきだろうか。
一颯は昨日の昼を境にオリオンのことを知りたがるようになった、それまでの経緯になにがあったのかは彼も知る由なし。
だが彼女が知りたいなら自分のことは教える、それくらいは礼儀だ。
ならオリオンも一颯のことを少しは聞いてもいいはず、誤って踏み抜き機嫌を損ねそうな地雷はないと思う━━━などと、悩んでいられるほど彼の心境は呑気ではなかった。
「……イブキは俺に知られたいと思うのかな」
これこそが距離を詰めたくても詰められない理由。
一颯が知りたいと言うのは構わない、しかし彼女はオリオンに自分について知られることをどう感じるのか。不快に思われたら嫌だ、今日は不思議とそう思う。
そろそろ彼女に言われている時間だ。
戦い疲れて眠る一颯は目覚ましの音程度ではびくともしない。なので、睡眠が常に浅いオリオンが起こすことになっている。
「ほらイブキ、朝だぞ」
「んっ……あとじゅっぷん……」
「今日はちゃんと寝ただろお前」
寝惚けて舌足らずな声が甘えている時は効果的な手がある。
何故しっかりと熟睡したのに彼女は起きないか、そんなのこの部屋の薄暗さを見れば一目瞭然だ。ではどうする?電気を付ける?魔法で火を付ける?全てNOだ。
少女趣味全開のカーテンを左右両手で持ち、勢いよく開く。
「うッ…!」
射し込む太陽の光。今朝は一段と眩しい日光は、窓越しだというのにカーテンを開けた超本人の目も眩ませるほど明るい。
陽光から目を逸らすため布団に頭まで潜り込んだ一颯から掛け布団を剥ぎ取り、耳元で一言。
「もう起こしてやんねーぞ寝坊助」
「うぅ……ひどい、ばか、さいてー……」
「はいはい、早くしねえと遅刻するんだろ?」
端から見ているだけのオリオンまで眠気が映りそうな大きいあくびをし、身体をぐっと伸ばす姿は朝の訪れをより強く感じさせる。
彼女の着替えにまで付き合うわけにいかないので一旦部屋を出る。この間に二度寝を敢行されてはたまったものではないので一定の時間が経ったら声をかけるようにしているが、今日は意外にもその必要はないようだ。
数分後、制服姿になった彼女が閉めきられた扉を開き、すっかり覚めた目でじーっと彼を見ると今まで特に突っ込まれもしなかったはずの事柄に触れてきた。
「ねえオリオン、あなたそうやって髪下ろしてるとかわいいわよね」
「は……!?」
「宵世界じゃ男の友達より女の子に可愛がられてたでしょ!」
「バカ言うなよ! そんなわけない!」
照れてそっぽ向くオリオンに一颯は追い打ちをかける。「髪型変えてみましょ」とか「サラサラしてて羨ましい」とか。
生まれつき髪が病的なほどすぐ伸びる体質の彼は、髪型で男女の差を測られるのはすごく苦手としていた。
しかし彼女に言われたことについてよく思い出してみれば、男性で友人と呼べる存在は一人だけで3年も会ってない。キャロルは別に友達でもなんでもない。逆に女性の知り合いは……数えたくもなかった。
クセが強すぎる女性陣を思い出してげんなりしていると、完全に無防備だった手を一颯に強く引かれそのままリビングのソファーまで連れていかれた。
抗議する間もなく座らされ、一颯は戸棚から髪ゴムと黒いシュシュを取り出してきた。
「イブキ、それ貸せ」
「分かってる。耳は隠してほしいんでしょ?」
「む…」
お遊びのつもりなのかと思いきやデリケートな部分はしっかり分かっていたらしい。
慣れた手つきで長い髪をすき、素早く後頭部の高い位置にまとめあげていく。
彼女はどう見てもショートヘアで、髪をまとめる必要なんてない。何故こんなにも手慣れているのだろう、まるで母親みたいだ。
「友達にあなたみたいにすごく髪の長い娘がいてね、よくやってあげてるの!」
「そうなのか」
「その娘もポニーテールが似合ってて可愛いのよね~!」
「"も"って男と一緒にしてやんなよ……」
今日の一颯は寝起きだけ嫌な顔をしていたものの、今は見たことないほど上機嫌だ。良い夢でも見たのか着替え中に頭でも打ったのか、どっちにしてもかなり不気味だった。
オリオンの髪を結わえ終わり、満足げに「よし!」としたり顔で笑っている姿も尋常じゃない違和感がして、彼女がなにを考えているかが余計に解らない。
「さっきから不思議そうな顔して、どうしたの? 私の顔になにか?」
「あーいや…、今日のイブキは随分積極的だなぁみたいな?」
我ながら苦々しい返事だと彼は深く猛省する。もっとこう、上手く気を使えないものかと自分の不器用さに苛立ちが募る。
カウンター越しのキッチンで食パンを焼く一颯は、彼の返事で我に返ったのか急に恥ずかしそうにしていた。ますますわけがわからない。
女性とは面倒くさい生き物だ。内側に他人の知り得ない心を持っている少女となると更に理不尽で理解不能なモノへシフトしていく。一颯は男らしさがあったからか例外だと思っていたが、そうでもなかったようだ。
「オリオンは、私のことどう思うの?」
もちろんオリオンにとって一颯とは大事なパートナーだ。
戦えない彼のためにその身を危険に晒してでも戦い、次の新月の夜は変異体に一緒に立ち向かうと言ってくれた少女。本当なら、命を守るべき明世界の人間の一人。
きっと彼女が求めている答えは違う。他人が見て判る関係性ではなく、彼女に対する感情であると。
「別に、いっつもありがたいなって」
感情論で物事を語るのは大得意だが、相手の胸中を推し量るとなると彼にとっては中々どうして高難易度。至難の技だ。
普段なら相手が誰だろうと失礼極まりない罵詈雑言を連発できるのに、今は不器用で曖昧な言葉でしか自分を語れない。キャロルに対してはいつも通り接していたのに調子が狂う。
「そう? 感謝してくれるのは嬉しいわ」
焼き上がった二枚のカリカリの食パンにマーガリンを塗りたくり、皿に乗せてカウンターテーブルに置く。
冷蔵庫からいちごとりんごジャムを取り出して、目で彼に「食べよう」と合図を送る。
オリオンが深刻そうに抱えている悩みには気付いていない様子で、それに安心できるのか腹が立つのか彼には判らなかった。
「今日も昼までだからお昼ごはん待っててね」
「おう」
「しっかり寝たし大事な宿題も終わらせたし、今日はバッチリだから!」
「頑張れよ」
端に置かれた宿題の英単語プリントをバシバシ叩きながら「これ忘れたら怒られちゃう」と言っていた。
一颯から始める話を淡々と続け、イチゴジャムをいっぱい盛ったパンの切れ端を最後に飲み込んで彼女は立ち上がった。
「それじゃあ行ってくるから」
学校指定の鞄を手にし、オリオン一人を残してリビングルームから出ていく。
ガチャン
扉を閉じ、鍵をかける音がした。
昼間には外に異形が現れることがないため出掛ける理由はないし、今日もパンを敷いた皿を片付け、風呂掃除をしたら部屋で寝ることにしよう。
一颯がいなくなったことで、彼女の隣で感じていた妙な息苦しさが和らいだ気がする。
自分の思考に余裕を持つのは、戦場や日常のどちらでも大事なことだ。戦いにおいてはエキスパートたる彼はそれをよく理解しているのに、たかが心の距離程度に不安を持って冷静さを欠くなんて絶対におかしい。
人との接し方なんて一度経験していたはずなのに、もう同じ呼吸はできないはずなのに。
今回は性別が違うからか。
自分より息の長い戦士じゃないからか。
罪悪感のせいなのか。
───知ってから死ぬのが怖いからか。
今でも鮮明に思い出せる。未熟で幼かった自分の背で死んだ人の最期を。もしかして、無意識に一颯も同じ未来を辿る幻を見てしまっているのかもしれない。
脳みそが過剰な負荷で燃え上がりそうだ。
未だ人との関係に慣れない、なにもかもが無垢な心には難しすぎた。
「あーッ!! クソ! ワケわかんねえッ!!」
苛立ちに駆られ頭をかきむしる。
最初は"一颯を知りたい"、それだけのことだったのに、距離感を間違えたせいで戸惑いと焦燥が膨らみ、彼女へ伝えきれない心がどうしようもない不安になってしまった。
きっとブランカが聞いたら「オリオンってば意外に奥手なのね!」と茶化してくるに違いない。そう思ったら次第にむかっ腹が立ってくる。
こうなれば自棄だ。
なんとしてもこのモヤモヤを解消しなければ変異体戦には挑めない。
なにか、一颯の懐へ潜り込む口実はないものか────。
「……あれ?」
カウンター端に置かれたファイル入りのプリント10枚。さっき一颯が見せてくれた「大事な英語の宿題」とやらではないか?
彼女は自分で言っていた。
"これ忘れたら怒られちゃう"
───見事なフラグ回収力だ。
イライラした脳が瞬時に冷めて、彼女のやらかしに呆れを感じた。
一颯が自宅を出てからすでに10分以上経つ。以前話していた登校ルートとやらにあった電車とは違う地上を走る機械の箱━━バスにはもう乗っている時間だ。
学校に着いてからこれがないと大騒ぎする彼女の姿がなんとなくイメージできる。それはそれでとても楽しそうだが、かわいそうだ。
それに、上手いこと口実ができたではないか。
そうと決まれば"善は急げ"だ。
紅色のパーカーを着て、戸棚の上に置かれた鍵を手に取る。前に「家を出る時は必ず鍵かけて」と彼女が持っていた予備の鍵を渡されていた。使うのは今日が初めてだが。
彼の目指すべき場所は「私立星宮高等学校」。
クリアファイルを右手にしっかり持ち、装備を確認。服装よし、魔力よし、いざという時のために一颯から預かっているお金よし。完璧だ。
「よし……!!」
オリオン・ヴィンセント、明世界で初めてのおつかい。
扉を開く瞬間のあまりの暑さに冷却の魔法を使いそうになったが、恐らく問題ない。道もよく分かってないが、どうにかなると思う。
「今行くぞイブキーッ!!」
───多分。