【Ⅳ】
サンドイッチを載せたトレイを片手で掲げ、ファウストがドアを開け部屋に入ってきた。
「あれ? 珍しい。もう部屋に戻ってるなんて」
彼はそう声を上げたが、ルードはいつものように特に返事などしない。
開け放した窓の下でカウチにもたれ、ぼんやりと外を眺めたままだ。
「……いいねえ。瞬きもせず、物憂げにどこか一点を見つめる君の横顔。まるで神話の神を模した彫刻みたいに端整で綺麗だ。これを愛でるのを肴に今夜は飲むとしよう」
ファウストは懐からラム酒のポケット瓶を取り出した。
そしてサンドイッチのトレイはカウチ脇の小さなテーブルの上に置く。
「それにしても、居たならたまには食堂に下りてくれば? そうすりゃ、僕が食事を運ぶ手間が省ける」
本気でもなさそうな不平を言いながら、ファウストはラム酒を一口煽る。
「……頼んだ覚えはない」
「おや、彫刻がしゃべった」
ファウストはルードの呟きに、大げさに目を丸くした。
「これはちょっとした驚きだな。いつもは推測するだけの返事が、本人の口から聞けるなんて。おかげで香りを楽しむ前に、酒が一気に咽喉を通過してしまったよ。ははは」
取ってつけたような笑いは、いつもどこか掴めない。
馬鹿にしているのか、それとも面白がっているのか。
「頼まれてはいないけどね、僕がこうして食べ物を置いておかないと、君は何日でも食べずにいるだろう。朝起きたら、隣でルームメイトが餓死してたなんて洒落にもならない」
「ふん」
軽く鼻を鳴らして、ルードはトレイの上のサンドイッチに手を伸ばした。
ファウストの目の前で食事をするのも滅多にない事だったが、今日は少々小腹が空いている。
「……なんてね。本当は餓死を心配してるんじゃなくて、餌付けのつもりなんだ」
その言葉に眉をひそめて、ルードはファウストを見た。
「動物を手なづける、一番いい方法だろ。餌をくれる者には自然と心を許すってね」
悪戯っぽく覗き込んでくる彼の目を軽く睨み、ルードはさらにサンドイッチに手を伸ばした。
ついでにファウストの手にあるラム酒も取り上げる。
黙々と食事を続けながら、ルードはまた窓の外を眺めた。
その視線の先を追い、ファウストが腰を屈めて同じ窓から外を見やる。
そこには鬱蒼と生い茂る幻魔の森が、月に照らされ不気味に黒光りしていた。
「何を見てるんだい? ああ、森にある君の繭か。今日もそこに逃げ込んでいたの」
こんな風にファウストは、時折ルードの胸に小石を投げ込む。
だが、これくらいが丁度いい。
ルードにとって、優しいだけの人間など胡散臭いだけなのだから。
ファウストはルードからラム酒を取り返し一口含むと、反応を窺うように覗き込んできた。
その悪戯な蒼い瞳をルードの黒曜石の瞳が虚ろに見返す。
二人の視線が複雑に絡み合った。
「……予想外。どうやら、思った以上に傷つけてしまったらしいね」
ファウストはルードの瞳を見つめたまま、そっと唇にキスをしてくる。
圧縮されたエフェクトとやり場のない想いが日々膨らんでいく中、こういったファウストの戯事は逆に鎮静効果がある。
「へえ、今夜は騒がないんだ。どういう風の吹き回し?」
「ラムの匂いは嫌いじゃない」
触れ合った唇がそう囁き合っても、互いの瞳が閉じることなどない。
そう、これは単なるお遊び。
胸の内を探り合う手段でもある。
ファウストは肩をすくめてルードから離れ、ラム酒を掲げた。
「これはね。新しく入った食堂の娘がくれたんだ。仲良くなった証だってさ」
「仲良く……ね。料理長に見つかってその娘がクビになる日まで、ラムには不自由しないって事か。いいんじゃないか」
「あらら。君が僕のする事に意見するなんて。なんだか今夜はホントにおかしいよ。もしかして何かあった?」
ファウストは身を投げ出すように、ルードの隣に腰掛けた。
そして、ルードが自分から口を開くのを待っている。
ひとしきり沈黙の音を聞いた後、ルードは低く呟いた。
「夢魔を、一体消しちまった」
「はあ?! またかい。二度目は勘弁してくれって言ったのに」
ファウストが声を上げると、ルードはフイと顔を逸らし、まただんまりを決め込んだ。
「やっぱりね。君の様子がいつもと違う時は、大抵何かがあった時だ。わかりやすいったらないよ」
今のルードは人を避け、表情を消して胸の内を悟られまいとしている。
にもかかわらずわかりやすいとは、どうやら付き合いの長いファウストにだけは微妙な感情の起伏が読めるらしい。
それとも彼の言う通り、餌付けが功を奏しているのか。
「ま、やってしまったものは仕方がない。心配しなくていいよ。早急に一体補充してもらえば結界の方も問題ないさ。じゃあさっそく、ご機嫌伺いのついでに学院長に報告してくるよ」
ファウストがカウチから腰を浮かすと、ルードはその腕を掴んだ。
「待てファウスト。まさか前みたいに、自分がやったなんて報告しないだろうな」
「もちろんするさ。僕がやったって事にした方が面倒がないから。学院長は僕に甘いしね。ああ、礼ならさっきのキスひとつで充分足りるよ」
ファウストが、自分の腕を掴むルードの手をポンと叩いて、カウチから立ち上がる。
「……勝手にしろ。物好き」
ルードの悪態がファウストの背中に投げかけられる。
すると、スタスタとドアに向かっていた彼がふと足を止めて振り返った。
「ああそうだ。今夜は約束があるから、このまま朝まで帰らないよ。先に寝てて」
「あんたを待ってた事なんて一度もない」
その応えに笑いながら、ファウストはドアの向こうに消えた。
本当ならこんな時間に廊下に笑い声が響けば、寮監が飛んでくる。
だが、この部屋の主二人に至っては治外法権だ。
学院側でさえ黙認の気配がある彼らの行動には、見てみぬフリが賢明という事なのだろう。
ルードは長く息を吐いて、無意識のうちにまた窓の向こうに浮かび上がる黒い森に目をやっていた。
実は、夢魔の事などついさっきまで忘れていた。
かなりの困窮した事態であるにも拘らず、何かあったのかと問われて初めて思い出した。
それよりもルードの心は、もっと不可解で鮮烈なもの――、突然目の前に現れ、自分の腕の中で眠ってしまった見知らぬ少女との出会いで占められていた。




