第1話 喚ぶ者
岩棚の奥の暗闇。
線香と私の饐えた匂いが充満する、古びた祠の中。
両手両足を太い縄で縛り上げられ、冷たい床の上に転がされた私は、荒い呼吸を殺しながら恐怖に震えていた。
村の老人たちは、旅人の私を生贄にし、村の近くのここに放り込んできた。
「外から迫る災いから村を守るため、祠の神にその身を捧げよ」と。
実際に……祠の入り口、注連縄の隙間から覗く外の景色は、地獄そのものだった。
風もないのに揺れる樹木。
霧の向こうから這い寄ってくる、異形のものたち。
見上げるほどに巨大な黒い影、歪んだ人間の顔を無数に浮かべた肉塊、無数の細い腕を蠢かせる怪異。
それらは祠から漂う、生きた贄に引き寄せられ、じわじわと距離を詰めてくる。
「ひっ……!」
ぞわ、と全身の産毛が総毛立つ。
そしてついに一匹の怪異が、揺れる注連縄の隙間から、ぬぅ、と不気味な長腕を滑り込ませてきた。
冷気と血の臭いをまとった青白い指先が、私の喉元へとゆっくり届こうとしている。
恐ろしく尖った爪が、ぷつりと触れ、食い込んだ。
―――死ぬ。
そう確信し、目を固く閉じた瞬間だった。
——ズズズ……
背後の暗闇、祠の奥深くから、地の底を揺らすような低い蠕動音が響いた。
次の瞬間、私の頬をかすめて、漆黒の巨大な何かが、轟音と共に突き出された。
つう、と伝う汗か血かを気にする余裕もなく眺めると、……それは無数の筋と関節が寄り集まったかのような、腕であった。
「ギ……ッ!?」
外の怪異が悲鳴を上げる間もなく、「それ」は食らいついた。
そうして。
まるで熟した果実をもぎ取るかのように、一気に奥へと引きずり込んだ。
バキバキバキッ!
ゴリ、ゴリ、ゴリ……!
私のすぐ頭上、頭一つ分ほどの場所で、骨が噛み砕かれ、肉が引き裂かれていき、生温かい怪異の血が頭頂部に降り注ぐ。
続いて、ぺちゃぺちゃと、ごきゅごきゅと、しゃぶり、飲み干すような音が聞こえる。
……食べている。
この「神」は、紛れもなく、怪異をその腕と一体化した口と胃袋でもって、貪っていた。
外で蠢いていた他の怪異たちが、その異常な捕食音に恐れをなし、蜘蛛の子を散らすようにざざざ、と逃げていく音が聞こえる。
……そうか。
理解してしまった。
村人たちは、私を神への「供物」として捧げたのではない。
釣りで垂らす蚯蚓のような。
あるいは、大きな獲物を捕らえる為の、罠のような……
疑似餌だ。
この祠の奥に潜む、外の何よりも凶暴で肥大化した「神」にとって、私はただの擬似餌に過ぎなかったのだ。
外の怪異を呼び寄せ、喰らうための、生きて蠢く罠。
身を固くこごめ、物音を立てないよう歯を食いしばっていると、じきに咀嚼音が止み、祠に静寂が戻る。
血に濡れた漆黒の腕が、ゆっくりと祠の奥の暗闇へと引き上げていく。
その間際、私を縛る縄は、その巨腕の爪に引っかかれ、ばらりと落ちた。
祠の奥から、げふぅう、と、血生臭い息が吐きかけられる。
……逃げようとは、考えられなかった。
そうしたら、きっとすぐに、殺されて、私が食べられていただろうと、容易に想像が出来た。
……大丈夫。大丈夫だ。
まだ、私は食べられない。
次の獲物が、この匂いに引き寄せられてやってくるまで、ここに居ればいい。
……それを、死ぬまで繰り返さなければならないことが、どうしようもなく気鬱だった。




