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『サラリーマンパグ吉 ~今日も尻尾は上がらない~』  作者: 水前寺鯉太郎


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第1話:地獄の水曜日、出社前にHPはゼロフゴ  

第1話:地獄の水曜日、出社前にHPはゼロフゴ

 ――ピピッ、ピピッ、メキッ、ガラガッシャアアン!

 無機質な電子音と、何かが床で砕け散る硬質的な音が脳髄を揺さぶり、俺は跳ね起きた。枕元にあるはずの目覚まし時計が、床で無残なプラスチックの残骸と化している。寝ぼけた太い前脚で叩き落としたらしい。

 壁掛け時計の針に目をやった瞬間、全身の短い被毛がぶわっと逆立ち、ピンと張っていた自慢の巻き尾がだらんと股間に垂れ下がった。

「フガッ……!? し、7時……!?」

 5時に起きるはずだった。パグ特有の深い顔のシワを入念に拭き上げ、皮膚炎予防の薬用クリームを塗り込む毎朝の儀式――それをこなした上で、今日9時からの役員プレゼンに備えるには、2時間では到底足りない。

 残骸を見つめる猶予など1秒もなかった。洗面所へ飛び込み、顔を水で洗い、タオルで乱暴に脱水する。

(ああっ、ダメだ! 鼻筋のシワの奥に水滴が残ってる! 夕方にはマラセチア菌が大繁殖して顔面がドブの臭いになるッ……!)

 36歳中年パグの皮膚疾患という死活問題を抱えながらも、背に腹は代えられない。昨夜持ち帰った膨大なプレゼン資料を革鞄に押し込むが、ファスナーが容量オーバーで悲鳴を上げた。直すのを諦め、半開きの鞄を小脇に抱えて玄関を飛び出す。

 その瞬間、背中の被毛の下に嫌な悪汗が走った。

「やべえ……社員証がない……!」

 部屋へ引き返し、ぐちゃぐちゃのデスク上をひっかき回す。あった。コーポレートカラーの緑色が眩しいプラスチックの非接触ICカード。これがないと本社の受付ゲートで弾かれ、警備課のドーベルマン隊長から厳重な取り調べを受ける羽目になる。あの鋭い眼光で睨み下ろされながら始末書を書かされるのは、ストレスで痛む胃には猛毒だ。

 7時18分、息を切らして駅の改札へ滑り込む。だが、電光掲示板の赤い文字を見上げた瞬間、俺は膝から崩れ落ちそうになった。

『獣身事故のためダイヤが大幅に乱れております』

「おい……嘘だろ……っ」

 ホームは通勤客で溢れかえり、殺気立った熱気が渦巻いていた。遅延は20分以上。小柄な短頭種が生き残るための「小型獣専用車両」の列はとうに破綻しており、俺は7時45分、押し出されるようにして最も過酷な「全獣雑居車両」へと揉み込まれた。

 首都・東京の通勤電車は、文字通りの地獄絵図だ。密室には190cmを超えるマスティフやセントバーナードといった超大型犬種たちがすし詰めにされ、彼らの放つ凄まじい体熱と、湿った獣毛の臭いが充満している。構造的に気道が狭く、体温調節が極端に苦手な短頭種の俺にとって、四方を肉の壁に塞がれたこの密閉空間は文字通り「焼却炉」に等しい。

 しかも今日に限って、事故現場を迂回するための徐行と途中停車が三度も重なった。

(じいちゃんは特攻機で9回も空から生還したっていうのに、孫の俺は通勤電車で窒息死するのかよ……っ!)

 酸欠で視界がチカチカと明滅するなか、命からがら会社の最寄り駅にたどり着いた時、時計の針は8時58分を指していた。

「フゴッ、ヒューッ……! フゴッ……!」

 走る。地下改札から地上ロビーまでの長い階段。短足と構造的につぶれた鼻頭が全力疾走を激しく拒絶する。ひゅーひゅーと喘鳴が響き、肺が爆発する感覚に襲われながら、俺は本社のセキュリティゲートへ滑り込んだ。

 視界の端で、受付脇に立つ大型犬のドーベルマン隊長が太い腕を組み、低く唸りを上げながらこちらを凝視しているのが見えた。

(焦るな……息を整えろ……冷静に社員証をタッチすれば、通過できる……!)

 汗と皮脂でぬるつく肉球の指先でポケットから緑色のカードを取り出し、ゲートの読み取り機へ叩きつけるように押し当てる。

 ――バコンッ!

「なっ……!?」

 無情にも跳ね返る赤いランプ。ゲートは開かない。おかしい、もう一度力任せに叩きつける。

 ――ブブーッ!

 けたたましいエラー音が静まり返った大理石のロビーに響き渡る。俺は慌てて手元のカードを見た。

「しまっ……!?」

 手に握りしめていたのは、緑色の社員証ではなかった。同じ緑色を基調とした、行きつけの激安店『フェイクミート・ジャーキー亭(※大豆100%)』のポイントカードだった。

 猫型獣人のように肉の支給もない犬の分際で、よりにもよって紛い物のジャーキーの会員証を後生大事に握りしめ、ゲートに特攻をかけた――その底辺の生活感だけは、絶対に社内のエリート大型犬たちに見られたくなかった。

 至近距離から、かつ、かつと硬い革靴が床を鳴らす音が近づいてくる。

「グルルル……山田。ちょっとツラ貸せ」

 ドスの効いた底冷えする声に、俺の巻き尾は完全に力を失い、震えながら股の間へと吸い込まれていった。

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― 新着の感想 ―
何この、解像度の高すぎるズートピア! 昔、読んだ筒井康隆先生の不条理ギャグSFを思い出しましたわ。 良いお笑いをいただきました。ありがとうございます。 しかし、36歳は中年か。そうか、そうだよね(…
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