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2

 午後の陽光が廊下に長い影を落としている。彼女は教室の隅にいたが、ノエルが椅子から立ち上がるのを見てつい視線で追いかけた。


 深いため息が聞こえる。


 彼の肩が、いつもより重そうに見えた。


「…」


 彼が頭を振って、次の授業のために教室を出ていく。その足取りは普段より明らかに重い。無表情な顔はいつもと同じだけれど、疲労の色が滲んでいるのが分かる。黒い髪に付着した実験の煤を手で払いながら、彼は静かに歩いていく。



 声をかけるべきか、かけないべきか少し躊躇する。


 心配な気持ちと、余計なお節介になるかもしれないという思いが交錯した。


「…あ、ノエルくん」


 結局、彼の後を追うように立ち上がって歩き出す。

彼を追いかけるために廊下を出て近寄ろうとすると——


「よぉ、混血児。爆発のせいで顔に黒いものがついてるぞ…あ、元々か」


 聞き覚えのある嘲笑混じりの声が廊下に響いた。


 一瞬だけ視界が冷たくなる。青い瞳が、氷のように冷たく光るのを自分でも感じた。


 足が自然と止まる。ここで割って入るべきか、それとも——


 静かにその様子を見守ることにした。


 美しい顔に微かに影が差したのを自覚しながら、彼女はすぐに平静を装った。


* * *


 ノエルの表情が無表情ながらも固まった。


 その声の主を確認するまでもない。背筋に嫌な冷や汗が流れる。肩がわずかに強張り、歩みが止まった。ゆっくりと振り返ると、案の定——見知った顔がそこにあった。


「…マルクス」


 マルクス・ヴァイス。紫色の瞳を細めて、ニヤニヤとした笑みを浮かべている。整った顔立ちだが、その表情は悪意に満ちていた。いつものように取り巻きの男子生徒たちを連れて、自分を囲む。


 緋色の瞳を細めて内心で冷や汗を流しながらも、表面上は冷静さを保とうとした。反発したところで事態が悪化するだけだ。これまでの経験で痛いほど学んでいる。


「なんのようだ…わざわざ嫌味を言いにきたのか?」


 抑揚のない声でそう問いかけると、マルクスは肩をすくめて見せた。その仕草はどこか芝居がかっていて、取り巻きたちに向けたパフォーマンスの意味合いが強い。


「別に嫌味じゃねぇよ。ただ事実を言ってるだけだ」


 マルクスの声に嘲りが混じる。彼は一歩自分に近づくと、わざとらしく鼻を鳴らした。


「それにしても、お前みたいな出来損ないが学園にいると、俺たちまで穢れちまう気がしてさ。三つの国の血が混じってるなんて、どんな親の顔が見てみたいもんだぜ」


 マルクスは意地悪く笑みを深めた。


「…あ、そうか。本当の親の顔も知らねぇんだったな。養子だもんな」


 その言葉が心に突き刺さる。拳がわずかに震えた。マルクスはその反応を見逃さず、さらに追い打ちをかけるように続ける。


「それに、その気持ち悪い能力もどうにかならねぇのか?触られただけで力が消えるなんて、まるで疫病神じゃねぇか。お前と同じクラスにいるだけで不幸が移りそうだ」


 取り巻きたちがクスクスと嘲笑を漏らす。その笑い声が廊下に響いて、胸の奥深くに突き刺さるのを感じた。


 拳を軽く握り締める。いつものように俯いて耐えようとした。


 だが——今日は違った。


 実験での失敗、教師からの説教、そして今度はマルクスからの心ない言葉。積もり積もったストレスが、ついにノエルの理性の限界を超えた。


 深いため息をついて、マルクスの紫色の瞳を真っ直ぐに見据えた。


「…マルクス。俺をいじめるのは構わないが、毎回同じことの繰り返しで君も飽きないのか?もっと建設的なことに時間を使った方がいいと思うが」


 その言葉は、自分でも驚くほど冷静で淡々としていた。悪意はない。むしろ純粋な疑問として口にしたのだが——


 取り巻きたちが青ざめて息をのんだ。彼らは慌てたようにマルクスと距離を取る。


 マルクスの顔が見る見るうちに怒りで赤く染まっていく。紫色の瞳が釣り上がり、殺気すら感じさせるほどの怒気が立ち上った。拳をガタガタと震わせながら、彼は歯を食いしばる。


「混血児のくせに生意気言うなよ!」


 マルクスは激昂して手を振り上げた。その動きは早い。周囲の生徒たちも息を呑む気配がした。


 身構えて瞼を固く閉じる。これまでの経験から、この後に続くであろう痛みを覚悟した。


 だが——


 予想していた衝撃は来なかった。静寂が続く。恐る恐る瞼を上げると、大きく目を見開くことになった。


 レイシーが険しい表情でマルクスの手を両手で掴み、完全に静止させていた。


 細い指が太い手首を掴んでいる。不釣り合いな光景だった。しかし、その美しい顔に浮かんだ表情は、普段の慈愛に満ちた笑顔とはまるで別人のように厳しく、冷たい。


 ノエルだけでなく、マルクスも取り巻きたちも驚きで固まった。廊下を歩いていた他の生徒たちも立ち止まって、この異様な光景を見つめている。まるで時が止まったかのような静寂が流れた。


 だが、彼女はいつもの天使のような笑みを浮かべてその静寂を破った。


「マルクスくん」


 レイシーの声は静かだったが、その奥に秘められた感情の激しさは誰の目にも明らかだった。普段の鈴を転がすような美しい声とは異なり、どこか低く、威圧的な響きを帯びている。


「その行動、校則に触れかねないわ…学園内での暴力行為は御法度よ」


 マルクスは自分の手を掴む彼女の細い指に視線を落とす。普通なら簡単に振り払えるはずなのに、なぜかその手は動かないようだった。


「れ、レイシー…?」


 マルクスの声は震えていた。


「…私、暴力を振るう人は苦手なの。マルクスくんはそんな人じゃないよね?」


 レイシーは静かに言い続ける。彼女の笑みは相変わらず優しさを帯びていたが、その青い瞳は氷のように冷たく光っていた。


「そういうやり方を見ると、少し心配になるの。……もしこのまま続けるなら、生徒会にも知らせないといけなくなるけど、それでも大丈夫?」


 その言葉に、取り巻きたちがさらに青ざめた。彼らは慌てたようにマルクスの袖を引っ張る。


「おい、マルクス…やめとけよ」

「相手が悪すぎるって」


 マルクスは悔しそうに歯を食いしばりながらも、レイシーから手を引いた。だが、その紫色の瞳には収まりきらない怒りが燃え続けている。


「…今日のところは見逃してやる」


 マルクスは負け惜しみのような言葉を吐くと、ノエルを睨みつけた。


「だが覚えておけ、混血児。お前のせいで俺が恥をかいた…この借りは必ず返す」


 そう言い残すと、マルクスは取り巻きたちと共にその場を立ち去っていった。その足音が廊下に響き、やがて遠ざかっていく。


 廊下に静寂が戻ると、レイシーはほっと息をついた。先ほどまでの険しい表情が嘘のように消え去り、振り返ると、いつもの優しい笑みを浮かべて見せた。


「大丈夫?怪我はない?」


 その笑顔は先ほどの冷たい表情とはまるで別人のようだった。まるで何事もなかったかのように、彼女は心配そうに彼の顔を覗き込む。


「あ…ああ、大丈夫だ。ありがとう、レイシー」


 困惑しながらも、素直に感謝の言葉を口にした。彼女の豹変ぶりに戸惑いながらも、助けてもらったことへの感謝の気持ちは本物だった。


「どういたしまして」


 レイシーはにっこりと微笑む。少しだけ嬉しそうに目を細めると、彼に向かって手を差し出した。


「…それじゃあ、次の授業に行きましょうか。一緒に歩いてもいいかな?」


 その言葉に、ノエルの表情がわずかに曇った。彼女の優しさは嬉しかったが、同時に心の奥で警鐘が鳴り響く。


『——ノエルのことなんて大っ嫌いっ』


 昔言われた記憶がフラッシュバックして、彼女の手を取ろうとした手を引っ込めた。これ以上彼女と関わってしまえば、またあの時のような痛みを味わうことになるかもしれない。


 あの時のあの子の涙と、自分を見つめる絶望的な眼差し。そして、彼女から向けられた冷たい拒絶の言葉が鮮明に蘇る。


「…ごめん」


 ノエルは視線を逸らしながら、小さく首を横に振った。


「俺は…一人で行くよ。君が俺と一緒にいると、変な噂を立てられるかもしれないし」


 彼女の表情を見れずに俯きながらそう言い残すと、足早にその場を立ち去った。

自分のせいでまた誰かが傷つくかもしれないと思うと怖かった。


 これ以上自分と一緒にいると、彼女に迷惑がかかる。そう言い訳して、彼は振り返らずに教室に向かった。


* * *


 レイシーは彼の背中が見えなくなるまで、じっとその場に立ち尽くしていた。


 憂いを帯びた眼差しで、彼が振り返らないかを期待する。けど、彼は最後まで振り返ることはなかった。


「……そんなことないのに」


 彼が消え去った後、誰にも聞こえない声でそう呟いた。


 すると、誰かがこちらに駆けてくる音がした。


「レイシー、早く行かないと授業に遅れるよ?」


 それは他でもないベルだった。友人である自分を心配して声をかけてきたのだ。


 彼女の後ろにスコットが控えている。だが彼はベルの手を自然と握ると、ベルは頬を赤らめた。


「も、もう…スコット。人前だよ?」


「いいじゃない。多分、レイシーさんなら気にしないよ」


「……はは」


 どこか遠い目で二人を見守る。思わず乾いた笑い声を上げてしまった。


「相変わらず仲がいいのね…」


「え、、そうかな?」


 スコットが照れながら赤い頬を掻く。だが手を離さない様子に、ベルは赤い顔で落ち着かない様子を見せた。


 だが、スコットは我に帰ると心配するように話しかけてきた。


「…それより大丈夫?何かマルクスたちと揉めていたみたいだけど」


 その言葉にぴくりと反応してしまう。だがいつもの穏やかな笑みを浮かべると、小さく首を振った。


「いいえ、なんでもないわ…早く行きましょう」


 そう言って二人と一緒に教室に向かう。


 心の中はまだ先ほどの彼とのやりとりでくすぶっていた。

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