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午後の陽光が廊下に長い影を落としている。彼女は教室の隅にいたが、ノエルが椅子から立ち上がるのを見てつい視線で追いかけた。
深いため息が聞こえる。
彼の肩が、いつもより重そうに見えた。
「…」
彼が頭を振って、次の授業のために教室を出ていく。その足取りは普段より明らかに重い。無表情な顔はいつもと同じだけれど、疲労の色が滲んでいるのが分かる。黒い髪に付着した実験の煤を手で払いながら、彼は静かに歩いていく。
声をかけるべきか、かけないべきか少し躊躇する。
心配な気持ちと、余計なお節介になるかもしれないという思いが交錯した。
「…あ、ノエルくん」
結局、彼の後を追うように立ち上がって歩き出す。
彼を追いかけるために廊下を出て近寄ろうとすると——
「よぉ、混血児。爆発のせいで顔に黒いものがついてるぞ…あ、元々か」
聞き覚えのある嘲笑混じりの声が廊下に響いた。
一瞬だけ視界が冷たくなる。青い瞳が、氷のように冷たく光るのを自分でも感じた。
足が自然と止まる。ここで割って入るべきか、それとも——
静かにその様子を見守ることにした。
美しい顔に微かに影が差したのを自覚しながら、彼女はすぐに平静を装った。
* * *
ノエルの表情が無表情ながらも固まった。
その声の主を確認するまでもない。背筋に嫌な冷や汗が流れる。肩がわずかに強張り、歩みが止まった。ゆっくりと振り返ると、案の定——見知った顔がそこにあった。
「…マルクス」
マルクス・ヴァイス。紫色の瞳を細めて、ニヤニヤとした笑みを浮かべている。整った顔立ちだが、その表情は悪意に満ちていた。いつものように取り巻きの男子生徒たちを連れて、自分を囲む。
緋色の瞳を細めて内心で冷や汗を流しながらも、表面上は冷静さを保とうとした。反発したところで事態が悪化するだけだ。これまでの経験で痛いほど学んでいる。
「なんのようだ…わざわざ嫌味を言いにきたのか?」
抑揚のない声でそう問いかけると、マルクスは肩をすくめて見せた。その仕草はどこか芝居がかっていて、取り巻きたちに向けたパフォーマンスの意味合いが強い。
「別に嫌味じゃねぇよ。ただ事実を言ってるだけだ」
マルクスの声に嘲りが混じる。彼は一歩自分に近づくと、わざとらしく鼻を鳴らした。
「それにしても、お前みたいな出来損ないが学園にいると、俺たちまで穢れちまう気がしてさ。三つの国の血が混じってるなんて、どんな親の顔が見てみたいもんだぜ」
マルクスは意地悪く笑みを深めた。
「…あ、そうか。本当の親の顔も知らねぇんだったな。養子だもんな」
その言葉が心に突き刺さる。拳がわずかに震えた。マルクスはその反応を見逃さず、さらに追い打ちをかけるように続ける。
「それに、その気持ち悪い能力もどうにかならねぇのか?触られただけで力が消えるなんて、まるで疫病神じゃねぇか。お前と同じクラスにいるだけで不幸が移りそうだ」
取り巻きたちがクスクスと嘲笑を漏らす。その笑い声が廊下に響いて、胸の奥深くに突き刺さるのを感じた。
拳を軽く握り締める。いつものように俯いて耐えようとした。
だが——今日は違った。
実験での失敗、教師からの説教、そして今度はマルクスからの心ない言葉。積もり積もったストレスが、ついにノエルの理性の限界を超えた。
深いため息をついて、マルクスの紫色の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「…マルクス。俺をいじめるのは構わないが、毎回同じことの繰り返しで君も飽きないのか?もっと建設的なことに時間を使った方がいいと思うが」
その言葉は、自分でも驚くほど冷静で淡々としていた。悪意はない。むしろ純粋な疑問として口にしたのだが——
取り巻きたちが青ざめて息をのんだ。彼らは慌てたようにマルクスと距離を取る。
マルクスの顔が見る見るうちに怒りで赤く染まっていく。紫色の瞳が釣り上がり、殺気すら感じさせるほどの怒気が立ち上った。拳をガタガタと震わせながら、彼は歯を食いしばる。
「混血児のくせに生意気言うなよ!」
マルクスは激昂して手を振り上げた。その動きは早い。周囲の生徒たちも息を呑む気配がした。
身構えて瞼を固く閉じる。これまでの経験から、この後に続くであろう痛みを覚悟した。
だが——
予想していた衝撃は来なかった。静寂が続く。恐る恐る瞼を上げると、大きく目を見開くことになった。
レイシーが険しい表情でマルクスの手を両手で掴み、完全に静止させていた。
細い指が太い手首を掴んでいる。不釣り合いな光景だった。しかし、その美しい顔に浮かんだ表情は、普段の慈愛に満ちた笑顔とはまるで別人のように厳しく、冷たい。
ノエルだけでなく、マルクスも取り巻きたちも驚きで固まった。廊下を歩いていた他の生徒たちも立ち止まって、この異様な光景を見つめている。まるで時が止まったかのような静寂が流れた。
だが、彼女はいつもの天使のような笑みを浮かべてその静寂を破った。
「マルクスくん」
レイシーの声は静かだったが、その奥に秘められた感情の激しさは誰の目にも明らかだった。普段の鈴を転がすような美しい声とは異なり、どこか低く、威圧的な響きを帯びている。
「その行動、校則に触れかねないわ…学園内での暴力行為は御法度よ」
マルクスは自分の手を掴む彼女の細い指に視線を落とす。普通なら簡単に振り払えるはずなのに、なぜかその手は動かないようだった。
「れ、レイシー…?」
マルクスの声は震えていた。
「…私、暴力を振るう人は苦手なの。マルクスくんはそんな人じゃないよね?」
レイシーは静かに言い続ける。彼女の笑みは相変わらず優しさを帯びていたが、その青い瞳は氷のように冷たく光っていた。
「そういうやり方を見ると、少し心配になるの。……もしこのまま続けるなら、生徒会にも知らせないといけなくなるけど、それでも大丈夫?」
その言葉に、取り巻きたちがさらに青ざめた。彼らは慌てたようにマルクスの袖を引っ張る。
「おい、マルクス…やめとけよ」
「相手が悪すぎるって」
マルクスは悔しそうに歯を食いしばりながらも、レイシーから手を引いた。だが、その紫色の瞳には収まりきらない怒りが燃え続けている。
「…今日のところは見逃してやる」
マルクスは負け惜しみのような言葉を吐くと、ノエルを睨みつけた。
「だが覚えておけ、混血児。お前のせいで俺が恥をかいた…この借りは必ず返す」
そう言い残すと、マルクスは取り巻きたちと共にその場を立ち去っていった。その足音が廊下に響き、やがて遠ざかっていく。
廊下に静寂が戻ると、レイシーはほっと息をついた。先ほどまでの険しい表情が嘘のように消え去り、振り返ると、いつもの優しい笑みを浮かべて見せた。
「大丈夫?怪我はない?」
その笑顔は先ほどの冷たい表情とはまるで別人のようだった。まるで何事もなかったかのように、彼女は心配そうに彼の顔を覗き込む。
「あ…ああ、大丈夫だ。ありがとう、レイシー」
困惑しながらも、素直に感謝の言葉を口にした。彼女の豹変ぶりに戸惑いながらも、助けてもらったことへの感謝の気持ちは本物だった。
「どういたしまして」
レイシーはにっこりと微笑む。少しだけ嬉しそうに目を細めると、彼に向かって手を差し出した。
「…それじゃあ、次の授業に行きましょうか。一緒に歩いてもいいかな?」
その言葉に、ノエルの表情がわずかに曇った。彼女の優しさは嬉しかったが、同時に心の奥で警鐘が鳴り響く。
『——ノエルのことなんて大っ嫌いっ』
昔言われた記憶がフラッシュバックして、彼女の手を取ろうとした手を引っ込めた。これ以上彼女と関わってしまえば、またあの時のような痛みを味わうことになるかもしれない。
あの時のあの子の涙と、自分を見つめる絶望的な眼差し。そして、彼女から向けられた冷たい拒絶の言葉が鮮明に蘇る。
「…ごめん」
ノエルは視線を逸らしながら、小さく首を横に振った。
「俺は…一人で行くよ。君が俺と一緒にいると、変な噂を立てられるかもしれないし」
彼女の表情を見れずに俯きながらそう言い残すと、足早にその場を立ち去った。
自分のせいでまた誰かが傷つくかもしれないと思うと怖かった。
これ以上自分と一緒にいると、彼女に迷惑がかかる。そう言い訳して、彼は振り返らずに教室に向かった。
* * *
レイシーは彼の背中が見えなくなるまで、じっとその場に立ち尽くしていた。
憂いを帯びた眼差しで、彼が振り返らないかを期待する。けど、彼は最後まで振り返ることはなかった。
「……そんなことないのに」
彼が消え去った後、誰にも聞こえない声でそう呟いた。
すると、誰かがこちらに駆けてくる音がした。
「レイシー、早く行かないと授業に遅れるよ?」
それは他でもないベルだった。友人である自分を心配して声をかけてきたのだ。
彼女の後ろにスコットが控えている。だが彼はベルの手を自然と握ると、ベルは頬を赤らめた。
「も、もう…スコット。人前だよ?」
「いいじゃない。多分、レイシーさんなら気にしないよ」
「……はは」
どこか遠い目で二人を見守る。思わず乾いた笑い声を上げてしまった。
「相変わらず仲がいいのね…」
「え、、そうかな?」
スコットが照れながら赤い頬を掻く。だが手を離さない様子に、ベルは赤い顔で落ち着かない様子を見せた。
だが、スコットは我に帰ると心配するように話しかけてきた。
「…それより大丈夫?何かマルクスたちと揉めていたみたいだけど」
その言葉にぴくりと反応してしまう。だがいつもの穏やかな笑みを浮かべると、小さく首を振った。
「いいえ、なんでもないわ…早く行きましょう」
そう言って二人と一緒に教室に向かう。
心の中はまだ先ほどの彼とのやりとりでくすぶっていた。




