第19話「森の異変」
朝の訓練を終えたハルトのもとへ、東門からの伝令が駆け込んできた。
「エルデン森外縁で魔物が異常発生。東街道の二か所で荷馬車が立ち往生しています!」
十歳になったハルトは、木剣を置いた。二年の鍛錬で、カイルから初めて一本を取れるまでになった。それでも、報告を聞くカイルの顔にはいつもの笑みがなかった。
◇
執務室では、アルベルトが地図を広げていた。
「ローデリックは東門と街道の防衛線。カイルは救助。魔法兵は退路を確保しろ。住民の避難が最優先だ」
オズワルドが手配を書き留める。
「父さん、俺も行かせて」
「戦いたいのか」
「助けられる人がいるなら、助けたい」
「今日は勝負ではない。救助だ」
「分かってる」
「俺も行きます」
扉に立っていたのは十五歳のルークだった。
「俺はまだ正式騎士じゃありません。でも、避難の補助ならできます」
アルベルトは二人を見た。
「カイルの指揮下で後方支援に限る。森の奥へは入るな。独断で持ち場を離れるな」
「はい!」
「勝ちに行くな。人を帰すために行け。お前たち自身もだ」
――帰るところまでが、戦いだ。
父の教えが、ハルトの胸に戻ってきた。
◇
出立前、アナが廊下で二人を待っていた。
「本当に……二人とも行かなければならないの?」
「母さん……」
アナはハルトの肩に手を置いた。
「あなたたちが誰かを助けたいのは分かる。でも、私は怖いわ」
言い切った声は静かだった。
「だから、無理をしないと約束して。ルークも」
「うん」「分かってるよ」
「にいさま、ルークにいちゃん……帰ってくる?」
ミアが二人の裾を握った。ハルトが「絶対」と言いかける前に、ルークがしゃがむ。
「帰るために行くんだ。戻ったら、また一緒に遊ぼう」
「……まってる」
オズワルドは装備を確かめた。
「ルーク様。弟君を守ることに気を取られ、ご自身の退路を失われませぬよう」
「はい」
「ハルト様も。強い者ほど、目の前だけを見てしまう時がございます」
クラリスは水筒と包帯を渡し、ハルトの襟を直す。
「お帰りになったら、温かいものを用意しておきます」
いつもどおりの声。けれど、襟元から離れる指がほんの少しだけ遅かった。
「……行ってきます」
「行ってらっしゃい」
アナは笑おうとして、うまく笑えなかった。
◇
東門の先。ハルトが魔力感知を広げると、森の外縁に無数の反応が重なっていた。
「……多すぎる。それに、魔力の流れがおかしい」
「原因はまだ分からん。決めつけるな」
カイルが指さした先に、車輪を折った荷馬車があった。
魔物が何体も取り囲んでいる。
「《ブリーズ》!」
風が先頭の足を払う。
「《アースウォール》!」
土壁で進路を切り、足に必要な瞬間だけ魔力を巡らせて踏み込む。剣が一体、二体と敵を退けた。
普通の小型魔物なら、もう一体ずつに苦戦することはない。
「御者さん、こちらへ!」
ルークが荷馬車の死角を確認し、負傷した御者を支えた。
「中に子どもがいる! ハルト、前を頼む!」
「分かった!」
その時、森の枝が折れた。
一回り大きい獣型の魔物。体内を流れる魔力が濁っている。
「下がれ!」
カイルが叫ぶ。
ハルトの《アースウォール》へ巨体が衝突した。壁に亀裂が走る。
(重い。でも、止められないわけじゃない)
「右へ誘導します!」
「前脚は俺が封じる!」
カイルが間合いを潰し、ハルトが風で体勢を崩す。二人の剣が連続して走り、魔物は倒れた。
その直後。
「ハルト、後ろ!」
荷馬車から出た幼い子へ、別の魔物が迫る。
ルークが間に入り、牙を剣で受け止めた。膝が沈む。
「兄さん!」
ハルトの風が魔物を弾き、騎士が仕留めた。
「大丈夫!?」
「平気だ。お前こそ前だけ見るな」
ルークは子どもを抱き寄せた。
「後ろは俺が見る。だからお前は、今は前を守れ」
剣の腕なら、自分が上かもしれない。
それでも兄がいなければ、あの子には間に合わなかった。
◇
別の街道から救援の角笛が鳴った。
「向こうにも人が……!」
ハルトは走り出しかけた。自分なら一番早く着ける。
その腕をルークが掴んだ。
「お前がいなくなったら、ここにいる人は誰が守る?」
カイルも頷く。
「救助班を分ける。お前はここで障壁を維持しろ」
負傷した御者、震える子ども、まだ動けない馬。
守るべき人はここにもいた。
「……分かりました」
騎士たちが別働隊として走る。ルークが避難を誘導し、ハルトが退路を守る。
――一人で全部探す必要はない。
祭りの日の父の声を思い出した。
全部を一人で解決することと、人を守ることは違う。
◇
夕方。救助班は領都リュミエルへ戻った。
ローデリックが人数を確認し、エダが負傷者を診る。
「救助班、全員帰還。負傷者はいるが、命に関わる者はいません」
アルベルトは短く頷いた。
「よく戻った」
カイルはハルトへ言った。
「今日は強かったな。でも、一番よかったのは止まれたことだ」
ハルトはルークの袖に残る小さな裂け目を見た。
(もし、兄さんが……)
胸が冷えた。けれど、兄は今ここにいる。
アルベルトとセドリックは森の魔力異常を記録し、調査を続けることにした。何が魔物を動かしたのか、まだ誰にも分からない。
◇
屋敷の門が開くと、ミアが駆けてきた。
「にいさま! ルークにいちゃん!」
アナは二人の顔と手を確かめ、まとめて抱きしめた。
「……おかえり」
「ただいま、母さん」
オズワルドが装備を受け取り、クラリスが温かい食事を運ぶ。
「約束どおり、用意しておりました」
食卓でハルトはルークに小さく言った。
「兄さんがいてくれてよかった」
「なんだよ、急に」
「……あの子を守ってくれた」
ルークは照れ隠しに笑った。
「弟を守るのは兄貴の仕事だろ」
「俺だって、兄さんを守りたい」
「じゃあ、二人とも帰る。それでいい」
◇
その夜、アイリスからの手紙が届いていた。
『ハルトへ。
森の異変を聞いたよ。ルークお兄さんも一緒なんだって?
魔物を倒したかどうかなんて、あとでいいから。
ちゃんと帰ってきてね。約束だからね。
アイリス』
ハルトは最後の二行を何度も読んだ。
(……帰ってきたよ)
返事には、短く書いた。
『帰ってきた。兄さんも無事。心配してくれてありがとう。明日、丘に行けるよ。ハルト』
◇
翌日。秘密基地のある丘で、アイリスが先に待っていた。
「遅い!」
「時間どおりだよ」
「……そういうことじゃない」
アイリスはハルトの顔と腕を確かめ、ようやく息を吐いた。
「本当に無事なんだ」
「うん。みんな守れたから」
「ハルトって、いつもそうだよね」
「何が?」
「家族を守りたい。みんなを守りたいって」
「……うん」
「じゃあ、ハルトは?」
「俺?」
「ハルト自身は、誰が守るの?」
「俺は大丈夫。もっと強くなるから」
「……そういうことじゃないんだけど」
アイリスは唇を尖らせた。
「ハルトが誰かを大切に思うのと同じで、ハルトのことを大切に思う人もいるんだよ」
「……」
「私だって、ハルトが帰ってこなかったら嫌だもん」
言ってから、慌てて顔を背ける。
「友達なんだから、当たり前でしょ」
ハルトは答えられなかった。
父も兄も同じことを教えてくれた。でも、アイリスの言葉は、なぜか違うところへ届いた。
「……ありがとう」
「ほんと、分かってない」
アイリスは小屋の木板に刻んだ二人の印に触れた。丘を表す半円と、その上の二本の短い線。
「ねえ。今度は魔物じゃなくて、楽しい話をしようよ」
「楽しい話?」
「海とか。私、まだ見たことないんだ」
「俺も、この世界では見たことない」
「じゃあ、いつか一緒に行こうよ」
丘を風が抜けた。遠くの領都の城壁が夕陽を受けていた。
海はここから見えない。それでも二人でそこへ行く未来を、ハルトは少しだけ思い描いた。
「……うん。約束」
「絶対だからね」
アイリスが笑った。ハルトも笑った。
守りたい人がまた一人、確かにここにいる。
その人が、自分の帰りを待ってくれている。
その意味を、ハルトはまだ十分には分かっていなかった。
――第19話「森の異変」了。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます!
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これからもハルトたちの物語を、大切に描いていきます。




