第五十四話 栄転の打診
辺境ギルドの朝は、今や心地よい活気に包まれていた。
かつて、カイがこの地に赴任してきた当初の、
あの淀んだ空気は、もうどこにもない。
床は隅々まで磨き上げられ、
掲示板には整理された依頼票が、整然と並んでいる。
受付では冒険者たちが「今日の獲物」を求めて談笑し、
事務室からはオスカーが発行する領収印の音が、
規則正しく響いていた。
特別な英雄が現れたわけではない。
ただ、情報の不透明さが取り除かれ、
無理な行軍が禁止され、
撤退判断が正当に評価されるようになった。
それだけで、人はこれほどまでに前向きになれるのか。
事務机に座るセリーヌは、そんな感慨を抱きながら羽ペンを走らせていた。
「……セリーヌさん、この備品の発注書、確認をお願いします」
「はい、リリアさん。魔力触媒の在庫ですね」
「ヴォルフ商会との契約単価に変更がないか、よく見ておいてください」
「わかりました!」
新米だったリリアも、今では事務の補助をこなすまでになっている。
これもカイが作った「誰でも運用できる業務マニュアル」の成果だ。
ふと、セリーヌは視線をフロアの隅へ向けた。
そこでは、最近このギルドに居着いている謎のAランク冒険者。
――アレクが、不釣り合いなほどに場に馴染んで朝食を摂っていた。
「……ここのパン、中央の高級店より旨いな」
「柔らかいだけでなく、噛み応えもあって、麦の香りが強い」
「ヴォルフ商会が、北部の農家と直接契約を結びましたから」
「流通コストを削った分、品質の良い麦を安定して仕入れられる仕組みを作ったんです」
アレクの独り言に、隣で書類をめくっていたカイが淡々と答える。
アレクは愉快そうに目を細めた。
「仕組み、か。相変わらずだな、ギルド長」
「お前さんの手にかかると、たかがパン一切れまでが戦略の一部に見えてくるよ」
「食料の質は冒険者の士気に直結します」
「軽視すべきではありません」
そんな、どこにでもある平和な会話。
だが、その平穏を破るように、一通の書簡が届いた。
◇
その書簡を運んできたのは、中央ギルドの紋章を刻んだ早馬だった。
受け取ったセリーヌは、
指先に伝わる封蝋の重みに、心臓が跳ねるのを感じた。
(……この封蝋。ただの事務連絡じゃない)
赤紫色の蝋に押されているのは、中央ギルド「秘書室」の公印。
それは、人事室や総務局が発行する通常の公文書とは、格が違うことを意味している。
ギルド長室直属。
つまり、組織のトップ層が直接動いた証拠だ。
セリーヌは震える手で封を切り、中に納められた上質な羊皮紙を広げた。
中央特有の、格式張った、それでいて冷徹な文面が目に飛び込んでくる。
『特別人事通達:総務局長昇任の打診について』
視界が、一瞬だけ白くなった。
それは、想像を絶する「栄転」の通知だった。
監査室の調査によって失脚した、オーワダ・ジョムーの後任。
中央ギルドの運営全般を司り、数千人の職員と予算を動かす。
文字通りの権力の中枢。
そのポストに、カイ・アークライトを据えるという。
(……当然だわ。カイさんの功績を考えれば、むしろ遅すぎた。でも――)
読み進めるうちに、セリーヌの指先は冷たくなっていった。
『着任時期:即時。本状受理後、速やかに中央へ帰還せよ』
『現任地の辺境ギルドについては、中央より後任の暫定ギルド長を派遣する』
『引き継ぎ期間は三日以内とする』
――あまりに、身勝手だ。
中央は、ようやく彼の価値に気づいた。
それはいい。
だが彼らは、カイがこの辺境で何を積み上げ、
何を支えてきたのかを、何一つ理解していない。
三日で引き継ぎ?
後任を派遣する?
今の辺境ギルドが「仕組み」で回っているとはいえ、
その中心にカイがいなければ、再び中央の論理に侵食される。
崩壊していくのは目に見えている。
そして。
セリーヌは、自分自身の胸に手を当てた。
(……カイさんが、いなくなる)
彼が中央に戻れば、自分も秘書として戻れるかもしれない。
かつての、憧れだった中央の輝かしいキャリア。
だが、今のセリーヌにとって、
それは色褪せた過去の残像に過ぎなかった。
自分が愛したのは、中央の権威ではない。
誰も見向きもしない現場の綻びを、
黙々と、そして完璧に繕い続ける。
――カイ・アークライトの背中だ。
「セリーヌさん? 顔色が悪いですよ」
リリアが心配そうに覗き込んでくる。
セリーヌは無理に微笑みを作り、書簡を胸に抱えた。
「大丈夫よ。少し、重要な連絡が届いただけだから」
◇
2日後の夕刻。
業務を終え、冒険者たちも去った後の執務室。
カイは、山積みになった明日の依頼予定表を確認していた。
窓から差し込む夕日が、彼の眼鏡を赤く染めている。
「……カイさん」
セリーヌは、無造作に机の上に置かれた、例の書簡に目をやった。
「その中央からの書簡。もう、お読みになりましたか?」
カイは、ペンを止めた。
視線を予定表から上げ、セリーヌを見つめる。
その目は、いつも通り凪いでいた。
「ああ、その件ですか」
さらりと言った。
あまりにも軽く。
まるで、今日の献立を話すようなトーンで。
「すでにお断りしました」
「……え?」
セリーヌは、自分の耳を疑った。
「お断りした……? カイさん、意味がわかっていますか?」
思わず机に身を乗り出す。
「総務局長ですよ!
「中央の運営を司る、実質的なナンバーツーの地位です」
「あなたが中央で不当に扱われていた頃には、想像もできなかったはずの……」
「ええ。地位も名誉も。そして予算を動かす裁量も」
「ここよりはずっと大きいでしょう」
カイは椅子にもたれ、
窓の外に広がる辺境の街並みに、目を向けた。
そこには、仕事を終えて家路につく農民や、
酒場に向かう冒険者たちの姿がある。
「ですが、私は、もうしばらくこの辺境から離れるつもりはありません」
「……どうして、ですか」
「仕組みが完成したから、もう大丈夫だと言ったのはあなたじゃないですか」
セリーヌの声が、わずかに震える。
安堵と、戸惑いと。
そして、説明のつかない感情が混ざり合っていた。
「仕組みは動き出しましたが、まだ『自律』していません」
カイは、論理的に説明を始めた。
「今の辺境ギルドは、ようやく『正常』に動き出しただけの段階です」
「私が今ここを離れれば、中央は必ず『効率』という名の論理を持ち込み」
「再び現場を疲弊させる」
カイの言葉に、迷いはない。
「せっかく積み上げたヴォルフ商会との信頼関係も」
「塔の防衛機構の維持管理も」
「すべて台無しになるでしょう」
一拍置いて、カイはセリーヌを見た。
「私は、不完全なまま仕事を投げ出すのが嫌いなんです」
「……それだけ、ですか?」
カイは、少しだけ困ったように笑った。
中央にいた頃の彼なら、決して浮かべなかった表情だった。
「それに、ここは居心地がいい」
「あなたもそう思いませんか?」
その瞬間。
セリーヌの目から、堪えていたものが一雫、零れ落ちた。
居心地がいい。
それは、合理性を重んじるカイ・アークライトが、
最も使わないはずの、主観的な言葉だった。
カイは、自分の言葉がセリーヌを泣かせてしまったことに気づいたのか、
珍しく慌てた様子で指先を動かした。
「……いや、もちろん主観的な話です」
「客観的に見れば、中央に戻る方が利点は多いでしょう」
「セリーヌさんのキャリアを考えても、私の決断は……」
「いいえ」
セリーヌは、必死に涙を拭い、
満面の笑みで、言葉を遮った。
「最高に、合理的です」
「……ええ、私も、ここでの仕事はまだ終わっていないと思っていましたから」
カイは、不思議そうに瞬きをした。
「そうですか。……それならよかった」
カイは再びペンを取った。
「では、中央にはそのように返書を出しておきましたので」
「ああ、明日の朝一番で、ヴォルフ商会との新規路線の打ち合わせを入れられますか?」
「はい。承知いたしました」
日常へ戻る音。
書類をめくる音と、羽ペンの音だけが。
静かな室内に響く。
けれど。
二人の間に流れる空気は。
昨日までとは確実に、決定的に違っていた。
中央ギルドへの「栄転」を蹴ったという噂が
いずれ王国中に広まることになる。
しかし今の二人にとって。
それは、さして重要なことではなかった。
辺境の夜は、今日も静かに。
そして豊かに更けていく。
その静けさが、新たな嵐の予兆であるとも知らずに。




