ゆれるひと1
耳元で名を囁かれた気がして、ミリアンネはふわりと目が覚めた。
窓枠でぼんやりとしていたはずだけれど、いつの間に寝台にいたのか。
起き上がればふらつくこともない。たっぷりと眠れたようで、頭がすっきりとしている。
ふと、不思議なほどに窓が気になった。そちらから、呼ばれているような。辺境に来てからは遠ざかっている、精霊の夢の名残があるときの感覚だ。けれど、窓に歩み寄れば、目の前の眩しい景色に気を取られ、微かな記憶はするりと逃げていってしまった。
改めて、この地が平らなことに驚く。なだらかで低い丘が交互に重なって、霞んで見えなくなる先まで、どこまでも広がっている。丘を越えるごとに色の異なる果樹畑と、今は青々とした穀物畑が、道を挟んで大地を塗り分けている。
背の高い木々が集まっているところもある。王都近くの黒く見えるほど奥深い針葉樹森とは違い、青味がかった葉の色をした木や、風に靡いたような形の木が、家族のように寄り添っている。木の根元は明るく、木陰は心地よさそうだ。
高台に建てられたエルコートの領主屋敷は城と呼んでいいほどの規模で、その無骨な門から、赤みを帯びた乳白色の石畳の道が緩やかに降りた先に、エルコートの街がある。道と同じ色の石造りの建物が、互いに複雑に繋がって立ち並び、広げた扇のような形になっているのが見えた。
来る時は馬車で通り過ぎただけの街だ。こうしてつぶさに見るのは、初めてだった。
家々は、屋根部分が平らで、テラスのようになっている。壁はみな同じ石を使っているのに、屋根だけは、青や赤茶と色とりどりに塗られているのが面白い。
植木を置いたり、日除けの布を張って何か品を並べたりと、家によって使い方は様々。面白いのは、ルートを選べば、屋上を伝い歩いてずっと端まで行けそうだということだ。猫ならば、建物から建物へ飛び移り、もっと自在に移動できてしまうかも。
太陽は空の高み。強い日差しに、街並みがきらきらと輝いて見えた。
なんとなく既視感を覚えて、ミリアンネは緑の目をゆっくりと瞬いた。
どこかで見た景色だ。
そう言ったのは、ミリアンネではない。
王都、サリンガー侯爵家のティールームで、ミリアンネの箱庭作りのきっかけでもあり、目的でもあった作品を見て、クラークが呟いた言葉だった。
「本当。クラーク様の生まれた街は、あの街と、とてもよく似てる」
発見が嬉しくて声が弾み。
一緒に見たかった人が隣にいないことに気がついて、眉を下げた。
その時、ざあっと音が届いた気がして目を向ければ、その方向から強い風が吹いて、暖かな土と草の匂いを運んできた。
優しい匂いだ。ミリアンネの気落ちを慰めるような。何かを届けようとするような。
ミリアンネはその匂いを吸い込み、もう一度、遠くを見た。
色とりどりの大地と押し合うようにして広がる空は、青、一色。そこに、ぽつりと黒い鳥影が、鋭く円を描いて舞っている。
鳥を追っていたら、窓枠の向こうにあった太陽が目を刺した。手庇をすると、手の向こうから陽の光が溢れて金の筋が空に散る。それにクラークの目の色を思い出して、ミリアンネはじんとひそやかに痺れた胸に手を当てた。
「クラーク様」
呟いてみた。少し頬が熱くなる。
先ほど眠りから覚める時に、耳元でミリアンネの名を呼んだ声は、思い出してみればみるほど、クラークの声だったように思う。それも、注意を引くために呼びかけたり、揶揄う時の呼び方ではない、気がする。もっと、耳に注ぎ込むような、意識を全部奪い取ろうというような。でも、そんな距離感で囁かれたことなど、ことなど……。
ないとも言い切れず、たまらなくなって、ミリアンネは顔を覆った。
ちょうどそこへノックがあったので、悲鳴のように返事をしてしまった。入って来たレーヌが、訝しそうにしている。
「ミリアンネ様、起きていらしたのですか。ご気分はいかがです? ……温かいものを用意させましょうね」
気遣われて、慌てて元気だと主張した。ひと眠りしたおかげで、体はすっかりいつもの通りだ。
「ルージェ、いえ、子爵様のお姿を見てから、よく覚えていないのですが、私、気を失った、のですね、おそらく。ご迷惑をおかけしてしまったわ。恥ずかしいです」
「恥ずかしいことなどなにも。ずっと気を張って疲れていたところに、衝撃が続け様でしたから。頭を打ちつけることがなかったのは、幸いでした。……装いはともかく、子爵が確かに男性で、力があってよかったですわね」
冗談めかしていたが、レーヌは怖いほどに真顔だった。確かに、倒れて頭を打つと危険だと、習ったことがある。今更ながらほっとしていたミリアンネを、レーヌは静かに、慎重に見つめていた。
「ミリアンネ様、悪く受け取らないでくださいね。……あまり、落ち込んでいらっしゃらなくて安心しましたが、少し意外です」
言ったすぐ後に、よくないことを言ったと思ったのか、レーヌは珍しく視線を逸らした。ミリアンネは揃えた指先を頬にあてて、そうかもしれないですね、と答えた。あくまで、軽く。
「私にとって、箱庭は趣味ですので、王都でいたころから、価値のあるなしを考えたことはないのです。形あるものはいつか壊れるものですし。というか、私自身、うまく循環がはじまらなかった箱庭は解体したり」
家族にするように直裁に説明している途中で、あまりにレーヌの顔色が冴えなくなってきたので、ミリアンネはそっと口を閉じた。
「解体、ですか……」
「レ、レーヌ様?」
うっかりしていた。
つい、お構いなく話してしまったが、多くの人は、形あるものを壊すことを嫌う。嫌な思いをさせてしまったかもしれない。よく姉が主催してミリアンネを駆り出していた、箱庭を自分で作る講習会のサロンでも、こうした話題になると、ふらりと気を遠くする貴婦人が一定数いたのを思い出した。
どこか、ミリアンネは高揚していた。いつも心がけている配慮を失い、つい、失言をしてしまったのに、どこか、まだふわふわとしている。
それは、今も耳に、低い囁きが残っている気がするからだ。耳元がくすぐったい気がして、首をすくめてしまいそう。ただの幻聴かもしれなくても、その響きは心に羽を生やしてくれたようだ。
ああでも、いくらそわそわと浮き立つように心が跳ねるといっても、レーヌが傷ついたのであれば、それは本意ではない。
自然と上がっていく口角を両手で押さえて、あえて神妙に様子を伺っていると、レーヌは美しい所作でひとつ頷いてくれた。少し眉根は寄せていたが、怒っても、幻滅してもいないようで、ほっとした。
「ごめんなさい。無神経なことを」
「とんでもない。芸術の作り手は、自由であるべきですわ。お気になさってはいけません。いえ、どうぞなさらないでください」
芸術というほどでもないと思いつつ、いつもの落ち着いたレーヌに、ミリアンネは心から安堵し、そうして、急にまた、浮き立つ気持ちになった。
「レーヌ様、よければもう一度、工房の部屋に行ってみたいと思うのだけど」
「……それは」
途端に、レーヌが平静な顔をどこかへ落として、明らかに狼狽えた。
「無理をなさってはいませんか? その、まだ調査のためにそのままにしておくのだと、泥靴の跡すら掃除ができていないはずです」
「そうなのですか」
「あの、何が被害にあって、何が無事だったのかをお知りになりたいのでしょうか。それならば、目録でご確認いただけるように取り計らうこともできますのよ?」
ミリアンネは返答を迷った。自分では、無理はしていないと思う。
けれど、先ほど皆の前で気を失ってしまったばかりだ。心配されている。それもよくわかった。
沈黙をどう捉えたのか、レーヌはそっと傍に腰を落として、ミリアンネの膝に手を置いて。
「せめて、もう少し日にちを置かれては?」
静かに紡がれた言葉だったけれど、決意を秘めた様子だった。子を守ろうとする、母ほどの。ミリアンヌは、膝に置かれた白い手が震えているのにも気がついた。
それを見た上で、それでも尚こだわるほどのことはない。
心の羽を一度閉じて、ミリアンネは頷いた。
焦る気持ちも、悲しい気持ちも、特にない。まだ、夢を見た様な心地でいる。だから、もう少し待つのも、別に苦ではない。
レーヌの、ほっとした顔を見ることの方が、よほど嬉しいと思った。
短編も投稿しています。こちらはサクサク展開のストレスフリーなお話です。よろしければご覧ください。
<a href="https://ncode.syosetu.com/n8239hr/">波瀾万丈人生に慣れた姫君は順調な今世を信じきれない</a>




