たつひと 3
やがて部屋に入って来た侍女頭は、年齢を感じさせない、美しい佇まいの女性だった。後れ毛一つなく結い上げられた栗色の髪に、少しだけ白いものが混じっているだろうか。薄い唇を固く結び、ジャラリ、と腰の鍵束を鳴らして礼を取る。
呼びつけられた経緯を知らぬわけではないだろうに、堂々としていた。
「アジーナ、私の指示だと言って、馬丁頭に、ミリアンネさんに馬の世話をさせるように伝えたそうね」
「いいえ、とんでもない」
そのようなこと、思いつきもいたしませんでした。ご令嬢が、馬の世話など。醜聞ですわ。トーマも、年をとったのでしょうか?
そう言い放つ、その声が、アメリによく似ていた。
「私ども、ミリアンネ様が埃まみれになって厩で立働くのを、とても心配申し上げておりました。やはり、生まれ育った場所が違うと、習慣も違うものと、驚くやら気を揉むやら。お付きのレーヌも、何を言ってもミリアンネ様のよいように、とばかりで。ミリアンネ様は、よほど強いご意志でなさっていたのだと、そう思いますわ」
じっと見つめるマーズの視線にも、仕方のない若者を微笑ましく見るような表情は揺らがない。けれどその物言いは、明らかに「微笑ましい」ものではない。
マーズは、深追いはしなかった。
「では、グレオールから託された、毎朝の屋敷の予定をミリアンネさんに伝えるのは? 今日だって、ミリアンネさんには、ジェイたちの来訪が知らされていなかったというじゃない」
「それはもちろん、朝一番に、お知らせしておりましたとも。お部屋に伺って、ミリアンネ様に直接。ですが、あれだけ重労働をされているのですもの、いつもなかなか、お目覚めがよくないようで」
言葉を濁しているが、ミリアンネが聞いていなかったのだろうと、そう言い放っているのだ。
ミリアンネは、いっそ、感心した。見上げたふてぶてしさである。
「ミリアンネさん、確認ですけれど、今朝は聞いていなかったのよね? 報告はなかったと言っていたわよね」
マーズに問いかけられたのは、晩餐前に相談に行った際に打ち合わせたとおりだ。ミリアンネに屋敷内の予定について誰からも知らせが来ないことを申し出てみれば、案の定、マーズからは連絡の手配をしている、という。
では誰が、どこの段階で、伝達を阻害しているのか。究明のために打ち合わせたのだが。
アジーナの態度に思わず、打ち合わせになかった答えを口にしてしまった。
「あの、よろしければまず、彼女はいったいどなたか、教えていただけますか?」
「——どういうことかしら」
「初日にホールで、お義母様から名前だけは紹介いただきました。でも、そのあとは一度も直接お話ししたことがありませんので」
しん、と食堂が静まり返った。
侍女頭は、屋敷内の侍女たちおよびその職務内容を取り仕切る。屋敷の女主人の意向に従って、あれこれと動き、時に大事な場面では自らが率先して侍女として働くのが役目である。少なくとも、屋敷の新しい女主人として嫁いだミリアンネに、一度も直接話をしないなど、あり得ない。そう、その場のすべての者が思った、はずだった。
ほほ、とアメリが、さもおかしそうに笑った。
「ほほ、まあ、ミリアンネ様、寝ぼけるといっても、大概ですわね。それとも、それほどなにかご機嫌がお悪いのかしら」
「ええ、なにか、私が粗相をしてしまったのなら、申し訳ございません。お怒りを収めてくださいませ。いつも、報告を聞いていないふりをされるだけでなく、そんな嘘を……。何か、私に瑕疵があってのこととは存じますが」
響いた笑い声も、包むような柔らかさの響きの奥に潜む棘も、どちらも不快極まりなかった。
「私の記憶が嘘と言うのなら、確認しましょう。では、今朝は何時だったのでしょう」
「は?」
「私の部屋への訪問は、屋敷内の人々であっても、必ず記録し、サインもいただいています。使用人であっても。そして、レーヌがいるときはレーヌが、レーヌがやむなく私のそばを離れるときは、ルークかゼファが、必ず室内に同席しています。部屋の外でも三人の誰かがついてくれていますし、私が不在の部屋にも、常に誰かが待機してくれているので、彼らに知られずに私と話す、あるいは部屋に入ることは、できないはずです」
ミリアンネの言葉に合わせて、壁際に控えて気配を消していたルークが、ガシャリとかかとを鳴らした。それが聞こえていたかのように、奥の扉からレーヌが入って来た。手には、分厚い帳面の、ほんのはじめの方の頁を開いて持っている。
「今朝は、どなたも、お部屋への訪問はございませんでした」
「まあ! 嘘よ。レーヌ、貴方、主人を思うのであれば、そんな嘘をついてはいけませんよ」
「事実ですわ。疑うのであれば、ご当主様の肝入りの騎士たちをも疑うことになるのでは? そもそも、この記帳自体が、ご当主であるクラーク様のご指示です」
さすがに、アジーナが黙り込んだ。
「ちなみに、奥方様が当お屋敷に入られてから、執事のグレオール様が書面のやりとりで数度、医師の診察およびマーズ様とテレサ様がお見舞いに来られた以外、お屋敷の誰も、部屋に入ってはおりません。誰ひとり。使用人を含め、です」
ふと、ミリアンネはレーヌの語調があまりに強くて、そわそわしてしまった。想定していたより、怒ってしまってはいないだろうか。
「アジーナ、まさか、当家の侍女たちを、誰もつけていないの?」
「大奥様、侍女だけではありません。掃除人も、洗濯人も、ですわ。大浴場と食堂があって、ようございました。籠城戦はできたとしても、私も、さすがに料理や水汲みは、こなせなかったでしょうから」
さらっと言ってのけたレーヌを、マーズがまじまじと見た。
「貴方が、一人で、ミリアンネさんを世話していたの?」
「奥方様は、ご自分の身の回りのことはご自分でなさいますので、掃除と洗濯の真似事くらいです。——馬の世話よりは、軽い労働でございますわ」
「レーヌ!」
言い過ぎよ。
口の形だけで諌めたが、申し訳程度に失礼しましたと謝罪して、しゃあしゃあとしている。
対して、マーズは額を押さえて困惑もあらわだ。
「これはいったい、どういうこと。こんな、屋敷の者を信じられなくなるのは初めてだわ。——アジーナ、貴方を部屋謹慎とします。アジーナの代理は、しばらくグレオールに任せます」
「奥様、私を信じてはくださらないのですか」
「アジーナ」
長年の主従は視線を真っ向からぶつけあった。
「奥様と呼ばれるべきは、今はミリアンネさんです。貴方は長らく、私に尽くしてくれた。そのことへの感謝をもって、この場で話を聞くことをやめましょう。貴女の後継者の選定は白紙とし、婚姻の披露目の席を設けた後に、ミリアンネさんに一任します」
きゃああ、とアジーナが叫んで、崩れ落ちた。




