072 その年なら、まだ女を抱いた事も、抱かれた事も無いんじゃないのかい?
沙門は軽功から硬功に切り替えつつ、滑輪巻筒を口に咥える。
その上で、沙門は右掌に、硬気を集め始める。
(雷撃の分は、残しておかないと!)
最後の一撃を放つ分の気を残す必要上、通常の数分の一だけ気だけを集め、沙門は右掌を光らせながら、硬破掌を放つ動作に入る。
「無駄無駄! 不朽装甲には、掌力なんざ通用しないよ!」
沙門が掌力を放つ動作に入ったのを察し、胡蝶熒惑は艶鬼の声で勝ち誇る。
(その不朽装甲とやらに、掌力が効かない事なんざ、とっくに分かってるっての!)
今更、装甲殭屍が身に纏う甲冑の名が、不朽装甲であるのを知りつつ、沙門は硬破掌の掌力を放つ。
掌に収まる程に小さい、かなり威力が低めの掌力を、胡蝶熒惑の足元に向けて。
間合いは三歩、反射神経や見切りが鋭い武術家であれば、かわせるかもしれない間合いだが、艶鬼は違う(三歩は四メートル半)。
噴射音と共に放出された掌力を、胡蝶熒惑はかわせないし、不朽装甲の防御能力に自信があるので、かわそうともしない。
掌力は胡蝶熒惑の足元の、手前辺りを直撃。
本来なら小さな穴を穿った上で、塊としての形状を維持出来なくなった硬気の掌力が炸裂、土砂を吹き飛ばす程度の現象しか起こせない筈の、敵本体から外れた無意味な攻撃。
胡蝶熒惑を操る艶鬼も、威力が弱い上に外れた攻撃だと、沙門の放った硬破掌を看做した。
だが、その直後……その攻撃が沙門の狙い通りであったのをを、艶鬼は思い知る事になる。
威力が低い掌力とはいえ、土砂を吹き飛ばす程度の威力で炸裂すれば、地面には衝撃が走る。
地面が通常の状態であるなら、どうという事はないだろう衝撃だが、地割れの中に土砂が流れ込んだ直後の、不安定過ぎる状態であれば、話は別だ。
掌力炸裂の衝撃により、胡蝶熒惑の足場は、落とし穴でも踏み抜いたかの様に、あっさりと崩れ落ちる。
左脚が膝の辺りまで地面に沈み込み、左前のめりになる形で、体勢を崩した胡蝶熒惑は、艶鬼の声で悲鳴を上げる。
(今だ!)
胡蝶熒惑に向って跳躍しつつ、口に咥えていた滑輪巻筒を、沙門は右手に持つ。
沙門は一跳びで、胡蝶熒惑との間合いを瞬時に詰める。
体勢を崩していた胡蝶熒惑は、まともに双刀を振るえず、双刀の間合いの内側まで、沙門が入る事を許してしまう。
胡蝶熒惑と沙門の間合いが、密着しそうな程に詰まる。
(あとは、血糸を関節に絡めて、雷撃を放つだけだ!)
急停止しながら、雷神功を発動した沙門は、右手を胡蝶熒惑の左肩に伸ばそうとする。
急停止による慣性で血糸を前方に流す、運任せの要素が強く確実性に欠ける方法より、右手を使って絡めた方が確実だと、沙門が判断した為。
雷撃を放てるのは、残り一発。
確実に血糸を絡めなければ、この場面では勝てないと考えたが故の、沙門の判断である。
だが、沙門が右手を伸ばそうとした時、胡蝶熒惑は意外な行動に出た。
絢爛胡蝶を手放し、両腕で沙門を抱き締めたのである。
伸ばそうとした右腕は、腕立てでもするかの様に、胡蝶熒惑の胸と沙門の胸の間で折り畳まれ、狙った左肩へは届かない。
それどころか、急に抱きしめられ、右腕ごと身体を胡蝶熒惑の身体に押し付けられた衝撃で、沙門は右手から滑輪巻筒を手放し、落としてしまう。
(――しまった!)
最後の武器である、血糸の滑輪巻筒を手放してしまった沙門は、焦りの表情を浮かべるが、身体と右腕は胡蝶熒惑の両腕に抱きしめられ、まともに身動きが出来ない。
滑輪巻筒を拾うのは無理な上、胡蝶熒惑の怪力で抱き締められた沙門は、激しい苦痛に呻き声を上げる事しか出来ない。
懐に入った敵に、双刀は無意味だと判断した艶鬼は、胡蝶熒惑に絢爛胡蝶を手放させたのだ。
空いた両腕で沙門を抱き締めてしまえば、沙門は身動きが出来なくなるので、血糸を関節部に絡めるのは困難になる。
その上、胡蝶熒惑には硬功系の屍功無しでも、人間を絞め殺す程の怪力がある。
既に満身創痍の沙門であれば、胡蝶熒惑の怪力で抱き締めるだけでも、痛め付けられるだろうと艶鬼は考え、即座に沙門を抱き締めたのだ。
熊が怪力で抱き締めて、獲物を仕留めるかの様に、硬功で力を強化し、相手を抱き締めて痛め付ける、熊抱という技も、蒼界の武術には存在する(相撲の鯖折りの様な技)。
硬功ではなく、強化処理を施された殭屍の怪力により、偶然にも熊抱と同じ攻撃を、艶鬼が胡蝶熒惑で実現した格好である。
胡蝶熒惑の怪力で締め上げられ、沙門の全身が軋み、内功で暫定的に塞いでいた、身体中の傷口が開いてしまう。
鮮血が大量に飛び散り、胡蝶熒惑の白い不朽装甲の一部を、紅く染める。
壮絶な苦痛に、沙門は肉体と精神を苛まれる。
「どうだい、胡蝶熒惑に抱かれた気分は?」
苦悶の表情を浮かべる沙門の顔を、胡蝶熒惑の目を通して、嬉しそうに見詰めながら、艶鬼は勝ち誇った様に、沙門に尋ねる……沙門が答を返せる状態でない事など、承知の上で。
満身創痍の沙門を、完全に拘束した艶鬼は、既に勝利を確信していた。
警戒し続けた血糸の滑輪巻筒が、沙門の手の中には無い事も、艶鬼は気付いている。
既に沙門には、胡蝶熒惑を倒す手段は無いと確信し、余裕を持った艶鬼は、胡蝶熒惑を操作し、土砂の中から脚を引き抜かせる。
その上で、足場が崩れていない場所に、胡蝶熒惑を少し移動させた後、艶鬼は淫蕩な本性を露にし、沙門を弄り始める。
「その年なら、まだ女を抱いた事も、抱かれた事も無いんじゃないのかい?」
品の無い笑みを浮かべつつ、艶鬼は胡蝶熒惑を通し、沙門の耳元で囁く。
「女も知らずに死なせるのは、可哀想だからね。あたしと胡蝶熒惑が、抱き殺してあげるよ」




