012 追っ手の存在を考えると、江湖にはなるべく寄らない方が良い気もするんだが……
窓から射し込む光が、朝の室内を程良い明るさに照らしている。
障子だけでなく、硝子戸も開かれているので、爽やかな朝の風が流れ込み、部屋の空気を程良く攪拌してくれる。
蒼界には扶桑人により、硝子製造の技術が持ち込まれているのだが、板硝子は高価な品であり、余り普及はしていない。
扶桑風の温泉街を売りにしている、草津街の温泉宿は、扶桑界風の雰囲気作りの為、殆どの旅館が硝子窓を導入しているのだ。
沙門達は既に朝食を終えていて、膳も片付けが終わっている。
寝ていた時は、浴衣姿になっていた沙門は、朝食後に功夫服に着替えて、部屋を出て行ったので、今は部屋の中にはいない。
部屋にいるのは、浴衣姿のまま壁の方を向き、寝転んでいる政宗と、旗袍に着替え、身支度を整えてる最中の槐花のみ。
外からの風に入れ替えられている、部屋の空気は爽やかなのだが、無言の二人の間に流れる空気は、余り爽やかとは言えず、どちらかと言えば重苦しい。
朝起きてからも、政宗の機嫌は直らなかった。
不貞腐れた顔で朝食をたいらげた後、すぐに政宗は壁の方を向いて寝転んでしまい、沙門や槐花とは一言も口をきいていない。
そんな状態の政宗と、槐花が二人っきりになっているのは、朝食と身支度を終えた沙門が、宿の者に話を訊く為、部屋を出て行ったからだ。
不機嫌さを露にしている政宗と、どう接したらいいのかが分からず、槐花は息が詰まる様な気分で、淡々と身支度を整えている。
寝る前に脱いだ青い帽子を、槐花は目深にかぶる。
自分や沙門と同行しないという政宗には、青い瞳の事は知られない方が良いし、宿の者に見られても困るので、槐花は帽子を脱いでいる間は、前髪を不自然な程に下ろして、両目を完全に隠し続けていた。
槐花は自分の背包を開いて、中身を確認する。
家を出る時に凰夏に渡された背包の中には、仙水までの旅に必要な物が、一通り揃っていた。
だが、既に携行食が尽きかけていたのに、槐花は気付く。
自ら槐花と共に、仙水に向うつもりだった凰夏は、馬か駅馬車をつかう前提で、携帯用の食料を背包に詰めていた。
だが、槐花は蒼浪から蒼岱まで、時間をかけて歩いてしまった。
故に、凰夏が想定していたよりは、携帯用の食料の消耗が激しかったのである。
突如、廊下に面した、襖を模した木戸が開き、黒い功夫服姿の沙門が入って来る。
沙門が戻って来たお陰で、部屋の空気の重苦しさが、かなり取り除かれる。
「宿の人の話だと、仙水までは馬を使えば、二日か三日程で辿り着けるらしい」
沙門は部屋にいた二人に、宿の人から聞いた話を伝え始める。
蒼岱から仙水まで、馬で二日以上かかるのは、沙門は知っていたのだが、一応は宿の人に話を聞いて、確認して来たのだ。
沙門自身、仙水に行くのは初めてなので、念の為に確認を取ったのである。
ついでに、仙水から蒼天まで、どれくらいの日数がかかるかも。
「追っ手の存在を考えると、江湖にはなるべく寄らない方が良い気もするんだが……」
手にしている地図を見ながら、沙門は言葉を続ける。
「妖魔の多い場所を避け、馬を休められる場所を確保した上で経路を選ぶと、寧波と安寧には、寄らざるを得ないだろうな」
正派の武術家達や、傀儡殭屍術を操る謎の術者などの追っ手は、どちらも江湖内に現れたので、槐花にとって江湖は危険なのかも知れないと、沙門には思えた。
それでも、仙水に辿り着く為には、幾つかの江湖に立ち寄るのを避けられないのが、現実なのだ。
妖魔が多い場所は、避けて移動しなければならないし、夜営の場所にも選べない。
長距離の移動では、馬の水場と餌場を確保して休ませる必要もある。
そういった事を考慮すると、寧波と安寧という江湖に立ち寄るのは避け難いというのが、沙門の判断だった。
「今日は昼に寧波、陽が落ちる前に安寧まで辿り着いて、そこで宿泊だ。あの辺りには、安全に夜営が出来そうな場所が無いから、江湖の中の方がましだろう」
とりあえず、今日の大雑把な予定を槐花に話してから、沙門は地図を畳んで衣嚢に仕舞う(衣嚢はポケットの事)。
そして、政宗の方を向いて、沙門は話しかける。
「仙水から蒼天までも、二日程かかるらしいから、俺が蒼天に帰るのは、四日後か五日後になるよ」
同行しないという政宗は、先に一人で蒼天に戻る事になると、沙門は考えた。
故に、自分がどれくらい蒼天に戻るのが遅れるかを、政宗に伝えたのである。
だが、相変わらず不貞腐れたままの政宗は、沙門に背を向けたまま、何の返事もしない。
「――まだ、拗ねてやんの」
呆れた様に呟いてから、沙門は自分の背包を拾い上げて背負うと、槐花の方を向いて話しかける。
「朝市に寄って、必要な物を揃えてから、蒼岱を出るよ」
沙門の言葉に、槐花は頷く。
槐花も丁度、身支度を終えたばかりであり、既に何時でも部屋を出れる状態だった。
旅の途中だった沙門も槐花同様、携行食が尽きかけていた。
元から蒼天に向う前に、蒼岱の朝市で必要な物を、沙門は補充するつもりだった。
目的地は蒼天から仙水へと変わったが、補充の為に朝市に向う予定に、変わりは無い。
ちなみに、土産物を買った夜市で、携行食を買わなかったのは、食料は夜市は高く、朝市の方が安いからだ。
「宿の支払いは、済ませておいたから。酒代……幾らだったと思う?」
沙門は一応、政宗に声をかけてみる。
少しだけ返事を待つが、政宗が無視を続けたので、沙門は溜息を吐く。
「――じゃ、言って来る」
そう言い残し、部屋を出て行く沙門に続き、ペこりと政宗に頭を下げてから、槐花も沙門の後に続いて部屋を出る。
政宗を置いて、沙門と槐花は部屋を去ってしまった。




