ゆうこちゃんとまいこちゃん
「――できた!」
明花が画用紙から絵筆を放して声をあげるのが視界の端に入ってきた。目線をそちらに向けると、傍らから得意そうな視線が自分を見上げてくる。目が合うと、明花はにっこりと笑ってきた。その笑顔になんとなく幸せな気分になり、どこか自慢げに渡されてきた画用紙を眺める。上手になったね、と声をかけると、明花はやった、と声をあげて跳ねるようにした。
「可愛い子たちだね。お友達の絵を描いたの?」
「うん。ゆうこちゃんとまいこちゃん」
仁輝はその言葉に部屋の奥に大事に置かれてる人形たちを見た。そこにあるのは明花の「お友達」の着せ替え人形たちだ。可愛い少女の人形たちが、明花の自宅のお友達として、色とりどりのドレスを着て椅子に座ったりピアノを弾いたりして、小さな家のなかで「暮らしている」のだ。
「へえ。・・どの子がゆうこちゃんで、どの子がまいこちゃんなの?」
絵を見ながら訊ねると、明花は首を傾げてきた。なんで分からないんだろうという表情で、
もういちど自分で描いた絵を見て、それから人形たちのほうへ駆けていく。それから大園絵莉彩さんに貰ったという古ぼけた熊のぬいぐるみを椅子から抱き上げ、小さなドールハウスの庭でブランコに乗っている少女の人形に声をかけた。両手に大切そうに二つを抱いて戻ってきて、その人形たちを仁輝に見せてくる。この子がゆうこちゃんで、この子がまいこちゃんだよと、ぬいぐるみと人形を交互に見せてきた。こういうところは、まだまだ子供で可愛いと仁輝は微笑ましく思う。遊びに付き合って、ゆうこちゃんまいこちゃんこんにちはと声をかけ、それぞれの小さな手を指先で握った。いちど死にかける経験をすると、こんなふうに休日を家で当たり前に過ごし、子供と好きな絵を描いていられるというのは、それだけで信じられないほど大きな幸福であるように思えてくる。
「ずいぶん髪を短く描いたんだね。まいこちゃんはこんなに長い髪で、きれいな金髪をしているのに」
仁輝は明花の腕のなかの人形と、彼女が描いたばかりの絵を見比べた。仁輝が与えた水彩絵の具で描かれた絵の少女と、人形はあまり似ていなかった。人形のほうはどこのデパートでも手に入るバービー人形だが、絵に描かれた少女は髪こそ茶色で描かれていても日本人の少女に見え、着ているドレスの色も違った。髪も短く肩まで届いていない。明花はまだ大人のように巧くは描けないが、それでも仁輝には明花がモデルの人形とは違うものを描いたのだと分かった。それで訊ねてみたのだ。
すると明花は驚いたような顔をした。
「えー、まいこちゃんのかみはみじかいよ。なんでながいなんていうの?いっちゃだめだよ、まいこちゃんママがかみのけきったのいやだったんだよ。みじかくてもかわいいよっていってあげなきゃかわいそうだよ」
明花は不平を口にしてきた。それを聞いて仁輝は話を合わせ、人形の小さな頭を撫でてショートカットも可愛いよと口にした。明花の幼い思いやりの心が可愛らしく思えた。察するにまいこちゃん、ゆうこちゃんというのはきっと人形の名前などではないのだろう。明花の本物の友人なのかもしれない。幼稚園かそれともバレエスクールか。どちらかにこの名前の友人がいるのではないのか。そういえば退院して最初に明花を幼稚園に迎えに行った時、そういう名前の女の子に話しかけられたことをふと思い出した。明花ちゃんのパパなのかと問われ、また明花ちゃんと遊んでいいかと訊ねられた。仁輝はそれに笑って、いいよと答えたのだ。子供が子供と遊ぶのに相手の親の了解をとるのは妙な気がしたが、あの子は明花と喧嘩でもしたのかもしれない。もしそうなら小さな子供でも、すぐには話しかけ難かったりするのだろう。
――そういえばあの子、ふかやままいこ、って名乗ってたな。
ならばあの子がこの絵に描かれた子なのかもしれない。そう思ってもういちど見てみればこの絵の女の子はあの子によく似ていた。ならばあの子が「まいこちゃん」か、と得心する。いつあの子は「ゆうこちゃん」と遊びに来るのだろうかと思った。あの時、じゃあ今度、妹のゆうこと遊びに行きますといっていたが、まだ来ていない。家の事情もあるのだろうが、ひょっとして明花はそれが待ち遠しいのではないのか。だからこうして人形を相手に来たようにしてふるまっているのかもしれない。
「そうだね、短い髪でも可愛いもんね。まいこちゃんやゆうこちゃんは、明花に仲良くしてくれるの?」
すると、明花は嬉しそうな笑顔を見せてきた。
「そう、よかったね。明花は人気者なんだ。お友達がいっぱいいるんだね」
仁輝も笑い返した。この様子なら、きっと明花はあの子たちと親友になれるだろうという直感があった。大きくなればなるほど、本当の意味での友人を得ることが難しくなることをよく知っている仁輝には、明花の友達関係が早くから良好なことをとても好ましく思っていたのだ。
――特にあの子は姫塚にも縁がありそうだから、明花はあの子と仲良くなれれば、あの子を縁に優莉花の思い出も持っていてくれるかもしれない。
仁輝はそう期待していた。彼にとって「ふかやままいこ」なる女の子に会ったのはその時が最初ではなかったからだ。あの妻の葬儀の後、帰る直前に駅のホームでも会っていた。ホームで祖母らしい和装の老婦人と電車を待っていたのだ。顔立ちのよく似た二人の女の子、姉妹であることは明白だった。電車のなかで絵莉彩は幼女が一人と言っていたが、これは彼女の気のせいだろう。子供はよく動く。駅のホームにはトイレもあるのだから、見落としても不思議はない。自分は話もしているのだから、子供の人数など、間違えようがなかった。あの時、女の子は確かに二人いたのだ。どちらも明花と同じくらいの、明花よりも少し色が薄くて茶色がかった髪の女の子だった。
あの子たちは確かに仁輝に言ってきた。自分たちもこれから帰るのだと。姫塚に来ていたのかと問うたら山谷からだと答えた。今までずっと山谷にいたらしい。仁輝はその集落の名前に覚えがなかったが、近所の集落だと思うと微笑ましくなった。仁輝も姫塚の隣の、大森の出身だからだ。
――ねえ、帰ったら一緒に遊んでもいい?
その言葉は今も仁輝の耳に残っていた。仁輝はそれに頷いて、いいよと答えたのだ。あの時はまさか、明花と同じ幼稚園の子だとは思いもしなかった。
――早くおいで、まいこちゃんゆうこちゃん。
仁輝は心のなかで静かに娘の友人に語りかけた。それからもういちど人形の頭を撫で、ぬいぐるみの頭も撫でる。ぬいぐるみの首を飾るリボンはだいぶ汚れてきていた。どこかで新しいのを買ってきて交換してあげようかとぼんやりと思う。このぬいぐるみはもともと絵莉彩さんが遊んでいたものだから、もうだいぶ古くなっているのだ。
そう思ったとき光の加減か、まるで仁輝の愛撫に反応するようにぬいぐるみと人形の顔が、なんとなく笑ったように見えた。




