過去の想像
「――した?どうしたの?大丈夫?絵莉彩ちゃん、私の声が聞こえる?」
呼びかけられて、肩の辺りを叩かれる感触がして、絵莉彩は目を開けた。右頬の下に冷たい感触がある。草の匂いをすぐ近くに感じた。腕や足には力が入っていない。今の自分は立ってはいないらしかった。そのことはすぐに理解できたが、この状況が夢か現実はすぐには分からなかった。あまりにも多くの光景を見続けてきたせいで、咄嗟に判断ができない。
「ああ、目を開けてくれた。良かった。私が分かる?起きられる?」
安堵するような声が耳元で聞こえてきた。聞き覚えのあるその声に、絵莉彩は頷いて両腕を動かし、地面に手をついてその場に起き上がる。身動きするたびに枯れ葉が乾いた音を立てた。立ち上がる時に僅かに眩暈がしたが、これが夢だとしたら妙な夢だと思う。夢のなかで目覚めるなんて。
「絵莉彩ちゃん、いったいどうしたの?どこか、具合でも悪くなった?病院まで連れて行ってあげようか?」
気遣わしげに声をかけられて、絵莉彩はそちらに視線を向けた。それができることに、なんとなくほっとするものを感じる。これが夢にしろ現実にしろ、今は自分の身体を自分で動かせるのだと分かったからだ。
「・・杉下さん、どうかしたんですか?」
そこにいたのは昨日会ったばかりの杉下氏だった。彼がこちらを覗き込むようにしている。その双眸に浮かぶ心配の色に、絵莉彩はふと首を傾げた。
「どうしたって、絵莉彩ちゃんが倒れてるのが見えたから・・」
杉下氏は傍らに顎をしゃくった。つられて絵莉彩もそちらを見やると、林道の外、姫塚神社の鳥居前に横付けされる形で一台の白い乗用車が停まっているのが見える。フロント部分はこちらを向いていた。
「優莉花ちゃんのお墓参りの後、いちおう姫塚にも寄って、小母さんたちにも挨拶していこうと思ったんだけど、留守だったからそのまま帰ろうと思ったんだ。そうしたら変な形で停まっている車があったから、何かあったのかと思って様子を見に来たんだけど、絵莉彩ちゃん、大丈夫かい?びっくりしたよ、最初は轢き逃げかと思った。けど、そんなふうには見えなくて。いったい何があったんだ?」
杉下氏は本当に心配したように話しかけてきた。しかし絵莉彩はその言葉を半分も聞いていなかった。それよりも轢き逃げ、という言葉に絵莉彩の記憶は反応した。反射的に自分の車のほうを振り返る。車はきちんとそこに停められていた。自分が停めた時のまま、何も変わったところは見られない。動いた形跡はないし、窓越しに見るときちんとロックもかかっていた。助手席の荷物も無事だった。試しに運転席のドアを開け、身を乗り出して助手席のハンドバッグを取り出して中身を検めてみても、何の異常もない。財布の中の現金や免許証、学生証は無事だったし、それ以外の物も盗まれてはいなかった。自分が持ち出してきた、優莉花のノートも無論、そのまま残されている。なんの被害にも遭っていない。
―――じゃあ、なんだったのかしら?さっきのあれは。
それともあれも夢だったのか。いったい自分の意識は、どこで途切れてしまったのだろう。いつから自分は夢を見ていたのか。今は果たして起きているのだろうか。まさか、いま杉下氏と話しているこれも夢だなどということはないだろうか。そう訝しんでいると、背後から唐突に声をかけられた。
「――どうしたの?何か気になることがある?」
杉下氏だった。驚きつつも振り返ると、彼は首を傾げながらこちらを窺うようにしていた。なんでもない、と首を振って絵莉彩は荷物を再び車内に戻し、運転席のドアを閉める。杉下氏と向き直った。
「・・あの、優莉花は山谷の何を気にしてたんだと思いますか?」
絵莉彩は杉下氏に訊いてみることにした。突然の質問に杉下氏のほうは面食らったような表情になった。
「山谷?山谷って、ええっと・・」
しばし当惑した様子で考えるような素振りを見せたので、絵莉彩は大森の集落で会った老人に聞いた話をしてみせた。しかし彼はそれを聞いてもなお、思い当たるようなことはなかったらしく首を振ってくる。
「・・いや、私は何も聞いたことがないよ。それは初耳だ」
その言葉に嘘偽りは感じられなかった。それで絵莉彩は林道のほうを示してみる。
「山谷の集落ってのは、この先にあったんですよね?」
訊ねてみると、これには杉下氏も簡単に頷いてきた。
「そうだよ。そう聞いてる。昔はそういう名前の集落が、この先にあったんだってね。私は行ったことないけど、今でもネットなんかで噂は時々流れてる。山谷は今や、知る人ぞ知る心霊スポットになってるみたいだね。廃村になって何十年も放置されてる場所だから、関係のない遠方の地に住んでいる人間には、いろいろと下世話な好奇心が湧くんだろう」
気になるなら、ちょっと見てみる?と杉下氏は訊いてきた。絵莉彩が頷くと、彼は絵莉彩を自分の車のほうへ誘ってくる。絵莉彩が躊躇いながらもそちらへ歩いていくと、杉下氏は自分の車の後部座席のドアを開けて、そこに置かれた鞄からノートパソコンを取り出した。ケーブルを繋いでインターネットに接続しているらしく、しばらくシートに腰を下ろしてキーボードを叩いたりと、何か作業をしていたが、やがてその手を止めると画面を絵莉彩のほうに向けてきた。絵莉彩はしゃがみ込んでその画面を見つめた。
画面にはひとつのサイトが表示されていた。それはチャットか一種の交流サイトのような代物で、大勢の人間が対話形式で書き込んだ短文が羅列されている。ネット上で多くの人々と会話を楽しむためのサイトなのだろう。これがその、ネットで流れている噂なのかと、絵莉彩はそれらの書き込みに上から順に目を通していった。どうやらこのサイトは、参加する者が各自、お勧めの肝試しスポットなるものや見聞きした面白い怪談などを紹介し合うという趣向のものであるらしい。そのためか誰の書き込みも似たようなものだった。どこのトンネルには女の霊が出るとか、どこの墓地では人魂を見たとか、そんなことが延々と書き連なっている。多くが地名を曖昧にしていたが、見る人が見ればどこのことを指しているのかすぐに分かるものも少なくなかった。山谷もその一つで、S谷などと書かれているものの、九州にあるという記述と、廃村になった年月日を見れば、絵莉彩には一目瞭然だった。絵莉彩は画面から顔を上げて、杉下氏を見た。
「――これが、その、山谷について流れてる噂、ですか?こういうサイトが、他にもたくさん、開設されているんですか?」
訊ねると、杉下氏は苦笑したような表情を浮かべた。
「そうだよ。これはまあ、私が適当に開いたサイトだけど、もっとマニアックな記載のサイトもある。他のサイトも見てみていいよ。優莉花ちゃんがどうして山谷になんか行きたがったのか、私にはよく分からないんだけど」
優莉花ちゃんは怪談に興味でもあったのかな、と杉下氏は自問するように呟いていた。それには絵莉彩も答えられず、指を滑らせて書き込みの一つに添付されていたリンクの一つを開いてみる。このリンクを選んだことに特に深い意味はなかった。単に目についただけで、絵莉彩自身、ネットに溢れる無数のサイトから優莉花の真意など分かるとは思っていない。それでも知りたいと思ったのは、山谷に行くことが優莉花の最期の意思だったからだ。おそらく優莉花が家族と離れてでもこの地で暮らし続けた理由だったのだから、何としてでもその訳だけは知りたかった。
リンクをクリックすると、別にウィンドウが開いてサイトが表示された。写真と文章だけのシンプルなページに、絵莉彩は少し驚いた。見覚えのあるサイトだったからだ。
――あ、このサイト、見たことある。
そのサイトは絵莉彩がかつて自宅のパソコンで見た、あの姫塚と題されたサイトに他ならなかった。ではこの書き込みをした人物が、このサイトを開設したのだろうか。それとも単に、偶然見かけて参考としてリンクを繋いだだけか。もし開設した人物であるならば、この人物は姫塚にも山谷にも行ったことがあるのだろうか。それを確かめてみようと絵莉彩は何となくサイトをスクロールさせてみた。書き込みでは山谷で霊を見たなどと主張していたこの人物が、本当に山谷を訪ねていたのならいつ頃に訪れたのかを知りたいと思ったのだ。残念ながら開いたサイトからそれは分からなかったが、下のほうにトップページに戻るという項目があって、それでこれがもっと別のサイトの一部なのだと分かると、その項目をさらにクリックしてみた。そうすると、ウィンドウは個人が運営するなんてことのないブログのトップページに切り替わる。どうやらあのサイトは、誰かが個人で立ち上げているサイトに掲載している日記や体験記、紀行文めいたものの一部であるらしい。最近は更新をしていないようで、最新の記事は一週間以上も前の日付になっていた。ちょうど松谷氏が通り魔の悲劇に見舞われた、あの日を境に更新が止まっており、絵莉彩は画面をスクロールさせてその最新の記事を少し読んでみる。記事に目を通した瞬間、絵莉彩は驚いてしまった。
――これ、あの事件の被害者が開いていたブログなの。
その記事にはたくさんのコメントが寄せられていた。こういうサイトは匿名で開設されることも多いと聞くが、このサイトの開設者にはその例は当てはまらなかったらしい。いや、見たところブログに自己紹介は掲載されていないから、あの事件の後にこの開設者と直接の知り合いだった人々が追悼の意味を込めてコメントを送信しているのだろう。コメントは圧倒的に突然の死を悔やみ、冥福を祈るものが多かった。これらのコメントが全て正確なら、このサイトの開設者は龍崎瑠羽という名前の人物だということになる。ニュースで見た覚えのある名前だった。絵莉彩にとっては直接の面識のない赤の他人だが、珍しい名前だったので記憶に残っているのだ。確か十七歳の女子高生で、下校途中にあの惨禍に巻き込まれ、生命を落としたはずだ。ちょうど改札前にいたところを、乱入してきた犯人の車に撥ねられ、そのまま轢かれたのだと、そう報道されていた気がする。
絵莉彩は急いで交流サイトに戻ると、このブログの開設者が書き込みをした日時を確認してみた。改めてよくよく見てみると、書き込まれたのは一か月以上も前になっている。新しい書き込みはまだずっと下のほうに続いているようだった。絵莉彩はそのサイトをずっとスクロールして、どんどん新しい書き込みを見ていった。すると、書き込みの内容が次第に姫塚や山谷にとって不穏なものに変わっていくのが分かる。面白半分に呪われてんじゃないの、とか、不吉な村とかいう単語が増えてきた。また別のリンクを、絵莉彩は開いてみる。今度もブログだった。龍崎瑠羽のブログよりさらに可愛らしい感じのブログで、薄いピンク色の背景に小花のイラストが随所に散りばめられている。しかしこのブログも更新は止まっていた。最後の更新は一年以上も前になっている。見覚えのある花火の写真が載せられていた。優莉花のノートに貼られていたものと同じものだった。文章も読んだ記憶がある。優莉花はこのブログを印刷したのだと分かった。こちらのブログは龍崎瑠羽のブログとは違って、サイトの一隅にプロフィールという項目があり、そこをクリックすると顔写真付きで開設者の自己紹介文が載っていた。どうやらこのブログを開設した人物は雑誌で読者モデルをしているらしい。おそらく自分自身の宣伝のために開設していたブログなのだろう。
気がついたら絵莉彩はその写真に見入ってしまっていた。知人だったというわけではない。その顔写真に映された少女の顔に見覚えがあったからだ。他ならぬ優莉花のノートに、このブログのプリントアウトとともに貼られていた新聞記事のコピーに、載っていたのだ。あの新聞記事は、城見杏里なる女子高生が失踪したことを報じる記事だった。
――彼女、山谷に行っていたの?
交流サイトの書き込みによれば、この城見杏里なる女子高生は自身が登録しているチャットで姫塚と山谷の怪談が事実か確認してくると書き込んだ後に失踪しているらしい。その時間間隔は一日もなく、それでこの書き込みをした人物は心霊現象という認識を抱いているようだった。どこまで本気でそれを考えているかは別としても、絵莉彩の目にはその書き込みをあのノートと結びつけずにはいられなかった。
――あのノートに残されていた、事件や事故に遭った人たちは全て、姫塚か山谷を訪ねていた人たちということになるの・・?
こうした失踪も含めて全て。絵莉彩はその共通した事実に思い至ると、なんとなく周囲の気温が下がったように感じられた。背筋に寒気を感じてしまう。偶然にしろ、これではまるで姫塚というこの土地そのものが、人々に不幸をもたらしたようではないか。そう見えてしまうことに寒気を感じたのだ。
山に一人で入るのは危ないよと助言されて、絵莉彩は山谷には杉下氏と一緒に向かうことになった。
一緒に、とはいってもそれぞれ乗ってきた車があるのだから、もちろんそれに乗り込んで林道を進んでいく。長年にわたって通行する者などほとんどいなかったのだろう、道の状態はかなり悪かったが、しかし完全に通れない、ということはなかった。タイヤ跡と思しき痕跡が地面には少なからず残っており、それを辿っていけば問題なく進んでいくことができたからだ。廃村となって久しい集落に、出入りしている者がまだいるのだろうか。絵莉彩は驚いた。付近の林業従事者のトラックだろうか。それともネットにあった、肝試しの人々の車か。どちらにせよ今は有り難かった。おかげでまだこうして車で通行できるのだから。もし全く人の出入りがなかったとしたら、この林道も今頃は完全に自然に呑まれて自分ではどうすることもできなくなっていただろう。一部の人々のほんの僅かな好奇心と、近隣の人々の日々の営みが、自分の今の行動を支えているのだ。
そんなことを思いながら林道を進み、しばらくするとふいに周囲の暗さが和らいだ。視界を塞ぐように生い茂る辺りの木々が途切れたのだと気づき、ひょっとしてと絵莉彩はブレーキを踏んで速度を緩める。車が完全に止まってしまうと、絵莉彩はフロントガラス越しに前方を眺めた。
――もしかして、ここが、山谷・・?
絵莉彩は視界に広がる景色に見入っていた。まるで二つの時が重なっているかのようだった。今も進み続けている時と、遥か昔に止まってしまった時の、双方が重なり合い絡み合いながら、共存しているように見える。目の前にあるのは、そんな不思議な眺めだった。
山谷にはどうやら茅葺きか藁葺きの、昔ながらの造作をした農家が多かったらしい。ここが栄えていたのは戦前のことなのだから、それも当然かもしれなかった。枯れた草の生い茂るなかに孤立して残る家屋はどれも一見して分かるほど朽ち果てて傾き、屋根も落ちていたが、往時にはどこもさぞ立派な日本家屋だったことだろう。その名残は今も残っていた。時折、それらの家屋から新たな生命の芽吹きが育っているのが見える。その光景に人の営みとはなんと脆いものかと溜息しか出なかった。人里というものは人がその手を入れて初めて、その存在を自然に許されるのだと、改めて再認識させられたような気がする。
――なんて静かな場所・・。この場所のいったいどこに、今も人に影響を与える力があるというの?
ここまで見事に忘れ去られているのに。絵莉彩は嘆息した。助手席から優莉花のノートを取り上げて開き、中を眺めていく。ここに貼り付けられているコピーの人々は皆、姫塚か山谷に住んでいたことがあるか、訪ねてきたことがある者たちばかりだ。そしてそのいずれもが、現在では死ぬか行方を晦ましている。まるでこの土地そのものが、悪意を持って彼らの不幸を与えたかのように。気のせい、思い込みだとは分かっていても、どうしてもそう思わずにはいられなかった。たぶんノートと一緒に見つかった、あの大量の破魔矢に対する印象が、大きく影響しているのだろう。優莉花は元々、占いやまじないというものを信仰する類いの人間ではなかった。絵莉彩が中学を受験する時に、学業成就で有名な神社に参拝したのを呆れたような人なのだ。そんなところに行ってくるだけの金銭と時間があるのなら、新しい参考書でも買ってもらって家で勉強したほうが堅実だと言っていたのをまだ覚えている。なのにその彼女が、どうして破魔矢などをあれほど大量に購入していたのか。むろん必要としていたからだろうが、ではそれはなんのためだったのか。あの種の物は普通、他人に贈ったりはしないと思うから、自分で使うためであろうが、その目的はなんだったのだろう。やはり魔を祓うという意味だったのか。ではその魔とは何だろうか。
絵莉彩はノートを助手席に戻すと、エンジンを切ってから運転席を離れた。ドアを開けると、その瞬間から山の匂いがする。人の気配のいっさい感じられない風の匂いも嗅いで、絵莉彩には真の自然というものがどういうものなのか理解できたような気がした。
「――ここに、優莉花ちゃんは来ようとしていたのかな」
背後から声とともに土と枯れ葉を踏み鳴らす音が聞こえてきた。絵莉彩は振り返りながらたぶん、と応じる。杉下氏もまた、絵莉彩と同じように車外に出て、こちらに歩み寄ってきていた。
「だと思います。そのために地図まで用意して、大森まで詳しい人に話を聞きにいったぐらいですから」
絵莉彩の言葉には杉下氏も異論ないようだった。しかし彼は納得しているわけではないらしく、絵莉彩の言葉に耳を傾けながらも首を傾げている。
「なんの用があったんだろうね?こんなところに」
独り言のように漏れたその一言が杉下氏の本心の全てであるように絵莉彩には思えた。それは絵莉彩も同感だ。絵莉彩には彼の疑念がよく分かる。普通なら、こんなところ訪ねようとも思わないはずだ。誰が住んでいるわけでも、何があるわけでもない。優莉花が今更、肝試しを楽しむ子供のようなことをするとも思えないし、なにより彼女はよく知っていたはずだろう。ケータイも通じない山のなか、住人もおらず地元の者も立ち入らない場所に一人で不用意に入り込むことがどれほど危険か。今では絵莉彩だってその危険はよく理解できている。人の立ち入らない山のなかなど、何が起こるか分からない。突然野獣に襲われる危険もあるし、予期せぬ土砂崩れや落石、倒木などによって生命を落とすことだってありえる。たとえそこまでのことにはならなくても、何かのはずみに怪我でもして動けなくなれば、骨折でも生命に係わってくるはずだ。人家がなく人通りもない場所で、通信手段が何もなければ、何が起きても簡単には救助を呼ぶことができない。
それでも優莉花はここに来ようとしていた。ならばそれ相応の理由があったはずだと、絵莉彩はせっかくだから少し歩いてみようかという杉下氏の誘いを受ける形で山谷の集落に足を踏み入れてみた。うっかり遭難することがないよう、常に背後を振り返っては自分の辿ってきた痕跡と車の位置を確認しながらの、気の抜けない散歩となったが、それでも歩けない、ということはなかった。おそらくかつては田圃や畑の間を行き来するための畦道だったはずの小道は、今やすっかり草や灌木に侵食されていたものの、そこには踏み荒らされた痕跡が残っていて山道の様相を示していたからだ。行き来しているのはなにも獣だけではないだろう。地面の上には所々、煙草の吸い殻やコーラの空き缶、スナック菓子の袋のような近代的なごみが落ちていたからだ。ひょっとしたら、奥のほうにはもっと大きな不法投棄もあるかもしれない。嘆かわしいことであろうが、誰も住まず、誰も立ち寄らない場所ならありえることだった。肝試し程度なら無害でも、産廃や大型家電の不法投棄なら社会問題になるが、それも警戒する地元住民がいなければいちいち問題化されることもないかもしれない。人のいない場所は、犯罪を試みた人々にとっては楽園に等しい場所だろう。
そうしたごみに足下を掬われないよう、絵莉彩は背後だけでなく足下にも意識を凝らしながら歩いたため、いちばん近くにあった廃屋に辿り着いた時にはすっかり息が上がっていた。杉下氏のほうはそんなことはないらしく、平然とした表情を浮かべている。彼は絵莉彩とは体力が根本から違うらしい。なにかスポーツでもしていたのだろうか。
「・・ここが、その、最後の住人が住んでいたという家だったみたいだね。まだ、表札が残ってる」
話しかけられて絵莉彩は呼吸を整えながら、杉下氏の示すほうを見やった。すぐ傍に苔生した石柱のようなものが残されている。どうやらそれが、かつては門柱として使われていたものだったらしく、ちょうど絵莉彩の目の位置に、明らかに門柱の素材とは異なる石でできた滑らかな板のようなものが嵌め込まれていた。そこに楷書で刻まれた、小林、という人の姓はまだ読み取ることができる。どうやらここはかつて、小林という一家が住んでいた家であったらしい。姓の下には三つの名前が刻まれていた。風化が激しく、だいぶ薄くはなっていたものの、こちらも読めないというほどではない。いちばん左端に刻まれた美鶴子という女性名は、なかでも特に明瞭で、小林美鶴子という名前に絵莉彩の記憶は刺激された。
――この名前、ではやっぱり、この家があの心中事件の起きた家なんだわ・・。
絵莉彩は顔を上げて、門越しに家のほうを見た。小林美鶴子という名前には覚えがあった。他でもない、優莉花のノートに貼り付けられていた、新聞記事のコピーで見たのだ。あの記事で、殺された女の子の名前が、小林美鶴子となっていた。ではここが、あの事件の現場だった、ということになる。
それに気がつくと、絵莉彩はまるでひかれるように門の内側へと足を踏み入れていた。玄関までのアプローチは石畳で舗装されており、それは今も残っていて、ここに来るまでに通った道に比べればずっと歩きやすかった。その奥にある玄関のほうは、すでに無惨な姿になっている。かつてはきちんと引き戸が嵌まっていたのであろうが、今では遮るものも何もなく、なかの土間を外に向けて晒していた。土間にはやたらと木片などの瓦礫が散らばっていたから、あれがかつての引き戸の残骸かもしれない。長年の風雪を受けて壊れ倒れたのかと、絵莉彩はそう思いながらその瓦礫を踏んで上がり框の上に立った。降り積もった塵芥に汚れた床板は、足を乗せると擦れる響きに朽ちた音を混ぜたなんとも奇妙な音色を鳴らしたものの、とりあえず絵莉彩の重みに耐えかねて床が抜けるようなことはなかった。絵莉彩はほっと息を吐いて、そのまま家の奥へと歩を進めていく。背後で杉下氏が何か言っているのが聞こえていたが、聞こえないふりをして足を緩めたりはしなかった。
――私、この家に見覚えがある。
絵莉彩のなかにはそんな確信があった。なぜか、確信があったのだ。一度も来たことがないはずなのに、絵莉彩にはこの家がまるで我が家であるかのような懐かしさがあった。今も、どこに行けばなにがあるのか、絵莉彩には手に取るように分かっている。玄関から縁側沿いにまっすぐ行けば茶の間があることや、その反対側である裏庭に面して家族の私室があることも、普通は外部の者を通すことなどないはずの台所や納戸の位置、浴室や厠の位置までも正確に知っていた。書けと言われれば見取り図だって今の絵莉彩には書ける自信がある。だが、なぜだ。なぜだろう。なぜ数十年も前に無人になってしまった廃屋に、今日初めて来た自分が懐かしさを感じるのだ?
――この部屋だ。
絵莉彩は辿り着いたひとつの部屋の前に立ち止まって、室内を見渡してみた。そこはすでに荒れ果てて部屋とはいえなかったが、絵莉彩の目には部屋として映っていた。畳を敷き詰めた八畳ほどの座敷に、床の間や付け書院もついた古風な造り、軒に下げられた風鈴の柄や、座卓の上に置かれていた湯呑みの色まで明瞭に見える気がする。確かにこの部屋だった。絵莉彩はもはやはっきりと思い出せていた。ここが、あの夢に出てきた部屋だ。和服を着た女性が息絶えて、自分が包丁を持った大男に襲われた、あの部屋だ。
――どうして。
絵莉彩には自分の感覚が分からなくなっていた。ここは確かに自分にとって見知らぬ場所だ、それは確かだ。にもかかわらず自分には確かに、この部屋での惨劇の記憶がある。この家に対する既視感も、時を追うとともに鮮明になっていった。目の前にある朽ちかけた空間は、もはや部屋としての体裁すら整わぬほどに荒れ果てているというのに、在りし日の室内の様子が手に取るように分かるのはどういうわけか。なぜ自分に、こんな理解のできない感覚が湧き上がってくるのだろう。
「・・絵莉彩ちゃん、どうしたの?」
その感覚に混乱していると、ふいに背後から声をかけられて絵莉彩は文字通りに飛び上がってしまった。慌てて振り返ると、杉下氏が背後に佇んでいて、早く出ようと促してくる。
「なかには入らないほうがいいと思うよ。いちおう、ここは他人の家だし、これだけ古いとどんな事故が起こるか分からないからね。極端を言えば、建物が突然倒壊する可能性だってあるんだし。だから早く出てしまおう」
杉下氏は絵莉彩の手を引くようにしてきた。絵莉彩はとりあえず頷き、彼の言葉に従った。それに逆らうほどの理由は持たなかったからだ。絵莉彩には自分の感覚を、彼に説明できるだけの言葉を持たなかった。
――ここに既視感がある。ではまさか、他の夢も、みんなそうなのだろうか・・?
まさか、と思う。考えすぎだ、とも思う。そんなことあるわけない。ここだけが例外なのだ。そもそもこのような一般住宅の座敷に、それほど多様性があるとは思えない。ここは特に半ば倒壊しかけているほど状態が悪いのだから、他の日本家屋を訪れた時の記憶と混ざり合い、自分が混乱しているだけのはずだ。
だがそうに違いないと思う一方で、それならばあの夢はなんなのだと思ってしまう。勿論、夢は夢にすぎないが、夢でこれほど妙な感覚を抱いたことは今までなかった。少なくとも夢で見た他人の家を、自分の家と錯誤するような経験をしたことはない。そもそも絵莉彩は、夢など起きると同時に忘れてしまうことが多い性質だ。しかし今は、どんな夢であったのか、細部に至るまで明瞭に思い出すことができる。どんな顔の人物が出てきたのか、誰がどういう行動を取ったのか、何もかもが忘れがたい思い出のように鮮やかだった。
それに気づいて、絵莉彩はなんとなく足を止めた。ちょうど玄関まで戻ったところで、土間に下りる前に足を止めたことに杉下氏が怪訝そうな顔で振り返ってくる。絵莉彩はその彼に、落とし物をしたみたいと告げて駆け足で再び部屋のあるほうへ戻った。足を床に下ろすたびに床が抜け落ちるのではないかと思うぐらいの恐ろしい軋み音が響き、それに半ば震えながら絵莉彩は茶の間に駆け込む。なかに入るとすぐに壁際の茶箪笥に手を伸ばした。
落とし物というのはもちろん絵莉彩の嘘だった。しかし探し物なら本当にある。絵莉彩はこの家で暮らしていた住人を写した写真を探したいのだ。この家で起きたのは無理心中事件だ。そして自分が見た夢が、本当にこの家で起きた惨劇に関わりがあるのなら、あのとき包丁を持っていた大男が事件の犯人となったこの家の主人で、倒れていた和服の女のほうが彼の妻ということになる。しかし絵莉彩はこの二人の顔を知らない。新聞記事のコピーに掲載されていた顔写真は小林美鶴子のものだけだったからだ。ならばもしも、この家にその美鶴子の両親の写真が残されていて、それで顔を確認することができれば分かるはずだった。自分の夢が単なる夢であるのか否か。絵莉彩の記憶には、小林美鶴子以外、この家の住人の顔があるはずないのだから。
だがそう思って探した写真はなかなか見つからなかった。家財道具などはわりとよく残っていたものの、状態の悪さは家とたいして変わらない。茶箪笥は抽斗が開かなかったり、手をかけた瞬間に取っ手が外れてしまうこともあった。かろうじて開いてもなかにアルバムなどは入っておらず、書棚に視線を移してもそれらしいものはない。もっとも書棚の本は、日に焼けたり黴に覆われたりと状態が悪すぎてなんの本だったかも分からないものが多かったのだが、大きさからほとんどの本は市販の文庫本だったのだと推測できた。物が収納できそうな家具はもう茶の間にはなく、絵莉彩は諦めて隣室に移る。隣の座敷を探し、奥の納戸を開けて黴の臭いに包まれながらなかの道具を出し、最後に仏間に行って仏壇の戸を開けた時にやっと今でも見ることができる写真を見つけだすことができた。仏壇の、本尊や燭台を置くスペースの下にある、おそらく本来であれば予備の蠟燭や数珠などをしまう場所だったのではないかと思える場所に収納されていた。どこかの写真館で撮影したものと分かる立派な装丁のそれを開くと、モノトーンの古風な家族写真が現れる。おそらく小学校の入学式を迎えたことを記念して撮った写真ではないかと思われた。写真の中央に着飾ってランドセルを背負った女の子が立っており、その左側には和装に髪を和風に結い上げた女性が椅子に座っている。右側にはスーツ姿の男性が佇んでいた。女の子の顔は確かに新聞に載っていた小林美鶴子に間違いなかった。ならば彼女に寄り添うように写っているこの男女こそが彼女の両親のはずだ。絵莉彩はその男女の顔を凝視し、そして確信した。確かにこの男だった。脳裏に甦る夢と写真の顔は重なり合う。自分は確かにこの男に襲われたのだ、そう自信をもって断言することができた。
――それに、この人だったわ・・。
絵莉彩は自分が夏花と呼ばれた少女だった夢を思い起こした。そのとき、自分は姿見に男の姿を見た。その男がこの写真の男と同一人物だと、こうして写真を見れば断言できる。あの襲われた時のような凶悪な姿ではなく、こうした普通の姿をしているところを見れば、間違えようがなかった。自分は確かにあの時、姿見のなかにこの男の姿を見て、なのに室内には誰もいなかったのだ。それに悲鳴をあげて逃げようとして、どこかに引きずり込まれた。それ以降の記憶はないが、そこに至るまでの経緯はまだはっきりと覚えている。あれはいったい、なんだったのだろうか。あれも単なる夢か。あの時点で自分はこの男の顔を「知らなかった」わけではないのだから、衝撃的すぎる夢を見て、記憶をそのまま引きずっていたのか。しかし自分は、この男の顔などあの時点では全く「知らなかった」はずで・・。
――え、待って。私、夏花って名前、前に見た覚えある・・。
ふとそれに気づき、絵莉彩は記憶を探った。そしてその記憶を見つけ出すと急いで仏間を駆け出した。ここまで来た廊下を駆け戻り、杉下氏の佇んでいる玄関を走り抜け、山道を駆け下って自分の車に乗り込む。そしてまた優莉花のノートのページをめくった。確かどこかにあったはずだとコピーを流し読みしながら探していき、中ほどでようやく見つけることができた。桐野夏花という名前が、はっきりと明記されている。
――あった。これだわ。
記事は女子中学生の失踪事件を報じるものだった。やや古い記事で、七年前の日付になっている。記事によれば当時十四歳となっているから、生きていれば自分より二つ年上の女性のはずだった。しかし彼女は自宅で消息を絶っている。学校から帰ってきて自室に戻った時は普通で、母親が夕食ができたことを伝えた時も確かに返事があったらしかった。しかしその後すぐに悲鳴が聞こえ、彼女はそれきり姿を現さなかった。母親が心配になって彼女の自室に行くと、部屋の窓は開け放されたまま、娘の姿だけが消えていたのだという。桐野夏花の母親はこの様子にすぐに誘拐を疑った。彼女はこのとき年上の元恋人による一種のストーカー被害に悩まされていたらしく、それで真っ先に事件が疑われたらしい。しかしこの元恋人はすぐに潔白が証明された。アルバイト先のコンビニの防犯カメラにずっと映っていたというのなら疑いようがないだろう。そのため残ったのは彼女が消えた謎だけで、記事はそれを報じるものだったのだ。
――彼女が、もしかしてあの夢の「夏花」なのじゃないだろうか?
記事を読みながら、絵莉彩の夢はそこに書かれていた内容と自然に繋がっていた。絵莉彩には、自分の見た夢が夏花の失踪の瞬間だという確信があった。なぜなのかは分からない。それは直感だった。絵莉彩自身にもはっきりとは分からない感覚がもたらす確信だ。霊能力という言葉が脳裏を過ぎる。あれは、自分が桐野夏花という少女の意識を通して見た、過去の光景なのではないか、そう思えるのだ。絵莉彩は霊能者ではないが、この感覚はそれ以外の言葉で説明できそうにない。今や絵莉彩には、この記事に最初に見た時のような他人事の印象がなかった。まるで他人が書いた自分の記録を自分で読んでいるような感覚がある。実際、絵莉彩にはどんな推測をしたわけでもないのにこの記事には書かれていない桐野夏花のプライベートも手に取るように分かっていた。誘拐犯と疑われた元恋人の名前、その彼と付き合って、また別れた経緯。記事では匿名となっている所属部活の友人の名前、部活での競技成績、行きつけの店の名前や場所、好きだった漫画やアイドルの名前など、記事には載っていない、本来であれば本人の他、ごく親しい内輪の人間しか知らないことを知悉していた。それらが正しく真実かどうかは後で調べるにしても、この事実は絵莉彩にひとつの衝撃をもたらした。夏花の夢やあの和室の惨劇の夢が全て過去に起きた現実の出来事だとしたら、ひょっとして他の光景も全てそうではないのかと。
もちろん確証はない。見た夢の数よりこのノートに貼り付けられた記事のほうが数が多いのだから。しかし一度そう感じてしまうと、夢は絵莉彩自身の記憶と結びついて恐ろしい予感を形作ろうとする。ふいにあの通夜の日の、明花の様子が脳裏に甦ってきた。ママのところに連れて行くと言って誰もいない裏庭に行き、虚空を指差した明花の、あの奇妙な様子が。あの時自分は、彼女の行動を単なる子供の想像遊びだと思った。しかしあれらの夢が全て現実だったかもしれないとなると、明花のあの仕草には絵莉彩が考えていたのとは別の意味があるように思えてくる。あの時、絵莉彩には何も見えなかっただけで、明花には何かが見えていたのではないのか。明花には本当に優莉花の姿が見えていた、いや、優莉花以外の何かの姿も見えていたのかもしれない。だからあの時、あの子はあれほどにも嫌がる様子をみせたのではないかと。
考えすぎだろうか。しかしそう思えば自分にも思い当たることがある。自分は通夜の夜、誰もいない廊下に足音を聞いたし、葬儀の日には高原恵瑠奈が明花に姫塚にはお化けが出るなどと話したらしいことも聞いている。もちろん、絵莉彩の体験は単なる気のせい、高原恵瑠奈の話は子供をおどかすためにした彼女の作り話と解釈できることだ。というより、普通なら誰もがそう考えるだろう。しかし今の絵莉彩にはとてもそんなふうには考えられなかった。全て気のせいなら、自分が自宅で見た、あの襲撃者はいったいなんなのだ、と思えてならない。
――この辺りは、ひょっとしてこの世ならざるものたちの巣窟なのだろうか・・?
突然、戦慄とともにそう思った。だから姫塚には怪談があるのではないのか、ここを訪れてから自分の身辺に不可解なことが起こるようになったのではないかと。そういえば、松谷氏も高原恵瑠奈も、優莉花の高校時代の恩師も、さらには龍崎瑠羽や城見杏里も皆、姫塚に行った後で不幸に遭っていないか。明花だって姫塚から帰ってすぐは様子がおかしかった。これは全て偶然なのだろうか。ひょっとして偶然ではないのではないのか。だからこそ優莉花はあれほど大量の破魔矢を持っていたのかもしれない。優莉花はこのことにもっと早く気づいていた。だからこそこれらの記事も集めていたのではないのか。山谷に行こうとしていたのも、もしかしたらこれらの原因を姫塚ではなく山谷にあると考えていたからかもしれない。それを解決して初めて、自分には平安が訪れると思っていたのではないのか。だからあの老人に語ったような言葉が出ていたのかもしれない。山谷に行かないと自分は娘のところに行けない、と。あれは、ひょっとしてこういうことだったのではないのか。優莉花はこの辺りには何か恐ろしい災厄じみた怪異が潜んでいると知っていた。だからあれほど大量に破魔矢も集めたし、松谷氏の転勤を好機として娘だけを早々に離れた場所に移し、自分はこの地に残ってその怪異をなんとかしようと奔走していたのではないのか。何もせず一緒に都心に行ってしまっては、やがては自分も怪異に呑まれると思っていたのかもしれない。
――自分も。
絵莉彩は全身が震えるのを感じた。あの通り魔の夜、自室に起こった悪夢を思い出さずにはいられなかった。もしもあの時、自分があのまま引きずり込まれていたらと思うと鳥肌が立つ。そうなっていたら自分は今頃、この桐野夏花という中学生と同じような扱いになっていたのではないかという気がした。深夜に自室から悲鳴だけを残して謎の失踪をした女子大生、という見出しが容易に想像できて背筋が凍える思いがする。あれこそが、優莉花が恐れていたものの全てではないのか。
――どうして。
どうして姫塚だけなのだろうか。絵莉彩の頭には恐怖とともにその疑問が渦巻いた。なぜ姫塚にだけこんなことが起こるのだろう。ほんの少し訪ねただけの人を追っていくほどの強烈な怪異が、なぜ生じるというのか。何かこの地で怪異を起こすほどの惨い悲劇でも起きていたのだろうか。だが悲惨な事件や事故ならどこでだって起きていることだ。絵莉彩の住んでいる辺りなら特に、そんなことは頻繁に起こる。絵莉彩もこれまで、交通事故の様子なら何度も見たことがあった。人身事故で鉄道が止まって困ったことも一度や二度の話ではない。近所の民家が燃えて住人が死んだことだってあった。よく知った友人が死んだことこそ、茉子ちゃんの事故と柚美ちゃんの事件以外になかったが、絵莉彩はこれまであの二人が化けて出たという話を聞いたことがない。これまで見てきた事故の現場でも、幽霊や祟りなどという怪談は聞いたことがなかった。絵莉彩は手持ち無沙汰を誤魔化す時、よくネットサーフィンに興じるが、一度もそんなことが噂になっているのを見た記憶はない。山谷でかつて不幸な殺人事件があったから、それが姫塚にも影響を与えるような怪異を起こすようになったということなら、なぜ赤子の頃から毎年のように姫塚を訪れていた、絵莉彩が今も無事でいられるのだろうか。絵莉彩の両親だって、まだちゃんと元気で生きている。今年以外、どんな異常を感じたこともない。
――山谷で死んだ人のほうが深い怨みを残して死んだから、とか?まさか。
しかし他に考えられないような気がする。山谷で死んだ者のほうが、そうでない場所で死んだ者よりも、その死に際して深い怨みを遺していた、としか。確かに、突然もたらされた理不尽な死に対しては誰しも恐怖するだろう。その死が誰かの意によってもたらされたものであるなら、死の間際に怨みを遺したとしても不思議なことはない。しかし単なる殺人事件なら、どれほど悲惨でも他でも起きている地域があるではないか。
――もしかして、他にもある、とか?
実は山谷で非業の死を遂げた者の数は自分が知っている数よりもずっと多いのだろうか。だからまるで山谷にだけ怨念が渦巻いているように感じるのか。いやしかし、少しくらい多くたってその件数は東京などの大都市圏に比べればたかが知れてるだろう。山谷や姫塚のような田舎の集落で、都心のそれを凌駕するような大事件など起きたとは思えない。もしも起きていたとしたら、昔の民話まで調べ上げていた優莉花が見逃すはずないと思う。自分だって少しは聞き及んでいたはずだ。
――そりゃあ勿論、死というものは必ず公になるものばかりじゃないけど・・。
深山優子ちゃんの例だってあるし、と絵莉彩はかつての同級生を思い起こした。同級生といっても絵莉彩は彼女に一度も会ったことがない。本当なら絵莉彩と同い年で同じ小学校に入学し、同じクラスで勉強するはずだった深山優子なる少女は、絵莉彩が二年生に進級する頃になって、とうとう一度も登校することのないまま死んでしまったからだ。当時の絵莉彩はまだ小さくて、彼女が学校に来なかったその理由がよく分からなかった。理解できたのはずいぶん後になってからだ。深山優子ちゃんは学校に来なかったのではない、行くことができなかったのだ。彼女は生まれてすぐ、それも産院から退院して間もなく他ならぬ母親の手によって殺害されていた。そして弔われることもないままどこかに遺棄され、死後に出された出生届によって児童手当の不正受給に利用されていたのだ。少なくともそうであったと、後になって調べた当時の新聞ではそのように報じられている。実際に深山優子ちゃんが正確にいつ頃、どのようにして殺害されたのか、どこに遺棄されてしまったのかは今でも分かっていない。優子ちゃんは小学校の入学式に欠席して周囲の注目を集めるまで、誰からも顧みられない存在だったのだ。その頃になってやっと行方不明になっていることが判明して、行政やら警察やらが探し始めた時にはもう、肝心の母親すら棄てた場所をはっきりと覚えておらず、どこか山の中としか供述しなかったらしい。遺体がないことで母親が殺人や死体遺棄で立件されることもなく、行政の連携の不備が殺人を見逃したのだと、当時かなりの批判にさらされたらしかった。しかも絵莉彩が新聞と併せて調べた週刊誌の報道では、殺されたのは優子ちゃんだけではないように指摘されていた。優子ちゃんの母親は優子ちゃんを産む前の年にも、「舞子」なる女児を産んでいるはずだという病院の医師や看護師の証言があったからだ。救急車で搬送されてきて、そのまま分娩となったことをまだ覚えているという。母子の世話をしたという看護師が、確かに生まれた子供と、その子に舞子と名づけて抱いている母親を見たと話したというのだ。しかしこの「舞子」に関しては出生届も出されておらず、母親が言を曖昧にしているため、優子ちゃん以上に存在があやふやになっているのだが、そんなふうに公になっていない人間の死は多数あることだろう。それらを含めれば山谷で死んだ人間だってかなりの数になるはずだ。それらの名も無き死者たちが絵莉彩を襲ったような怪異を起こしていたのだろうか。絵莉彩を襲ったり、ぬいぐるみを動かしたりしていたのか。ならばひょっとして自宅で感じたあの足音も、自分が寝惚けたのではなくそうした何者かが立てた足音だったのだろうか。死者がそんなふうにして生きた人間に影響を与えるなどありえるのだろうか。あるとしたら、どうして今年だけ、そんな影響を受けてしまったのだろう。それとも、絵莉彩が気がついていないだけで、これまでずっと、あらゆるところで様々な影響を受けてきたのだろうか?そこまで考えると、絵莉彩の背筋が凍えた。それならばまさか、茉子ちゃんや柚美ちゃんの死もそのせいだったりしないだろうか?まさか、松谷氏や龍崎瑠羽さんが通り魔の被害に遭ったのもそのせいなのか?二人が被害に遭ったのは、二人が姫塚に行ったからで、松谷氏が助かったのは単に運が良かったからということはないのか。優莉花が事故に遭ったのはどうなのだろう?あの夢で見た車のなかの光景は、確かに優莉花の車のなかの風景だったが、それは関係ないのか。その時に出てきた女の子と、その前の座敷で見た女の子が同じ人物だったことにはなんの意味もないのだろうか。あの女の子は、その前に見たどこかの自動車道を走行する車内での光景を見た時にも出てきた。突然反対車線から飛び出してきて、事故の直接的な原因になった、あの車のなかにいたのだ。明花と同じくらいの、けれど明花よりも少し色が薄くて茶色がかった髪の女の子だった。あの自動車道の様子が、篠崎智人氏の事故の報道で見た写真と酷似しているのも気のせいか。火災の夢では、美礼奈と誰かが叫ぶ声も聞いたし、扇風機の回る座敷の夢では、壁に掲げられた何かの賞状に、山寺紅恋羽の文字も見た。あれらの夢も、全部が単なる夢ではなかったということか?ならばどうして自分が、あれらの夢を見ることになったのだろう。怪異に取り込まれたものは、その後いったいどうなるのか?もしもあの時、あのまま引きずり込まれていたら自分はいったいどうなっていたのだろう?自分もやはり、失踪者の仲間入りをしたのか。もしかして自分がこの地で見た不審な人々は、そうして怪異に取り込まれ、霊となって彷徨っている人々なのか?ならば未だに行方の知れない優莉花の両親はどうなってしまったのだろう?もしかして、伯母夫婦も桐野夏花や城見杏里と同じ命運を辿ってしまったのか?ならば自分はどうして無事だったのだろう?やはり、自分も松谷氏同様、単に運がよかったからなのだろうか?
「――ちゃん、絵莉彩ちゃん、どうしたの?なに考え込んでるの?」
そうして出口の見えない思考を弄んでいると、突然声をかけられた。絵莉彩はその声に思わずびくついてしまった。急いで声のほうを振り返る。すると杉下氏が、いつの間にかこちらを覗き込んできていた。視線が合うと、彼はなぜか安堵したように微笑んでくる。
「やっとこちらを向いてくれたね。どうしたの深刻な顔をして。まだここに残るの?私は陽があるうちに戻りたいからそろそろ下山するつもりだけど、絵莉彩ちゃんはどうする?」
その言葉に絵莉彩は反射的にフロントガラスの向こうに視線を投げた。気がつけば陽は少し傾きかかっている。確かにこれ以上ここでのんびりしているのは安全上好ましくないだろう。車とはいえ、夕暮れを過ぎてから人のいない場所に留まるのは避けたほうが無難なはずだ。
絵莉彩はそう判断すると杉下氏に頷き返して、エンジンをかけるためにドアを閉めようと手を伸ばした。だがその前にふと思い出して、それを訊ねてみるために杉下氏を見上げる。
「・・あの、ここにいると何か嫌な気配を感じませんか?」
かなり漠然とした問いかけだったらしい。杉下氏は困惑したように瞬いてきて、しばらくのあいだ無言のままだった。彼は少し考えるようにしてから、ようやく口を開いてくる。何も感じない、というのが彼の答えだった。
「嫌な、というほどのことはないけど。寂しいところだとは思うけどね。姫塚も、いずれこうなってしまうんだろうなあと思うと、なんだか虚しい感じもするかな。もう、そんなに遠い未来のことじゃないし」
そうですね。絵莉彩は同意した。杉下氏に礼を言ってドアを閉める。杉下氏が何も感じないというのであれば、やはり自分が姫塚に来るたびに感じていた嫌な気配も、この山谷に来てから、あの廃屋で感じた妙な既視感も、全てが気のせいなのかもしれない。絵莉彩はそう思うことにした。というより、姫塚や山谷を訪れただけで不幸が訪れるのなら、自分はどうして無事でいられるのか、杉下氏はなぜ今も元気でいるのか、逆にそれが不可解ではないか。自分は確かに自宅で怪奇現象に見舞われているが、あの時以外どんな異変にも遭っていない。たった一度の肝試し程度で害があるというなら、自分が通夜の日に呼んだタクシーの運転手はいったいどうなるというのか、優莉花の家に新聞や郵便物を配達に来た人間はどうなるのか、優莉花の葬儀を執り行った僧侶や葬儀会社の職員はどうなるのか、なにより優莉花の家の向かいに住んでいるはずの山陰さんはどうなるのか。彼女など、何十年もあそこで暮らしているはずだ。それらの人々が全て無事で暮らしていることを運がよかったで説明できるなら、松谷氏や龍崎瑠羽さんたちに不幸が重なったことも全て、偶然で説明ができるはずだ。
――疲れてるのよ。自分がこんな妄想を抱くようになるなんて。
絵莉彩は溜息をついた。頭を渦巻く諸々の疑問を振り払うようにエンジンをかけ、気を取り直してアクセルを踏み込む。先に林道を下っていく杉下氏の車を追うようにしてハンドルを動かしていった。運転に集中することで今日起きたこと、考えたことを早く忘れるよう努めた。呪いだの祟りだの霊だの、そんなの現実にあって堪るかと思った。そんなことがあるなら姫塚に伝わる民話の姫だって、怪異と無関係とはいえなくなるではないか。そんなことになったら、この日本に、安全に暮らせるところなんてなくなってしまう。
――この世に今まで、人の死んだことのない土地なんてないんだから。
それは真理のはずだ。その真理を胸に抱けば絵莉彩は安心に包まれて心が安らぐ気がする。そして一度それで納得してしまうと、絵莉彩の頭ではもうそれ以上疑念を持つことは不可能だった。山陰のお婆さんは昔から呪術的な習慣も大事にする信心深い人だったはずだとか、出入りの業者の安否は調べてみなければ分からないはずだとか、そんなことはあえて考えないようにした。考えたくなかった。
これ以上考えれば怪異があるとの結論が定まってしまいそうで怖かった。今の絵莉彩にとってその結論が定まることは生命の危機に直結していたから。その恐怖に耐えられそうになかったのだ。




