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恐怖


 ――これで、大丈夫かしら?

 ――ああ、大丈夫だろう。こうしておけば、万が一見つかっても轢き逃げにしか見えないはずだ。

 ――やめてよ、縁起でもない。

 ――そうだな。しかし用心は必要だ。なにしろ絶対に見つからないという保証はないんだからな。もしもに備えて誤魔化しとかないと、大変なことになる。

 ――ああもう、どうしてこんな面倒なの。

 ――おい、文句ばっか言ってないで、手伝えよ。そっち持て。

 ――ええ?いやよ。なんで私が?こんな汚いの。

 ――ったく。

(・・なんだろう?)

 絵莉彩は霞む視界に目を凝らした。なぜか、周囲に白い靄のようなものが漂っていて、辺りがよく見えなかった。

(誰の声?)

 声はどこからともかく聞こえてきていた。全く聞き覚えのない声だった。誰の声なのか分からない。男と女が言い合う声のように聞こえたが、何を話しているのかもよく分からなかった。いったい誰がいるのだろう。

 絵莉彩はその声に耳を澄ましてみた。だが絵莉彩が意識を凝らそうとすればするほど、それと比例するように声は遠ざかっていった。絵莉彩はその声を追おうとしたが、無理だった。そもそも絵莉彩は、いま自分がどうなっているのか分からない。視界は靄にでも覆われたみたいに白く霞み、周囲が全く見通せなかった。ここがどこなのか、自分がいったいどういう状況にあるのか、それすらも判断できない。

(私、いったいどうなったの?)

 恐ろしいほどの不安が湧き上がってきた。絵莉彩は必死で白い靄のなかを探索してみた。せめて自分がいまどこにいるのか、それだけでも知りたいと思った。絵莉彩にとって何も分からないということは不安に直結し、不安は恐怖に直結する。ましてやそれが自分のことなら、これほど恐ろしいことはなかった。無我夢中で辺りを見渡し、声を限りに呼びかけてみる。誰か、誰かいないのかと。

 すると、まるでそれに応えたかのように白い靄はゆるやかに晴れていった。

「!」

 現れた光景に、絵莉彩は息を呑んだ。

 靄が晴れると、視界に広がっていたのは凄惨な血の色だった。

(何、何があったの?)

 絵莉彩は狼狽えた。あまりに突然の情景の変化に思考が追いついていかなかった。いったい何があったというのか。何があって、こんなに大量の血が流れているのだろう。この血は、いったいどこから流れ出たというのか。

 ――やめて。

 狼狽は恐怖を生み出した。絵莉彩は日常ではまず見られないそれに、反射的に足を動かして逃げようとした。だが足が縺れたようになってうまく動かない。気持ちだけが先走り、その場に転倒した。手が畳の上を滑り、腕を掠めるようにして何かが勢いよく突き立ってくる。絵莉彩は硬直した。思わず頭上を見上げた。

 圧倒されるような大男が、凶悪な色を視線に混ぜて、絵莉彩を見下ろしていた。

 ――いや。助けて。

 絵莉彩は逃げたかった。しかし男から目を逸らすこともできなかった。あまりの恐ろしさに意識の全てがそこに縫い止められたまま、手足にまで力が回ってくれない。ようやく動かすことができたのは、男が腕を振り上げた時だった。ほとんど反射に近かった。気がついたら絵莉彩は悲鳴を上げながら、畳の上を転がっていた。

(助けて。誰か、誰か助けて)

 しかし絵莉彩の身体はすぐに何かにぶつかって止まってしまった。柔らかい感触のそれに咄嗟に身を強張らせ、そのせいで一点に固定されてしまった視線が吸い寄せられる。絵莉彩の焦点は光を失った双眸に釘付けになっていた。

 絵莉彩の目の前では、和服姿の女が物言わぬ骸と化していた。

 ひと目で殺されていることが分かるほどの有様だった。絵莉彩は瞬間的に今の状況を悟った。このままでは自分も、彼女のように無惨に殺されることなど、考えるまでもないことだった。

(いやだ。死にたくない)

 ――助けて。助けて。

 しかしその、たった一つの願いは叶わなかった。絵莉彩は今度は逃げることができなかった。状況を全て理解した時には、絵莉彩は背後から髪を摑まれて引き立てられていた。突然頭部に走った激痛に絵莉彩は悲鳴を上げた。足が宙に浮くのを感じ、次の瞬間には身体に接しているものがなくなって、一瞬の後には背筋にも激痛が襲った。髪を摑まれ、投げ飛ばされたのだと気づいた時には、自分の視界に再びあの圧倒されるような大男が佇んでいた。男は手に大振りの包丁のようなものを持っていた。今はそれもはっきりと見えていた。その刃先が、血糊で汚れていることまでも、明瞭に。

 男はその汚れた包丁を携えたまま絵莉彩に近づいてきた。絵莉彩は床に尻餅をついた姿勢のまま、必死で後ずさった。だが、ほとんど動かぬうちに、背中に硬い感触を感じてそれ以上は背後に進めなくなった。逃げられなくなって焦る頭には、その理由がすぐには分からず、とにかく闇雲に足を動かして、ようやく自分が進めないのは壁に突き当たってしまったからだと気づく。しかしその時にはもう、絵莉彩の目前まで迫っていた大男が、血塗れた包丁を絵莉彩めがけて振り上げていた。

 絵莉彩は最大級の悲鳴を上げた。それと同時に視界は閉ざされ、辺りは闇に包まれて何も見えなくなった。

 ――助けて。

 ――こわいよ。

 ――おいていかないで。

 闇のなかには囁きや啜り泣きや悲鳴が溢れ返っていた。それらの悲痛な訴えに、絵莉彩は耳を塞ぎながら何も見えない闇のなかを彷徨った。時の感覚はもはや完全に失っていた。一瞬のようにも永劫のようにも感じられる時間を、悲鳴のような響きに囲まれて過ごし、その恐ろしい闇が晴れた時にはまた見知らぬ部屋にいた。今度は先ほどのような和室ではない。絨毯が敷かれベッドもクローゼットも置かれた完全な洋風の部屋だった。ピンクと白を基調にした色彩の華やかな部屋は、自分の部屋よりもいっそう女性らしい感じがする。

(誰の部屋?)

 その部屋は絵莉彩には全く見覚えのない部屋だった。今まで一度も訪れたことのない部屋だ。何度も遊びに行ったことのある、愛由夏や世黎空の部屋とも異なる。完全に見知らぬ誰かの部屋で、それなのに今の絵莉彩は、まるで自室でくつろぐかのようにその部屋のベッドに身を投げ出して、漫画雑誌を読んでいた。知らない部屋でこんな行儀を忘れた態度をとるなど、常では考えられず絵莉彩は大きな違和感を抱いていた。いったいなぜこんなことをしているのか、そもそもここはどこなのか。そんな当たり前のことが何もかも、咄嗟には分からなかった。

(私、なんでここにいるの?)

 絵莉彩は混乱の極みにあった。自分の実在に自分が疑問を抱いたことなど、思い出せる限り今が初めてのことだった。しかも今の絵莉彩は自分の身体を自分で制御できなかった。なぜなのかは分からないが、頭で考えたように手足が動かないのだ。立ち上がってここがどこなのか、もっとよく確認してみようと思っても、足に感覚が伝わってくれない。手足は動いているが、その動きは自分の意思に反していた。そのことが絵莉彩には想像を絶するほどに恐ろしかった。自分の身体が自分の意思とは無関係に動くなんて、これでは自分がこれからどうするのか、自分でも予測できないではないか。それが、怖かった。

 しかしそんな恐怖など、絵莉彩の身体は知覚していないようで、絵莉彩の指は勝手に、いかにも呑気そうに雑誌のページを捲り続けていた。どこからかナナ、と女性名らしい名前を呼ぶ声が聞こえてきて、それに生返事をするような声とともに視線が動く。なぜか、今の絵莉彩にはそのナナという名前が、漢字では夏花と書くのだということも自然に理解できていた。ナナという名にも、さまざまな漢字表記があるだろうに、なぜか音を聞くと同時にそう了解できていたのだ。声とほぼ同時に自分はベッドから立ち上がったらしく、景色が動く。どうやら歩き出したらしいと、少しして分かったが、その足は急に止まってしまった。視線が横を向き、その瞬間に全ての動きが止まってしまう。あまりの驚きに、絵莉彩の思考はうまく動かなかった。

(な、なに?)

 ――誰なの?

 絵莉彩の視線は室内の壁際に吸い寄せられていた。そこには大きな姿見があり、驚愕したように佇むポニーテールの少女を映し出している。絵莉彩の知らないその少女の、背後には大きな男の姿があった。絵莉彩は悲鳴を上げそうになった。その男は先ほど、自分に向かって包丁を振り上げてきた、あの人物だったからだ。

 景色が激しく動いた。絵莉彩は急いで振り返ったようだ。しかし背後には誰の姿も見えなかった。背後にあるのは白い壁だけ、壁に掛けられたカレンダーだけだ。そのことを知ると絵莉彩の全身は恐怖に震えた。背後には誰もいない、いないにもかかわらず、いなければならない男の姿が鏡のなかにだけある。そのことに怯えた。気のせいや幻覚とは思えなかった。怖いのは単に知らない男の姿が部屋にあるということだけではない、室内には他に誰もいないはずなのに、鏡のなかにだけ現れる男の姿というものが怖かったのだ。絵莉彩は悲鳴を上げて慌てて部屋を逃げ出そうとした。走るために足を動かし、そうしたところで足首を何かに引っかけた。バランスを崩して絵莉彩は前方に転倒した。

 手を突き損ねてしたたかに顎を打ち、絵莉彩は呻いた。だが悠長に痛みを感じていられるほどの時間の余裕もなかった。倒れると同時に絵莉彩は背後に引かれていった。まるでいつかの寝室での悪夢のように床を引きずられていき、絵莉彩は悲鳴をあげて抵抗した。しかし引かれる速度のほうが遥かに速く、絵莉彩の抵抗が絵莉彩を助けることはできなかった。

 誰も絵莉彩を助けには来なかった。どこかに引きずり込まれる直前、絵莉彩の視界に入ってきたのはあの姿見で見た男の顔だけだった。

 それからはしばらく、絵莉彩は繰り返し果てのない闇のなかを彷徨い、ときおり間欠的に現れる幻のような光景を見ていった。そうしているうちに、次第にこれらの光景が単なる夢にすぎないと、絵莉彩にも理解できるようになっていった。現実として考えるにはあまりにも不自然な点が多すぎるからだ。もしも現実であるならば、どうして自分の身体が自分の意思とは無関係に動くというのだろう。それに夢でなければ、こうも瞬間的に周囲の情景が変わるはずがない。

 夢にすぎないと悟れるようになると、絵莉彩も平穏な気持ちで情景が現れても見ていられるようになってきた。何度めかに現れたのは誰かの車のなかの風景だったが、その単調に響く走行音を耳にしても、心は落ち着いたものだった。不思議なもので、この奇妙な夢にも慣れてきているのかもしれない。意識を車内に向ければ、窓越しの景色が流れるように飛び去っていく。辺りは重苦しい雰囲気に包まれていた。耳に入ってくる会話からすると、どうやら容態が急変した親族の見舞いに赴こうとしているらしい。危篤という言葉が聞こえ、弾んだ感じはいっさいなかった。とにかく先を急ごうとしているように感じられ、アクセルが踏みしめられる気配が伝わってくる。だがそうしてスピードを上げたところに、突然反対車線から飛び出してくる車があった。驚愕し、咄嗟にハンドルを切って隣の車線に移ろうとしたが、それが自分で自分を認識できた最後だった。隣の車線に移った瞬間に激しい衝撃があって上下や前後の感覚が分からなくなった。それを境に絵莉彩の意識も徐々にフェードアウトしていき、その次はどこかの住宅の一室だった。優莉花の部屋のように畳に絨毯を敷いて強引に洋室にした部屋で、しかし優莉花の部屋よりはだいぶ狭い。半分ほどの広さしかなかった。誰の部屋だろうと思ったが、その答えを見つけるよりも早くにその室内が突如として火炎に包まれてしまう。どこからか悲鳴が聞こえ、逃げ惑う声が聞こえてきた。絵莉彩も逃げようとしたが、脱出する前に情景が変わってしまう。今度は絵莉彩にも見覚えのある場所だった。駅の通路のようなところで、近くには自動改札や売店も見える。松谷氏が通り魔事件の被害に遭った、あの駅だった。運が悪ければ、被害に遭っていたのは自分だったかもしれないと思うほど、絵莉彩もよく利用する駅で、その駅にあって、今の絵莉彩は改札前で腕時計を見ながら佇んでいた。時刻を確認し、それからもう片方の手に持ったペットボトルのお茶を口に含む。周囲を見回して、自分の視線がこちらに駆けてくる学生服姿の少年を捉えた瞬間、何か非常に耳障りな音を聞いた。なんだろうとそちらを振り返ろうと思ったが、そうするよりも前に強い衝撃に身体が宙に浮き上がるのを感じる。一瞬の後には叩きつけられるような激痛も感じ、その痛みや衝撃の意味を知ることができないまま、何かがこすれるような耳障りな音とともに意識を手放した。それで闇に沈んだ意識は、再び光のなかに浮上してくると今度は近代化したところなどどこにもない、古風な座敷に現れた。季節は夏らしく、隅のほうでは扇風機が回っている。その傍には小さな女の子がしゃがみ込んで一心に手を動かしていた。どうやらノートのようなものに絵を描いているらしい。女の子は明花と同じくらいの年頃に見えた。その子が近づいてくる。否、自分のほうが歩み寄っているようだった。ノートの紙をこするサインペンの音が明瞭に聞き取れるほどに近づいたところで、女の子が顔を上げる。女の子はこちらを見てにっこりと微笑んできたが、そこでその情景は消えてしまった。その後は闇に沈むことなくどこかの道路に情景が移る。見覚えがある道路だった。それはそうだろう。つい先ほどまで自分がいた大森の集落を通る道なのだから。しかも自分も通った、あの道だ。忘れるはずなどない。この道で優莉花は事故を起こし、死んだのだから。その道を自分は再び車で走っている。まるで時が戻ったかのようだった。これで自分が、行き慣れた道を辿るかのように危なげなくハンドルを切ってさえいなければ、本当に過去そのものだと思えただろう。だが残念なことに、今の絵莉彩は本当に流れるようにスムーズに運転できていたから、過去ではなく夢であることは明白だ。

 しかしこの夢も異常なほどに臨場感が生々しかった。シートの感触も、ハンドルの手触りも、現実と遜色ない。とても夢だとは思えなかった。嗅覚は車内に漂う独特の空気の匂いまでも敏感に捉えている。その匂いでこの車が自分が大森の店で借りたレンタカーではないと分かった。考えるまでもない。車の内装などどれも大差なくても、匂いはけっこう違うものなのだ。そういうものだと、絵莉彩は思っている。この車には絵莉彩が借りたレンタカーのように煙草の臭いが染みついていない。その代わりに香料の人工的な匂いが満ちている。

(この匂い、優莉花の車の匂いと同じ・・)

 それはとても懐かしい匂いだった。車内に満ちた香料の匂いは、出産祝いに訪れた時に乗せてもらった、彼女の愛車の匂いと同じ匂いに思える。優莉花がよく買っていた芳香剤の匂いだった。香りは記憶の起爆剤になる。絵莉彩の視界は過去の記憶と混ざり、あたかもあの頃のドライブが再現されているような気分になってきた。あの時は確か、大森から県道沿いに南下して近郊の自然公園でピクニック気分の軽い食事をしてから帰ったはずで――。

 ――危ない!

 そこまで回想した時だった。ふいにけたたましいブレーキの音が響いて絵莉彩は我に返った。気がついたら目の前、フロントガラスの向こうに小さな女の子の姿があった。このままでは撥ねてしまう、直感的にそう悟った。しかしブレーキを踏んでもなぜか速度は緩まらず、咄嗟にハンドルを切って避けようとする。一瞬の判断、一瞬の動作であったはずなのに、それはまるでスローモーションの映像のようにゆっくりとしたものだった。絵莉彩の目には、自分が女の子を見つけてからブレーキを踏み、ハンドルを切ってブロック塀にぶつかるまでの僅かな時間が、まるで永遠のように永く感じられた。


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