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通り魔と青い少女 前編


 普通、好きな人の枕元に立つ夢を見るだろうか。

 夢だな、と瞬きするより早く理解した。

 寝息を立てる彼の、顔を見ることしかできない。

 何故なら体が動かない。何というか、枕元に立つ幽霊になったようだ。

 ただ、じぃっ、とその間抜けな寝顔を見ていることしかできない。


 私の性格を現しているようで、不快だ。

 だが不快なだけではない。好きな人の寝顔を、特等席で見れている。


 ……つまり、私は見ているだけしかできない、ということなのだろう。

 声を掛ける勇気も無い。こうして見てるだけ。

 悔しいけど、動かない体に幾ら命令しても、動くことは無い。

   「通り魔と青い少女」



 宮村春彦。彼は平凡な高校生である。

 特に今まで非行に走ったことは無い。しようと思ったことも無い。

 ただただ生まれて、歩けるようになって、言葉を覚えて。幼稚園に通って、卒園して、小学校に入学して卒業した。そのまま小学校の延長で中学校に入り、卒業。

 入試をパスし、めでたく天星川高校に入学した。

 そして初めの一年も、ただただ、何事も無く過ぎ去っていった。

 面白味などあまり無い。それが一番幸せなのだ。

 だが幸せな時ほど、何か刺激を求める。春彦にとって、今一番欲しい刺激。

 それは恋愛だ。恋がしたいのだ。

 熱くてもいい。温くてもいい。ただ本気で、異性と付き合いたいのだ。

 身勝手な欲求だ。しかし青春を謳歌するには十分すぎる欲求だ。


「……おい」

 春彦は薄目を開けてすぐに、顔を顰める。

「なんだよ、起きちったのか」

 口紅を手にした弟は、にやりと笑う。

「朝っぱらから何する気だったんだ?」

「別に? 今日は俺の入学式だからな。せっかくだから兄貴に化粧をしてやろうと思って」

「恥かきたいのか?」

「俺が? 兄貴が?」

「俺もだけど、お前もだよ。兄が変な化粧して入学式に来てたら笑い者にされるだろうが!」

 弟は分かってねーなー、と言いたげに手を広げる。

「……兄貴だったら家出る前に気づくだろ? 兄貴が慌てる姿が見たかったんだよ」

「趣味悪い奴だな……というか、いっそ気持ち悪いわ」

「それはさておき、飯できてるからな。さっさと起きろよ」

 弟、宮村秋人は春彦に全く似ていない弟である。平凡な顔の春彦と、女性的な顔立ちの秋人。背は約四センチ、秋人の方が小さい。今は男子用の制服を着ているが、普段の秋人の私服は女性物だ。

 いわゆる、女装男子という奴だ。秋人は抜かりなくメイクをするため、その声も相まって、そこらの女装男子よりも、より女性に見える。異性ならかなり可愛い方だ。家事全般もそつなくこなし、勉強や運動も完璧。唯一欠点を挙げるなら、仕草や言動は普段と何一つ変わらないところ。それでもどこか、女性的な雰囲気は出ている。


 

 春彦はベットから出て、パジャマを脱ぎ、壁に掛かった制服を取る。

 制服のズボンを履いて、ベルトを締める。チャックも確認する。大丈夫。

 ワイシャツを着て、裾はしっかりズボンの中に。ブレザーに袖を通す。

 ネクタイは出かける直前でいい。

 ワンタッチのネクタイの方が楽なのに、と春彦は心の中で思う。春彦はネクタイ結びに時間が掛かるから、メンドクサイのだ。不器用。



 着替えを済ませ、居間に入る。

「……ん?」

 春彦は居間の中を見渡す。居るはずの人が居ない、と思ったからだ。

「どうした?」

 台所からひょこ、と秋人が顔を出す。

「母さんは?」

 秋人は怪訝な、呆れたような顔をする。

「は? 一昨日位から検査入院してるだろーが。帰ってくるのは六月頃だって」

「…………」

 勘違い、なのだろうか。春彦は分からない。

 一昨日。その日に何があったのだろう。カレンダーを確認する。一昨日は土曜日。

 土曜日に、何があったのだったか。思い出せない。

「……なぁ、検査入院に行くのって、明後日じゃないのか?」

「……今、ここにいないんだからな?」

 何だか現実と記憶が噛み合わない。春彦は腕を組んで他にも色々と記憶を掘り起こす。

 酷く断片的だった。まるで綴じていたルーズリーフがバラバラになって、更に細かく切り刻まれたような。断片的な情報だけが思い出される。

 更に妙な事に、思い出せるのは過去ではない。これからの出来事なのだ。

「…………?」

 わけがわからない。春彦は顔を顰める。

「……兄貴。顔洗ってこいよ」

「なぁ、お前、俺が起きる前に何か言ってなかったか?」

「言ってねーよ。いいから顔洗って、目ぇ覚ましてこい」

 春彦は踵を返し、居間から出て洗面所に向かう。

 蛇口を捻り、流れ出る水を両手で掬い、顔にかける。そのまま手でゴシゴシと顔を洗う。

 今日は……そう、茉莉子に会う。それで、聞かれる。「覚え、無い?」と。

 覚えている。というのだろうか。春彦には未来の事なのだが、それでも間違いなく茉莉子という存在は記憶している。ただ、どういう会話をしたのかは思い出せない。

 大事なことだけ、塗り潰されたように分からない。

「……夢……なのか」

 夢でも、こんなに記憶がごちゃごちゃになるとは考えられない。やはり何かが変だ。

 なんでこんなにごちゃごちゃなのだ。どうして。余計に混乱するばかりだった。

「…………」

 もう一回両手で水を集め、顔にかける。タオルで拭いて、短く息を吐く。

「……考えるだけ無駄だよな」

 幾ら考えたところで、答えは出ない。誰かに相談しようにも、頭がおかしいと思われるのが関の山だ。頭大丈夫? と言われるのはもちろん春彦だって嫌だ。

 逆に考えれば未来が分かるというのは便利だ。断片的にしか思い出せなくても、未来が分かるのだから、思い出せる範囲で思い出しておけば、きっと役に立つはずだ。

 ……だが、果たしてそうだろうか。春彦はタオルを洗濯機に入れる。

 すでにもう、記憶違いが起こっている。春彦の記憶では、母は明後日検査入院のはず。ところが、もう一昨日には母は検査入院に行ってしまっている。

 やはり、考えるだけ無駄な、夢か妄想なのだろうか。

 一度本当に病院に行こうかな、と春彦は不安になる。



 朝食を済ませ、自室から持ってきた空の鞄に青いデジタルカメラを入れる。

「ちゃんと撮れんのか、確認してくれよ?」

 秋人に指摘されて、春彦はカメラを起動する。

 電池は二本。撮影可能枚数は五百枚。

「大丈夫だ。二本あれば間に合うって」

「……まぁ、今更遅いか。撮れなかったら兄貴が「よすが」のラーメン奢る、これでいいな」

「よかねぇよ。誰が奢るか」

 春彦はデジタルカメラを鞄にしまい、秋人が窓の戸締りとガスの元栓を締めたのを確認してから、玄関に向かう。



 ☆☆☆☆☆☆



 春の緩い風。満開の桜。入学式にはもってこいの日だった。

 父兄の人達も、今日が晴れでよかったと話しているのが聞こえる。

 開始まで後二十分はあるだろうか。春彦は暇だった。

そういえば、と春彦は入学式の時に茉莉子に出会うことを思い出す。イマイチはっきりとどんな話をしたのかは思い出せない。だが、出会ったという事実だけは思い出せる。

「春彦か?」

 不意に声を掛けられる。春彦の記憶と違う事がまた起こった。

「委員長?」

 不意だったので、思わずそう呼んでしまった。春彦はハッとして口を手で塞ぐ。すでに遅いが。

「は? 誰がだ?」

 メガネは怪訝な顔をする。それもそのはずだ、メガネはまだ委員長ではないのだから。

「あ、ああ。いや、その、すまん」

「なんだ、俺が委員長になる夢でも見たのか?」

 メガネは春彦の隣に座り、苦笑する。

「まぁ、そんな所だけど……」

 春彦には不思議だった。何故こいつが来るんだ? 茉莉子はどうしたのだろうか。

「……で、お前は何でここにいるんだ?」

 春彦は聞いてみる。メガネはいや、と短く挿んでから答える。

「ちょっとな、親戚の子が入学するんだが、両親が急に来れなくなったらしい。だから俺が変わりに写真を撮ってきてくれ、と頼まれたんだ」

 メガネは懐から、黒いデジタルカメラを取り出す。

「へぇ、お互い大変だな」

「お前もか」

「ああ、弟なんだけどさ。親がどっちも来れないから、俺がな」

「そうか」

 メガネの言葉を最後に、しばらくどちらも話さない。春彦からすれば、何を話題にすべきかが分からない。友達なのだから変に気遣う必要は無いのだが。いつもは金髪も入れて三人で話すのが普通だった気がする。春彦は、こうしてメガネと二人で居るのは初めてな気がしていた。

「……あー、そうだ」

「何だ、無理して話題を出さなくてもいいんだぞ?」

「そういうなよ、せっかくなんだし。ずっと気になってたんだけど、放課後何してるんだ?」

 メガネは少し、どう話そうか迷っているように、視線を泳がせてから小声で答える。

「バイトだ」

「え? マジ?」

「ああ、家は余裕が無いんだ。だから俺も、少しでも稼がなければならない。 ……この事は、黙っていてくれ。特にあのバカにはな」

 金髪のことだ。アイツは自称「口が堅い」。

「でも、うちの学校って、バイト禁止だろ?」

 春彦の通う天星川高等学校の校則では、アルバイトは原則禁止となっている。ところが、割と何人かはそれを破ってアルバイトをしているらしい、と春彦は噂程度に知ってはいた。身近に居たとは知らなかったが。

「仕方ないだろう。学費だって満足に払えないんだ。俺の学費は俺が稼ぐしかないんだ」

 春彦はずっと、メガネの事を正直付き合いの悪い奴だと思っていた。だが、それは仕方の無いことだった。

「そうか。大変だな。 ……でも正直、お前の事は付き合い悪い奴だ、とか思ってたよ。ごめん」

「そう思ってもしょうがないだろう。俺が同じ立場ならそう思う」

「大人だなー、お前は」

「バイトしていると、何が大人か分からないよ」

 メガネは笑う。春彦にはとても同級生には見えなかった。周りが父兄ばかりなのもあって、彼が新入生の父親です、と言われても納得してしまいそうだ。

「……今度、三人で遊びに行こうか」

 メガネは提案する。春彦は頷いて同意した。

「おお、いいね! どっか行こうぜ」

「流石にまだ免許は無いが、そうだな、夏にでも真鏡湖まことかがみのみずうみに行くか」

「行って、何するんだよ」

「……そうだな。何もすることは無いな。キャンプは禁止だし、バーベキューもダメ。そもそも飲食自体が禁止だもんな」

 春彦はいまいち、どんな場所だったか覚えていないが、確かとてもキレイな場所だったことは何となく思い出せる。ゴミ一つ無く、湖面も驚くほど透き通っていたような気がした。

「お前、どれくらい忙しいの?」

 メガネは腕を組んで、一考する。

「…………分からないな。せいぜい二、三日位なら休みを取れるかもだが」

「二、三日か……なぁ、奈々枝とか茉莉子とか幸音とか誘って、ああ、後秋人もな。七人で海でも行かないか?」

「奈々枝に……何故茉莉子まで? それと……幸音」

 幸音と言う直前、メガネは一瞬だけ眉を顰めた。

「……って、誰だ?」

 メガネは怪訝な顔で首を傾げる。

 春彦はしまった、と思う。無意識の内に未来の関係と今をごちゃ混ぜにしてしまった。

「あー……すまん、幸音ってのは……弟の秋人の友達だ」

「そうか。でも、いい案だな。 ……せっかくだ、泊りがけで行こう」

「って、ホテル代なんて出せねぇよ?」

 メガネは中指でメガネを直す。

「それくらい、俺がなんとかするよ。今から貯めても、何とかなる」

「……でも……いや、じゃあ、出せる奴から集めるわ。全部お前の財布を当てに出来ねぇよ。俺もバイトして――」

「お金の件は一切気にするな。今は今しかないんだ。俺が、思い出を作りたいんだよ。これは俺の我侭だ。付き合ってくれ」

 春彦はまだ少しだけ納得できなかった。家が貧しい、そう言っていたのに。むしろそのお金は自分や家族の為に使えばいいじゃないか。

「……なぁ」

「春彦」

「え?」

「さっきも言ったが、俺達がいられるのは今だけなんだ」

「…………」

 春彦は小さく噴出す。

「かっこつけてんなー。今のお前は大人じゃねーな。分かったよ。絶対に休み取れよ!」

「ああ。だがもし――」

「バカ、絶対に、つったろ」

「そうだな。任せろ」

 メガネはすごい奴だ、と春彦は思う。自分だったらこんな真似は出来ない。ゲームや漫画の主人公。それはきっと、メガネの様な奴が一番相応しいのだろう。

 体育館内のスピーカーから、始業式が始まります、と知らされる。



 秋人を見つけ、写真を撮る。春彦はそのまま、彼女を探す。青空の青色を纏ったあの子。

 それを発見するのに何の苦労も無かった。黒や茶色、稀に染めたプリン色の様な金髪がいる中、唯一どれとも被らない、紛れようも無いその色。

 雪舞ゆきまい 幸音ゆきね。実際に話すのは、春彦の記憶では明日だ。

 でも、今日話すということも、出来なくは無いだろう。



 入学式がつつがなく終わり、新入生はしばし、体育館内で自由に来ていた親やら親戚やら、早速出来た友達やらと話している。先生が一人、行方不明になったそうだ。しかもそれ一組の担任ときたもんで、その先生が戻ってきてから新入生が退場、ということになった。

「せめて席に座らせとけばいいのに」

「まぁ、問題が無いようだし、いいんじゃないか?」

 メガネはメガネを直す。春彦は席から立ち、秋人を探す。

 秋人は幸音と話していた。

「秋人」

「あ、兄貴。ちょうどいいや、兄貴のメルアドと電話番号教えといたから」

 幸音は深々と丁寧にお辞儀をする。

「初めまして。雪舞 幸音と申します」

「ああ、宮村 春彦です。こちらこそよろしく。 ……えっと、そんなにかしこまらなくていいからね?」

 幸音は未来の記憶そのままに、ふんわりとした青く長い髪の毛を持ち、丸く可愛らしい瞳に、高校生とは思えない低身長だった。

「…………」

「……え、っと、春彦さん?」

「おい兄貴。あんまり見つめんな……って、兄貴?」

 春彦はハッとする。気づけば目の端から涙が垂れていた。

「何だよ兄貴。花粉症か?」

「いや、ドライアイだよ。 ……ともかく、よろしくな、幸音」

「はい」

 幸音は優しく笑う。

 一瞬、ほんの一瞬だけ思い出した。思い出したという表現が適切かどうかは問題ではない。

 幸音の未来。幸音がどうなるのか。春彦はもう思い出せない。だが、涙が出るほどの未来が待っている。



 ☆☆☆☆☆☆



 記憶どおりに、メガネはクラス委員長に、華舞 奈々はなまい ななえは副委員長になった。

 そして春彦の席もまた、窓際後方二番目。後ろには金髪が座っていて、右と前を男で固められた。これだけは、春彦は夢であって欲しかったと切実に思う。

 だがそれでも、完全に一致はしていない。

 奈々枝の表情がとても暗い。髪型が、ポニーテールではなく、ただ雑に髪を下ろしているだけだ。メガネはそんな奈々枝を気遣っているように見えた。

「……あいつ、奈々枝の事あんなに気遣ってたっけ?」

 委員会の役員選出が行われている最中だが、春彦は後ろの金髪に聞いてみる。

「え? おいおい、お前も聞いたろー?」

 金髪は周りを気にして、小声で話す。

「あいつ、奈々枝が好きだって」

「はぁ…………はぁ!?」

 視線が集まる。春彦は笑って誤魔化す。

「お前等、静かにしろ。文化祭実行委員。あと一人、お前がやるか?」

「い、いや、やらね! やらないやらない!」

 直後、はい、とクラスメイトの一人が手を挙げた。

 春彦はホッと、胸をなでおろす。危うく面倒な役職をやる羽目になるところだった。

「何をそんなに……」

「知らなかった」

「マジで言ってんの?」

「マジでなかったら驚かねーだろ」

 全く知らなかった。そんな素振りがあったっけ? まぁ、奈々枝は今こそ、表情が暗いが性格が悪いわけではない。メガネが気遣って彼女を立て直してやれば、きっとその恋も報われるはずだ。春彦は心の中で、メガネを応援した。



 委員決めの後は、そのまま先生の諸連絡で終わり。これもまた、春彦の記憶と違う事だった。

「…………」

 やっぱり未来の記憶ではない、というか、やはり夢なのではないか。

 所々で既視感デジャブを感じはするが、でも違う事も多い。

「春彦!」

 金髪が春彦の肩を叩く。

「ゲーセン行こうぜ!」

「タイムクラッシャーやるのか?」

「おう! スコア一位取ろうぜ!」

 これは、会話が違うが記憶通りだ。この後ゲームセンターへ行って、タイムクラッシャーというゲームをプレイする。そして、三面でゲームオーバーになる。三時間を浪費する。

 春彦は少し考えてみた。この予定を変えたら、どうなるのだろうか。

「……別なゲームやらないか? 今日はちょっと気分が乗らねーし」

「そうか? まぁ、でもゲーセン行って考えればいいか」

「おう。 ……所で、委員長は?」

 教室を見渡す。まだ何人かクラスメイトが残っていて、話をしている。

「あいつなら奈々枝を家まで送っていくってさ」

 これは違う、知らない出来事だった。

「そっか。んじゃあ、行くか」

「おう!」

 春彦は空の鞄を机の脇から取って、教室から出た。

 微妙に展開を変える事は出来るのかもしれない、と春彦は思った。



 一階の昇降口。自動販売機の前に幸音を見つけた。

「よう、幸音」

「あ、春彦さん」

 幸音はこちらに気づいて小さく手を振る。その後、屈んで取り出し口からミルクティーとお釣りを取って、財布にしまった。

「幸音も、今から帰り?」

「はい」

 金髪は春彦を後ろに引っ張り、幸音に背を向けさせ小声で聞く。

「な、なんだあの未確認新人類は!? くっそ可愛いじゃねーか!」

 小声だが、十分に幸音も聞こえそうな音量だった。

「未確認て」

「だって、だってよ、つか、お前いつの間に一年の子と知り合ってたんだよ!?」

「別に、この前の入学式の時だけど」

「え、何、何でお前居たの?」

「あの……」

 幸音は申し訳なさそうにしている。

「私、失礼しますね……」

「あ、ええっと。幸音、これから暇か?」

「え?」

 春彦の問いにキョトンとする。

「俺達これから街中行くんだけど、幸音もどう?」

「…………えっと」

 幸音は視線を泳がせ、少ししてから頭を下げた。

「ごめんなさい、すぐに帰るように言われているので……」

「そっか。悪い。 ……幸音は、いつなら暇?」

「えっと、分からないです」

「分からない?」

 幸音の家庭事情はやはり複雑なのか。記憶の通りだ。

「ごめんなさい」

「わからないんじゃ、しょうがないな。もし暇が出来たら一緒に遊ぼう」

「はい、考えておきます。では、さようなら」

 幸音は丁寧にお辞儀して、下駄箱へと向かう。

「春彦クン、随分親しいんデスネー。いいなぁ、俺も入学式行けば良かったぁ」

 金髪の嘆きを他所に、春彦も下駄箱に向かう。



 春彦達が良く行くゲームセンターは、規模とゲームの数なら市内一。都会な隣町に比べれば小さいが、それでも筐体ゲームは十分色々な種類があるし、クレーンゲームだって豊富。春彦は利用したことがないが、プリントシール機、俗に言うプリクラは隣町よりもいい物があるらしく、わざわざ隣町から来る人もいる。春彦にその違いは全く分からないが。

「さて、何するよ」

 金髪はクレーンゲームをプレイしている女子高生達を一通り見渡してから言った。彼一人でここに来ていたらきっとナンパしていたんだろうな、と春彦は思う。

「何にすっかねぇ……湾岸スピードでもやるか?」

「埋まってんぞ」

 二十歳位の男達が四台ある筐体全てを占領し、対戦していた。

「じゃあ他、なんかねーかな」

「あ、俺、上でギーマニやりたい!」

 ギターマニア。その名の通り、ギター型のコントローラーを使ったリズムゲーム。特徴は良く出来たそのコントローラーだが、その分難しい。前作のコントローラーは三つのボタンだったのだが、今稼動している物は五ボタン。単純に押す量が増えた。気軽に遊べないことは無いが、難易度は高くなってしまった。譜面も今作のノーマルが前作のハードと言われている。

 金髪はこのゲームがとても上手い。店内ランキングだけでなく全国ランキングでも上位にいるらしい。ぼんやりと、そうだったなと春彦は思い出した。

「俺は後ろで見てるよ」

「よし、じゃ上行くか」

 階段を上り、二階へと向かう。格闘ゲームが並ぶ横を通り、今日は特にタバコ臭い麻雀ゲームの横を通り、リズムゲームのある所へ。

 ギターマニアは空いていた。春彦はあまりやっている人を見た事がない。実際にその光景は思い出せないが、何となくそう思った。金髪が財布から硬貨を取り出し、ギター型コントローラーを取る。春彦は自販機の隣にある椅子に腰掛け、金髪のプレイを見物する。金髪が選んだ曲は難易度プロの楽曲。曲名は英語で春彦の知らない曲だ。

 色々な音がそこかしこで鳴り響くゲームセンターの中でも、その曲はよく聞こえてくる。画面に流れ来る譜面はあまりの速さで目で追うのがやっとだった。金髪はこの譜面を体で覚えているのだろう。目は真っ直ぐ画面に向かっていて、手は正確に画面の譜面通りに指が動いている。とても春彦では敵わないし、真似できない。

「や、春彦」

 そのスーパープレイに見惚れていると、不意に声を掛けられる。声のした春彦の右隣を見ると、そこには茉莉子が座っていた。

 三舞さんまい 茉莉子まりこ。彼女はいつの間に現れたのだろうか。春彦は驚いて目を丸くした。

「茉莉子」

「あ、覚えてる」

 鳩が豆鉄砲を食らったような顔。そんな表現がぴったりな程に茉莉子は口を開けたままキョトンとする。

「……覚えて、る」

 それが春彦にとっては最早不思議な出来事ではないが、それよりも今の茉莉子の発言が気になった。

「そうだ、お前……なぁ、茉莉子」

 茉莉子は表情を戻し、一度咳払いをしてから春彦に笑みを向ける。

「何?」

「もしかして、お前も未来の記憶があるのか?」

 ってこれじゃ電波だ。春彦はそう思い、少し顔が熱くなる。わけがわからないだろう、今の質問。

「……未来の、記憶?」

 茉莉子は一度キョトンとしてから、くすりと笑う。

「おかしなこと言うんだね」

「うぐっ」

 言い返せない。間違いなくおかしなことを言ったのだから。

「だって今お前。覚えてるっつっただろ。俺はお前に会った事が無いんだ」

 後ろの髪は短くもみ上げが長い同級生の少女、そんな奴は茉莉子位なもの。

 会った事が無いというのは、嘘、という事になるだろう。春彦の記憶では会っている。

「もしさ、私達の一生が……繰り返されるとしたら? 死んだらまた赤ちゃんからやり直しになるとして、私が、記憶を引き継いで、ここにいるとしたら?」

「はぁ?」

 荒唐無稽、わけの分からない、電波には電波ということなのだろうか。

 茉莉子は笑う。からかっているようにも見えなくは無い。春彦は彼女の真意が分からなくて、少しだけ不気味に思う。

「だから、私だけが引き継いでいるのかな? そう思ったわけ。未来の旦那様は覚えているのかな、ってね」

 春彦は開いた口が塞がらない。茉莉子は、本当に何者なんだろう。頭の中は疑問が湧き出るばかりだ。しかも春彦にはそれを完全に否定して笑う事が出来ない。春彦もまた、未来の記憶があるのだ。もちろん春彦の場合は特定の日にちまでしかないのが不思議ではあるが。

「どこまで、覚えてるんだ?」

「ふふ、さぁてねぇ。未来は知らない方がいいよ」

 春彦は口をつぐむ。確かにそう、未来の事は知らない方がいいに決まっている。それは良い事ばかりじゃないと分かるからだ。未来を知れば楽だろう、だってあらかじめ起こる出来事が分かっているのだから、対処が出来る。救えなかった未来を救える。

 だが、そう上手く出来るのだろうか。もし不可避な未来を知ってしまったら?

 その時まで、絶望して生きていくことになるだろうか。

「旦那様は、嘘だよ」

 春彦の耳元で茉莉子はささやく。

「嘘?」

「それはね」

「……未来を知っているのか? そういう超能力でもあるのか?」

 彼女は、記憶を引き継いだと言っていたか。そういう事はありえるのだろうか? そもそも人生を繰り返している、と言うのがすでに無茶苦茶な話だ。

「言ったでしょ。私は一つ前の人生を覚えている」

「わけが分からん」

「でも春彦だって、会ったことの無い人の名前がパッと出たじゃない。他にもそういうこと、あるでしょう?」

 無いわけではない。思い出せない事も沢山ある。また記憶違いもある。そして分かっているのは少し先の未来だけ。過去、ましてや赤ん坊より前なんて分かるわけが無い。

「もし何度も繰り返すとしても、覚えてないんじゃ、繰り返してないって事だろ」

「輪廻からの解脱ってさ、きっとこのループから抜け出すことだよ。でもね、春彦。私にはそれがテレビの向こう側なんだ」

 茉莉子は言っていた。テレビの向こう側を好きにならないで、と。そして、さっきの嘘と言っていた旦那様という発言。春彦はため息をつく。

「解脱した人間はいなくなる、その事に茉莉子は興味ない。そう言いたいのか? そんで、この繰り返しているのかも分からないループから抜け出して欲しくない、と。何でだ、どうして――」

「あー、春彦?」

 金髪はゲームを終えていた。

「何か……お邪魔?」

「せっかくだから私も混ぜてよ。二人より三人の方が楽しいでしょ」

「お前……」

 茉莉子は笑っている。良く分からない奴。その印象は変わる事は無かった。



 まだ三時を少し周ったくらいだが、今日は早々に解散する事になった。

「じゃあ、私はこっちだから」

 ゲームセンターから出て、茉莉子は春彦達とは反対の方へと帰っていった。

 その方向へ行くのも、もちろん記憶にはあった。

「なぁ、春彦」

「ん?」

 金髪は春彦の鞄を借りて、自分のと合わせて器用にジャグリングしながら歩いている。歩きながらで、安定して投げている。とても器用だ。

「茉莉子と仲いいのか?」

「…………」

 なんと答えるべきなんだろうか。別にとりわけ仲が良いわけではないし、かといって悪いわけでもない。

「別に、話すくらいしね?」

「うーん。茉莉子ってさぁ、何考えてるか分かんないからなぁ。俺はちょっとなー、ってだけなんだけどさ」

「話してみれば、結構普通――」

 ではない。

「――まぁ、ちょっと変わってるよな」

「アイツが友達と話してるところ見たことねーんだ」

 普段からあまり人と積極的に話すようには見えない。むしろサボって屋上にいるイメージだ。未来の記憶が、そう印象付ける。

「友達いるのか、アイツ」

「ひでぇ事言うなよ。居るだろそりゃ」

 無意識に酷い事を口走っていた。幾ら相手が茉莉子とは言え、流石に言い過ぎか、と春彦は反省する。



 ☆☆☆☆☆☆



「ただいま」

 家に帰り、居間に入る。

「おかえり兄貴」

 フリル沢山の黒いゴスロリ服に身を包み、黒髪のロングへアーウィッグを付けた女装少年が椅子に座って雑誌を読んでいた。読んでいる雑誌は大分前の「週刊少年ウェンズデー」だった。



 夕食はカレーだった。秋人の作るカレーと、有名店の美味しいらしいカレー。是非食べ比べをしてみたい、と春彦は思いながらスプーンを動かす。秋人の作るカレーはあまり辛くは無い。

「兄貴」

「ん?」

「今日は何かあった?」

 秋人はスプーンで掬ったジャガイモに息をかけて冷まし、口に運ぶ。

「ゲーセン行ってきた」

「ふーん」

「茉莉子、って同級生に会った」

「うん。で、何か言われた?」

 その一言に春彦は少し引っかかる物を感じるが、気にせず続ける。

「訳わかんねーことベラベラとな。 ……まぁ、俺もさ、未来の事が分かるとか言っちゃったから」

「バッカじゃねー。普通、そんなこと言われたら頭大丈夫ー、なんて心配されるぞ」

「アイツも大概だったけどな」

「あのなぁ……ま、いいけど、兄貴の事だし。それより、明日だけどさ」

「おう」

 春彦はスプーンでカレーを掬い、口に運ぶ。

「明日幸音と一緒に遊びに行ける様にセッティングしてやるよ」

「……幸音ってさ、家庭事情が複雑みたいで、いつ暇か分からないってよ」

 秋人はふーん、とだけ言って、カレーを口に運び、飲み込んでから話す。

「兄貴、明日は?」

「明日?」

「幸音と帰れるの?」

 春彦はスプーンを動かす手を止める。そう、明日、秋人と幸音と三人で放課後遊ぶ。

 そういう流れだった。

「俺が誘ってみるよ。多分明日は大丈夫だろ」

「秋人も、未来が分かるのか?」

 いや、と秋人はカレーを口に運ぶ。



 食後、秋人は台所で洗い物を、春彦はテレビを見ていた。

 バライティー番組が終わり、ニュースが始まる。

『こんばんは、ニュースのお時間です。 ――まず始めに、連続通り魔事件についてです。今日、午後三時過ぎに――』

 やっぱり、これはあるんだ。春彦は顔を顰め、リモコンを握る手に力がこもる。

 どうにか犯人をもっと早く捕まえる方法はないだろうか。自分に、何か出来ることは無いか。無駄だと分かっている。それでも春彦は悶々と考える。

「兄貴?」

 秋人が春彦の手に握られているリモコンを取る。

「何考えてるんだ? 話してみろよ」

「……なんでも」

「そうか?」

 春彦はふと思い出す。秋人は幸音を守れない。

「なぁ、秋人。幸音は通り魔に襲われる、って言ったら……信じるか?」

「そりゃ、可能性はあるだろうな。俺や兄貴、兄貴の友達だって可能性はある。もし母さんが帰ってきて、ちょっと買い物に出かけた時だって、遭わないとは限らないじゃん。父さんだって帰りに襲われるかもしれない」

「…………」

「幸音が襲われるんだな?」

 春彦は言い当てられた事に驚き、目を丸くする。秋人はまるで、お前の考えは手に取るように分かるぜ、とでも言いたげに笑みを浮かべる。

「……ああ。なぁ、どうしたらいい。俺は幸音を助けたい」

 秋人はテレビを消し、リモコンを置く。春彦の隣の席に座り、腕を組んだ。

「兄貴が付いていて、いざ襲われたら守ってやればいい」

「バカ、お前じゃあるまいし、通り魔なんて相手にできない」

 秋人は深くため息を吐く。目を細めて次に「バカだな」と言い出しそうだ。

「バカだな。守る、と、立ち向かう、は違うんだよ。同じにすんなって」

「でも、いざ出会っちまったらどうすればいいんだよ」

 立ち向かわずに逃げればいいのだろうか。そもそも、犯人といつ出くわすかも分からないし、顔も分からない。

「目に付く人全てを疑え、って言うのか?」

「…………」

「なんか言ってみろよ。そうなのか?」

 秋人に聞いて、答えを貰えるとは春彦も思っていない。だが自分さえ、何も思いつかないことに少しずつ苛立っている。春彦の右足が貧乏ゆすりをする。秋人はそっ、と春彦の貧乏ゆすりをする足に手を乗せる。秋人は春彦の目に真っ直ぐな目を向ける。

「助言するのは簡単なんだけど、もし、俺の助言で失敗したら俺のせいか?」

 春彦はその問いに返せない。秋人から助言を受けて、春彦が実行し、もしそれで守れなかったら。その時春彦は秋人を責めるだろう。何の案も出せなかった自分を棚に上げ、お前の助言が外れたせいだ、と激怒する。まるでそんなことがあったかのように、春彦は思い、奥歯を噛む。

「もっと、もっと単純な方法でいいんだ。変に気負うな」

 単純な方法。

「…………幸音がさ、あぁいや、幸音が……なんて言えばいいんだろうなぁ……」

 頭の中で思いついたのだが、言葉に出来ない。春彦は頭を掻く。

「朝……俺と一緒に登校して、帰りも一緒に帰れば……よくね? それなら大丈夫かも」

 言葉にしてみればやっぱり単純だった。むしろ馬鹿馬鹿しい。結局、秋人が言ったとおりだ。春彦が出来る限り幸音の側に居て、いざという時に守る。それだけだ。

「幸音が良ければ……だけど」

「まぁ、幸音本人に「その内通り魔に襲われるから守ってやるよ」とか言うよりはいいんじゃね」

「でもさぁ。一応幸音とは今日会ったばかりじゃん? 明日いきなり「明日から一緒に登校しようぜ」とか言って、OKしてくれるかな?」

 秋人は春彦の足から手を退ける。足の貧乏揺すりは収まっていた。

「大丈夫」

「何を根拠に」

「大丈夫だって」

「だから――」

「だーいじょーぶだ、って」

 秋人は歯を見せて笑う。何の根拠も無い、春彦には不安しかなかった。



 ☆☆☆☆☆☆



 一時限目、二時限目と淡々と流れるように過ぎていく。

「シャー芯が無い……」

 ああそういえばこんなことがあったような、と春彦はため息を吐く。後ろの席に座る金髪は確か鉛筆の気分だ、とか言っていて芯はおろか、シャープペンシルすら持ってきていないはず。

 確か奈々枝に芯を貰ったはず。だが、二つ前の席で顔を伏せている奈々枝に話しかける気にはならない。心配ではあるが、春彦にはどうしてやる事も出来ない。メガネは教室の中にはいない。詰んだ、と春彦はもう一度ため息をついた。

「どーしたー春彦ー」

 後ろから気の抜けた声がかかり、春彦は振り返る。眠そうな目の金髪は欠伸をして、声だけでなく全身の気が抜けていた。

「いや、ちょっとな」

 記憶通りではないことが起きているのも事実。春彦はシャープペンシルを金髪に見せる。

「シャー芯が切れちゃってさ」

「あー。2Bならあるよ」

「え?」

 決して金髪が文房具を持って来た事だけに驚いたのではない。シャープペンシルの芯を持っていた事に驚いたのだ。だって春彦の記憶では、金髪はシャープペンシルの芯を持っていないはずだったからだ。記憶とは違う出来事だ。

「……俺がちゃんと文房具を持ってきてることに驚いてんの?」

「い、いや、それもあるけど」

 春彦はホッと胸をなでおろす。ボールペンでノートを書いてもいいが、失敗した時が怖い。ただでさえ汚いノートがさらに汚くなるのは困る。金髪は筆箱から円柱状の芯ケースから二本出して、春彦に渡す。

「さんきゅ」

「どーいたしまして。それはそうと、奈々枝。元気ねーな」

 金髪は少し身を乗り出して奈々枝の様子を窺う。

「なぁ」

「ん?」

「奈々枝ってさ……去年からああだったのか?」

 金髪は腕を組んで、思い出そうと唸る。しかし。

「うぅーーん……わからん」

「クラス違うんだっけ」

「俺とお前は一緒だろぉ。アイツは一組の委員長やってたのは知ってるけど、あれじゃあどう考えても無理だと思うんだけど……」

 押し付けられたのだろうか。そう考えれば納得出来るか、と春彦は思う。

「……あれ、一年の時ってさ、委員長は一人なんだっけ?」

「ああ、二年だけが二人。一年と三年は一人ずつだ。って、春彦大丈夫か?」

 春彦の中で、それがどうしても引っかかっていた。そうだっただろうか、二年のときだけ二人、なんてことは無かったような。ぼんやりしていて妄想なのか事実なのか、今目の前の出来事に合わせるなら、春彦のこの引っかかりの方がおかしい。だが、何でもないと言うにはその引っかかりは大きかった。

「委員長や副委員長って役と縁無いからさ。ついつい忘れてたわ」

「ま、そーだよなー。いーんちょーみたいなガリ勉メガネ君なら立派に勤まるんだろーけど、俺達みたいなんじゃあ、役不足だよなー」

「それ、使い方間違ってんぞ」

「え?」

 金髪はぽかんと口を開けて固まった。



 三時限目の国語での睡魔との決戦は春彦の勝ち。なんとか凌いだ。

 次の時間は化学、化学室で授業する。欠伸を一つしてから次の用意をし、後ろで寝息を立てている金髪を叩き起こす。ふがっ、と間抜けな声がしたが、すぐにまた寝息がする。春彦は放っておく事にして、教室から出る。

「や。春彦」

 春彦が階段を下りようとした所で声を掛けられる。声のした方を向くと、茉莉子がこちらにヒラヒラと小さく手を振って歩いてきた。

「移動?」

「ああ、化学室」

「ふーん」

 さほど興味なさそうに相槌を打ち、茉莉子は上り階段に足をかける。

「茉莉子は?」

「屋上」

「サボりかよ。いいなぁ」

「サボりじゃないよ。こっちは自習なの」

「だからって屋上に行くか?」

 ふふっ、と茉莉子は笑って、そのまま階段を上っていった。

「待ってくれよ、春彦!」

 階段を降り始めるた所で、後ろから慌てた金髪がやってくる。

「起こしてくれてもいいじゃん!」

「起こしたよ。起きなかったけど」

 この後、化学室ではやはり自習となった。



 ☆☆☆☆☆☆



 放課後、昇降口で春彦は秋人と幸音を待っていた。金髪にまたゲームセンターに行かないかと誘われたが断り、メガネにも仕事を頼まれたが断った。後者は流石に断りにくかったし、断ってしまった今は少し心が痛む。だが、ダメ元で幸音にあの提案をしてみなければならない。昨日考えた「一緒に登校して一緒に帰ろう」という提案。もちろん、というか、確実に良くは思われないだろうとは容易に想像がつく。けれど、通り魔から彼女を守るにはこれしか春彦には思いつかない。もっといい方法はあるのだろうが、思いつかないのではどうしようもない。

「兄貴、待たせたな」

 秋人と幸音がやってくる。幸音は礼儀正しくお辞儀する。

「こんにちは、春彦さん」

「ああ、こんちわ」

「早速だけど、俺、呼び出されちまった。病院行くから」

 母親からの呼び出しだと春彦は察する。しかし呼び出しが来るのが早いのが気になった。

「用件は?」

「急に昔読んだ本が読みたくなった、ってさ。冊数はそんなに無いけどな」

「そっか。わかった」

「じゃ、そういうことだから。幸音、バカな兄貴だけど、いい奴だから」

「一言余計だ」

 秋人は靴を履き替えて先に帰っていった。残された春彦と幸音は、お互いに会話が切り出せずにいた。春彦としては早々に提案を出してもいいが、いきなりそれは、と躊躇する。

「……えーっと、とりあえず……昼飯でも食いに行く?」

「ええ、そうですね」

 幸音は自分の下駄箱から靴を出して履き替える。その姿は一見普通の光景に見える。だが、その青い髪の毛だけが現実感を感じない。

「幸音」

 春彦が名前を呼ぶと、幸音は振り返り、首を傾げた。

「はい?」

「幸音の髪って、地毛?」

「はい、生まれつきです」

「そうなんだ。珍しいよな」

 失礼な発言ではないかと、首の後ろに僅かに汗が流れる。

「入試の面接でも、染めてるの、って聞かれました。生まれつきです、って言っても中々信じてもらえなくて大変でした」

 笑いながらなんでもないように幸音は話すが、大変だったのは入試だけの話ではないだろう、と春彦にだって容易に想像がつく。それに対する人々の目。それは好意的なものより、もっと悪意に満ちたものの方が多かっただろう。彼女の過去についてはあまり詮索してはいけないな、と春彦は思う。きっと興味だけで聞いていい話ではない。

「でも……似合ってる。俺は可愛くていいと思うぞ」

 精一杯のフォローのつもりだった。これで少しでも喜んでくれたらいいが、と春彦は願う。

「ありがとうございます」

 幸音はふわり、そんな風に素敵に笑う。春風の様な優しい笑顔で、向けられた春彦の顔がカァッと熱くなり、少し顔を逸らした。

 ヤバイカワイイ、と、その台詞が胸中をトランポリンで弾むように飛び跳ねる。

「ま、まぁ、それはいいとして――何か食べたい物とか、あるか?」

 あからさまに話題を変えた。

「春彦さんにお任せします」

「お任せされてもなぁ……」

 春彦は女の子と外食なんてしたことがない。未来の記憶ではファストフード店に行くようだが、やはりそれはどうなのか。幸音のような子が行く所とは(失礼だが)思えない。かといって、どこか当てがあるかと言われれば、無い。ラーメン屋「よすが」は臭いがヤバイ。そもそも女性がいた事があっただろうか、いや無い、と曖昧な過去の記憶でも春彦は断言できた。

「春彦さん、私、スーパー以外のお店や場所に行った事が無いのです。できれば、駅前のアーケード通りの方を見て歩きたいな、と」

 そう、そういえばそうだったと春彦は思い出す。幸音は今まで学校とスーパーと家以外の場所に行った事が無い。そういう話だった。

「……ファストフードなんか、食べたこと無い?」

「はい。一度食べてみたいな、とは」

「じゃあ、そうするか。幸音、お金は?」

 幸音は鞄の中から財布を取り出し、中身を確認する。

「千と、五百円です」

「ハンバーガー一つ奢るよ。初ファストフード記念だ」

「え、そんな! 悪いですよ!」

「気にするな」

 どうせ安いハンバーガーで済ます予定だ。昇降口を出て、真っ直ぐ校門を抜けて緩やかな坂道をずっと下っていけば駅前。Mの付くファストフード店はアーケード入ってすぐ。



 少しアーケード通りを外れれば、同じ名前の空いている店がある。だがやはり、記憶どおりに同じ店に行くより、何か変化を付けたい。そう思ってアーケード通り内のファストフード店を覗いたが、考えが甘かったと強制的に実感させられたのであった。学校は午前授業で終わりなのだから、こういう店は混む決まっていた。結局記憶どおりの、アーケード通りから少し外れた店に入った。ここはここで、静かでいい。昼時で多少客は多いが、大体一人か多くて春彦達の様な二人。向かい合うようにテーブル席に座る。

「とりあえず、適当に注文してくる。幸音は? 自分で注文するか?」

「ええっと、何があるのか分からないので、おまかせしてもよろしいですか?」

「分かった。何か飲みたいものある?」

「フルーツ系の飲み物をお願いします」

 OK、と返事をして財布を鞄から出してカウンターへと向かう。

「いらっしゃいませ」

 店員さんの笑顔はお面のようだが。春彦は自分の分と幸音の分の注文を済ませてカウンターの前から退ける。昼飯という事でベーコンチーズバーガーを選んでみた。飲み物は春彦がコーラ、幸音は白ブドウジュース。オレンジは品切れ。ポテトはMサイズ。

 二つのトレーに注文した物が並べられ、それを持って席に戻る。

「この緑の袋に入っているのが」

「ベーコンチーズバーガー。あ、脂っこいのはダメだった?」

「家では基本的に薄味が好きな人が多いので、あまり脂っこい食事はとったことが無いです」

 幸音は緑の包み紙を開けて、中のベーコンチーズバーガーとご対面する。

 春彦も包み紙を開けて、ベーコンチーズバーガーにかぶり付く。決して不味くは無い。しかし、ベーコンにかけたであろうコショウの塊があった。辛い。申し訳程度のレタスも、今日は萎びている気がした。幸音はこれを美味しいと思うか、春彦は心配でならなかった。

「幸音?」

 幸音はまだ一口も食べておらず、まだベーコンチーズバーガーをじっくりと観察していた。

 春彦が声を掛けて、ようやく一口食べる。もぐもぐと小さな口と頬が動く、小動物のようだった。

「…………けほっ。 ……脂っこいですね。でも、美味しいです」

 コショウでむせたのだろうか、それとも脂っこさか。どちらにしても微笑みは本物だ。彼女は多分喜んでくれた。それだけで春彦は救われた気持ちになる。

「うーん、すまん。やっぱ、もちっと洒落た店でも知ってればよかったんだけど」

 幸音はもう一口食べて、きちんと口の中の物を飲み込んでから、気にしないでください、と話す。

「むしろ、こういう普通のお店に行ってみたかったんです。お洒落な店とかより、普段普通の学生さんが行くような所、そういう所に行ってみたかったんです」

「……やっぱ、幸音の家って、厳しいんだな」

「そんなことはありません。両親は私が心配で、外出を控えるようにと言ってくれていただけで。私自身、今の家族に心配はかけたくありませんから」

 今の、という言葉に引っかかるが、春彦は聞き流す。恐らく聞いてはいけない、超えてはいけないラインだと思うからだ。それと同時に、今がチャンスに思えた。提案をするチャンスだ。早いだろうか? どうだろう。少なくとも春彦自信はチャンスに思えるのだ。

「……よしっ」

「?」

 幸音はもう一口、食べて咀嚼しながら小さく首を傾げる。

「幸音、あのさ」

 行き当たりバッタリ。チャンスだ、言え! そう思うばかりで話を組み立てていなかった。バラバラの言葉を脳内で制限時間の短いパズルとして慌てて組み立てる。時間稼ぎにコーラを飲んだ。ゲップの心配など思いつきもしない。

「明日から、一緒に登校しないか? 時間決めてさ。後、帰りも、幸音と一緒に帰りたい。 ……あー、その。ぅーん……幸音が、良ければ」

 心臓がバクバク。首の後ろと額にうっすら汗をかく。己のヘタレ具合に顔が熱くなる。

 幸音はジュースを飲む。その頬は少しだけ紅潮していた。

「…………はい」

 そのはい、は何のはいだろう。なんだろうこの雰囲気は。そして春彦の胸中はお祭り騒ぎ。

 告白でもしたような。それに肯定されたような。とてもこの店にふさわしくないような甘ったるい雰囲気だった。

「は、はは。じゃあ、何時にする? 朝の待ち合わせ。と、そうだ、メルアドと電話番号交換しとこう。幸音、携帯は?」

 捲くし立てるように言ってしまって、ちゃんと伝わったかも怪しかった。幸音はハンバーガーをトレーに置いて、鞄から携帯を取り出す。ピンク色の小さな折りたたみ式の携帯電話だ。

「あ、あの。私、アドレスの交換、したことないんです。やってもらっていいですか?」

「ああ、分かった。貸して」

 幸音から携帯電話を借り、春彦宛てに空メールを作成する。他人の携帯は勝手が分からないから操作に少し手間取るが、基本は一緒。電話番号だけを入力したメールを春彦の携帯に送信し、幸音に携帯を返した。手汗は大丈夫だろうか、と春彦は密かに不安だった。

「これで、送れたんですか?」

「うん。来た。 ……送信ボックスってとこに俺が送ったメールがあるから、それの宛て先を登録してくれ」

「はい。あ、電話番号は?」

「……すまん。今来たメール返信するから、それに書く」

 春彦は自分の携帯の受信ボックスを開く。今着信したメールに電話番号を入力して送信する。それから、忘れない内にアドレスと番号を登録する。

「……あ、来ました。後はこの番号を入力して……はい、これで大丈夫ですか?」

 幸音は携帯の画面を春彦に見せ、春彦はアドレス帳への登録内容を確認する。

「うん。問題ない」

 笑って頷く。幸音は嬉しそうにしばしの間画面を見つめていた。やがてたどたどしい操作を始める。春彦はポテトを摘んで口に運ぶ。今日のポテトは少し塩が濃い。

 ヴヴヴ、と携帯が振動する。秋人からだろうか、それとも母親か金髪かメガネか。と相手を一通り予想しつつ携帯を開く。宛て先は予想のどれでも無く、目の前の幸音からだった。

 

 よろしくお願いします。


文末に猫の絵文字が付いていた。

 春彦は携帯の画面から目の前の幸音に目線を移す。幸音はえへへ、と笑っていた。

 目の前にいるのに、メールなんか使うなよ。と言いたかったが、飲み込んだ。彼女にとって初めてのメールのやり取りなんだ。気分を害するかもしれないことを、わざわざ言ってやる必要はない。春彦は、こちらこそ、とだけ入力して送った。



 ☆☆☆☆☆



 アーケード通りを二人でブラブラする途中、春彦はふと浮んだ疑問を幸音に話す。

「幸音、今日は早く帰らなくていいのか?」

「あぁ、はい。大丈夫です」

 ふぅん、とあまり興味無さそうに返すが、春彦としてはもう少し深く聞きたい。別な質問から話すように誘導してみるか、とも考える。しかしそれは何かいやらしい気がして、やめた。

「…………」

「…………」

 しかしどうにも、二人の間には会話が少なかった。春彦の脳はフル稼働しているが、相手がお嬢様っぽいところがあって、切り出す以前に話題が無い。

「……春彦さん」

 幸音の方が先に切り出す。

「ああ、何?」

「昨日はごめんなさい。用事という用事でもなくって、あの時も言った通り早く帰るように言われていただけなんです」

「そうなんだ」

 月並みだが、それ以外に返す言葉が思いつかない。

「中学の時なんて、全然家から出してもらえなくって。ずぅっと家で読書か勉強ばかりしていました」

「……なぁ、言いたくないなら言わなくっていいし、その、家族を悪く言う気はないんだけど。厳しすぎるだろ? 幸音は何も言わなかったのか?」

 それどころか、まさか小学校の時もそうだったのだろうか。ずっと、学校以外はどこへも行かせなかったのだろうか。もはやちょっとした軟禁状態じゃないだろうか。春彦の中で少し、幸音の家族に対する怒りが湧いていた。幸音は困ったようにはにかんで、いえ、と呟いてから続ける。

「言う事が、ありませんでした。ちょっと重い話なんですよね。 ……その」

「いいよ。話さなくって。 ……でもさ、何か抱えてるなら相談して欲しい。俺だけじゃなく、秋人だって頼りになるしな」

 ズキッ。胸が痛んで、その痛みを吐き出すように春彦は続けた。

「――でも、できることなら、俺を頼ってくれ」

 往来で何、恥かしげも無く言っているんだろうな。春彦はちょっと背中がむず痒くなる。だが、幸音の未来を思い出すと、少しでも頼って欲しかった。

「……じゃあ、言いたくなったら、言っていいですか?」

「ああ。聞くしか出来ないだろうけど」

「いえ、それで十分ですよ」

 幸音はふわり、とまた笑った。でも少し、影が差していた。

「……あ、あそこのお店。寄ってもいいですか?」

 幸音は少し先にある、小さなアクセサリーショップを指差した。そこはあまり自己主張していない、小さな店だった。看板も何も地味で、幸音に指されなければ春彦は気づきもしなかった。

「いいよ」

 店の扉は開いていた。中は奥行きはあるものの、狭い。横に並んで立つ狭い。カウンターの女性はニコリと笑って、いらっしゃいませ、と言った。机に並んだ指輪やブレスレット、壁に掛かったネックレスやペンダント。シンプルな物からゴテゴテとした派手な物まで、狭いながらに種類は豊富だった。実際これで数は少ないのだろうけれど、普段こういう店に縁の無い春彦には十分豊富に見えた。

「春彦さん、これ。猫さんです」

 幸音が手に取り春彦に見せたのは猫をモチーフにした髪飾りだった。

「かわいいな。付けてみれば?」

 幸音はいえ、と少し恥かしそうに笑って、元の場所に戻す。指輪の沢山入った箱に春彦は目をつける。売れ残りか在庫処分か、沢山の指輪が箱に入っていた。箱から伸びるクリップの先には「この中百円!」と書かれた紙が挟まれていた。その中の指輪を適当に漁ってみる。ドクロっぽい形、蔦の様な形、鳥の羽の様な形。質は春彦が触ってもあまりいい物ではないと分かる。安いくず鉄ってこんなのかな、と特に理由も無くそう思った。

「これ、可愛いですね」

 幸音が箱の中から見つけた二つのリング。細かい星が幾つも刻まれた小さな指輪。

「すいません、この指輪ください」

 二つの指輪を持って、幸音はカウンターへと向かう。

「二百円になります~、あ、袋分ける?」

 フレンドリーでほんわかした女性は幸音に聞く。

「お願いします」

「うん。 ……あ、そうだ。これ、彼氏にあげるんでしょ? チェーン付けてあげるよ~」

「彼氏!?」

「…………」

 幸音は大きな声を出して驚いていたが、春彦からすればそれは十分想定の範囲内だった。兄妹にはまず見えないだろうし、友達か、でもやはり彼氏彼女と思われるだろうな、とは思っていた。予想通りになったわけだが、やはり少し照れくさい。別に付き合っているわけじゃないし。

「付き合ってませんよ」

「そう? そー見えたけどねー」

 くすくすと笑いながら指輪にチェーンを通す。チェーンの端と端を繋いで、女性は春彦を手招きする。カウンターに行くと、女性は春彦にネックレスになった指輪を渡す。

「大事にしてね。あんまり質は良くないけど」

「あ、ありがとうございます」

 一言余計だ、は飲み込んだ。幸音は少し照れているのか視線が下がっている。

「はい彼女。指にはめてく?」

「あ……はい。あの、春彦さん」

 幸音は指輪を受け取って春彦に差し出す。上目遣い、紅潮した頬。差し出される指輪と手。春彦は顔も体も熱くなる。隣で見ているカウンターの女性はニコニコと、微笑ましいなぁ、と言わんばかりに見ている。

「あ、後で……いいか。覚えとくから」

「そ、そうですよね! ごめんなさい……」

 ボソッ、と女性は「残念」と呟いた。



 アーケードの中は学生と、若者、セレブっぽい主婦達が歩いている。時間もいつの間にか二時半。ただ二人の間に会話は無い。春彦は相変わらず話題を探して目線も首も落ち着かない。その中、ふと目に留まったところがあった。記憶にもあるあの場所、春彦にとり唯一の場所。

「幸音」

「……え、はい?」

 幸音はボーっとしていたのだろう、少しだけ間を空けてからハッと顔をあげた。

「ゲーセン寄ってくか? あれ、取ってやるよ」

 丁度出てきた学生たちが持っている黄色い電気ネズミのぬいぐるみを指差す。

「え、そんな、いいですよ」

「指輪のお礼だ」

 春彦は幸音に促し、ゲームセンターへと入っていく。



 ☆☆☆☆☆☆



 今日は、今回は調子が良かった。肩慣らしの小さなテディベアも一回で取れた。財布をいためずにお礼が出来てよかった。

 幸音の家は町外れの立派な一軒屋だった。モデルルームではないかと思ってしまうくらい綺麗な、少し不自然さを感じる家だった。門の前で幸音はお辞儀をする。

「今日はありがとうございました」

「いやいや。俺の方こそ、楽しかった。 ……それで、その。指輪。貸して」

「え? ……ああ! あぁいや、いいですよ。その、無理しなくて」

「無理じゃない。俺なんかで悪いけど。指輪をはめさせてくれ」

 言っていて恥かしい。今すぐに逃げ出したい、この場から去りたい。そういった後ろ向きの気持ちを必死に抑える。

「じ、じゃあ」

 幸音は門の前に電気ネズミのぬいぐるみと鞄を置く。制服のポケットから指輪の入った小袋を取り出して中から指輪を取り出す。それを春彦に差し出した。

「…………」

 差し出された指輪を受け取る。だが、どの指にはめるべきなのだろう。どの指がどういう意味か、春彦は知らない。

「春彦さん?」

 差し出された左手を取る。小さくて暖かい。少しだけ手汗をかいていた。それは春彦も同じだった。

「どこがいい?」

「え?」

「どの指が、いい?」

「えっと……」

 幸音は遠慮がちに、恥かしそうに言う。

「薬指で、お願いします」

 春彦の心臓はこのまま突然停止してもおかしくない程に高鳴っていた。思えば、全然女子に免疫がないのに、指輪をはめるなんていきなりハードルが高すぎる。そもそもこれは友達レベルですることだろうか? 余計な思考が湧き始めて集中できない。

 ゆっくりと、幸音の細い薬指に指輪をはめる。少しだけ、サイズが小さいようだった。

「…………」

「…………」

 幸音はしばらく指輪を見つめていた。春彦の気持ちはそわそわと、落ち着かない。落ち着けるわけがなかった。

「ありがとうございます……!」

 幸音は深々と頭を下げた。顔を上げ、その目の端には少し、涙が溜まっているようだった。

「あ、ああ。そうだ、明日、どうする? 何時に待ち合わせるか」

「幸音」

 ガチャ、と家の扉が開く。中から出てきたのは春彦よりも年上の男だった。体格がよく、キリッとした顔立ちは女性受けが良さそうだ。

「あ、義兄さん。えっと、こちら、先輩の宮村春彦さんです」

 義兄さんと呼ばれた男は門を開け、幸音の隣に並ぶ。黒い髪の彼は、とても幸音の兄妹とは思えなかった。

「君が春彦君だね。幸音から話は聞いています。義理の兄の雪舞ゆきまい 龍也たつやと言います。義妹がお世話になってます」

「ああ、どうも……」

 義理と聞き、春彦は納得する。社会人だろうか。それとも大学生か。どちらにしても、一見した印象は良い。幸音の行動を制限するような事をするとは思えない。

「なんだか、色々と良くしていただいたようで」

 龍也はチラと門の前の電気ネズミを見た。

「これからも、仲良くしてあげてください」

 深々とお辞儀され、春彦は頭をかいた。お辞儀は彼譲りなのだろうか、それとも家の教育か。

「それでは、春彦さん。明日の予定は後でメールで。私も、メールの練習をしたいので」

 幸音は微笑んでお辞儀し、門の前の電気ネズミと鞄を取って家の玄関を開けて中へ入っていった。幸音が家の中へ入ったのを確認して、龍也は真剣な面持ちで春彦に問う。

「春彦君、君は幸音、彼女をどう思う」

 え、と春彦は一瞬質問の意味が分からなかった。考え直しても、やっぱり分からない。

「どういう意味ですか?」

「君は幸音をどう思う? そのまんまの意味だ。正直に答えてほしい」

 義理とは言え兄、ひいては家族だからこその心配なのだろう。春彦はハッとした。幸音の言いたくない過去って言うのは、髪の色に起因する「いじめ」なのではないか。邪推かもしれない。だけれど、だからこそこの質問をする意味が理解できた。龍也は幸音を心配している、また、髪の事でいじめを受けるのではないか、と。だからこんな質問をしたのだ。

「……別に。可愛い、いい子だと思います」

「そうか。 ……」

 龍也は目を細める。見定めるように、キツイ眼差しを春彦に向ける。

「君は、春彦君は、彼女を救えるか?」

 幸音はまだ、過去から完全に立ち直ったわけではないのか。義兄である龍也では今の幸音にすることが精一杯だったのだろうか。だから、きっと賭けようとしている。勝手な思い込みだが、春彦はそう飲み込んで、答えを頭の中で作る。

「わかりません」

 スッと出た最初の言葉はそれだった。そして続ける。

「でも、力になりたい。救えるなら、救いたい。後悔したくありません」

 迷いも躊躇も、春彦の心にはなかった。



 ☆☆☆☆☆☆



 悶えるほど恥ずかしがるなら言わなければいいのだ。最も、今の春彦には手遅れだが。

 帰り道も、家に着いた時も平気で、夕食を食べている時に秋人に今日の話をしても何ともなかったのに、いざ食後、幸音のメールを待っている時に一気にこみ上げてきた。最初は居間でテレビを見ながら待っていたが、そわそわして落ち着かなくなり、自分の部屋に逃げてきた。そわそわ、そわそわ。落ち着かない。ギィと突然入口が開き、春彦は思わず身構えた。

「兄……なにしてんの」

 ツインテールの秋人が怪訝な顔をして春彦にジトッとした視線を向ける。

「い、いや。メール待ち……」

「誰からのメールだよ」

 入ってきた秋人は自分の鞄からプリントの入ったクリアファイルを取り出す。少し丈の短いスカート。その下からチラ見せスパッツ。

「幸音からだよ。明日のことで」

「ほー。約束できたのか」

「だから、その約束を取り付けるためのメールだよ」

「ふーん。 ……なぁ、幸音って携帯使えるの?」

 秋人に言われて、春彦は考える。もしかして、遅いのは手間取っているからか?

「別に難しいわけじゃないし、すぐに送れるはずだけど……」

「文面、考えてるんじゃない?」

「……ああ、あるかも。練習も兼ねる、見たいな事言ってたしなぁ。こっちから送ってみるか」

「最初からそうすりゃいいのに」

 くくっ、と秋人は笑う。

「うっせぇよ」

 携帯を開き、メールを作成する。まず件名をどうするか。春彦はまず「明日の予定」と入力してみる。だが、これだと何だか催促しているような気がした。件名を消して、今度は「起きてる?」と変えてみた。

「件名なんて適当でいいだろ」

 秋人が携帯の画面を覗く。

「そうだけどさぁ」

「いっそ、件名、何も書かなければいいじゃん。別に困らないだろ?」

「うーん。そういうもんかなぁ……」

 とりあえず、秋人の言うとおりに春彦は件名を白紙にする。次は本文だ。でもこれはそのものズバリでいい。

「明日、何時に、家、出るの…………」

 春彦はふと、これから起こる出来事を思い出せるだけ思い出してみた。

 そういえば、明日の夕方、奈々枝と一緒に電車で隣町のゲームセンターへ行く。帰り際、ゲームセンターの近くで通り魔事件が起こる。そして帰りの電車の中、乗り合わせた乗客全てが疑わしく見えるのだ。もしその時に本当に犯人が一緒に乗り合わせているとすれば、明日の夕方以降、幸音が狙われるようになるはず。もちろん、春彦自身も狙われる危険があるが。携帯の画面が消える。明後日の夜に――ここは曖昧だが――幸音とメールをしたような気がした。

 春彦は思い出そうとするが、どれだけ思い出そうとしても、過去の記憶と同じ様に全く思い出せない。しかたなく、とりあえずメールをすると言う事だけを頭に置く。そしてそのメールをした日の翌日か二、三日後に幸音は通り魔に襲われる。所々ぼんやりしているが、十分に思い出せた。

「……これでいいか。なぁ――」

 秋人に見てもらおうと思ったのだが、もう秋人は部屋から居なくなっていた。春彦はもう一度携帯の画面に映る文面を見て、別に見せるほどではないか、と軽い気持ちで送信した。携帯を閉じて、ベットに横になる。枕元に携帯を置いて、手近な漫画を取る。

 パラ、パラ。パラ、パラ。それはギャグバトル漫画。普段の春彦なら笑いを堪えられずにはいられない。そわそわして落ち着かず、漫画を読んでも絵も会話も内容も入ってこない。春彦は今の自分がいかに異常な状態かを何となく自覚した。異常、とは少し言葉が大袈裟かもしれない、漫画のキャラのボケツッコミより、そのことで春彦はくすりと笑った。

 ヴヴヴ。携帯が振動し、メールか着信かを知らせてくる。春彦は漫画を置いて、枕元の携帯を取って画面を開いた。

『明日、八時には家を出ます』

 文の最後に可愛らしい猫のマークが付いていた。

『わかった、それ位の時間に幸音の家の前で待ってるよ』

 送ろうとして、一瞬躊躇う。春彦がこの文を貰ったらきっと怖い。

『わかった。後、どこで待ち合わせようか?』

 これの方がいい、と心の中で頷き送信する。少なくとも、明日の夕方以降通り魔が現れるなら、明日はどこで待ち合わせても大丈夫だろう。けれど、一応念の為にネット上のニュースを確認しておく。今日もまた一人、犠牲者が出ていた。場所は隣町。まだ犯人は隣町にいる。

 今日移動したかもしれない。頭に過ぎるそれは考えたくないことだった。全てが全て、記憶通りに起こっていない。春彦自身が変えたことではなく、起こるはずの出来事が別の形で起こったり、奈々枝のように全く正反対になっている事もある。漫画を読み返すわけでも、ゲームを一から始めるのとも違う。ともかく、できるだけ考えないように努めることしかできない。



 ☆☆☆☆☆☆



 言うなれば暗いイメージだ。

 自分の周りの人間は皆黒い影で、ボソボソ、ボソ、ボソボソ、と何かを呟く。

 しかし俺は何も感じない。特に理由も無く、何も感じない。



 ☆☆☆☆☆☆



 暗い暗い夢を見て目が覚めりゃ歌舞伎メイクで、春彦に秋人を殴らない理由は無かった。

「おぉ、いってー。なぁ兄貴、幾らなんでもさぁ、あんなに強く殴ることないだろ? 顔を洗えば簡単に取れるし」

 秋人は殴られた右頬を摩りながら言った。

「…………」

 ギロリ。春彦が睨む。秋人はへへッ、と苦笑いを浮かべた。

 テーブルの上に並んだ朝食は、梅干入りおにぎり二つにししゃも二尾。豆腐とさつまいもの味噌汁。急におにぎり作りたくなったんだぁ、と秋人は言っていた。殴られる直前に。

「……弁当は台所にあるから! 先行くよ! じゃあな!」

 秋人は逃げるように出て行った。家の中はとても静かになる。黙々と朝食を取り、朝からくだらない事をしたなぁ、とクールダウンする。あまりに見事な歌舞伎の隈取。何かを参考にしたのだろうか。ふと、今日の新聞の間からちょこっとはみ出している紙に目が行く。おにぎりを片手にそれを引っ張り出すと、二年前に公民館で行われた歌舞伎のチラシだった。紙の感触からコピーした物だと春彦は思う。わざわざ春彦の顔にいたずらする為だけにコピーしたのだろうか。ご苦労なことである。


 弁当は忘れず持った。家の戸締りは問題ない。春彦は鍵をポケットにしまい、通学路を歩く。

 今日は少し肌寒い。風が冷たいのだ。太陽の光の暖かさだけならポカポカ陽気で済みそうなのだが。桜の花びらが風に乗って、舞い踊っている。入学式の時は桜の花びらが紙吹雪のように散っていた。桜の木に咲いた花を見れば、まだまだしばらくの間は咲いているだろうな、と何となく思う。

 大通りに出て信号を二つ超えれば、広い交差点に着く。待ち合わせ場所はここだ。

 辺りを見渡すが、まだ幸音の姿は無い。

 しばらくして、春彦は一抹の不安を感じる。まさか、もうすでに?

「春彦さん!」

 声のした方を見て、春彦は小さく安堵し、ホッと息を吐いた。

「春彦さん、おはようございます。待ちました?」

「いや」

 携帯で時間を見てみれば、丁度待ち合わせの時間ピッタリだった。春彦が着いてから殆ど時間が経っていた気がしない。

「俺も今来たとこ」

 デートで言いたかったかもしれない。のんきに春彦はそう思う。信号が青になったのを見て、二人は歩き出す。信号を渡ったところで突然幸音は人差し指を立てて春彦に質問する。

「春彦さん。春彦さんの星座、何座ですか?」

「は? なんだいきなり」

「今日の朝の占いです。私は乙女座で、三位でした」

 テレビでやっている星座占いの話だった。

「ええっと…………うーん。 ……わかんないな」

「じゃあ、誕生日教えていただけませんか? それで分かるので」

「誕生日? えっと、一月の……二十九日」

 誕生日がスッと出てこない。過去の記憶が曖昧なせいではもちろんないが、春彦としては一緒にしたい。

「水瓶座ですね。えっと、確か水瓶座は……五位でした」

「五位かぁ。なんか微妙だな。おみくじの吉みたいな?」

「ある意味一番いいですよね。普通くらいが丁度いいですよ」

「それは同感だな。平穏無事に過ごせるっていうんなら、それ以上――」

 五位、その微妙だが、少し安定した地位に春彦は祈る。無事に、今日を終えられますように。

「――ないもんな」

「はい」

 幸音はふわり、と春風の様に暖かく微笑んだ。

「……なぁ、今日の放課後、空いてる?」

「あ、はい。あぁ、そうだ、昨日義兄から言われたのですが」

 春彦は龍也に言った台詞を思い出して、少し背中がムズ痒くなる。

「春彦さんと一緒になら遠出してもいい、と言ってくださいました。義父と義母も、義兄が説得してくれて。ただし、暗くなるまでですが」

「小学生かよ。って、言ってやればいいのに」

 幸音は困ったような苦笑いを浮かべた。

「あはは……今までからすれば、かなり大きな譲歩です。義兄も、色々と見て、知りなさい、と言ってくださって」

「そっか。じゃあ、今日もまたブラブラするか」

「はい。よろしくおねがいします」

 幸音は深々と、お辞儀をした。



 幸音と別れ、そのまま階段を上り教室に入る。

「春彦」

 自分の机に座っているメガネに呼び止められる。

「どうした?」

「いや、奈々枝の事なんだが」

 奈々枝? と春彦は教室の中を見渡す。奈々枝の姿は無く、彼女の机にも鞄が掛かっていない。

「何か、知らないか?」

「いや、何も聞いてない」

「そうか。すまない」

 普段よりも少し、落ち着きが無いように見えた。春彦はかける言葉が無く、自分の席へと向かった。珍しく金髪はボーっと外を見ている。教室の中の雰囲気はいつも通りだが、メガネと金髪、この二人だけは何かが違うように春彦は感じる。

「おはよ」

「……よぉっ。なぁ春彦」

「どうした」

 まさかこいつまで奈々枝の事を聞いてくるのか。春彦は次の言葉を待つ。

「どーして最近の学校ってブルマじゃないんだろーな。それと、なんでスカートの中って……ハーフパンツなんだろーな」

 全く持ってくだらなくて春彦は呆れて鼻で笑う。

「マジだぜーマジな話なんだぜー。昨日さー隣町に用事あってさ、電車で行ったのよ。で、着いて階段昇ってる時にさ、お、前の……見える! って思ってさ、ワクワクしてたら……」

「ハーフパンツだったってわけか」

「チクショー。そりゃあ、見られるのが嫌って気持ちも分かるし、見ようと思った俺も悪いけどサー。なーんか、裏切られたというか……がっかりというかー」

 金髪は机に頬杖を付いた。一瞬でもまともな話をするか、と思ったのが間違いだったと春彦は後悔する。暢気なこいつが羨ましくも思った。



 短い休憩時間の時に金髪は、他のクラスの奴等に呼び出されていた。何でもバドミントン部に誘われているらしい。昼食奢るからと聞いて彼は簡単に釣られた。

 昼食は秋人の作ってくれた弁当だが、春彦は教室で一人で食べる気にはなれなかった。委員長はいないし、教室には、一緒に昼食を食べる程仲の良い人はいない。改めて友達が少ないんだなぁ、なんて思ってしまい、切なくなる。学食に行けば秋人がいるかもしれない。期待をこめて見に行ってみたが、残念ながらいない。幸音も一年の教室にいない。幸音共々どこにいってしまったのだろうか。しかしこのまま春彦が一人でほっつき歩いていても時間の無駄だ。いい加減どこか適当な場所でぼっち飯を食べようと思い、場所を探す。その時ふと、茉莉子のことを思い出す。彼女はまた、屋上にいるのだろうか。もしいなくても、景色のいい特等席でぼっち飯を食べればいい。春彦は階段を上る。



 屋上へ出る。考えて見れば、こうして屋上のドアに鍵が掛かっていないが、勝手に屋上に出ていいのだろうか。屋上にはいつも人影は無い。茉莉子はいつも屋上に出ているようだが、注意とかされないのだろうか。春彦は出入り口の傍の梯子を昇る。

「あれ、春彦」

 茉莉子は当たり前のようにそこに寝転がっていた。猫が日向ぼっこするようだな、と春彦は少し微笑ましく思いながら、茉莉子の隣に座った。

「昼飯を食いに来ただけ」

「そっか。私はもう食べちゃったよ」

「食ってすぐ寝ると、牛になるぞ」

「もー」

 茉莉子の側にあるビニール袋。中は菓子パンの空き袋と、ペットボトルのミルクティーだけだ。栄養の事なんか一切考えていない。

「お前さ、ちゃんとしたもん食わねーの?」

「ちゃんとしたもん、って?」

「弁当作るとかさ。学食で食うとか。それだけじゃ不健康になるぞ」

 もちろん広げる弁当は秋人が作ったものであって、春彦は一切何もしていないが。

「家では自炊してるし。いーじゃん、お昼くらいここでメロンパン食べても」

「茉莉子は一人暮らし?」

「うん……そう。いいでしょー一人暮らし」

 一瞬空いた間はなんだったのか。

「いいよなぁ、一人暮らし。でも自炊ってめんどくないか?」

 春彦は弁当の中からブロッコリーを箸で取って口に運ぶ。茉莉子はスッと体を起こした。

「めんどうだけど、いつか好きな人に美味しいものを食べさせてあげたいから、ね」

 わざわざ春彦に向かってニコッと笑う。好きな人に、と言っているのに態度はしっかり特定の人物に向けられている。

「玉子焼き貰っていい?」

「ああ、どうぞ」

 弁当箱を差し出す。しかし茉莉子は玉子焼きを取らない。

「あーん、ってしてよ」

「やだよ。自分で取れよ」

「取ってよ」

「はぁ? ……ったく」

 箸で玉子焼きを掴み、茉莉子の口に箸を向ける。茉莉子は口を開けて、玉子焼きを食べる。僅かに、唇に箸が触れた。

「…………」

 この箸をこのまま使えば、俗に言う間接キスという奴ではないのか。春彦の顔が熱くなる。ほんの少し、心拍数も増える。

「あま、美味しいけど。何だか、女の子の手作りお弁当って感じ。味付けがね」

「そーゆー奴なんだよ。作った奴は」

「ふぅん……」

 茉莉子は弁当の中に手を伸ばし、ニンジンを取った。

「あ、勝手に取るんじゃねーよ!」

「いいよね、キャロット。ニンジンは好きだよ」

「お前の好みは聞いてねーよ!」

「ニンジン一個にキレないキレない」

 茉莉子は春彦の左腕にに寄りかかる。

「……あの」

「んー?」

「食い辛いんですが」

「お構いなく」

 左腕に寄りかかり、茉莉子は笑う。左腕は弁当を持つ手だから食い辛いということは無いが、気分の問題だ。

「……ホント、何でお前は。誰にでもそうなのか?」

「春彦だけだよ」

 茉莉子は目を閉じて、周りの空気や全てを感じているようだった。

 春彦は、春彦だけ、と言われて満更ではない。玉子焼きを箸で取り、口に運ぶ。間接キス、頭の中に浮んできてしまうそれが、少し鬱陶しい。意識するな、意識するな、と自分に言い聞かせるるが、逆に意識させる。一口、なんだかその一口だけで大分疲れてしまう。だが悪くは無い、と春彦は思う。青春、って気がするからだ。玉子焼きを飲み込んで、春彦は茉莉子に聞く。

「なんで、俺のことがそんなに好きなんだ? 正直、俺は――」

 寄りかかる茉莉子の首がコックリ、コックリ揺れる。眠いのだろう。

「……っ、ぅ、ん?」

 茉莉子は目を擦る。

「……寝たけりゃ寝れば。チャイム鳴ったら起こすから」

「うん」

 そのまま茉莉子は小さく寝息を立てる。そよ風で揺れる髪。サラサラと。

 春彦は魅入りそうになる。だが弁当はまだ半分も減っていない。食べる物はちゃんと食べないと、体が持たないし作ってくれた秋人に悪い。

 春の陽気。朝と違い風も暖かい。春彦も眠くなる。寝るのは午後の授業でいい。

 だが眠ってしまったら、今のこの甘ったるい青春の雰囲気を堪能できない。



 ☆☆☆☆☆☆



 午後の授業はもちろん、眠った。春彦は先生に辞書で殴られた。体罰反対。

 放課後まで後頭部の痛みで寝ることができなかった。いや、寝る方が悪いのだが。

「――という感じで、今も痛いんだよ」

 校門の前で幸音と合流し、そのまま学校を出て大通りを歩く。

「自業自得ですよ。それは」

 幸音も苦笑い。

「それはさておき、どこに行こうか」

「えっと、どこか、本屋さんに行きたいです」

「よし。アーケードん中にあるから、行こう」

「はい」

 それからしばらく、無言だった。春彦は話題が無い。やっぱりこのままじゃまずいか、と内心焦るが、焦れば焦るほどに見つからない。もっと、もっと簡単に話題があるはず。

「春彦さん」

「あ、ああ。何?」

 また幸音に切り出してもらって、申し訳なく思う。

「春彦さんは、本とか、読みますか?」

「本……小説なんかはあんま読まないな。漫画ばっかだ」

「そうなんですか。あ、じゃあ、何かオススメを教えてください」

「は」

 漫画でオススメ。春彦が読む漫画は日常系ギャグコメディーが多い。それを薦めるのは何だか気が引ける。

「……か、考えておくよ」

「あ……その、無理にとは言いませんので」

「い、いや。そうだな、幸音はどんなジャンルがいい? オススメするにも何が好きか分からないと」

「春彦さんのオススメならなんでも」

 もちろん、彼女に何を薦めてもきっと「面白かったです」と良く言ってくれる。だけど、気を遣わせていいのか。春彦は幸音が感動し、心から「面白かったです」と言って欲しいと思っている。適当な漫画を薦めるわけにはいかない。益々自分の首を絞めてしまうのだった。



 本屋に着いた。駄菓子菓子。もちろん春彦はオススメを決めかねていた。

「……家で探してみるよ」

 至極簡単な答えを出すのに春彦はかなり時間が掛かった気がした。

「楽しみにしてますね」

 トドメの一撃。余計にプレッシャーが掛かる。ニコリと笑うその笑顔さえ、プレッシャーだった。

「お、おう……ところで、何を探しに来たんだ?」

「夕空奇麗さんの新しい本が出たそうなんです」

「ふーん」

 その作者の名前を春彦は知る由も無い。小説など全然読まない。読んでもせいぜいライトノベル。幸音は真っ直ぐ新刊の並ぶコーナーへと向かい、すぐに目的の本を見つけた。

「これです」

 幸音が手に取った本。タイトルは「今夜はカレーです」と明朝体で小さく書かれ、その字の下に作者名と、小さいカレーのイラストが書かれている、とてもシンプルな表紙だった。

「面白いの?」

「まだ読んでいないので、どうか分かりませんが……奇麗さんが出した他の本はとても面白いですよ。だから今回もきっと、面白いと思います」

 他、と言っても分からない。それでも幸音が面白いと言うのだから、きっと面白いんだろうな、と春彦は思う。おもむろに財布を取り出し、中身を見るがいつも通り、あまり入ってはいない。だが、この本を買うには十分だった。

「俺も一冊買ってみようかな」

 春彦は積まれた本から一冊を取る。定価七百円、税抜き。幸音と一緒にレジへ行く。店員さんはちょっと美人だった。



 アンティークショップ風の家具店や、雑貨屋、ペットショップ。今日行ったところだ。

「ネコさん、可愛かったですね」

「そうだな。猫なら飼ってもいい」

「そうですね」

 日は沈み始めていた。本当ならもっと、人通りの多いところを選んで帰らなければならない。だが、幸音の家に行くにはどうしても人の少ない通りを通らなくてはならない。時間は、もし通り魔がこの町に来ているならもう、どこにいても不思議ではない。寄り道をせず、まっすぐ幸音を殺しに来るのなら、すぐそこの影から出てきてもおかしくない。曲がり角、電柱の影。記憶にある電車の車内、全ての乗客が疑わしく思える。春彦は疑心暗鬼になっている。

「……春彦さん?」

「ん、何?」

「何だかさっきから、様子が変ですよ?」

「ああ……なんでもない」

 態度や目線、無意識に体は周囲すべてを疑っている。

 幸音の家が見えた。だがまだ、油断はできない。緊張の糸が切れたのは、門の前に着いた時だった。幸音の家の電気は点いている。家族がいる。ようやくここまで来れた。

「春彦さん、具合……悪いんですか?」

「え? いや、そんな事は無いけど」

「そうですか……。あの、無理はいけませんからね。この時期でもまだ、風邪は引きますので!」

 春彦は思わず失笑する。

「はは……ああ、今日は早く寝ることにするよ。じゃあ、また明日な」

「はい! さようなら」

 幸音は礼をして、門を開けて玄関へ行き、戸を開けて「ただいま帰りました」と言って入っていった。見届けてから、春彦は帰路についた。


 音楽プレイヤーが欲しい。春彦の切実な願いだ。気を紛らわせれば何でもいいのだが。一番手軽な物といったらそれなのだ。携帯でネットを見ながら歩くのは怖い。今歩いている通りは角が多いのだ。通り魔でなくても通行人、自転車、車、トラック。危険はいっぱいだ。

 一番怖いのはもちろん、通り魔だ。一番命に関わるのだから当然だ。日は落ちた。辺りは暗く、見通しが利かない。街灯は確かに等間隔に設置されている。だが距離が遠く、暗い場所が多い。そしてこの辺は、見れば見るほどに隠れられそうな場所が多い。どこから出てきてもおかしくはない。遠くから車がやってくる。結構なスピードを出した車は、一切そのスピードを緩めることなく春彦の傍を通る。

 車は全然通らない。会社帰りであろうスーツを着た男はチラホラと見かける。だけれど、その人たちは本当に社会人なのだろうか? 反対の通りをトボトボ歩いていった社会人風の男は、突然振り返って殺しに来ないか? 暗がりの中に潜む鬼が、心に疑心を作り出す。前の角から黒いヨレヨレのスーツを着た男が出てくる。春彦は出来るだけ男に注意してすれ違う。なんでもない、ただの社会人だろう。違うかもしれない可能性を必死に否定する。今見たいのは、もうカップルでもいい。今の春彦はスーツを見たくない。もっと普通な格好をした奴を見たい。そうすれば少しは安心する気がした。人気も無く、電柱の明かりの下、春彦は息を吐く。

 だめだ、先に気が参ってしまう。

 電柱に寄りかかる。携帯を取り出して、何か面白いニュースでも無いか、とサブカルチャー専門のニュースサイトにアクセスを試みる。が、いつまで待ってもアクセスされない。終いには、『bzサーバーから応答がありません。しばらく経ってから、リトライしてください』と表示される。そのときだった。ポンッと、右肩に何かが乗る。

「…………ッ!?」

 声も無く、春彦はその何かを払い、飛びのく。

「ふぉ!? ふぁにすんふぁ兄貴!?」

 主は秋人だった。白いパーカーに水色に近い青色デニムのロングスカート、今日もツインテールだった。口からは白い、キャンディーの棒が伸びている。丸くした目がパチパチと瞬きする。秋人は口から棒付きキャンディーを出して言う。

「危ないだろーが! 下手したら喉に刺さるだろ!?」

「……バッカヤロー! せめて一声かけろ!」

「はぁ!? 逆ギレかよ! エロいサイトでも見てるかもしれないからわざわざ声掛けなかったんだろうが!」

「見るか!」

 秋人の手には棒付きキャンディーと、もう片方の手には買い物袋を持っていた。買い物袋からはネギの先が少し出ている。

「……買い物帰りか?」

「ああ。そうそう、ちょっと待ってな……ほい」

 秋人はキャンディーを口に入れて、買い物袋に手を突っ込んで探る。そして中から小さいお菓子の袋を取り出して、春彦に差し出した。その袋には「きなこもっちー」と書いてある。

「うわ、また懐かしい物を」

「だろ? 懐かしいし、これ好きだからさー」

 春彦は受け取り、袋を開けて中のお菓子を食べる。餅、というよりも少し固い団子に食感は似ている。噛めば噛む程に美味しい、なつかしの駄菓子。春彦は空き袋をポケットに突っ込んで、背を向けて歩き出した秋人を追いかけ、隣に並んで歩く。

「春彦さぁ、あの駄菓子屋覚えてる?」

「駄菓子屋? どこの?」

「あっち、ほら、昔よく行った」

 春彦はもちろん、思い出せない。

「…………そもそも、お前と駄菓子屋に行ったっけ?」

「ひっでー」

「お前と行った覚えは無いぞ? 師匠となら――」

 何故、師匠のことは覚えているんだ? 春彦は足を止める。

「兄貴?」

 秋人も足を止め、振り返った。春彦はもっと記憶を探ろうとする。だが思い出せるのは、まるでメモ帳に書かれた文章の様な「師匠と駄菓子屋に行ったことはある」ということだけ。

 師匠は、昔、春彦が小学生の時に同級生だった子だ。男子か女子かは思い出せない。だけど、確かに確信を持って言えるのは、秋人とは駄菓子屋に行ってはいないということ。

「やっぱり、お前とは行ってないよ」

「……けっ。全く、兄貴明日、脳を検査してもらって来いよ。若年性アルツハイマーって奴かもしんねーぞ」

「んなわけねーだろ」

 その後も、行った行ってない、と家に着くまで言いあった。春彦は結局、秋人が来てくれてよかった、と思うだけで口には出さなかった。



 ☆☆☆☆☆☆



 食後、春彦は居間のテーブルに座って、今日幸音と一緒に買った「今夜はカレーです」を読んでいた。文章の流れはただただ単調だった。けれど、不思議とスラスラと読める。引き込み方が上手い、という奴なのだろうかと、春彦は思う。

 ヴヴヴ……と携帯が振動する。メール、幸音からだった。

『明日、また一緒に登校しませんか?』

 返答は決まっていた。

『いいよ。今日と同じ』

 そこまで打って、一度手を止める。明日の朝、幸音は今日通った人通りの少ない通りを通るだろう。朝だからきっとある程度人は通っているから、だから安心だと言えるのだろうか。しばらく画面を見ながら考える。画面の電源が切れる。

「珍しいな。兄貴が活字の本なんか読んでる」

 皿洗いを終えた秋人が隣に来て、本を取る。春彦が読んでたページに指を挟んでパラパラとページをめくっていく。

「挿絵が無い。 ……いよいよ狂ったか」

「なんて奴だ。別にいいだろ、俺が何読んだって」

「俺だってこんなまともな本読んだことねーよ」

 秋人は春彦が読んでいたページを開き、春彦の前に戻す。

「で、メール? 悩んでんの?」

「あぁ、まぁ。 ……幸音の家に迎えに行くのって、やっぱキモいかな?」

 秋人は腕を組む。少し目を泳がせてから、くすりと少女の様に笑う。

「まぁ普通はな。ただ、幸音を守るなら、出来るだけそばにいた方がいいかもね」

「だよな。よし、聞いてみよう」

「聞き方には気をつけろよ?」

「分かってる」

 まず適当なキーを押して画面を復帰させ、今入力したメールを一度白紙にする。そしてそこに、新たに文を入力していく。

『いいよ。明日の八時位に、幸音の家に迎えに行くから』

 送信する。

「おいおい、随分直球だな」

「ストレートも案外ストライクに入るんだぞ?」

「野球じゃねーから」

 送ってしまった物はもう取り消せない。秋人は風呂に入ると言って居間を出て行って、春彦は本の続きを読む。全体の四分の二位読んだ所で、ようやく主役の女性がカレーを作り始めた。ヴヴヴと、メールも着信する。

『そうして頂けると、義兄も安心します。何だか最近、義兄がとても心配していて。』

 そこまで読んで春彦は、龍也さんはかなりのシスコンなんだなぁ、と暢気に思い、思わずくすりと笑ってしまう。

『では、明日の八時位にインターホンを鳴らしてください』

 分かった、また明日。とだけ入力して、送信する。本の続きに戻ろうとするが、少し、眠くなってきた。やはり活字に慣れていないからだろうか、と春彦は瞼を擦りながら思う。それでももう少し読もうとするが、カレーを作り始めた辺りから二ページ位でいよいよ内容が頭に入ってこなくなった。欠伸をして、何か栞になるものが無いかと周りを見る。新聞紙の上にあった、学習教材の広告はがきを本に挟んで、春彦は自分の部屋に行く。



 ☆☆☆☆☆☆



 懐かしい夢を見ている。

 ちょっと蒸し暑い日だった。

 俺は彼女――恋仲ではない――と一緒にベンチに座って棒つきのアイスを食べている。

 その子が誰か、俺は思い出した。師匠だ。俺の師匠。名前は思い出せないけど。

 彼女は「あたしの事は師匠と呼びな!」と言うから、俺は彼女を最後まで師匠と呼んでいた。

 無言で、ただ二人でアイスを食べていた。



 ☆☆☆☆☆☆



 外出の際には傘を忘れずに。今日の天気予報だった。春彦は傘を持つのが嫌なのだ。なぜなら荷物になるし、降らなかった時に持って帰るのがめんどくさいからだ。幸音の家へ向かう道中見上げた空は、焦らすかのように真っ黒だった。今、いつ降らそうか考えてる、と誰かが雲の上でニヤニヤしているようで、不快な天気だった。

 朝早く、七時半には家を出た。もうすぐ幸音の家に着くが、少し早すぎたかもしれない。春彦は携帯を開く。まだ八時前だ。だがもう門の前に着いてしまった。門の前をウロウロするのも怪しいので、とりあえずインターホンを押す。ピンポーン、と音がしてすぐ、玄関が開く。幸音が出てきて、家の中に「行ってきます」と礼をしてから、門まで来る。

「春彦さん、おはようございます」

 門を開け、幸音は春彦の前に立って礼をした。

「おはよう。ごめんな、ちょっと早くて」

「いえ、大丈夫です。私も玄関で待ってましたし……」

「そ、そっか」

 春彦は頬を掻く。気恥ずかしくて仕方ない。

「とりあえず、行くか」

「はい」

 幸音の手を見れば、昨日買った指輪をはめていた。

「その指輪……」

「あ、これですか? えへへ、ずっと付けてますよー」

「学校までしてかなくてもいいんじゃないか?」

 幸音はふわり、と笑う。

「外しません。とっても、大切なものですから」

「……ま、いいけど」

 まだ大通りまで距離がある。それまでは春彦は気が抜けない。

「春彦さん」

「ん?」

 出来るだけ平静は装っているが、春彦は顔に出やすい。察されたかと不安になる。

「あの……具合、大丈夫ですか?」

「あ、ああ。大丈夫」

「昨日、あの本読んで夜更かしとか、してませんか?」

 春彦は笑って、否定の意を込めて手を振る。

「してないしてない。四分の一くらいしか読んでないし」

「何か、不安なことでもあるんですか? よかったら聞かせてください」

 逆に春彦は、通り魔が幸音を狙う理由が知りたい。ただの無差別で、運命としてそう決まっているのか。それを覆す方法もまた、知りたい。やはり、伝えるべきなのか、幸音が通り魔に狙われていることを。だが、春彦は思いとどまる。だって、彼女に不安な思いはさせたくない。不安なのは、俺一人で十分だ。春彦は笑ってみせる。

「大丈夫だって。曇りだから気分がノラねーだけだから」

「そう、なんですか? でも今日はきっと、雨が降りますよ。あ、そうなったら帰りは相々傘しませんか?」

「降るといいな」

 春彦は恐らく生まれて初めて、雨が降ることを強く望んだ。

「そうだ、昨日の本の事なんだけどさ――」

 春彦は素直な感想を幸音に聞かす。幸音とは少し違うが、大体同じ感想だった。



 下駄箱で幸音と別れ、春彦は階段を昇ってまっすぐ教室に向かう。教室に入って、まず先に目が行ったのは奈々枝の席だった。まるでそれが当たり前のように、空席だった。

「よ、春彦」

 少し濡れた手で金髪が春彦の肩を叩く。

「ちゃんと拭けよ」

「わりぃ。俺ハンカチ持ち歩かねーからさ」

 春彦も普段持ち歩いてない。それどころか、ちゃんとハンカチを持ってきている奴がいるのだろうか。春彦には疑問だった。二人は窓際の、自分達の席に向かう。

「ハンカチってさ、あまり持ち歩かないよな」

 金髪は窓を開けて、手を出す。自然乾燥でもする気なのだろう。

「まぁ、俺も持ち歩かねーけど。あったら便利なんだろうけどな」

「な。 ……あ、俺明日から持ってくるわ」

「またなんで?」

 金髪は歯を見せて笑う。

「女の子にさ、これ使えよ。とか言ってみたい」

「あー。でもいいかもな、それ。寒そうにしてる子に学ランとかかけてやる、みたいな?」

「それもいいなぁ」

 予鈴が鳴るまで、二人は色々なシチュエーションを語り合った。シャーペンを貸す、落ちた消しゴムを拾う。体育のバスケットボールでスリーポイントシュートを決める。どれもありそうでない、出来そうで出来ない事ばかりだった。



「宮村、二十ページの三行目を読んでみろ」

「読めません」

 春彦は正直に告げた。教室の中の数人がくすくすと笑う。

「笑った奴誰だ? 代わりに読んでみろ」

 先生は笑いながら言い、教室を見渡す。すぐには、誰も手を挙げない。

「はい――」

 少し地味な男子が手を上げて、教科書を読んでいく。何故春彦が読めないのか、それは英語だからだ。春彦は英語が苦手だった。試験で五十点取れているのだから、本人は大して焦っていない。それよりも、春彦の関心は外だ。外は相変わらず曇っている。むしろさっきより、暗雲が濃くなっている気がする。このまま降りだしてくれると嬉しい。だって幸音と相々傘ができるのだ。青春としては中々、良いイベントだ。



 降り始めは丁度四時限目が終わり、昼休みに入った時だった。授業が終わって、開放感から体を伸ばして外を見たときだった。遠くの空から広がるように、迫り来るようにザァと大雨が降ってきた。教室の中からは「あーあ」だとか「傘忘れた」といった声が聞こえてくる。朝の暗雲を見れば、雨が降ることくらい容易に想像がつく。降らない可能性に賭けた賭博師なのだろうか。ならば掛け金を貰いたい所だ、と春彦は思う。ただその場合、多くの人間が雨が降ると予想しているから、貰える金額は相当少ないことに春彦は考え至っていない。本当に貰えるとしたらがっかりするだろう。春彦は鞄から弁当を取り出し、後ろを振り返る。

「おい、授業終わったぞ」

 金髪はまだ寝息を立てて眠っていた。肩をゆするが起きない。起こしてやるのも悪いと思ったので仕方なく、春彦は学食へ行くことにした。



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