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通り魔と青い少女 後編


 学食はいつも空席が目立つ。というか、強制されてるわけでもないのに好き好んでマズイ学食を食う生徒は少ない。学食のテーブルを利用して、持ち込んだ弁当を食べる生徒も珍しくは無い。窓際のテーブルに秋人の姿を見つけ、春彦は隣に座る。

「よう」

「なんだ、兄貴もぼっちなのか」

「ち、違げーよ。今日は偶々、誰もいなかっただけだ」

「ふーん」

 ニンジンを口に入れて、ニヤニヤと秋人は笑う。

「それで、何か用か?」

 春彦は弁当を広げる。黒い二段弁当で縦長の容器だ。箸を取る前に両手を合わせ、いただきます、と呟いた。

「……なんでもない。学食に来たのは、誰かいるかな、と思っただけだ。幸音か茉莉子のどっちか」

「残念だったなぁ。どっちも来てない。幸音は教室だし、茉莉子は分からん」

「むしろ、なんでお前が茉莉子を知ってるんだよ」

 二段弁当の下の段は日の丸だった。春彦は真ん中の梅干とご飯を一緒に取って口に入れる。

「別に、知ってたっていいだろ? 先輩からは「あいつは変な奴だ」って言われてる位の奴だし」

「そんな噂になってんの?」

「あんまり授業に出ないで、いつも屋上にいるんだと。昼休みは屋上解放されてんのに、茉莉子が居るから行き辛いらしい」

 屋上でロマンチックに告白でもしようものなら、確実に茉莉子に聞かれてしまうわけだ。茉莉子は誰かに言いふらすような奴ではないと春彦は思うが、誰もがそう思ってるわけじゃない。それにあの、良く言えば不思議な、悪く言えば不気味な雰囲気が茉莉子にはある。幾ら解放されているとはいえ、そんな奴が居る所にわざわざ行きたいとは思わない。

「つまりアイツ専用の場所になってるのか」

「そうな。まぁ、流石に今日はいないだろうけど」

 秋人は窓の外に顔を向ける。外の雨は強くなる一方。ザァザァと室内まで聞こえてくる。窓にはバシッバシッ、と雨が叩きつけられる。今日一日、ずっと降っているだろうな、と何の根拠も無く春彦は思う。



 もちろん、放課後もずっと降っている。降り始めよりは多少雨脚は弱まった気がする。春彦は階段を降り下駄箱へと向かう。

「春彦さん」

 下駄箱には幸音が先に着いて、待っていたようだ。手には鞄だけ。傘は持っていない。

「幸音、傘は?」

「えへへ……はじめから、春彦さんと相々傘するつもりでした」

「そ、そう。 ……でも、雨強いぞ? 多分濡れるし、俺の傘使うか?」

「それじゃあ、春彦さんが濡れちゃいます。仲良く半分ずつ濡れて帰りましょう?」

 この子はこれが素なのだろうか。上目遣いですら、計算ではなく素なのだろうか。だとしたら、最強の春彦キラーである。上目遣いの目に、春彦は目を合わせられない。

「……分かったよ」

 顔を逸らして言うと、幸音はふわり、と微笑んだ。


 65センチの傘は、普段なら春彦一人を簡単に雨から守ってくれるが、相々傘をするならそうもいかない。出来るだけ幸音が濡れないように配慮すると、どうしても春彦が濡れる面積が増えてしまう。だが、今日の今だけは、悪い気がしなかった。

「春彦さん」

「ん?」

「今日は、どこにも行けませんね」

「そうだな。これからまた、雨が強くなって、雷とか鳴ったらやばいもんな」

 そうそう傘に落ちる事は無いと分かってはいるのだが、雷が鳴ると、少し怖くなってしまう。春彦は、俺ってチキンだなぁ、と内心自嘲する。

「……あれ……何でしょう?」

 ふと幸音は足を止めて遠くを見る。春彦も足を止め、幸音の見る物を探す。その時、空が光る。ゴロゴロと雷が鳴った。そして春彦も、それを見つけた。

「…………足?」

 三つ先の角から僅かに出ている、裸足。あそこは細い通り。背中に寒気が走る。見に行ってはいけない、と脳が警告する。だが歩き出せない春彦の隣、幸音は違った。雨に濡れながら、その裸足の足に引き寄せられるように歩いていく。

「お、おい、幸音! ダメだ」

「だって……怪我、してたら……」

「救急車を呼ぼう」

「怪我してなかったら……失礼です……」

 幸音は歩みを止めない。腕を掴むが、振り払われる。春彦は携帯を取り出して、119と入力、すぐに電話出来る状態にしておき、幸音を雨から守りながら一緒に見に行く。近づくにつれ、妙な、形容しがたい臭いがする。その臭いは「近づくな」という警告なのか、それとも「助けて」というSOSなのか、それとも「もう手遅れ」だというのか。もう目の前、後十歩も無い距離だ。春彦は唾を飲み込む。幸音は変わらず何かに操られるように、引き寄せられるように足へ向かっていく。ただ寝ている酔っ払いである事を、心から願い、春彦は足の正体を見る。

「…………っ!?」

 その物体を認識するよりも早く、春彦は幸音の目を両手で塞いだ。傘と携帯がびちゃびちゃの地面に落ちる。傘による守りが無くなり、雨が直接二人を濡らす。普段であれば最悪だ、だが今はそれすら感じない。とにかく彼女に目の前の「それ」を見ないようにする、それだけだった。それは動かない塊。これはきっと本能だと春彦は思う。本能で分かるのだ。その塊は死体だと。そして、不気味に見開かれた目は激しく雨を落とす暗雲を見ているのではない、生きていた時に最期に見た、鬼の顔を見ていたに違いない。心臓はきっと、あの辺にあったのだろう。そう見ただけで分かるパックリと開いた穴。着ていた白いブラウスに穴を中心に赤い花が咲いていた。

 春彦はせり上がるモノを飲み込む。口を塞ぐ事も、開けて吐く事も出来ない。目を塞いであげている彼女は、ただただ呆然と立ち尽くしている。

「……幸音」

 飲み込んで、カラカラの喉を震わせて幸音に声を掛ける。

「…………いや」

 幸音は春彦を振り払って走り出した。春彦は携帯電話だけ取って追いかける。何故走りだす。何故逃げるように走る。いや、とは何だ。どうしてそう言った。今は疑問の解答を考える暇なんて無いのに、頭は疑問を抱かずにはいられない。息を切らせて追うのに、追いつけない。そしてグッと、誰かに腕を掴まれる。

「君、やめなさい」

 知らない男だった。会社の帰りか、営業か、そんなことはどうでもいい。

「離してくれ!!」

 振り払おうとするが、男の力は強い。走り去る幸音の背は、遠くの曲がり角を曲がって、消えた。

「なんで、邪魔するんだ!」

「君はあの子の何なんだ? どうして傘も差さずに追いかける? 何かやったんじゃないのか?」

「うるさいな! 何もやってねぇ! アンタに関係ないだろ!!」

 思いっきりの力で男の手を振り払う。振り払えたのと同時に走りだす。幸音の消えた曲がり角まで走る。雨脚は少しずつ、また強くなっていた。



 幸音の家の前まで来た。インターホンを鳴らすと、すぐに龍也が出てきた。傘を二本持ってきた。門を開けて春彦にまず傘を渡した。傘を広げて、龍也の表情を窺う。顔を顰めてはいるが、それは春彦に対して怒りを向けているわけではないようだ。やり場の無い怒りを抑えている、と考えたほうが春彦にはしっくりくる。

「春彦君。幸音は何を見たんだ」

 低く、問いただすような声だった。

「死体、です。女性の」

 思い出したくはない。だけど、伝えないわけにはいかない。できるだけ思い出しながら、吐き気を堪えつつ、説明する。龍也はただ黙って聞いていた。相槌を打つでもなく、春彦の説明から何かを探っている。春彦が一通り説明を終えると、龍也はチラと二階の窓を見た。カーテンが閉まっていて、中の様子は分からない。

「……春彦君。幸音の母親の事を簡単に話すが、出来れば、ここだけの話にしてくれるか」

 春彦は、聞いていいのか迷う。だが一度彼の前で力になりたい、救いたいと宣言してしまった以上、知るべきで、後戻りはできない。唾を飲み込んで、頷いた。龍也は一度遠くを見てから、春彦をまっすぐ見て話し始める。

「彼女の本当の母親、「華良かりょう 彩音あやね」さんは夫に殺された。その夫は未だに行方不明。幸音を引き取る前日に、彩音さんを殺して行方を眩ませた。幸音は……彩音さんが殺される瞬間を見てしまったんだ」

「待ってください。なんで……幸音を生かしているんですか?」

「分からない。娘だけは手をかけられなかったのか。それとも何か別な思惑があるのか。 ……幸音は最初、極端に男だけを避けていたんだ。特に、年上の男を」

 春彦はえっ、と声をあげる。

「でも俺、幸音の先輩ですよ?」

 龍也は目を伏せる。

「もう、大丈夫だと思っていたんだがな。 ……家に来て一ヶ月。俺や父とは一言も口をきかず、母とも一言二言だけで、部屋にずっと引きこもっていた。だがある時、幸音は当たり前のように起きてきて、リビングで俺達の前で「おはようございます」と言って、お辞儀したんだ」

 今の幸音だろうか。いや今の、ではない、死体を見る前の、という方が正しいだろう。

「それからは、出来る限り外出は避けさせて、中学の間ずっと、外出を禁止にしてきた」

「なんでですか?」

「何があるか分からないからさ。幸音の母親も、髪の色の事で苦労してきたそうだし、何よりあの父親に会わせるわけにはいかなかった……!」

「どうして、俺に話してくれなかったんですか! 俺はあの時救えるなら救いたいと、言ったじゃないですか!」

「その程度で、君は赤の他人からだ」

 春彦はハッとする。何かをしたい、程度なのだ。助ける、ではない。助けたい。願望でしかない。あまりにも弱すぎる。そして何より、他人だ、親戚でもない他人だから。

「……また時間が解決してくれるかもしれない。だけどいずれまた幸音は今日みたいになる、そうでは彼女は一生救われない。俺の言葉でも、父さんでも母さんでも、家では何もしてやれないんだ」

「…………」

 龍也は傘を落として、春彦の両肩を掴む。

「春彦君。もう一度聞く。彼女を、幸音を救えるか?」

「……救いた…………救います。救って見せます」

「救えなかったら、君を一生許さない」

「構いません。俺は幸音を救います」

 春彦はこの言葉に、絶対の自信がある訳ではない。言葉に勢いを付けて、無理やり発した。だけど、救いたいという気持ちは本物だった。それは龍也にちゃんと、伝わったようだ。

「……君に、託す」

「はい」

「今日は、帰ってくれ。明日も同じ時間に来て、幸音を送っていってくれ。帰りも一緒に帰ってきてくれ」

「はい」

 龍也はもっと、色々言いたいのだろう。唇を噛んでうつむいた。顔を上げず、春彦の肩から手を離して、傘を拾う。

「この傘、明日返しに来ます」

 玄関へと向かう背に声を掛けるが、龍也は振り向かず、玄関を開けて家に入った。春彦は家に帰る事にした。



 ☆☆☆☆☆☆



 龍也さんはどうして俺に託したのだろう。

 家に帰ってから春彦はずっと考えていた。本は開いても内容は頭に入らない。雪舞の家では何もしてやれない。どういう事なんだ? カウンセリングに連れて行くとか、積極的に会話してみるとか、幾らでもやり方はありそうな物だが。

「……会話は、マズイかな」

 下手な事を言って追い詰める危険性がある。が、それでもやってみなければわからない。それよりも、明日からを考えなくてはならない。明日、今日と同じ時間に幸音を迎えに行って、彼女は学校に行けるのだろうか。 ……モヤモヤとするばかりで何も変わらないし、何も出来なくてイライラが募る。春彦は栞を挟んで本を閉じ、着替えとタオルを持ってシャワーを浴びに向かう。洗面所で秋人は歯磨きをしていた。

「……ふぁにひ。ふぉっふぉふぁって」

 兄貴、ちょっと待って。と言ったらしい。春彦は構わずシャツを脱いで、中のTシャツも脱いでカゴに入れる。口を濯いでから秋人はそそくさと出て行った。何となく、恥かしそうに出て行ったように見えた。

「……いよいよ、危ないなぁ」

 本格的に内面から女になりつつあるのかもしれない。そろそろ、兄貴である春彦が道を正してやる必要があるのかもしれない。だがそんなことは後回し。今はシャワーを浴びて、少しでも気分をすっきりさせたい。春彦の頭の中に思考と共に脳に映るあの塊を、体の汚れと一緒に流したかった。



 シャワーを浴びた事で、そこそこ頭がすっきりした。春彦は居間でウーロン茶を飲みながら、テレビを見ていた。映し出されているのはニュース、今日の通り魔事件だ。やはり幸音と見たあの死体は、通り魔によるものだった。だが今回は今までと少し状況が違うらしい。いつもであれば、財布を抜き取られているはず。ところが、今回の被害者の財布は無事で、ただ殺されただけだった。警察は別の犯人である可能性を視野に入れ、捜査するとのこと。だがそんなこと、春彦にはどうでもいい。犯人が男だろうが、女だろうが、若かろうがなかろうが関係ない。ただ、幸音が殺されないように守る。そしてその守らなければならない時が、もうそこまで来ているんだと感じる。春彦は乾く口をウーロン茶を飲んで潤す。過去に一度だけ、吐きそうなくらい緊張したことがある。それが何だったかは思い出せないが、今の春彦はそれ以上の緊張とプレッシャーが掛かっている。

「なぁ、兄貴」

 ふと、春彦の両肩に秋人の手が乗り、優しく肩をもみ始めた。

「何か知らんけど、随分緊張してんじゃん。少しリラックスしなよ」

「そうは言うけど。 ……明日から、俺、幸音にどう接したらいい」

「何かあったのか? いつも通りだろ。ダメならそのとき考えなよ。俺も兄貴も、昔からそうじゃん。何だか最近の兄貴は昔ほど大雑把じゃなくって、すごい神経質だ」

「別に……何も変わってないよ」

「そうか? かなり神経質になってる。禿るぞ」

「うっせーな。 ……でも、ま、昔ならこんなに悩まなかったかも。分かんないけど」

 秋人の手を払って、春彦はテレビを消して居間を出る。

「寝るわ。おやすみ」

「おやすみ、兄貴」

 にこりと、秋人は微笑んだ。



 ☆☆☆☆☆☆



 珍しく何の夢も見なかった。春彦としては、むしろ頭がすっきり冴えてありがたい。変な夢を見て、朝からあれこれ悩みたくない。特に今日は。

「じゃ、兄貴。俺は先に行くよ」

「ああ」

 家から出るときは秋人と一緒だったが、途中で別れ、春彦は幸音の家に向かう。昨日死体があった場所には、黄色いテープが張られている。近くには警察官がいて、道を歩く一人ひとりを注意深く観察している。なんだか怖かった。市民を守るのはいいが、市民全てを疑うような目つきが春彦には怖い。それも仕方ないとは分かるが。


 幸音の家の前、門を開けて出てくる幸音が見えた。

「幸音!」

 声を掛けると、幸音は肩を震わせた。彼女の様子はいつもと違う。いつもよりも俯いて、表情も暗い。そして一瞬、春彦に向けた目は、沼のように濁っていた。

「…………」

 幸音は春彦から逃げるように、反対の道を歩く。春彦は幸音の隣に並ぶ。

「来ないでください」

 春彦は、えっ、と小さく声が出た。少しだけ震えた声での拒絶だった。

「ま、まってくれ、幸音。どうしたんだ、変だ」

「来ないでください、話しかけないでください」

 春彦は立ち尽くす。幸音はただ淡々と歩いていく。春彦は少し距離を取って歩きながら、幸音の様子を観察する。大通りに出てから、幸音の一番の変化に気づく。

「……男だけを……避けている?」

 龍也に聞いた幸音が雪舞の家に来てからの最初の一ヶ月、幸音は龍也の母とだけ口を聞いたそうだ。幸音は、道を歩く男性だけを避けて歩いている。それの理由は、ただ見ているだけでは分からない。結局、何も掴めないまま学校に到着した。



 教室に向かうまでの幸音を見ていて、やはり男子生徒だけを避けていると春彦は確信した。

「春彦悪りぃ、赤ペン貸して」

「ああ」

「さんきゅ……これ青だぜ」

 授業中、後ろの金髪に青ペンを貸すほどボーっと、幸音の事だけを考えていた。俺は幸音に何をしてやれる。あの子に何があったのだ。どうして男子だけを避ける。疑問は尽きないし、自分でそれに解答してやることも出来ない。もどかしい思い、それが授業に身を入れさせてくれない。もっとも、そうでなくても春彦が授業に身を入れることは無いのだが。



 幸音を家まで送ろうと、下駄箱の所で待っていて、幸音が来てから一言も交わさずに今帰り道を歩いている。昨日までならきっと、どこかへ遊びに行っていた。だが今の彼女は春彦が声を掛けても無視する。幸音が家の門を開けて、家に入っていくのを見届けてから春彦は家に帰った。鞄を玄関に投げて、龍也から借りた傘を持ってもう一度幸音の家に持って行く。情けない事に、朝持って行こうと思って忘れたのだ。門の側にあるインターホンを鳴らす。しかし、しばらく待っても反応は無い。龍也もいないのだろうか。日を改めようと、門の前に傘だけ立てかけて立ち去ろうと踵を返す。すると後ろから足音が近づいてくるのに気づいて、春彦は足音のする方に振り返る。

「春彦君?」

「あ、龍也さん。こんにちは」

「……ああ、傘か」

「はい、ありがとうございました」

「風邪は引かなかった?」

「大丈夫です。 ……それよりも、あの」

 何となく言い出しづらい。門の前で話していると、幸音が聞いているかもしれないと思うからだった。春彦がのそんな思いを察してか、龍也は少し表情を緩める。

「近所に小さい公園があるだろう。そこで話そうか」

 龍也は春彦の横を過ぎる。春彦はその背を追った。



 ベンチと自販機が一台あるだけの小さい公園。子供がいる事だって滅多にない。そもそもこの辺は空き家が多いのだから。後は住んでいてもお年寄りばかりだ。道を歩く人を見る事の方が少ない、閑散とした場所。少し話しづらい事を話すにはうってつけと言えるだろう。

「それで、どうしたんだ」

 龍也は自販機に硬貨を入れ、微糖のコーヒーのボタンを押す。そのまま続けて硬貨を入れ、カフェオレを選ぶ。取り出し口からカフェオレを取り出し、春彦に渡す。

「すいません。 ……幸音は、やっぱり男だけを避けている。そう見えました」

「そうだな」

「幸音に、何があったのか。教えてください」

「昨日話しただろう。あれで全部だ」

「…………」

 龍也はプルタブに手を掛け、缶コーヒーを開ける。中身を少しだけ飲んだ。

「幸音の母は夫に殺され、幸音はその現場を目撃した。だから死体に対し、普通より敏感に怖がる」

「死体を怖れるだけで、何で男が関係するんですか?」

「幸音の父、幸雄を思い出すんじゃないのかな。だから、年上の男が怖いのかも」

「…………そんな」

 ではどうしたらいいのだ。春彦はカフェオレの缶を握る手に力をこめる。

「春彦君。一ヶ月もすれば、きっと元に戻る。あの時みたいにな」

「それは逃げです! 俺は幸音を救うって言ったじゃないですか!」

「じゃあ、どうするんだ?」

「それは……」

 春彦は顔を伏せる。

「昨日は、救ってくれって……託すって、言ったじゃないですか!」

「だから! どうするのか聞いているんだよ!」

 龍也は春彦を睨む。その目に怒りが灯っている、が、それは春彦に向けられた物ではない。

「俺はあの子を救ってやれなかった。でもお前は救うと言った! どうするんだ、言ってみろ!」

「…………」

「……すまないな。ごめんな。俺だって、幸音を助けたいんだよ。だって家族になったんだ、俺は兄なんだよあの子の」

 龍也の怒りが向いていたのは自分自身だったに違いない。結局何もしてやれなかった自分に対して。

「龍也さん、何も……してあげないんですか?」

「君が、幸音に対してどう接すればいいか分からないのと同じだよ。俺も同じなんだ」

 春彦は少し凹んだ缶を見つめる。安易だったのかもしれない。龍也に話を聞けば、何かヒントが得られるかもしれないと安易に考えていた。結果的に、龍也の本音は聞けても、ヒントにはならない。春彦はしゃがんで、冷たい缶を額に当てる。

「春彦君。悪いけど、帰っていいかな」

「あ、はい。あの、すみませんでした」

 春彦は立って、頭を下げた。

「いいんだ。こっちこそ、キレてごめん」

 龍也はコーヒーを一気飲みして、ゴミ箱に捨てて公園から立ち去る。残った春彦は、カフェオレのプルタブに手を掛け、開ける。そして一気に喉に流し込んだ。缶をゴミ箱に捨てて、息を吐く。手詰まり、それだけが頭にある。どうしたらいいか分からない。その内、幸音を見失ってしまわないか、心配だ。そうなってしまったら守ってやれないじゃないか。

 春彦は深呼吸し、帰る事にした。ここにいても仕方が無い。



「幸音の様子?」

「そうだ。秋人は何か、気づかないか? 同じクラスだろ?」

「待てよ、なんで同じクラスだって……んー。まぁそれはいいか」

 夕飯の支度をする秋人は野菜を切りながら、うーん、と唸る。今日は黒髪ストレートロングのウィッグに、半袖Tシャツとジーパン。そして胸に可愛らしいカニがプリントされたエプロンを着て、料理している。

「いつも通り、じゃなかったな。男子を避けてたって言うか、ちょっと怖がってたっていうか。理由を聞いても答えてくれないし。授業中なんかも、男の先生相手だとちょっとビクビクしてたな」

「……なぁお前、幸音と話したのか?」

 それがどうした、と秋人はキョトンと春彦の顔を見る。

「普通に、話したのか?」

「ああ。まぁな」

 それは変な話な気が、春彦にはした。だって幸音は今、男を避けているはず。秋人は学校に行くときは女装していない。だとするなら、何故秋人は平気なのだ? というか、そもそも彼女は一ヶ月引きこもっていたはずだ。だが今はそうなっていない。秋人と、話しかけないでと拒絶されたあの時、もしかしてあれはSOSサインだったのではないか? 自嘲したくなるが、春彦はそれで納得できてようやく、どうするかが見えた。

「秋人。明日さ、昼休みに幸音に屋上に来るように言ってくれないか?」

「それは構わないけど。 ……それは、どうしても?」

「どうしても!」

「分かったよ」

 春彦は一つだけ、試したい事がある。それでダメなら、その時は…………その時だ。春彦はグッと、拳を握った。



 ☆☆☆☆☆☆



 翌日、昨日と同じ時間に彼女は家を出る。そして春彦は門の前で待っていて、少し離れたところから着いて行く。そして昨日と同じく、彼女は男だけを避けている。


 昼休みまでが長い。長い、長い。早くしろと念じれば念じるほどに時の進みは遅くなっていくように感じる。今日は金髪の冗談すら鬱陶しく感じる。早く時が過ぎてくれ。早く昼休みになってくれ。


「屋上、行くなって?」

 三時間目の終わりに三組のクラスへ行き、茉莉子を説得する。彼女はいつも屋上にいるのだが、今日は珍しく教室に居た。今日だけは、いつも屋上にいる茉莉子は邪魔だ。

「今度なんか奢るよ。だから今日は、頼む」

「……しょーがないなー。奢らなくて良いから、またお弁当一緒に食べようね?」

「ああ、それでいい。ごめん」

 茉莉子は笑って小さく手を振って、自分の席に戻っていった。これで屋上には誰も来ないはずだ。屋上は、茉莉子以外誰も利用しないのだから。



 そしてついに昼休みを迎えた。春彦は授業が終わると一目散に屋上に向かう。弁当ももちろん持っていない。それよりも大事な用事だ。屋上のドアは相変わらずちょっと重い。幸音の小さな体の小さな力じゃあ、開けるのが大変かもしれない。春彦は少しだけ開けておいた。屋上のフェンス越しに町を見る。桜はまだ咲いている。殆どが散ってしまったが、まだ町を見渡せば所々がピンク色だ。

 ギィィ、音がした方に体を向ける。青くて、ふわりとした髪。高校生に見えない低身長。顔には少し、生気が足りない。目の下に薄く隈がある。

「幸音」

 名前を呼ぶと、幸音は小さく肩を震わせた。ぼんやりとした双眸は、誰も捉えていない。

「何の用ですか」

 震えた声で、言う。

「幸音、何を怯えてるんだ。どうして俺を避ける?」

「…………春彦さんは、知らなくていいんですよ」

「いいや、ダメだね。言っただろう、俺に頼れって」

「いえ、不快にさせてしまいます」

「不快? ならさ、話してみてよ。不快に思ったらもう話しかけない」

 春彦はニコッと笑ってみせる。しかし幸音は変わらず、目には何も映っていない。

「…………私、戻ります」

「待ってくれ、話して欲しいんだ。幸音を守る為に」

「私を、守る?」

「そうだよ。俺は――」

 龍也さんと約束したんだ。そう言おうとして春彦は口をつぐむ。小さく頭を振ってから続けた。

「――幸音を守るって、決めたんだよ。だから君が苦しんでるなら話してくれ。他人の苦しみを全く同じに背負うことは出来ない。どうしたって俺には同じ苦しみはわからない。けど、俺は幸音に頼られたい! 頼ってくれ! 嫌なら……いいや、嫌でも頼ってくれ! 幸音!」

 俺だけが君を救ってやれる。そういう思い上がりを、そのまま口に出した。熱くなって大声を出してしまった。きっと校内では、屋上で誰かが叫んでいると小さな話題になっているだろう。だけど、春彦は構わない。言いたい事を、今言えたのだから。幸音は、扉に向かおうとする。

「待て!」

 駆け出して、幸音を後ろから抱きしめる。

「――いやぁ!」

 短い、その悲鳴。小さい体を必死に動かして、春彦を振り払おうとする。それでも春彦は手を抱きしめる腕を離す気は無い。離してしまってはいけない。やがて、幸音は暴れるのをやめ、小さく嗚咽する。

「……うぅ、春彦……さん……。怖い……怖いんです…………男の人……お父さんが……」

「…………」

 幸音はボロボロと大粒の涙をこぼす。それはどんな涙なのだろう。春彦にはわからない。

「私……お母さんが……赤くって……怖くて……だって、だって……何も分からない………………どうして、お父さん……私を……」

「幸音……」

 声を掛けると、少しだけ肩を震わせた。

「私を……殺さなかったの…………?」

「幸音……?」

「違う……だって、おかしいです。お母さんは殺したのに、どうして私は生きているのですか? 私だけ……私だけ生かすくらいなら……」

「もう――」

「春彦さん」

 幸音は振り返り、春彦を見上げる。その双眸には生気が戻り、春彦の姿が映っていた。少しだけ赤い目。まだ涙は少しだけ溜まり、こぼれている。

「私……お父さんに会いたい。会って理由を聞くんです。でも……一人では」

「うん、分かった。俺が着いてる」

「春彦さん……」

 幸音は春彦の背に手を伸ばす。ぎゅっと、小さな力で抱きしめられた。

「春彦さん。ずっと、着いていてください。もう大丈夫になるまで、ずっと、ずっと……」

「ああ。元々、そのつもりだったよ」

 かなり力任せなやり方だ。幸音が、男が怖くても学校に来続けていたのはきっと、誰かに頼りたかったのではないか。そしてその誰か、それはきっと宮村春彦だ。そう都合の良いように春彦は解釈し、行動した。外れていれば間違いなく嫌われていただろう。

 そんな一か八かの賭けは上手く行った。春彦は安堵する。



 ☆☆☆☆☆☆



 流石にまだ、完全に恐怖心がなくなったわけではない。幸音はまだ春彦や男子生徒、男の先生に怯えているようだった。だけれど。

「少しだけ、楽になりました」

 放課後、下駄箱で幸音はちょっと前みたいに、ふわりと微笑んでくれた。

「そっか。よかった」

「はい。あの、これからですが……」

 幸音は靴を換えて、上靴を下駄箱に戻す。

「今日は、人ごみの中に行きたくありません。でも、春彦さんとお出かけはしたいです」

「んじゃあ、人通りの少ない所を通って、遠回りして帰ろうか」

「はい」

 もちろん春彦としては、人通りの少ない通りを通るのは反対だ。だがそれでも、いざと言うときは守ればいいさ、と軽く考えていた。それよりも、少しでも幸音の支えになりたかった。校舎を出て、校門を抜けて。坂道を下って曲がり角を曲がる。その通りは比較的人通りが少ないかわりに、車の交通量が多い。

「車は平気なのか?」

「はい、車は大丈夫なんです。ダメなのは、男の人が視界に入る事です」

 幸音と春彦の間には、一人分の空きがある。

「……そうだ、駄菓子屋行くか? この通りをもう少し行って、曲がってちょっと行った所にあるんだけど」

「はい」

 こうしてただ話していると、元通りな気がする。だが幸音はまだ、すれ違う男性に怯えているようだし、春彦にも人一人分以上近づけない。



 駄菓子屋の思い出があるはずなのだ。秋人と行った事があるはずだ。だが春彦は思い出せない。というよりも、違和感がある。秋人ではない誰かと来た気がするのだ。店の前で立ち尽くしている春彦を、幸音は少し離れた所から心配そうに見ている。

「…………」

「あの、どうかしましたか?」

「……いや、何でもない」

 思い出せない違和感を追求するのは、また別な機会でいい。春彦は店内に入る。

「いらっしゃい」

 カウンターの向こうで新聞を読む老人はニコッと笑う。挨拶だけして、また新聞に視線を戻す。店内が狭く感じる程に駄菓子の種類は多い、と一見するとそう見えるのだが、元々店内はとても狭く、店主の置き方が上手いため、狭い店内でも駄菓子の種類が多いのだ。

「春彦さんこれ、占い付きですよ」

 幸音が見つけたのはおみくじガムと書かれた、ガムだった。包装紙がそのままおみくじになっている。駄菓子屋で無くても近くの神社でも他のおみくじと一緒に置かれている。初詣の時には普通のおみくじ並みに売れるらしい、と誰かに聞いたのを春彦ぼんやりと思い出す。

「幸音は占い好きだなぁ。 ……俺も買ってみるか。すいません、これください」

 おみくじガムを一つ取って、カウンターの老人の元に持っていく。

「十円ね」

 財布から十円硬貨を取り出して、老人に渡す。幸音も、同じ様におみくじガムを買った。お金を渡すときに、少しだけ手が震えていた。

「どうしたんだい? 手が震えているようだけど」

「い、いえ。何でもありません」

 愛想笑いを浮かべる幸音を横目に、春彦はおみくじガムの包装紙を開ける。

「…………」

 結果は大凶。底に落ちる。しかし、底から徐々に良くなる。と書かれている。

「どうでした?」

「よろしくないけど、希望はある。って感じ」

 そうですか。と言って幸音も包装紙を開ける。

「私は凶でした。 ……思い人の側を離れるな、と書かれてます」

「思い人……」

 春彦は少し照れ臭くなる。別に告白して付き合ってるわけでもないはずだが。

「春彦さん……いえ、やっぱりいいです。言わなくても、春彦さんは側にいてくれますよね」

 幸音は笑う。信じている、と春彦に少しだけプレッシャーがかかるが、悪い気はしなかった。

「ああ。それより、色々と買ってこうか」

「そうですね」

 駄菓子を選ぶ間幸音は楽しそうで、今だけは男性に対する恐怖を忘れているように見えた。実のところ、無くなってはいないのだろうけれど。春彦はきなこもっちーが売り切れていることにがっかりした。好物というわけじゃないが、無いと無いでがっかりする。



 思ったよりも、長居していたなと春彦は思う。授業が終わり、幸音と下駄箱で合流したのが四時近くだった。そして今はすでに五時過ぎだ。日も傾いて、オレンジの空が、これからゆっくりと暗くなっていくだろう。公園までの道のりを歩いていて、幸音と他愛も無い会話をして、このまま徐々に幸音も元通りになって。人通りの少ない通りを選ばなくても良くなる日が来るのだろう。春彦は今からその日が楽しみだった。

「ここの公園って、あまり人がいませんね」

「ああ、近くが空き家ばっかりだったり、子供が少ないんだよな。今日は特に人がいないけどな」

 公園に入り、公園の南にある噴水を目指す。そこにはちょっとお洒落なベンチがある。デートではないが、そういう場所の方が安心する。開けている場所の方が、万が一に備えられる。今いる北側入口からその噴水の場所に行くには、左右に小さな雑木林のある小道を通るのが一番早い。後は遠回りになってしまうし、春彦はいつもその道を通るから、いつも通りに何の警戒もせずに通った。

 しかしそれは迂闊な手段だった。


 ――ガサッ。


 茂みが音を立てた。

「春彦さ……!」

 振り返ると、幸音は男に後ろから首に手を回されている。左手にはナイフを持っている。レインコートを羽織った男はナイフを振り上げる。

「やめろっ!」

 春彦が声を出すと、男は一瞬手を止めた。

「…………」

 男はギロリと、見開いた目で春彦を睨む。

「殺すのか?」

 春彦の問いに男は答えない。

「……おとう……さん……ですよね」

 男のナイフを持つ手が少し動いた。春彦の目の前で幸音を殺そうとナイフを振り上げているこの男は。幸音が言った事に間違いが無ければ、彼は幸音の実の父親、「華良幸雄」だ。

「幸音の、父親……なのか?」

「…………」

 幸音の顔は青ざめて、唇も震えている。その手もまた、震えている。それでも唇を動かして話す。

「…………お父さん、どうして……どうして、あの時私を……」

 幸雄は振り上げたナイフを下ろす。

「君を、終点にしようと思ったからだ」

 低く、呟くような声で、幸雄はそう言った。

「しゅう……てん……?」

「もう俺は、殺人をやめる。俺は自首する。だから最後にお前を殺す。実の娘であるお前は、俺にとっての殺人の終点だ。それは、彩音を殺した日から、決めてたんだよ」

「そんな……!」

 幸音はうな垂れる。幸雄はナイフを再び振り上げた。

「やめろ、殺すなぁ!」

 春彦は駆け出す。幸雄を止めようと振り上げた手に掴みかかろうとする。だが、幸雄は右足を振り上げ、春彦のわき腹を蹴る。春彦はその場に蹲る。蹴られたわき腹の痛みで体が動かない。

「ぐっ……うぅ、やめろ、殺すな。実の……娘だろ……!」

「娘だから、終点にしたんだ」

「お父さん……なんで、お母さんを殺したんですか……」

「彩音は俺を、裏切ったからさ」

「やめ、ろっ!」

 春彦は手を伸ばし、幸雄のズボンを掴む。しかしあっさりと振り払われてしまう。立ち上がろうにも、蹴られた場所の痛みが激しくて立ち上がれない。何故、立ち上がれない程に痛むのか、ズボンに何か仕込まれていたのだろうか。ただ蹴られただけとは思えない痛み。考えても答えが出ない、春彦はそれよりも幸音を助けなければ、と、必死に立ち上がろうと体を奮い立たせる。

「お母さんは……裏切ってなんか」

「裏切ったさ。でも、幸音は知らなくていい。幸音はそんなことは知らずに彩音の元に先に逝っていてくれ。俺もすぐに逝ける」

「いや……いやだぁ! 私は、死にたくない!」

 幸音は幸雄の腕の中で必死に暴れる。だが、幸雄は幸音の首に回す腕に力を混め、首を絞める。

「う……ぁ……おとぅ……さん」

「やめ、ろ……くそ……」

 力の入らない体ではどうしようもない。春彦はもう一度ズボンを掴もうとするが、幸雄は容赦なく手を踏み潰す。悲鳴が公園に響いた。

「君は幸音の彼氏かな。君もちゃん殺してやる」

 もう、春彦に成す術はない。せめて殺される瞬間だけは見たくなくて、目を閉じた。

「――っ!」

 ガッ、と鈍い音を立てて幸雄の後頭部に何かが当たった。春彦は目を開けて、幸雄を見る。僅かによろけ、頭を振って辺りをキョロキョロと見渡している。春彦は全身に力をこめて立ち上がる。痛むが、チャンスだ、このチャンスを逃すわけにはいかない!

「うおぉぉぉ!」

 幸雄は突進する春彦への反応が遅れた。ナイフで突こうと腕を伸ばすが、春彦はそれを避けて幸雄に飛び掛り、そのまま倒れこむ。

「警察だ!」

 聞き覚えのある声だった。幸雄は舌打ちもせず、ナイフを持つ腕を地面に下ろした。ナイフを地面に落とし、降参するといった風に短く息を吐いた。

「お父さん」

 幸音の首に回されていた腕は解放され、幸音は立ち上がり実の父親、幸雄を見る。生気の無い瞳、手入れされておらず、ただ伸び続けていた髪と髭、そして痩せこけた頬。だがその表情は、フルマラソンを完走したマラソンランナーのような清清しさがあった。

「……華良、幸雄。午後五時三十九分。殺人未遂の現行犯で緊急逮捕する!」

 春彦と幸音は共にその場から少しだけ離れる。春彦は声の主を見て目を丸くする。手錠を持って幸雄に近づいてくるのは、学校で毎日顔を合わせる人物だった。

「優……」

 メガネの奥の瞳は一瞬、春彦を捉えた。だがすぐに幸雄に戻し、手錠をかける。幸雄は大人しくされるがままだ。優は幸雄を立たせ、少し先のベンチに連れて行く。幸雄をベンチに座らせて、ポケットから携帯電話を取り出した。

「もしもし、通り魔犯、逮捕しました。 ……抵抗する様子はありません。ですが……はい」

 通話を終えたところで、春彦は怪訝な顔で優に話しかける。

「なぁ、警察って……?」

「…………」

 春彦の問いに、優は答えない。

「春彦さん、この人は……?」

「……柴田しばた すぐる、俺のクラスの委員長……だと思ってたんだけど」

 優は黙ったままだ。春彦の方を見ず、監視するように幸雄を睨んでいる。

「ともかく、助かったよ、優。ありがとう」

 優は目を伏せた。何も言わないのは、きっと何も詮索して欲しくないからだろう。

 幸音は春彦の側から離れて、幸雄の前に立つ。ベンチに座る幸雄は項垂れたまま、ピクリとも動かない。

「お父さん、教えてください。どうしてお母さんを?」

 幸音の問いも、幸雄には届いていないのだろうか。

「幸雄さん……どうして、幸音が終点なんですか?」

 春彦が問う。それも何も答えない。

「どうして黙ってるんですか! 誰のせいでこんな思いをしてると思ってるんですか!? あなたのせいで、私は好きな人でさえ怯えて!」

 春彦はえっ、と声をあげる。好きな人、不謹慎だが、その単語に反応したのだ。

「…………それは悪かったよ。幸音」

 ようやく開いた口から出たのは、謝罪だった。幸音は手を振り上げる。

「そんな思いをさせたのは悪かった。だけど、俺は後悔はしていないよ」

 幸音は振り上げた手を、振るわせる。

「……地獄に行け……!」

 吐き捨てるようにそう言って、手を下ろした。

「地獄なんて無いさ。死んだら皆、そのままだ。 ……どうして幸音、お前が終点だと思う?」

 遠くからパトカーのサイレンが聞こえる。さっき優が呼んだのだろう。そのことを気にしたのは春彦と優だけだ。幸雄はボソボソと呟くような声で喋り続ける。

「彩音はスタートだ。俺は昔から他人を傷つけ、殺したかった。俺以外の人間みんなが優秀に見えるから自分が惨めに思えてね。コンプレックスというのか。それを必死に抑えて生きてきた。こんな俺でも就職は出来た。彩音と結婚も出来た。だが、彩音は俺を裏切り、浮気したんだよ。もう全てがバカらしい。俺は何で抑えて生きてきたんだ。彩音が笑っていてくれて、幸音が笑っていればそれで良いなんて、自分を誤魔化して生きてきたんだ。俺は彩音を殺した。もう誤魔化さず人を殺した。気が済んだら、最後に幸音を殺して自首するつもりだった」

 ゲーム感覚なのだろうか。目の前のタガが外れた人間に、春彦は吐き気を催す。

「殺す人の事を、考えた事は」

 震える声で幸音は言う。怒りは無く、ごちゃごちゃした感情が言葉に乗っている。

「無い」

 幸雄は短く、はっきりと言った。警察官が到着し、幸雄を連れて行く。幸雄は最後にチラと幸音を見た。その目は優しい、父親の目だった。



 ☆☆☆☆☆☆



 幸音を家に送り、春彦の怪我の手当てをしながら、幸音の家族に簡単に事情を説明した。優は念のため春彦を家まで送ると提案し、春彦はそれを断らなかった。聞きたい事があったからだ。

「なぁ……バイトってさ、警察官のことなのか?」

 答えてくれるとは春彦は思ってはいなかった。ところが少しの沈黙の後、優は少し小さな声で言う。

「…………アルバイトじゃない。俺は警察組織に属している」

 まだ優は学生のはずだ。それに、高校生の警察官がいるなんて話は聞いた事が無い。

「全国で密かに行われている、いじめ問題に対する対策なんだ。学生の中に警察に通じる人間を紛れ込ませる事でいじめの早期発見、対処をする。それが本来の目的で、それで俺はクラス委員長と言う立場になった」

「いいのか、そんな事を俺に話して」

 優は少し口元を緩める。

「お前は口が堅いだろ。それに、見られたしな。追求されるくらいなら、こっちから出せる情報は出すさ。ただ――」

「分かってるよ。誰にも言わない」

 それに言った所で誰が信じるんだ、と春彦が続けると、優は笑って「それもそうだな」と返した。

 春彦は優に聞きたい事は山ほどある。他にいるのかとか、いつからやってるんだとか、給料はいいのかとか。最後は冗談だとしても、それは聞かないで置く。優が、出せる情報は出すと言ったからだ。出さない情報は、きっとどれだけ追求しても出さないだろう。警察組織に属しているのだから。

「ところで、優。石を投げたのはお前か?」

 優は怪訝な表情をする。

「いや? だがあの時確かに、音も無く石が飛んできて、幸雄の頭に当たった。でも誰が投げたのかは分からない。礼を言いたいよ。犯人逮捕に貢献してくれて、二人を救ってくれたわけだし。だけど、隠れて石を投げたのは感心しない」

「俺も礼が言いたい。その人がいなかったら幸音は……殺されてた」

「すまん。二人が狙われているのを聞いて、慌ててあの場に行ったんだが」

「そうだったのか」

 時間稼ぎをしてくれた人と、優に情報をくれた人、同一人物でも違う人でも、会いたい。会って直接お礼を言いたい。春彦は心の中で礼を言うしかできないのが、歯がゆくて仕方ない。

「春彦」

 優は少し、声のトーンを下げる。

「まだ通り魔事件が解決したかどうかは分からない。これからも十分気をつけてくれ」

「……幸雄以外にも、いるのか?」

「模倣犯が出る恐れがある。それに、全ての犯行が華良幸雄によるものかも分からない。いくつかは、あいつが犯人とは思えない事件もある」

 この間ニュースで報じられた事件。幸音と見た死体。今まで必ず抜き取られていた財布が、あの時は抜き取られていなかった。別な犯人による犯行の可能性があると言っていた。

「どのみち、通り魔はいつでも起こりうる事件だ。しばらくはいつもよりも用心した方がいい」

「ああ。そうする」

 春彦の家が見えてきた。電気が点いている、秋人が夕食を作っているのだろう。

「飯、食ってくか?」

「いや、俺はすぐに戻らなくちゃいけないからな。また明日」

「ああ。今日はありがとうな」

 優は角を曲がって、そのまま真っ直ぐ歩いていった。春彦は家に帰る。シャワーを浴びて、すっきりしたかった。



 今日あった事を話しながら、秋人の料理に舌鼓を打つ。野菜炒めに味噌汁、ご飯。

「よかったな。幸音を守れて」

「俺は飛び掛っただけだけどな」

「十分だろ。それすら出来ない奴なんて大勢いるんだ」

 優の事はもちろん避けて話した。秋人はいつも通り、黙って話を聞いている。

「……それにしても、分からないことだらけだ。アイツの言う事全部が本当とは思えなくってさ」

 秋人はご飯を飲み込んで、箸で空中に円を描く。

「幸音を殺して、終わるつもりだったんだろ? じゃあ、その言ってた事だって元々用意してたんじゃないの?」

「俺もそう思うんだ。 ……もう、確かめる術は無いけど」

「そーだな。 ……何事も、刑事ドラマ見たいにスッキリ謎が解けるわけじゃないよ」

「それは分かってる」

 春彦は野菜炒めの肉を取って、口に運ぶ。今日は話す時間が長いからか、大分冷めてきていた。飲み込んでから、視線を下げて言う。

「それと、幸音の母親が……彩音って人が夫である幸雄を裏切ったって話。マジなのかな。それがずっと気になっててさ」

「それはぁ……あんま詮索しないほうがいいんじゃないか? 本当に他人の家の話だし。あまり首を突っ込んでいい話じゃないだろ」

「そうなんだけどさ。でも、知らないと幸音を救えない気がして」

「……まぁ、別に。兄貴の事だからな。幸音を怒らせない範囲で色々聞いてみれば?」

「それがむずいんだって」

 秋人はあくまで他人だ。結局聞くかどうかも、どんな質問をするかも、春彦自身が決めるしかない。それがどんな結果を招いても、春彦の責任だ。逆に考えれば自己責任だからこそ、何でもできるのだ。あまりに何でも過ぎて、余計に一歩を踏み出すのが難しいのだ。



 食後、シャワーを浴びながら、蹴られてできた痣と踏まれた手を見る。踏まれた手も蹴られた所もまだ痛む。シャワーを浴びた後、湿布を張りなおしてから自室に戻ると、携帯にメールが着信していることに気づいた。メールボックスでそれを確認すると、幸音からだった。

『こんばんは。春彦さん、今メールしても大丈夫ですか?』

 すぐに『大丈夫だよ』と返信する。返信が返ってくるまでがまた暇で、明日の学校の用意でもしようと鞄を開けて、春彦はハッとする。駄菓子の入った袋が詰め込まれていた。すっかり忘れていたと思うのと同時に、メールが返ってくる。

『今日は、危ない所を助けていただき、ありがとうございます。それと、ごめんなさい。父が春彦さんにしたこと、代わりに謝らせてください』

『気にすんなよ。幸音を守れたから、これくらいなんてこと無い』

 送ってから少し恥かしくなったが、送ってしまった以上、しょうがない。駄菓子と本を持って、居間に行く。居間では秋人が携帯ゲーム機で遊んでいる。

「秋人、駄菓子食う?」

「貰う。何ある?」

「ミニ団子、カニカマ味」

「いいセンスだ、兄貴」

「これ、ただの丸めたカニカマじゃ……」

 秋人に駄菓子を渡して、春彦はテーブルの椅子を引いて座る。本の栞が挿んであるページを開いて、続きを読む。少し前の内容が頭に無い。あの時はボーっとしていて内容を読んでいなかったからだ。少し前のページに戻って読み始める。一ページ読み終わるところでメールが返ってきた。

『お父さんは、お母さんに手をかけた後、ずっと通り魔を繰り返していた。けれど、動機がまだ納得できないのです。お母さんが浮気していたというのも勘違いです。お母さんはそんなことはしていなかった』

 春彦は栞を挿んで、本を閉じる。本も駄菓子もそのままに、自室に戻って電話をかける。数コールの後に繋がる。

「もしもし」

『春彦さん? どうしたんですか?』

「いや、こっちの方が話しやすいかな、と思ってさ。かけといてなんだけど、電話大丈夫?」

 はい、と幸音は答える。メールでやりとりするよりも、長くて複雑になりそうな話は電話の方がいい。もちろん会って話すに越したことはない。明日の放課後でもいいだろう。だけど幸音はきっと今話がしたいのだと、春彦は思う。

「それで、どうして動機が納得できないんだ?」

『……お父さんはずっと、勘違いしています。お母さんが浮気しているところなんて私は知らない。それに、おかしいですよ。それだけで殺すなんて』

「どうして、そんなにお母さんを庇うんだ? 不快に思うだろうけど、無いわけじゃないだろ、浮気の可能性」

 電話の向こうの幸音は今、どんな表情をしているだろう。

『無いと、信じたいんですよ』

「そうか。 ……そう、だよな。ごめん」

 いえ、と言う声はとても小さい。

「…………ええっと、とりあえず、信じろ。浮気はしてないって。もう真実が分かる手段が無いなら、それを真実だと信じるしかないよ。なんて、俺が言うなって話だな。ははは……」

『ふふ、そうですね。 ……もう、お母さんはいないから。私がお母さんを信じないといけませんね』

 無理して笑っているような気がしてならない。沈黙が流れる。

『春彦さん』

 沈黙を破ったのは幸音だった。

『明日も、一緒に登校して……一緒に放課後にお出かけしてくれますか?』

「ああ。もちろん」

『ありがとう、ございます。では、もう寝ますね。おやすみなさい』

「おやすみ。また明日な」

 はい、と最後の声は明るかった。通話が切れて、春彦はベットに横になる。明日からは普通の日々に戻る。ようやく安堵感が得られた気がした。うとうとと眠くなってきた。春彦は歯を磨きに洗面所へと向かった。



 ☆☆☆☆☆☆



 翌日、空には薄く雲が掛かっている。でも太陽は薄っすらとその輪郭が見えるし、所々の雲間から青空が垣間見える。春彦はいつも通りに門の前で幸音を待ち、八時になれば彼女は出てきて一緒に登校する。すっかり日常の光景だった。

「もう大丈夫なのか?」

「いえ、まだ少し」

 まだ幸音は男性が怖いそうだが、それでも雰囲気はもういつも通りだった。春彦はそれだけでも十分に嬉しい。

「春彦さん。今日の昼休みに一緒に見てもらいたい物があるんです」

「何?」

 幸音は鞄から封筒を取り出す。長形4号、茶色い普通の封筒だ。

「今日届いていたんです。ただ……」

「ただ?」

「送り主の名前を見て、私思い出したんです」

 幸音はジッと、封筒の左端に書かれた「熊川くまがわ あつし」の名前を見つめながらも、少し遠い目で話す。

「この封筒の送り主の方とお母さんは、小さい頃お買い物の帰りによく連れて行ってもらった喫茶店で話しをしていました。何を話していたのかは思い出せませんけど」

「…………」

 幸音は顔を上げ、春彦を真っ直ぐと、けれどどこかすがる様な感情のこもった目を向ける。

「これは一人で見たくありません。龍也さんや今のお義父さんたお義母さんの前でも、見たくない。これは、春彦さんと見たいんです」

 本来であれば、それは春彦ではなく家族と見るべきもののはずだ。あるいは一人で。でも今の彼女は一人ではダメなのだ。

「いいよ。 ……けどさ、なんで家族じゃなくって、俺なんだ? 龍也さんとか相談に乗ってくれそうだけど」

「春彦さんがいいんです。本当は、こういう事に巻き込んでしまうのは良くないのですけどね」

 幸音は困ったように、はにかんで笑う。封筒を鞄にしまってから続ける。

「春彦さん、言ってくれたじゃないですか。俺に頼れ、って。だから頼ります」

 春彦は、昔の恥かしい過去について言及されたような恥かしさを感じる。言った時はいいのだ。言った後はもう無かったことにしてほしいくらい恥かしい。特に今、大通りを歩く最中で周りに同じ学校の生徒がそれなりに居る所では特に。

「ま、まぁ確かに言ったけどさ。 ……ありがとう」

「あはは、お礼を言うのはこちらですよ?」

 幸音はふわりと笑う。



 教室に入り、何となく優の席をチラと見て、春彦は自分の席に向かう。いつもなら真っ先に声を掛けてくる金髪は窓の外を見ていた。春彦が席に鞄を置く音に気づいて春彦の方に顔を向ける。珍しくマスクをしていた。

「おはよ。 ……どうした?」

 金髪は鼻をすする。目も少し涙目で、赤くなっている。鼻声で金髪は言う。

「がふんじょう(花粉症)」

「ああ……大変だな。酷いの?」

「目ば割と……鼻と喉が酷い……ぎょうは話しづらいぜ」

「無理すんなよ」

 金髪は頷いた。

 春彦は鞄の中身を机にしまいながら、さっきの幸音の話を思い出す。春彦さんがいいんです。その一言を思い出して思わず口元が緩んでしまう。ニヤニヤしているのはあまりよろしくない。何一人で笑っているんだ、と訝しまれたくはない。視線を感じてハッと顔を上げると、机一つ挿んだ所の、黒い髪の女子がこちらに怪訝な表情を向けている。

 だが、いつまでも喜んではいられない。手紙のことがある。手紙の内容は、昼休みになれば間違いなく分かる。だけど、その内容がもし、幸音が傷つく内容だったら。もしそれでまた、ああなってしまったら。それはきっと万が一だろう。気にしなくていいのだろう。考えなくていいのだろう。春彦は頬杖をついて、花粉症の金髪と同じ様に外を眺める。桜は散り、すっかり葉桜になってしまった。ずいぶん早いな、なんて思う。

 ふと、ある事に気づいた。春彦は携帯を取り出し、カレンダーを見る。

 今日は――火曜日。四月一日以前の記憶は無い。四月一日は月曜日。今日は一週間と一日後の九日。あったはずの二日間、土曜日と日曜日が、春彦の中からポッカリ抜け落ちている。春彦の頬に一滴の汗が垂れる。理解が出来ない。俺の二日間はどこに行ったんだ? どうして二日間が存在していないのか、そもそもその二日間が本当にあったのかも分からない。金曜日の次の日が、月曜日のはずがないじゃないか。

「席につけ。ホームルームを始めるぞ」

 教室に先生が入ってきた。春彦が見た先生の表情はいつもと違う。教卓について、先生は言い辛そうに唇を噛んで、少し教室内を見渡す。やがて言う事を決めたのだろう、口を開いた。

「皆……華舞奈々枝さんが、亡くなった」

 教室の中がどよめく。そのどよめきよりも、春彦の心中の方がどよめく。

 忘れていた。通り魔にばかりかまけていた。そう、春彦はまだ覚えていた。秋人に奈々枝が自殺したと告げられた時の事を。先生は話を続けるが耳に入らない。それよりも、優が気になった。アイツは、奈々枝の事が好きだったはずだ。この教室にいる誰よりも、優が一番ショックを受けるのは誰でも分かることだ。そして今、教室に優はいない。春彦はこっそりと携帯を取り出し、アドレス帳を開き優宛てににメールを作成する。文面は、『今、どこにいる?』とだけ入力して、送信した。

 しかし、いつまで経っても。返事は返ってこなかった。



 四時間目が終わっても、まだ喪失感は無くならない。教室の中も、当然だが少し雰囲気が暗い。もう昼休みだ。春彦は席を立ち、屋上に向かう。奈々枝の事を悲しんでいても、それでも春彦には約束がある。気分が乗らないからと断るにしても、まずは彼女に会わなくては。メールでもいいのだが、気分転換をしよう、と春彦は自分を納得させる。



 屋上の風に清清しさを感じていたのが、ずっと前の事のようだ。春彦は屋上に出て、幸音の姿を探す。

「春彦さん」

 幸音は春彦の後ろにいた。

「ああ。何だ、後ろにいたのか」

「春彦さんって、階段を一段飛ばしで昇るんですもの。一段ずつ昇ってたら追いつけませんよ」

 ふふふ、と幸音は少し困ったように笑う。しかしその笑みも、春彦の表情を見て心配そうな表情に変わる。

「何か、あったんですか?」

「……まぁ」

 幸音を屋上に出して、戸を閉める。

「ちょっとね」

「何があったのですか?」

「何でもないよ。それよりも――」

 相変わらず気分は乗らない。そして、奈々枝の事を幸音に話そうかとも迷う。だけど、幸音は今、手紙のことで悩んでいる。余計な事は言わない方がいい。それに、関係がない。冷たく、非情だと思うが、春彦はもう奈々枝の事を考えるのをやめた。

「――手紙、見ようか」

 奈々枝だって、いつまでも自分の事でモヤモヤしていて欲しくないだろう。そう思い込んで、春彦は本題に入った。幸音は少し迷ってから、封筒を取り出す。開け口はすでに開いている。

「中身、見たの?」

「いえ、先に開けておいたんです。開けておこうと思ったら、ハサミもカッターも無くって、そしたら秋人さんがカッターを貸してくれたんです」

「あいつは何でも持ってるからな」

 幸音は中の、折りたたまれた紙を開く。A4サイズの罫線の入ったシンプルな便箋だった。字はとても丁寧で、読みやすく書かれている。



 幸音さん、突然のお手紙失礼します。

 私のことは覚えてますでしょうか。

 もし覚えていたら、近い内に――大学病院の三○三号室にいらしてください。

 あなたに話したい事がございます。


 熊川 敦



 幸音は黙って文面を見つめている。やがて決心したように顔を上げて、真っ直ぐ春彦を見つめる。

「今日、会いに行ってみます。一緒に来てくれますか?」

「……うん。いいよ」

 幸音はふわりと笑う。

「よろしくお願いします。それから、ごめんなさい。一人で行くべきなのに」

「はは、いいんだよ。それに俺も、知った方がいい気がする。いや知りたいから」

 もう無関係ではない。幸音の父親のこと。幸音の過去のこと。知れるなら知って、共有させてくれるならしたい。

「それじゃあ、放課後に」

「下駄箱でいいよな」

「はい。それでは、時間が無いですけど、お昼ご飯食べてきますね」

「学食?」

「はい」

「んじゃあ、一緒に行こうぜ」

 幸音はふわりと笑って、はい、と頷いた。



 ☆☆☆☆☆



 放課後、下駄箱で幸音と待ち合わせをして、大学病院に向かう。学校から大学病院までそこまで遠いわけじゃない。のんびり歩いてせいぜい二十分くらいだ。

「熊川さんって、どんな人なんだ?」

 春彦が幸音に問う。

「悪い人ではない、としか……。何を話していたのか、全然思い出せませんし」

「いつ頃会ってたとかは?」

「中学に入ってすぐ、か……小学校六年生の時か……すみません、定かじゃないです」

 どんな人物か、春彦には全く分からない。危険があるのか無いのかも。でも、危険なら守ればいい。奈々枝の事は何も出来なかった、だからか、妙に気を張りすぎているのが、春彦自身分かる。すこしでも気を楽にするために、笑ってみた。

「ははは。まぁ、会ってみれば分かるよな」

「そうですね」

 幸音はくすり、と笑った。



 大学病院の中は静かだった。珍しく患者が少ないのか、待合室に人が殆どいない。受付で面会に来た旨を話し、病室に向かう。三階の三号室はエレベーターから出て右に行けばすぐに見つかった。三○三号と書かれた表札に名前が書かれたプレートは一枚だけ、「熊川 敦」の名前だけがあった。

「失礼します」

「失礼します」

 幸音は病室に入り、敦の元へと向かう。春彦も後ろから着いて行く。

 ベットから体を起こし、ノートパソコンで作業をしていた敦は、ノートパソコンを閉じる。若い男性だった。少しやつれている様にも見えるが、それは何かの病気のせいなのか。敦は微笑んで、落ち着いた声で歓迎する。

「こんにちは、幸音ちゃん。久しぶりだね」

「はい。敦さんも……いえ、敦さん、少しやつれた気がします」

「もうすぐ退院なんだけどね。ところで彼は?」

 幸音はチラと一瞬だけ春彦を見てから、言った。

「私の、彼氏さんです」

「え!?」

 春彦は思わず狼狽する。幸音はくすりと笑った。

「はは。そうだね、もうそんなお年頃だね。君が彩音さんと一緒に居た頃より、背も伸びたみたいだ」

「敦さん、私と会うのは何年ぶりなんですか?」

 敦は指を折って数える。

「……三年、位かな。君が中学一年の時に会っていたのだからね」

「三年……」

 幸音は遠い目をして、呟いた。やがて首を振る。

「たった三年…・・・それ以上、経っていた気がします」

「僕もだよ。彩音さんが死んで、ショックを受けたよ。今になって病気にもなったしね。 ……ああ、勘違いしないでね。僕がいつまでもショックを引きずって、それを振り払うようにがむしゃらに仕事してた結果、過労で入院してるだけだから」

 ははは、と爽やかに笑う。確かに、幸音が言うとおり、悪い人ではないと春彦は思う。

「教えてください。 ……あの」

 幸音は、中々二の句が次げない。迷っているのか、聞きたい事が多くて纏まっていないのか。助け舟を出してあげたいが、それでもどう出すか、春彦は小さく、えっと、と言うだけだった。

「……彩音さんと僕の関係、かな?」

「は、はい。敦さんとお母さんは……その、付き合っていたんですか?」

 敦は何がおかしいのか、失笑し肩を震わせる。

「くくく……ごめんごめん。そう映ってたのかぁ。全然、これっぽっちも、そんなんじゃないんだよ」

「じゃあ、どうしてお父さんは…・・・」

「幸音ちゃん、もしかしてお父さんは浮気を疑って、彼女を殺したのかい?」

「ええ。そうです」

 敦さんは目を伏せる。

「だったらやっぱり、彩音さんが殺された原因の一端は僕にあるな」

 幸音は、えっ、と声をあげる。

「どういう、ことですか?」

「……うーん。とりあえずもしね、殴りたくなっても、話を全部聞いてからにしてくれ」

 敦はノートパソコンを近くの台に置いて、短く深呼吸してからゆっくりと話しだす。

「僕は、無趣味なんだ。いままで趣味と言うものを持った事がない。興味も無くてさ。学校でもよく「つまんねー奴」とか「人生楽しい?」なーんて聞かれたよ。結局、大学出ても趣味なんてないまま、エスカレーターで弁護士になって、今まで生きてきた。別に趣味が無くったって生きていける。趣味が無いから、金をかける物が無いから、通帳の数字は増える一方さ。少しでも減るかと思って一人暮らししてもさ、やっぱり増えるんだ。使い道が生活に必要な物だけだからね。ある日、ちょっとたまには喫茶店でコーヒーでも飲んでみようかなと思って、ある喫茶店に寄ったんだ。そこで僕は、一際目を惹く女性に出会ったんだ」

「それが……お母さん、ですか?」

「そうだよ。君と、君のお母さんさ。幸せそうな親子。近くで、どんな人か見たくて、隣の席に座ったんだ。そうそう、あの時はカウンター席に二人は居たんだっけね」

「ええ、そう、でしたね」

「綺麗なお母さんだと思ったよ。幸音ちゃんの様な、水色の髪がどこかミステリアスな気がしてね。その人が誰かの妻だとか、そんなことどうでも良かった。この人と話したい。友達の一人になりたい。僕は生まれて初めてそう思ったよ。小学校も中学校も、高校も大学も、結局彼等が僕を友達と思っても僕から彼等を友達に思ったことは無い。一度告白されたことだってあるが、僕は興味がなくて、断った。 ……僕が興味を持った唯一の人だった。相手にして欲しいと思うのは、おかしいかな」

 敦は自嘲気味に笑う。

「幸音ちゃんと彩音さんの会話を聞いていて、彩音さんが発した一言が、会話をするきっかけになったんだよ。「お金が無いの、我慢してね」、その一言がね」

「……そんな、話だったのですか?」

「君がお母さんに携帯電話をねだったんだ。君も中学生、今では遅いくらいかもしれないが、持ちたいのは当然だろうね。もしかしたら君はそれを冗談のつもりで言ったのかな。ダメと分かっていて、そう言ったのかもしれない」

「覚えていません。思い出せなくって……」

「いいよ。僕が覚えているから、後で話してあげてもいい。でも今は続きを話すね」

 敦は一度息を吐いてから、続きを話す。

「はじめは「娘さんですか?」。彩音さんは嬉しそうに「はい」と答えて、まずは他愛ない話から始めた。本当にどうでもいい話から。しばらくして僕は「仕事で気苦労が絶えなくて。たまにはこういう喫茶店で癒されようと思いまして」と言った。そして彩音さんは「お仕事は何をなさっているのですか?」と聞いてきた。僕はその一言を待っていたんだ」

 敦の口の端が上がる。きっと、その時も一瞬、同じ表情をしたのかもしれない。掛かった、といった表情。

「僕は大体をぼかして、趣味が無くてつまらない人生に対する愚痴と悩みをほんの少しばかり彼女に聞いてもらったんだ。真剣に聞いてくれて、本当に嬉しかったよ。ついつい仕事の愚痴まで、小学生位の子供が今日起こった出来事を母親に話すように、話してしまった。しつこいけど、もちろんぼかしてね。幸音ちゃん、君の母親はとても聞き上手だったよ」

 幸音は「ありがとうございます」と少しだけ暗かった表情を明るくする。

「そして彩音さんが帰るというので僕は、彩音さんのコーヒーと、幸音ちゃんのカプチーノの代金を払って、なおかつお金を渡した。生活費の足しにしてくれ、と言って」

 善意、なのだろうかと春彦は思う。幸音の母親――彩音からすれば、見知ったばかりの男から、いくら生活に困っていたとはいえ金を受け取るだろうか。受け取らなければならないほど、生活が苦しかったのか。敦は一度、高揚し始めた気持ちを落ち着けるかのように、息を吐いてから続きを話す。

「最初はもちろん拒否してきたよ。だけど、むりやり持たせた。いいんだよ、金は幾らでもあるんだ。僕の預金通帳に、毎月使う分以上のお金が入るんだ。数字は増えるけど、僕はそれでもつまらないから。僕がお金を持ってても何にも使いやしない。だったら生活に困っている彩音さんの家族が幸せになれるように、あげようと思ったんだ」

「……自己中心的な人ですね」

「そう。人生をつまらなくしている原因は、他でもない僕自身だ。お金を渡して、受け取る彼女は少し困ったように笑ったよ。だけど僕の中には、とても良い事をしたという気持ちだけがあった。悪い事だとも、それが彼女を死なす原因になるとも思わなかった」

「死なす……原因、ってことは、原因を知っているということですか?」

 春彦の問いに、敦は首を振った。

「詳しくは知らないし、真相は分からない。だけど、僕にも責任の一端はあると思ってる。僕は彩音さんが喫茶店に来る時間を調べて、偶然を装って会った。また他愛ない話から始めて、後は相談。そして最後に二人分のコーヒー代とお金を渡して、別れる。それを……四ヶ月以上続けてた。お金を渡すことはもちろんだけど、多分一番の原因は、僕と話していたことだよ」

「お母さんと敦さんが話してた……だけ、ですか?」

「そう。幸音ちゃん、君のお父さんは……僕を探していたんじゃないかな」

 幸音は息を飲む。

「殺された人達全員ではないけど、少なくとも僕の勤める事務所の先輩は殺され、その後すぐに僕はその先輩の分も仕事することになった。後輩の子も殺された。腑に落ちないのは、なんで僕を直接狙わないのか、って所。まぁ、僕は彼じゃないから、意味なんて分からないんだけどさ。小説の主人公なんかだったら、今頃気づいてるところなんだろうけど」

 敦は笑った。

「お父さんは……なんで、敦さんを狙わなきゃいけないんですか?」

 幸音は独り言のように呟いた。敦はフフッ、と短く笑う。

「さぁ。思い当たるとするなら、浮気、と思ったんじゃないかな」

「それにしたって……お母さんに聞けば、すぐに分かるじゃないですか、違うって事」

 幸音の頬に雫が流れる。

「何が気に入らなかったのかな。浮気じゃないって思っても、お金を受け取っていた事が気に入らなかったのかな。 ……幸音ちゃん」

 ベットの上に正座し、深々と、敦は土下座した。

「すまなかった。僕が現れたせいだ。僕の事はいくら恨んでくれてもいい」

 幸音は制服のポケットからハンカチを出して、自分の涙を拭う。

「……誰も、恨みません。でも……皆…………恨みたい。お父さんも、あなたも」

「幸音……」

「敦さんの話が鍵を開けてくれました。思い出したんです。敦さん、あなたから貰ったお金は、一円も使っていません」

 敦はゆっくりと顔を上げた。ぽかんと、目を見開き口を開けて。

「お母さんは、敦さんから貰ったお金は、捨てていましたから」

 春彦は愕然とする。お金を捨てた? 受け取ったお金を使わず、全て捨てていたというのか。理解できない。幸音は続ける。

「お父さんは……幸雄さんは裏切れない。そう言って、捨てたのです」

 彩音という人は、幸雄という夫をどれだけ愛していたのだろう。家族を、どれだけ愛して、どれだけ苦労したのだろうか。誰も分かってやることは出来ない。その心中、どんな思いがあったのかも、誰も分からない。

 そして、殺される瞬間、何を思ったのだろう。春彦は胸を締め付けられるような感覚を覚える。この感覚は、きっと幸音の方が強いに違いない。

「そんなお母さんを疑い、殺したお父さんを許したくない。恨みたい、死刑になってしまえばいい。そう思います。だけど…………死刑になればいい、けど……その前にお父さんに、聞きたい。お父さんが何を思ってお母さんを殺したのか、何で、無関係な人にまで……」

「幸音ちゃん……」

 敦は頭を下げ、嗚咽も漏らす幸音の頭に手を伸ばす。届かないからだろうか、それとも触れてはいけないと思ったからか。敦はすぐに、手を引いた。



 ☆☆☆☆☆



 春彦は病室を後にして、外に出てすぐ優に電話をかけた。幸音は少し離れたところで遠くを見ている。少し一人で考えたい、と幸音は言ったのだ。

『――もしもし』

 優の声はとても暗い。春彦は気にはなったが、今は聞かない事にして本題を話す。

「なぁ、優。華良幸雄と幸音を、面会させることは出来ないかな」

『それは無理だ』

 即答だった。春彦が何故、と返すよりも先に、強く言う。

『絶対に無理だ』

「早くていつ?」

『答えられない』

 そこをなんとか、と言いたいが、優でなくても、きっと誰も答えてはくれないだろう。春彦は舌打ちをする。なんとか、幸音と幸雄が話す場が欲しい。春彦はアレコレ考えを巡らす。

『……すまない、力にはなれない』

「あ…………いや、俺の方こそ。お前も大変だな」

『一番大変なのは幸音さんの方だ』

「そうだよな」

『悪い。今は忙しいんだ』

「ああ、ごめん」

『いや……また明日。学校で』

「うん」

 優の方から通話が切られた。春彦は携帯をポケットにしまい、幸音の側に行く。

「面会は出来ないって」

「そうですか」

 なんとなく幸音も分かっていたのかもしれない。特に驚きも、憤りも見えない。ただやっぱり、といった風な口調だった。

「このまま、私の知らない内にお父さんは死刑になってしまうのでしょうか。私はお父さんの心の内を知らないまま。 ……やっぱり、知りたい。どうしてお父さんはお母さんを殺したのか、どうして無関係に沢山の人を殺したのか」

「話していたじゃないか。逮捕された時に」

「……そうですけど、でも……」

「確かにさ、分からないよ。彩音さんを殺したのは、敦さんに浮気したと思い込んだから。そう考えれば分かるけど――」

「それだって変ですよ。お母さんから話を聞けばそれだけで……分かるはずです」

 幸音に当時の記憶はどの位あるのだろうか。母との思い出。父はどんな人か。どれだけ覚えているのか。そして、どれだけ自分で封印してしまったのか。さっき病室で敦の話を聞いて、幸音は少しだけ思い出したようだった。何かしら、思い出す鍵はあるのだろう。だが、春彦には、全てを開錠してあげられる自信も無く、そうする事への恐怖がある。果たして全てを思い出すのが、彼女の為なのか。思い出さなくてもいいんじゃないか。むしろそうした方が前に進めることだってあるはずだ。

「幸音」

 幸音は春彦の方に顔を向ける。少しぼんやりとした瞳。春彦は映っているのだろうか。

「……遊びに行こう」

「え?」

「散歩でもいい。少し、気分転換してさ。それから少し落ち着いてからもう一度考えよう」

 春彦は幸音の小さな手を引く。

「……そう、ですね。少し歩きましょうか」

「うん。じゃあ、どこに行こうか」

 幸音はふわりと笑い、言った。

「春彦さんに、お任せします」

 返答に困った。お任せされても、そんな良い場所なんか知らないからだ。十七年近く住んでいる町だと言うのに。むしろ長い間住んでいるからかもしれないが。



 ☆☆☆☆☆



 ぶらぶらと、どこへ行くでもなく、ただぶらぶらと歩いている。次は右へ行こうか。いいえ左へ行きましょう。そんな会話をしながら、二人はそれ以外あまり会話も無く、手を繋いで町中を歩く。お互い、それに不満があるわけじゃない。少なくとも春彦は、こうして幸音と手を繋いで歩いているだけで楽しい。特に盛り上がるわけでもない、静かな散歩。穏やかな春風を感じながら、唯一残念だとするなら桜が殆ど葉桜になっていることか。

「春彦さん」

 沈黙を破ったのは幸音だった。

「春彦さんは、私の事が好きですか?」

「は……!?」

 予想外の質問に、春彦は思わず目を丸くして驚いた。

「す、好きか、って……そりゃあ……」

 惹かれる、と好きは違う。と春彦は思う。幸音の力になりたいと思うのは好きということなのだろうか。いいや、でも、と悶々と考えてしまう。

「……えっと」

 幸音は、目を泳がせて悶々と考える春彦を見て、くすりと笑った。

「難しい質問でしたね」

「そんなことは無いはずなんだけど」

「じゃあ、今。素直な気持ちでいいですよ」

「……」

 素直な気持ち。しばらく、幸音を見つめて、自分の素直な気持ちを探る。いつの間にか、悶々と考える思考に埋もれてしまっていた、直感的な素直な感情。はいといいえ、白と黒。そして、好きと嫌い。

「……好き、かな」

「私もです。 ……不思議ですよね。まだ会って一週間そこそこなのに」

「俺以外の男と話してないからだよ。もっといい人はいっぱいいる」

「天邪鬼なんですね」

「え?」

「私は、春彦さんがいいです」

 幸音は素直な言葉と共に、ふわりと笑った。春彦は目をそらす。直視できない。嬉しすぎて。



 幸音の家の近所。前に春彦と龍也が話しをした小さな公園。自販機で同じミルクティーを買って、ベンチに座って休んでいた。空は日が傾き始め、金色なっている。これからしばらくしてオレンジ、紫、青と変わっていき、真っ暗な夜になる。

「今日は確か新月です」

「そうなんだ」

「新月の日って、少し寂しいと思いませんか?」

「月がいないから?」

「はい。いつもそこにいるはずの月が、新月の日はいません。寂しいです」

「……えっと」

「えっと、ってさっきも言ってましたね。ごめんなさい、答えずらい話題ばかりで」

「いや、そんなことはないけど。 ……俺がポキャブラリー不足なだけだし」

 春彦はまだ暖かいミルクティーを一口飲んで、短く息を吐く。

「……新月ってさ、確か見えないだけで、月はそこにいるんじゃなかったっけ」

「そうです。 ……けどそれを言っては夢がありませんよ」

「まあね」

 新月。太陽と月の黄経差が0度となり目に見えない状態の事を言う。月は太陽の光で照らされていて、地球上の生物からはその照らされた部分だけが見えている。だから、常識ではあるが、新月の日に月が見えないからと言って月がいなくなったわけではないのだ。ただ、月が居ない、という表現は割りとロマンチックではある。

「……春彦さん。気づいてました?」

 幸音は左手の薬指を春彦に見せる。以前小さなアクセサリーショップで買って、春彦がはめてあげた指輪があった。

「まだ付けてたんだ」

「当然です。これは大事な物ですから。 ……春彦さんは?」

 春彦は制服の内ポケットから指輪を取り出す。あの時チェーンを付けてもらったので、首から提げておけばいいのだが、それは流石に校則に触れかねない。もし触れたとして、軽い注意で済むだろうけれど、妙にいい子ちゃん思考の春彦は、お守りのように内ポケットに入れておくだけだった。

「薬指に付けてて、からかわれないか?」

「その時は胸を張って、春彦さんに頂いたのです、と言いますから。まぁ、まだからかわれた事は無いので、言った事はありませんが」

 少し恥かしそうに、幸音は言う。

「……幸音って、そういう事はっきり言えるんだ」

「そういう事?」

「いや、好き、とかさ。恥かしくて、照れ臭くて俺は言えないからさ」

「照れ屋なんですね」

「悪かったな」

 幸音は笑う。

 気づけば、もうすっかり元通りな気がした。ただ気分転換しているだけだから、きっと帰ってからまた思い悩んでしまうのだろうか。春彦は少し心配になる。出来る事なら、一緒に居てあげたい。

「なぁ、その……」

 幸音は首を傾げる。春彦はまた、特に考えも纏まらないまま話し出してしまった。二の句をどうするか、言葉を選びながら続ける。

「あんまり、気負うなっていうか……ほら、これから帰ってからさ。気分転換って言ったって、それはその時、今だけだし」

「春彦さん……」

「ええっと、うん、しばらく忘れよう。お父さんのこと、お母さんのこと。敦さんのこと、全部忘れて――」

 ――いいのだろうか。春彦は言葉を止める。今一旦忘れて、後で気持ちを整理すればいい。なんて思ったが、それでいいのか。

 どれだけ辛くても、彼女が向き合うべき問題なんじゃないのか。もちろん春彦が決めるのではない。だけど、間違った選択をさせる、動機を与えてしまわないか。

 気分転換を申し出たのは春彦だ。だけど、それ以上はいけないんじゃないのか。

「春彦さん、その……」

 幸音は申し訳無さそうな顔で俯く。

「私は……どうしたらいいでしょうか」

「どう、って?」

「春彦さんが言うように、一旦忘れて、後で気持ちが落ち着いてから考えればきっと、自分を納得させられる答えが、自分で出せるかもしれません。特にこういう問題には、きっと効果的なんでしょう。時間が解決してくれる、という言葉の通りに」

 時間が解決してくれる――春彦はそれが言いたかった。幸音は首を振る。

「言いたい事……聞きたい事……山のようにあります。一つでもいい、二つでもいい。誰かに答えて欲しい。その誰かって、一人しか居ないじゃないですか」

「……」

「お父さんは……お母さんを愛していたのでしょうか。まずは、それが聞きたいです」

 春彦は何も言えない。幸音はただ聞きたいだけ。聞いて、知りたいだけ。幸雄が彩音を殺した動機。そして……なんだろう。幸音のその先の感情は、春彦にはもう想像できない。

「春彦さん。これから、どれくらい掛かるか分かりませんが、私はずっとこの事に向き合っていく事に決めました。 ……ですが、少し隣が寂しくて。あなたに、隣に居て欲しい」

 幸音は曇りの無い、真っ直ぐな瞳を春彦に向ける。

「……龍也さんが、居るじゃないか」

 身近で、家族で、血は繋がっていないが兄妹。好きだと言われたが赤の他人の春彦よりも、一番親身で、近い人物。春彦の本心を隠すように、その名を口にしていた。

「春彦さんじゃなければ、私は真実を知る勇気を持てません……!」

 幸音はミルクティーの缶を落とし、肩に触れていた春彦の手を握った。

「私が好きで……一緒に居て勇気をもらえるあなたでなければ、ダメなんです!」

「俺と一緒に居て……勇気を……?」

「あなたは諦めなかったじゃないですか! 私が男の人が怖くてあなたさえ避けなければならなかった時に、あなたは私を抱きしめてくれた! 怖かった……けど、温かかった……だから、もし、真実に近づいて、怖くなったら抱きしめてください。温かさは勇気になる。私は、真実を知りたい。そして……あなたにも、側に居て欲しい」

 春彦は幸音を抱きしめる。小さいその体を、引き寄せる。

「……分かった。正直自信は無い。だけど、うん。幸音が好きだ。幸音が真実を知りたいなら、俺は幸音の手助けをする。幸音の側を歩いて、震えたら抱きしめる。だから幸音、もっと俺に頼ってくれ……」

「はい……大好きです。春彦さん」

 キスはしない。ただ抱き合うだけ。それで十分だし、それ以上を望むつもりは二人には無かった。お互いにあるのは、真実を知りたい、という一つの目標だけだ。



 ☆☆☆☆☆



 春彦はハッとする。

 記憶は……幸音を抱きしめて、大好きです、と言われた所で止まっている。

 そして今、春彦は寝室のベットの上だ。

 時間が跳んだ。それとも舞い上がって覚えていないのか。腹の上に乗った携帯電話を取り、開いて画面を見る。一通のメールが届いていた。だがメールよりも、春彦は別な事に驚いた。

「……日付が……二十四月、十二日!?」

 慌ててベットから出て、机の上のカレンダーを確認する。が、カレンダーの数字が全て、黒く塗り潰されている。

「秋人!」

「……んぁ」

「今日は何日だ!?」

「……すぅ」

「秋人!」

 二段ベットの上に上がり、秋人の肩を揺する。しかし反応は無く、ただ寝息を立てて眠っている。春彦は舌打ちをして、部屋から飛び出し、居間に入り電気を点ける。居間のカレンダーも、両親の寝室のカレンダーも、トイレのカレンダーも、電話機の後ろの壁に掛かったカレンダーも全て黒く塗り潰されている。父親のデスクトップパソコンを点けて、デスクトップの時計を見てもありえない日付を表示している。再起動しても、時計の設定をリセットして再設定してもおかしいままだ。インターネットで、どこかのサイトで今日の日付を見ようとインターネットを起動するが。

「……ネットに、繋がっていない!?」

 LANケーブルは確かに刺さっている、それにコンピュータの設定もおかしい所は無い。だというのに、ネットワークに接続できない。

 春彦は諦めて、パソコンをシャットダウンし、居間のテーブルに向かう。椅子を引いて、座った。短く息を吐いて、携帯を取り出す。届いていたメールを見ようと操作する。

 送信者は幸音だった。

『お父さんの弁護士、敦さんになったそうです。明日の放課後、敦さんに会うのですが、一緒に居てくれませんか』

 春彦はふと、時計を見る。深夜三時を周ったところだ。今からメールするのは失礼だろうか。明日、一応また幸音の家に行く。その時でいい。春彦は居間の明かりを消して、自室へと戻り、ベットの布団に入る。



 ☆☆☆☆☆



 私は体を起こす。

 ふと手近の漫画を手に取った。とある漫画家の短編集だ。机の上の電気スタンドの明かりを点けて、パラパラと内容を読む。その読み方は、そういえばあの話はどんな終わり方するんだっけ、とちょっと気になって読み返すような読み方だ。

 ……ああ、そうだ。そう、こんな終わり方だった。

 少女は前を向いて生きていこう、そう決意して終わるんだ。まぁ、良くある話だ。

 トラブルが起こって、絶望して、紆余曲折あって、それでも前を向いて生きていこう。そう決意して終わる。チープだ。安い。百円ショップで百円以下で売られていそうなくらい。駄菓子屋のお菓子くらい。

 つまりそれほどありふれたお話だ。

 でもまぁ。私は割りと好きだけど。今は……見ていてイライラする。



 ☆☆☆☆☆



 秋人は普通に、いつも通り春彦を起こした。春彦はいつも通り顔を洗って、居間で秋人の作った朝ごはんを食べて、制服に着替えて、幸音の家に向かう。いつも通り、のはずだ。

 だけど春彦にはどこか、違和感がある。はっきりと目の前が見えているはずだ。だというのに、何だか少し、霞がかる時がある。そして今日はいやに、人が少ない。そういう日もあるのかもしれない。春彦は頭を振って、空を見上げた。

 思考を変えたくて頭を振ったのに、空を見たらまた、天板に映像が表示されているような空を見て、同じ思考が湧く。今日一日、これに悩まされるのかと思うと、本気で精神科に行きたくなる。自分でもやばいと思うのだ。

 そんな違和感を抱きながら、春彦は幸音の家の前に着いた。

「…………?」

 幸音は、その家族はこの門の先の、家の中に居るんだよな? と何だか不安になった。何故か、廃墟のようだと、感じたからだ。

 不安は大きくなるばかりで、春彦は門に手をかけた。そこでガチャ、と戸が開く音がしてその方を見る。

「春彦さん? おはようございます」

 幸音がふわり、と笑って、戸を閉めて鍵をかけて門の前に来る。

「……幸音?」

「はい?」

「今日、家に誰も居ないのか?」

「ああ……あれ、前に話しましたよね? 私以外は、高志乃の方に行くから、家でしばらく一人なんです、って」

 春彦はえっ、と声をあげた。なんだその話は? 知らない、聞いた事も無い。

 つまり、またこの前の土日のように時間が跳んだのか。常識を超えた出来事に、思考が追いついていかず、思考が停止した。

「春彦さん? もしかして、具合悪いんですか?」

「……あ、ああいや。その、うん。ちょっと頭が霞がかったようでさ……」

「大丈夫ですか?」

 幸音は心配そうに春彦の顔を覗きこむ。春彦は顔を逸らし、頭を掻く。

「大丈夫だ。多分。ちょっと頭に栄養が足りないんだよ」

「ふふ、それって大分悪いかもですね」

 幸音は門を開けて出て、閉めた。キチンと鍵をかけて、鍵を胸ポケットに入れた。

「では、行きましょうか」

「ああ。 ……ところでさ。今日は何に――」

「そうだ、春彦さん」

 幸音は思い出したように会話に割り込んできた。

「あ……その、ごめんなさい」

「いや、別に。 ……先どうぞ」

 春彦は歩き出す。幸音はその隣に並んで歩き、話す。

「ごめんなさい。えっと、今日の放課後に敦さんと会うんです。春彦さんにも是非同席して欲しいんです」

「ああ、いいよ。頼まれなくても側にいるし」

 春彦は歯を見せて笑う。幸音もふわり、と笑う。

「ありがとうございます。 ……先程、何を言いかけたのですか?」

 今日の日にちについてだったが、恐らく、聞いても無駄だろう。正確な日付はどこにも無い。多分、聞こうとすると、必ず邪魔が入るようになっているに違いない。春彦はその質問を飲み込む。

「なんでもない。それよりも、敦さんがお父さんの弁護士になったんだって?」

「はい。奇妙な縁だ、って笑っていましたが……」

「内心、穏やかじゃないだろうなぁ」

 春彦は未だ、違和感を感じている。少なすぎる交通量。登校時間、出勤時間なのに異様に少ない人。だがその原因を知る術も、何とかする方法も春彦には無くて、違和感を感じてもこの世界で生きていかなくてはならない。



 教室の中は至って普通で、違和感を感じない。逆にそれが違和感でもある。

 三時限目も終わる頃には、すっかり春彦は慣れてしまったが。

「なぁ、春彦」

「ん?」

 秋人謹製の弁当を広げながら、春彦は金髪の問いに生返事を返す。金髪はあんぱんの袋を開ける。

「しばらく、三人で飯食ってねーな」

「そう……だな」

 その“しばらく”がどれくらいかは、春彦には分からない。

「……あいつさ、学校に来ても全然俺達とも話さなくなったし。それになんか、やっぱ元気ないよな」

 教室の中に、優の姿は無い。今どこにいるのかも分からない。

「優は、今どこにいるんだ?」

「さぁな。学食かどっかじゃねーか」

「行ってみないか? 俺達で元気付ければ――」

「何度もやったじゃん」

 春彦は二の句を次げなくなる。「そんな事」が「あった事」になっている。

「……下手な事言うとさ、余計に傷つく事だってあるじゃん。だからあんま、しつこく言うのは良くない。 ……ってお前が言ったんだぞ」

 金髪はあんぱんをかじる。

「そうか。そんなこと、言ったっけ」

「まぁ、でも。こればっかりはアイツの問題だからな」

「そうだな」

 春彦はそれから黙々と弁当を食べながら、思い出そうとする。優がどうして、こんな事になってしまっているのか。一番、というよりもそれしか考えられないが、やはり奈々枝のことなのかもしれない。奈々枝が自殺したと言う話。恐らくそれ以降だ。

 春彦は、何か、俺は出来なかったのか、と考える。考えるだけ無駄な事だ。だが、そう理解していても、ああできたんじゃないか、こうしていれば、と考えてしまう。無駄だ無駄だと自分の脳に言い聞かせても、思考は止まない。

「……なぁ」

「ん?」

 金髪はパックのコーヒー牛乳のストロー差込口を開けて、妙に長いストローを刺していた。

「何か、俺達、出来なかったのかな」

「……無理だったんじゃね。例えば俺達三人で励ましに行くって言ったってさ、あっちからしたらイヤかもしれない。どっちにしても、もう遅い」

「…………」

「俺達がこうやって後悔ばっかして生きてさ、何十年したら死んで、その更に何十年、何百年後になってやっとタイムマシンが出来るんだぜ、きっと。その頃にはもう、奈々枝の事なんて誰も覚えてないし、知らない。誰も過去を変えに行こうなんて思わない。 ……俺、しばらくドラえもん読めないよ」

 金髪はストローの先を咥え、コーヒー牛乳を飲む。春彦は少し焦げ目の目立つたこさんウィンナーを箸で取り、口に運んだ。



 ☆☆☆☆☆



 下駄箱にはすでに幸音が待っていた。春彦を見つけると、ふわりと笑って手を振った。

「待たせた?」

「少し、時間が長く感じました。でも、何となく心地よかったです」

 靴を履き替えて、昇降口を後にする。

「春彦さん。明日は土曜日ですよ」

「え? ああ、そうだね」

 日にちが分からないのだから、もちろん曜日など知る由も無い。そうか、今日は金曜日だったのか、と春彦は反芻する。

「明日、何か予定はありますか?」

「特には無いけど」

「じゃあ、その、お出かけ、しませんか?」

 幸音は少し頬を紅潮させて言う。その表情と発言に、春彦の胸はドキ、と高鳴る。

「……つまり、デート、って事?」

「そうです。えへへ、だって、もうお互い相思相愛なんですから。デートくらい、したいじゃないですか」

 相思相愛、春彦は顔を逸らした。またそんな事を恥かしげも無く、と春彦は内心、幸音の大胆さに圧倒された。それだけはっきり言える大胆さは、春彦には羨ましくもあった。

「まぁいいけど……」

「ふふ、楽しみです」

 幸音はふわり、と笑う。



 敦との待ち合わせ場所は、住宅街でひっそりと営まれている喫茶店だ。小さな喫茶店で、カウンター席が四つ、テーブル席が二つしかない。内装は割りと凝っていて、特にテーブルと椅子はマスターの手作りだ。新品の様なジュークボックスからは、ジャズソングが流れいて、雰囲気も良い。

 春彦がドアを開けると、カラン、カランとドアに取り付けられたアンティークなベルが来店を知らせる。春彦達が店内に入ると、奥のテーブル席に敦が居た。春彦を連れて来るのを知っていたらしく、普段は二つだけの椅子が、一つ多く用意されている。

「やあ、悪いね。マスター、カフェオレ二つ」

「え」

「カフェオレが一番美味いんだ。飲めば分かるよ」

 カフェオレを用意するマスターが、ははは……、と力無く笑い、短くため息をついた。

「……」

「マスターの淹れるコーヒーはどれも美味いよ。強いて言うなら、だよ」

 ありがとうございます、とマスターは言うが、絶対に傷ついた。


 春彦と幸音の前にカフェオレが並んだところで、敦は表情を変える。

「さて。それじゃあ……本題に入ろう」

「よろしくお願いします」

 幸音が頭を下げ、春彦もそれに倣う。

「まず、華良幸雄の死刑判決は、ほぼ確実に覆らない」

 春彦は息を飲む。チラと幸音の表情を窺うと、幸音は分かっていた、やっぱり、といった表情だ。春彦ももちろん、そうなるだろうとは思っていた。むしろそうでなくてはならない。幸雄が何人の命を手をかけたのかは分からない。だが、例え一人でも、その一人の残された家族や親戚は死刑を望むのではないか。あるいは優しい人なら、刑務所に服役し、キチンと罪を償ってください、と涙ながらに言うかもしれない。だがそれよりも、春彦が気になったのは別な事だ。

「そんな話……ここでしていいんですか?」

「ニュースで散々取り上げられてるよ。それに、今だけここは貸切状態だ。ね、マスター」

 カウンターのマスターの耳にはイヤホン、カナルタイプのイヤホンのようだ。聞かないようにしながらも、作業を続けている。いいのだろうか、と春彦は思う。

「大体、十人以上殺している、って自白してるし、正確な数は本人も覚えてないくらいだ。それで懲役ン十年だとか無期懲役とかだったら、日本の司法に未来は無い。断言してもいい」

 弁護士とは思えない発言だが、春彦もそれには同意だった。殺人鬼と化してしまった幸雄が更正するとは思えないし、それにもう彼自身を裁かれなくてはいけない。

「……それでね、幸音ちゃん」

「はい」

「面会はできない」

 幸音は息を飲む。

「どうしてですか」

 春彦が聞いた。幸音よりも先に、春彦が口を開けた。

「本人が面会はしない、と言うんだ」

「…………」

「手紙も書かない、と。ただもう俺の事は忘れてくれ、と。そう伝えて欲しいって頼まれた」

「……忘れる? できません! できるわけない!」

 幸音は声を荒げた。乱暴にテーブルを叩く。カフェオレの入ったカップが揺れ、僅かにこぼれた。

「なら教えてください! どうしてお父さんは……」

「……うん、その話をしに来たんだ。彼の話がどこまで本当かは分からない。そして、僕の私見も混ざってる。それでもいいかい?」

「お願いします」

 幸音は深く頭を下げる。敦はコーヒーを飲んで、短く息をついてから話す。

「幸雄さんは、殺害した彩音さんと君、幸音ちゃんの為に己を抑えてずっと働いていたんだ。彩音さんの笑顔を思い出せば百人、幸音ちゃんの笑顔も思い出せば千人力。小さな手作り弁当が本当に美味しかったそうだ。上司に怒鳴られようが、後輩に鼻で笑われようが、コンビニの店員に舌打ちされようが、全て家族の為だと言い聞かせて生きてきた」

 敦は両肘をテーブルに付き、両手を組んだ。

「ところが、会社の帰りに彼は見てしまった。僕と彩音さん、幸音ちゃんが親しげに話すところ。そして、僕が彼女にお金を渡す所をね」

「……敦さん」

「なんだい?」

「どうして、お父さんは敦さんを狙わなかったんですか?」

 敦は少し迷うように表情を曇らせた。

「……彼はね、彩音さんの浮気を疑った。その疑いはすぐに裏切られた、と狂気に変わり、彩音さんを殺める動機になった。そしてその事でタガの外れた彼は、今まで抑えていた殺人衝動の赴くままに人を殺め続けた。最後に幸音ちゃんを殺して、自首して終わり。 ……僕を殺す、ではないんだ。誰でもいい、殺したいから殺した」

 幸音は肩を震わせている。春彦はカフェオレを一口飲む。温い、が甘くてほんのりと苦い。今の状況も、このカフェオレのようだったら良かったのに、と思う。

「浮気相手なんて、本当はどうでもよかったんだってさ。彼の殺人衝動を目覚めさせたのは、些細な疑惑だった。あまりにもあほらしい話だと思ったよ」

「…………本当に、本当にあほらしい話、です」

 幸音は声を震わせ、怒りを乗せて言った。

 疑惑。同じ状況だったなら、普通どう思うだろうか。友達と思うか? それとも浮気じゃないか、と幸雄のように疑うか? 春彦は前者だ。だからこそ、幸雄の心境が分からない。理解できない。

「もし、きちんと話し合っていたなら。なんて話をする気は無い。どれだけあほらしいと思っても、当人にはそれがトリガーだったんだ」

「敦さん」

 幸音は伏せていた顔を上げた。目からは雫がこぼれている。

「お父さんは……お母さんを愛していたんでしょうか」

「深すぎたんじゃないかな……些細な疑いがトリガーになるくらい、深く深く。理解を超える深さで」

「お母さんは、お父さんを愛していたんでしょうか」

「それは断言できる。彩音さんは、幸雄さんを愛していた。どれだけ貧しくても、俺から受け取った金を捨てて、幸雄さんが稼いだお金だけを使って。幸雄さんは、何度も彩音さんから自分もパートをすると相談されたそうだ。だけど彼は毎回、必ず許可しなかった」

「どうして」

「……それは……幸音ちゃん。君がお母さんから受け継いだ、その髪のせいだよ」

 幸音は、え、と短く声を挙げた。

「近所から、不気味な人と言われていたそうだ。幸音ちゃん、でも分からないか? 君はその髪の色を気にしているかもしれない。だけど……それが普通の意見だ。近所から不気味な女とされていた。もちろん、彼女の性格を知る人からすれば、そうではないのだろうけど」

 空の青を塗ったような、ふんわりとした現実味に欠ける水色の髪。どうだろう、もし身近に、それこそ徒歩圏内の近所にそんな人が居たら。珍しいと思う反面、どこか不気味に思うかもしれない。何故なら不自然で奇妙、「有り得ない」という言葉をそのまま使えてしまうからだ。染めているにしては、幸音の髪の色は自然過ぎる。

「そういう、近所のことを知っていたからこそ、幸雄さんは彼女をあまり外に出したがらなかったんだ。たとえどれだけ生活が苦しくても、彩音さんが傷つくことに比べたら。ってね」

「勝手ですよ……どこまでも、身勝手で…………」

 守る為。水色の髪の愛する妻と娘を守る。幸雄はそれで幸せだったのだろう。彩音はどうだったのだろう。幸せだったのか。少なくとも、幸音は幸せではなかったのではないか。春彦がどれだけ考えても想像もつかない話だ。敦は腕時計をチラと見た。

「そろそろ貸しきり時間は終わりだ。僕も行かないと。何か、伝えることある?」

「万一死刑を免れても、金輪際関わらないで。重すぎるから。とだけ、お願いします」

「…………それだけ?」

「………」

 幸音は泣きながらも、ふわりと笑顔を浮かべる。敦はくすりと笑って言う。

「分かった。伝えるよ」

 敦は席を立つ。椅子の下の鞄を取り、中から財布を取り出す。

「それじゃあね。お代は払っておくから」

 カウンターで作業をするマスターにコーヒー代を渡し、敦は店を後にした。

「幸音」

「春彦さん」

 被ってお互いに気まずい雰囲気に拍車が掛かる。

「…………幸音から、どうぞ」

「…………えっと」

 カラン、カランとドアのベルが客の来店を知らせる。若い男女のカップルだった。

「とりあえず、出ましょうか」

 幸音は温くなったカフェオレを飲み干し、椅子を引いて立ち上がる。

「ごちそうさまでした」

 マスターに言うと、彼は微笑んだ。



「春彦さん」

 どこに行こうという訳じゃない。ただ歩いているときに、不意に幸音が春彦に声を掛けた。

「なに?」

 幸音はふわりと笑う。

「明日から、いいえ、今から。新しい人生を歩もうと思うんです」

「新しい人生?」

「はい。お父さんの事は受け入れました。 ……受け入れる事にしました。そういう、愛の形だったんだ、って。許せないけど、それでも」

 幸音は春彦の前に立ち、春彦の目を真っ直ぐに見る。

「恨むのは簡単です。立ち止まって恨むだけ。でもそれじゃあ、つまらないし、前には進めないじゃないですか」

 春彦の視界が少しずつ、白む。擦っても変わらない。

「だから、向かい合って受け入れて、その先へ……」

 幸音の声が遠くなる。

「春彦さん」

 幸音は春彦に抱きつく。彼女の温もりが、少しずつ消えていく。

「デート、したかったけど……私を助けたように、助けるべき人を助けてあげてください」

「助けるべき、人?」

「さようなら。お元気で」

 白くフェードアウトする。助けるべき人。それは誰なのか。春彦が思い出すより先に、意識が途切れた。



 ☆☆★★★



 春彦君。春彦君、はるひこくん。

 私はね、なんとなーく、君が好き。な気がする。

 恋愛経験無いから、これが好意なのか、友達と同じ感覚なのか、判断つかないんだけど。


 ホント言うと、君は怖くないんだよね。

 だから、うん、一緒に居たい。

 勇気、無いけどね。自殺する勇気はあるのになぁ。



 ★★☆☆☆



 私は拳を机に叩きつける。

 舌打ちを何回もする。電気スタンドを投げてもいい。本を投げてもいい。

 私の今の行動は、思い通りに行かない子供のようだ。

 深く息を吐く。



 ☆☆☆☆☆



 春彦は目を覚ます。窓から、光が差している。ガチャ、とドアが開く音がした。

「兄貴ー。ん、起きてたのか」

「・・・・・・」

「脳味噌は寝てるな。顔洗って、朝飯食べてくれよ」

「秋人」

「ん?」

「今日は、何日だ?」

「四月一日、俺の入・学・式だ。母さんは入院中だし、親父は今日も仕事だ。だから兄貴が写真撮るんだよ」

 またもや時間が巻き戻った。秋人が出て行った後、春彦はベットを出て、ふと机の上を見た。見覚えのある本と、その上に乗っているチェーンの通った指輪。

 幸音との、思い出の品だった。

 幸音は覚えているのだろうか。時間が巻き戻ったことで、全て無かった事になっていたら?

 春彦は携帯に繋がった充電ケーブルを抜いて、画面を開く。一件メールが届いていた。

 『春彦さんへ』と題名のついたメール。

『私はもう大丈夫。まだ少しあなたの腕の中が恋しいけれど、大丈夫です。助けてあげてください。助けを待つ人を、助けてあげて』

 春彦は携帯を閉じる。目を擦り、溜まった涙を払う。

 疑問、沸騰したお湯の泡のようにブクブクと湧く疑問の答えなど、どうでもいい。

 時間が跳び、巻き戻る。非常識な事態だ。だけどそれを利用するんだ。救えなかった人を救う為に。もし救えれば、幸音のように先に進めるようになるかもしれない。

 春彦はチャンスだと考える。


 奈々枝を救おう、なんとしても。


 春彦は携帯を閉じる。机の上の本を本棚に、指輪はチェーンの繋ぎを外し、首につける。

 制服に袖を通し、ズボンを履く。ズボンのポケットに携帯を入れ、そして鞄を持って、自室を出た。


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