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別れ

「馬鹿だよね、あんた」

眼下を流れる川面を撫でるように風が過ぎ去ってゆく。

輝き、小波が立った水面から飛び出した魚が大きな波紋を広げて水中へ還っていく。

南の空。深く抜けた空の底に張り付いたような白い太陽が世界を照らしている。

山の輪郭を這うように低い雲が、ちぎれるほどに細いのを見た。

背後の民家の群れを守るようにそびえる堤防の上に私達は立っていた。

堤防といっても固い土を積まれた散歩道のような、緑色の小山。民家を背に川面を見つめれば、サッカーのゴールを向き合わせて二つ置いた狭い川原が視界に入る。対面する岸にも同じように川原があって土を積んだ堤防があってその下に街があった。お互いに違うのは、こちらの岸にはゴールがあって向こうの街にはスーパーがあるくらいだ。橋はまだ遠くにある。

風が駆けた。

耳に掛けた髪を崩して、目の前に散った一房をもう一度掛け直す。

「ああ、バカだと思う、俺は」

左耳に届いたテノールに眉をひそめる。今更なんだって、ふつふつと沸騰した湯のような心地。

お互い無言で繋いだ手に力がこもる。

いっそ爪を立ててしまおうか。

「爪、立てていいよ」

握り潰してやりたいままに、昨日形を整えた爪を遠慮なく突き立てるように手を握る。

潰してしまいたい、こいつの手と一緒にこいつの愛も。

手を握りしめたように歯も食いしばった。奥歯が噛みあって軋む。

「俺、お前の手、好きだった。ネイルとかしてなかったし、伸ばしては無かったけどさ、逆にそっちの方が可愛くって。ほんと、最初はお前の手に惚れてさ」

最初。

そう、こいつとの始まりは図書館での勉強会だったのだ。

友達同士で集まった勉強会に、誰かの連れとしてやってきたのがこいつだったのだ。

髪を染めて、三連のピアスを開けてズボンを下げて。こいつほど図書館にふさわしくない奴はいないと思った。

けど静かにペンをとりだしたこいつの手を見て、イイ奴だと見直したのだ。

そう思い返せば、私がこいつを選んだのも、骨ばって爪が小さいこいつの手だった。

「図書館で始めた会ったときさ、ペン握ってるお前の手ぇ見て、こいついいなって思った。他の奴さ、爪伸ばしたり色付けたりしてるのに、お前だけ爪短くして色塗ってなかったもんな。そこがさ、女の子って感じがして、すっげぇ可愛く思って。お前が良いって、思って」

笑ってる。

輝く川面を眺めていても、私はこいつがどんな表情してるかわかる。

はねた魚を見ていても、あ、いま笑ったなとか困った顔したな、とか感じられる。

凪いだ空気が急に温かくなったようだった。

無数の気泡を沸かせていた私の心も、ゆっくりと冴えて行った。

穏やかに凪いでいく心地に、握りしめていた手の力を抜いた。引き結んだ口の端も緩めて行く。

「あれ、もういいの」

「なに、爪立てていて欲しかったの」

「けっこう気持ち良かったり」

「えむ」

小さく吹きだすとこいつも小さく笑う。

こいつと二人でいるときの砕けて柔らかな空気が好き、だった。

チャラチャラしてるような軽い格好をしてても、私が言った言葉を受け止めてくれるこいつが好きだった。

大きなデパートやおしゃれな店や賑やかな所なんかじゃない、静かでひらけた川原に行きたいと言っても付き合ってくれるこいつが好きだった。

なんだかんだ言っても、強がっても、私はこいつが好きだった。

穏やかに凪いだ心に、悲しみのさざ波が広がっていく。

「あのさ。いつだったっけ、少し前、お前が泣いたことがあったよな」

あった。五か月前。

些細な違いの喧嘩が盛り上がって止まらなくなった時だ。始めてこいつとの喧嘩で泣いてしまったんだ。

「あんとき、俺さもうダメだって思ったんだ。お前はさ、ちっちゃいことだって思っただろ。でもさ、俺にとっては大切なことだったんだ。だから、らしくもなく血が昇ってさ。本気で怒って、お前は泣くし。仲直りは出来たけど、俺、もうダメだって思った」

「うん」

普段、感情を昂ぶらせることが少ないこいつが、確かにあの時らしくなく激怒した。

「そっか。あの時、私いけない事したんだ。ぜんぜん、わかんなかったなぁ」

気付かなかった。

溢れてきそうな熱を、なんとか耐える。鼻が熱くなって声が震えた。

こちらを向きそうになった彼も、なんとかまた川面を見た。繋いだ手が強く握られた。

「ほんと、ごめん。ちゃんと言わなきゃいけないことだってわかってた。でも、あんとき、お前とは駄目だって思ったら、言えなくて」

「……どうして、言わなかったの?」

「まだ、好きだったから。一緒にいたかった。俺はさ、駄目だって思ったけど、お前のこと好きなままで別れようなんて言えない。だから、言えなかった」

俯いたこいつが言った好きだった、の言葉に涙が零れた。

だって、好きだったって事はもう好きじゃないってことでしょ。もう恋や愛や、感じられないってことでしょ。もう、一緒にいれないってことでしょ。

しゃくりあげて右手の甲で涙をぬぐい始めた私に、彼は手を伸ばした。

「ダメ」

頬を撫でようとした手が止まった。産毛に、彼の手の温かな気配を感じる。

また吹き始めた風を受けて、涙にぬれた手が凍える。

「撫でちゃ、ダメ。まえむいて」

ためらうように指を丸めて、彼の手は還っていく。正面を向いて彼が川面を眺めたのを、ぼんやりとした視界で見た。

凍える風は、根元が黒くなり始めた彼の輝く金髪を揺らす。

鼻をすすって、涙をこぼしながら私も川面を眺める。

ひりひりと目元が痛む。川は小波を遊ばせ飛び跳ねる魚を抱いて流れていく。

「つづき、話して」

「……」

「聞きたいの」

鼻をすすりながらの声は、どうやっても震えてしまう。

膿むように痛む胸を張りながら、涙だけはとまらずに前を向き続ける。

握った手に力を込めて。

「ダメだって、感じてから、お前から離れないとと思った。嫌いにはなりたくなかった、だから心を離さなきゃって思った。だからあんまり会わないようにしたし、街に出てみた。でもやっぱりお前に会いたくなるし、騒がしいところは苦手だしで二週間も続かなかった。しばらく家閉じこもって、また街出てったときにさ、人酔いして座りこんだんだよな。気持ち悪くて、吐きそうだったし。そしたら、目の前歩いてった女の子の集団から一人、目の前座って、声掛けてくれたんだ。ハンカチ差し出してくれて。その手見て、お前の手みたいだって思った……」

「それが」

「始まり。あいつとの」

私の手みたいって。

涙をぬぐった右手を開いた。指が短くて爪も小さい手。初冬になった今、ハンドクリームを塗り始めたがしっとりしているとは言えない手。

こいつが好きだって言ってくれた手が、こいつと顔も知らないどの子かを結んだのか。

両手をぎゅっと握って俯く。

「ごめん、ほんと」

彼も繋いだ手に力を込めた。

握りしめあった手がしっとりと汗ばんで温かい。それが余計悲しくて、寂しくて、ぼたぼた涙が溢れてくる。しゃくりあげた喉が情けない声を出して唇を噛みしめた。

「わ、わたしのこと」

「その時まで、好きだったよ。それから。あいつに惹かれていったのは」

好きだった。好きだった。私のことが、こいつは私のことが好きだったのに。

私と同じ小さな手を持った女の子に、こいつは惹かれたのか。こいつは、好きになったのか。

晒した首筋を風が撫でて行く。

なにかを攫って行ったような風が、堤防を滑り落ちて川原を駆けて川面を去ってゆく。

我慢していた手を伸ばして、痛む胸を掴む。分厚いコート越しに拳をふくらみに押しつける。

悲しい、空しい、寂しい。

大きな波のような感情が荒れ、体中を叩く。

「俺、バカだった。あの時お前に言っていれば、駄目になんてならなかったかもしれないのにな。お前を二度も泣かせることも無かったかもしれないし、人酔いして、あいつにハンカチ渡されることも無かったかもしれないし」

バカだ、と彼が繰り返し呟くたびに脈を打つように心が軋む。

脈打つように軋む度に私もバカだと胸中で呟く。

バカだ、バカだ、こいつも、私も。バカばっかりだ。好き同士、ずっと一緒にいればよかったのに。大切な事なら言ってほしかったのに。知らない子のこと好きになったりして。あいつのことなら、全部知りたいと思ってたのに。知らない子のこと、私と同じような手をした子のことを好きにさせたりして。

バカばっかり、バカばっかり、バカばっかり!

「バカだよな、俺、たち」

「うん」

「別れよう」

そう言って、お互いに握りしめた手を解いて、指を絡めなおした。

ぎゅっと絡めた手の平の隙間から逃げるように熱が去って汗が引いていく。

うん、とは言えない。言えるはずがない。

荒れる心の底には、金色の髪をしたこいつのことが好きだという確固たる感情が据わっているから。

でも好きでたまらないこいつが、もう私のことを好きじゃないと言った。

離れなきゃ、いけない。こいつが、そう決断した。私だってじんわりと離れて行くこいつの気持ちのことを本当は気付いていた。針で突くような微妙な感覚の正体を知ってた。離れたがったこいつの心を、本当は気付いていたんだ。

いやで、たまらない。

離れたくない。覚悟なんて出来てない。こいつがもう私のことを好きじゃないとしても、私がこいつのことが好きだから。まだ手を繋いでいたい。絡まった温もりを捨てられない。

ずっと、この固い手の感覚を感じていたい。

「別れよう、俺達。辛いんだ。お前が、まだ離れたくないって思ってるのを知ってるから。だから、別れよう」

この、手のぬくもりを、感じていたかった。

わかってる。好きじゃなくなったから、一緒にいたら辛いことを。

絡められた手を握って、頷いた。

頬を伝う冷たい涙が、顎から唇に触れてしょっぱい。

頷いたのを見た彼が、うなだれて息を吐いたのがわかった。

彼も痛いくらいに手を握りしめている。

最後だ、これが。

ここで、絡めた手を離すだけだとダメだ。だから……。

「こっち、向いて」

手を小さく引いて彼を呼んだ。

彼は体ごとこっちを向いた。

どんな時でも真摯に向き合ってくれるところが好きだった、と思いだしてまた涙が溢れる。

その涙をぬぐって、深いまなざしで見つめてくる彼の目を見つめた。

拭っても追いつかない涙が頬を伝い、視界を鈍らせる。

今、見つめ合っている瞳が私達の最後。

「好きよ、好きだった。あんたが世界で一番、好き。けどもう、私じゃダメなんでしょう? だから、」

涙で濡れてかじかんだ右手で、彼の頬を打った。

高い音が響いて、彼の金髪が舞った。赤と青の三連のピアスが光った。

彼との、視線が外れた。

「バイバイだよ。好きだった、あんたのこと」

「俺も」

涙がこぼれた瞬間、彼の左腕に抱き寄せられた。

彼の固いコートが、伝う涙を吸う。額に柔らかな髪が触る。彼の大きな左手が私の肩を抱く。

頭を、彼の肩に預けてしまいたい。ぐっと寄り添って、両腕で抱きしめてもらいたい。

傾きかけた頭を耐えて、解きかけた指をもう一度絡めた。

頭のてっぺんあたりで彼の声がする。

「世界で一番、お前のことが好きだった。好きだった。でも、もうダメだ。それ以上に、好きな奴が出来たから。ごめん。だから」

ぎゅっと、彼が肩を抱く。手を絡める。

「さよならだ」

彼の頭が離れて行く。肩を抱いた左手が離れて行く。左腕が離れて行く。足が後ずさって体ごと離れて行く。視線が、合うことなく離れて行く。絡まった指がひとつひとつ離れて行く。

触れ合っていた最後の指先が離れた。

背を向けた彼に向かって伸ばそうとした手を抑えて、空しく冷たい宙を掻く。

背後から吹き抜けた風が、髪を乱して触れ合っていた手の温もりも感触も攫って行く。

太陽が、千切れそうに細かった雲に隠れた。

輝いていた彼の金髪が曇り、風に揺れた。

ばいばい、ばいばい、ばいばい。

「ばかやろう……」

切ない、感じを目指しました。

完結した話ですが、サイドストーリーを作ったので連載。

ほんと、恋愛経験が少ないのがばればれ……。

でも書きたくなる自分って……。

読んでくださった方、ありがとうございます。

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