03) お出掛け
「坊ちゃん朝ですよ、早く起きてください」
耳元に聞こえて来た声は、優しさに包まれた心地よい音色でありながらも「あとちょっと」の甘えを許さない、穏やかながらも厳しい声だ。
「う、ううん。……クラリッタおはよう」
「おはようございます。朝食の準備は出来ておりますので、顔を洗って目をお覚ましくださいな」
少年は藁をまとめてシーツをかけただけの簡素なベッドから起き上がり、自分の拳が入りそうなほどに大きく口を開けながらあくびを一つ。眼から溢れそうになる涙と、ムニャムニャと波打つ口角は、彼がしっかりと熟睡出来たような証だ。
「坊ちゃん、あまりのんびりなさらないでくださいね。今日は登城の日ですよ」
――まるで馬小屋かと勘違いしてしまうようなボロボロの木造家屋。だがこの少年とメイドにとっては心の休まる住空間のようだ。
ちょっとクセのある赤みのかかった黒髪が印象的な少年。見た目からしておそらく十五歳、十六歳くらいに見える彼は、目の前にいるメイドにはばかる事無く肌着を脱いで上半身裸となり、家の外にある井戸に行きバシャバシャと水をかぶる。
少年から“クラリッタ”と呼ばれた若いメイドは、その間にスライスしてあったバゲットを盛り付け、鍋で煮込んであった野菜スープを皿によそった。
手作り感の溢れるバゲット、塩だけで味付けした野菜スープ、そして搾りたての牛乳。クドラシャノヴァ帝国オストレーム伯爵自治州西南区、クレアモントバリーに住む庶民の一般的な朝食である。庶民と言っても時代背景的からして農奴……荘園制封建主義の最底辺に位置する階級である事から、この朝食は“ごちそう”の部類に入る。もともと“帝国の穀倉地帯”と呼ばれるオストレーム伯爵自治領は、小麦と向日葵の一大産地であり、小麦粉とひまわりの種から抽出したひまわり油は帝国全土に流通するほどの品質であり、これでもクレアモントバリーは経済的に恵まれた土地なのだ。
水浴びでさっぱりした少年はテーブルにつき、メイドのクラリッタが用意してくれた朝食を美味しそうに平らげる。そしてゴクリゴクリと牛乳を飲み干して朝食は終わった。
「坊ちゃん、乾燥させた薬草を荷台に乗せておいたので、行きがけにアンナマリア道具店に寄って行ってくださいな」
「言ってくれれば僕がやったのに。クラリッタありがとう、それじゃ準備したら出掛けるよ」
サンダルを革のブーツに履き替え、シャツの上にベストを羽織りお出かけ着へ。視界の先、窓の外に広がるのは緩やかに波打つ無数の丘陵。その丘一つ一つが全て農地として開墾され、色とりどりの作物が育っている。
そう、この少年と美しきメイドが生活しているこのオンボロ小屋は、クレアモントバリーの街の中にあるのではなく郊外。農奴集落からも外れたポツンと一軒家なのである。
貴族の荘園で働く農奴。その農奴の集落からも外れた一軒家で共同生活を送る少年とメイド。階級的には底辺中の底辺なのに、なぜ片田舎の農奴の一軒家において主人と使用人の主従関係が成立しているのか。なぜこの少年はメイドに自分の世話をさせているのか?
――その答えの断片は、このやりとりにあった
「たぶんいつも通り。どうせ父上や母上に挨拶する機会は無いだろうし、貴族諸侯の定例会に出席して終わりだよ。昼頃には帰って来れるから、そしたらトマトの収穫をするよ」
「承知しました。坊ちゃん、城で色々言われても決して短気は起こしますな」
メイドのクラリッタはそう言いながら、ひと回り背の低い少年にハグして、当たり前のようにチークキスを行う。離れぎわにボサボサの髪の毛を撫でつけてやるなど、その様子はまるで主人と使用人の関係と言うよりも、母と子や姉と弟の関係にも見える。
「坊ちゃん、いえ、ラルフレイン・オストレーム様。ご無事なお帰りをお待ちしております」
「うん、クラリッタも無理しちゃダメだよ」
うやうやしくフルネームで呼ばれた少年は笑顔でそう答えながら玄関をくぐる。その足で小さな馬小屋から引っ張り出したロバに荷台をくくりつけ、パカパカとのんびりとした蹄の音に包まれながら、街に向かうのであった。




