第79話 聖典
廊下から、一人悶々と歩いていたウラドは、やけに違和感を感じていた。何とも言えない違和感だ。彼はどこかに行きたい気分になった。彼はそのまま、外に出て行った。先ほど歩いた麦畑の中で、ゆっくりと歩いていた。
春のような陽気が、ゆっくりとこちらに来ているのを、肌で感じた。柔らかな風、小麦畑の匂い、鳥のさえずり、農民たちの声が遠くから聞こえる。彼の中の違和感はゆっくりと、形を成していた。
「人間になりたい―――だって?それじゃ、彼は人間ではないとでも?」
彼はボソボソと、独り言を言い続けていた。
ベリアールは、確かに、人間になりたいというのは、以前から変わらない。だが、何故、カインの日記がここまで不明の物のはずなのに、彼は、知っている?本質をごまかす術式は、だれが生み出した?
「彼は、どこまで知っているんだ?」
「おーい!!黒髪さん!」
ふと、土手のほうを見上げると、農民の集団はニコニコと微笑んでいた。ウラドは、少し嫌そうに俯いた。そしてまた、少し見上げる。
「なんだい?僕は少し考えているんだ。それに――――いや良いんだ。用は何?」
「これ、ベリアールさんに!あの人、小麦が大好きなんだ!またパンの材料にしてほしくてね!」
「パンの?」
ウラドは、土手を上りながら尋ねた。彼らは朗らかな表情で語り始めた。
「あの人は、私達の小麦畑の改良をしてくれたんだ。あの人のおかげで、こんなに良い小麦ができたんだ!」
農民たちは手を広げた。海原のように、夢寐が広がっている。緑豊かな麦が、風でゆったりと揺れている。確かに美しい。彼は、風に身を任せるように、柔らかな口調で言う。
「あいつにそんな知識あったんだ。」
うち、独りの少女がニコニコと母親のそばに抱き着きながら言う。
「べリさん、昔は、農耕してたんだって!だから、小麦のことがわかるんだって!」
ウラドは、少女の笑顔を無表情で見下ろした。彼女は母親に頭を撫でられながら、ウラドを見上げている。彼女は少しゾッとした。目の前に立っている色白の男が、目をかっぴらき、口を堅く閉ざしているのだから。ウラドは脱穀された麦の入った加護を受け取りつつ、ぼそりと言う。
「農耕を――――?そう。」
彼は来た道を振り返り、またぶらぶらと歩き出した。
彼には謎が多すぎる。リサイクル――――そんなものの為に、日記が必要だろうか。読めないだなんていわれていたのに、なぜ自分には読めた?属する必要がない、言語の源流だから。では、あれが書かれたのは?
カインという名前は、聖典にしか出てこない。
彼は立ち止まる。
「待てよ――――カイン、彼は実在するとでも?」
遂には走り出した。
ウラドは、サムラッチ錠のドアを勢い良く開けた。そのドアは茶色で、重厚なデザインのドアだ。開けた先には玄関のようになっており、書斎には繋がってはいなかった。この邸宅の構造はおかしい。彼はゼェゼェ息を吐きながら、ゆっくりとドアを閉めた。その場で、少し蹲り、息を整える。嫌なものが、頭の中を泳いでいる。
***
一方、彼女は客室にいた。分厚い聖典を床に置き、図鑑を読むように聖典を呼んでいた。しかし、何度読み返しても、難しい言い回しに言葉で、理解はできなかった。
「教えてもらった言葉じゃないからわかんない。」
耳をペタンと閉じ、意気消沈とする。
ズズ――――ズズ
「なに?」
背後のカバンが、引きずるような音を出していた。彼女が振り返ると、例の本が鞄から這い出ていた。ティナはそれを抱き上げると、子供に行ってき生かせるように言う。
「聖典の内容って知ってますか?」
本を撫でて開くと、じんわりと青い文字が浮かぶ。
『知らん。』
小馬鹿にしたような猫の絵を見て、ティナはむすっと頬を膨らませた。
「もう!つれない本ですね!」
ティナは毛を逆立て、爪を立てずに本をすりすりと引っ掻く。
『やめてほしい。』
ひとしきり引っ掻いたのち、ティナはため息をつき、立ち上がった。
「ウラドさんなら知ってるかも。」
彼女はそのまま、本だけを抱きしめながら、部屋から出た。廊下は人の気配すらなく、ベリアールもいないようだ。廊下の突き当りにある窓から見える庭にすら、彼らはいないようだ。ティナは、耳に神経を研ぎ澄ませる。足音がする。少し軽く、引きずるような足音、ウラドの足音だ。ティナはその足音を、追いかけるようにして、小走りした。
進んでいくと、ベリアールの書斎の前についた。ドアに耳をへばりつけるが、だれもいないかのように静かだ。ベリアールの姿も見えないとなると、なんだか恐ろしい。彼女は、ゆっくりとドアを開ける。
先にはウラドが一人、右手の奥まった空間の前に突っ立っていた。彼はふとこちらを一瞥し、安堵の混じったため息を吐いた。ティナは彼の隣に立つ。奥には影の中で佇む、サムラッチ錠のドアがある。ウラドは訝し気にドアを見つめながら、声を少しひそめて言う。
「ベリアールは、サタエルは離れにいると言ってたんだ。会いに行きたい。」
ティナはハッと彼を見る。そして、思わず早口で言う。
「ですが彼女は――――」
「仮に何かあったとしても、この目で見たい。」
「――――わかりました。一緒に行きましょう。あと、カインとアベルの話が、難しい文字ばかりなのでわからないんです。」
「そういえば、聖典の文字は庶民は読みにくいんだよね。教えてない文法も多いし、しょうがないよ。」
彼はそういいながら、取っ手に触れる。握りしめたとき、ドアは水面に絵の具を一滴落としたかのように赤が広がる。じんわりと染まるのを見て、彼はゆっくりとドアを開けた。
ドアの先には、不気味なほど静かな廊下が続いている。太陽がだた窓から差し込み、乳白色の壁紙が延々と続くような場所だ。まるでだまし絵。ダークブラウンの床板が、二人の足音を重く響かせる。温かで、それが湿気のある不気味さを醸し出している。
ドアを閉め、歩き出した時、ウラドは語りだした。
「カインとアベルは、アダムとエヴァという最初の人類の息子たちだ。」
「最初の?」
「そう。楽園―――極楽みたいな場所を追い出された後、誕生した兄弟だ。カインは農耕、アベルは放牧に従事した。」
ティナは壁に掛けられた麦穂の絵を見る。彼は続ける。
「ある日、二人はそれぞれの物を、神に捧げた。でも神はアベルの貢ぎ物しか喜ばなかった。嫉妬にかられたカインは、アベルを殺した。」
「――――何故、神はアベルだけを選んだのでしょうか。」
「神は血を欲するからだよ。」
麗らかな声が、奥の方から聞こえた。ウラドの声ではなかった。二人は、棒立ちではあったが、内心身構える。ティナはゆっくりと背中にしまった白銀のナイフに触れる。廊下の曲がり角から出てきたのは、案の定、ベリアールだった。彼は窓からの光を背に、片手には真っ赤なダイアンサスを手にしている。彼はそのまま花の香りを楽しみながら言う。
「生き物の本質は命だ。命は血の循環によって、生命を循環させている。つまり、神に血肉を捧げるのは、命を捧げていることになるからね。」
「ベリアール。サタエルはどこ?」
ウラドは一歩前に出て、彼を睨む。ベリアールは軽く高笑いをした。
「そんなに怖い顔をしないでおくれ。ちゃんと、案内するよ。僕も、1日中あの邸宅にはいられないんだ。」
彼は先ほどいた、曲がり角のほうへ歩き出した。ウラドは、一歩後ろにいるティナを見る。彼女も耳をピンと立たせ、小さく頷く。二人の中では、等しく緊張感と、不信感が芽生えつつあった。二人は歩き出した。
ベリアールは上品に、足音を立てすぎない程度に歩いていた。彼は窓から見える美しい花園を横目に言う。
「サタエルは、今随分とひどい状態なんだ。だから、会った時には、驚くだろうね。」
「ひどい状態って?」
「背中を刺されたんだよ。出血がひどくてね。輸血しているんだ。」
ウラドは口角が、無意識にひきつるのを感じる。
「へぇ―――君なら、シモンの時みたいに自分の血を入れるだろうと思ったけど、随分回りくどい事しているんだね。」
「沢山研究して分かったんだ。輸血をするには、できるだけ血の近い人間がいいってね。」
彼は端的に言った。
「だから、彼女は特別。」
ベリアールは、ある一つの部屋の前に立つ。陽光がよく当たるドアの前だ。彼は振り返り、ニコッと笑った。二人は真意がわからずキョトンとしていたが、彼は構うことなくドアを開けた。
「サタエル!ウラドたちが、お見舞いに来てくれたよ!」
部屋に入ったとき、やけに鉄臭い気がした。そして、絶句した。眼前には、輸血袋が、まるでサタエルを囲む花のように密集していた。彼女はその真ん中でベットに寝かせられている。ベリアールは、愛おしい恋人を口説くかのように、手に持ったダイアンサスを彼女に向ける。
「美しい花があったんだ。君は花好きだったろう?花瓶に入れておくね。」
ウラドはひきつったまま、愛おしそうにしているベリアールに言う。
「サタエルは、誰に――――?」
ベリアールは、ゆっくりと顔を上げる。眼差しは穏やかで、どことなく空虚だった。
「僕だよ。」
ご高覧有難うございました。
ここ最近沢山の方々にご高覧されていること、まことにうれしく思います。この気持ちをうまく言い表せられませんが、ひたすらにうれしいです。今後とも、彼らをよろしくお願いいたします。
さて、僕のXのアカウントのほうで、今作に関する豆知識や、基本設定なども投稿しようかなと思っています。以前からフリーメモに書いてはいましたが、メモは読者様には公開されないことを最近知りました。二年近く書いていてとんでもないミスですね。
ぜひ、何かご機会がありましたら、X出会えること、楽しみにしております。
次回もお楽しみに。




